第2章 その8
「襲われたっていうアクアレイア人、どっちも一命は取り留めたらしいな」
「一人は腹刺されて、一人は首絞められたんだっけ? 死人が出なくて何よりだよ」
闇夜に響いてきた声にカロはぴくりと耳を立てた。身を潜めた木陰から少しだけ顔を覗かせ、市門を照らす篝火のほうに目を向ける。
「ああ、青髪の男はもう普通に歩き回れるみたいだぜ」
「そっかそっか。やっぱイェンスの呪いに当てられたのかなあ。俺たちも気をつけなきゃな」
番兵の会話を盗み聞きしてカロはなんだと落胆した。ブルーノに新しい蟲を入れてやらねばと戻ってきたのに、街に忍び込む必要はなさそうだ。
(しぶとい奴め。次に会ったときこそ息の根を止めてやる)
カロはきつく眉を寄せ、眼光を鋭くした。そんな己とは対照的に隣の少年はほっと胸を撫で下ろす。噛み合わない態度にカロは思わず友人をねめつけた。
「イェンスを呼んだのはお前だろう? 確かに俺はあの男に会おうと考えてはいたが、余計な真似をしてくれたな。俺にはお前の仇討ちより優先すべきことなどないのに」
低い怒声にたじろいでイーグレットは一歩退く。でも、と言いたげな表情は更にこちらの苛立ちを煽った。
「お前まさか、俺のほうを悪者と思っているんじゃなかろうな? イェンスもイェンスだ。お前が視えたなら俺の味方になってくれればいいものを」
口をついた不服にも友人はまるで理解を示してくれない。「思い出せ、あの女にされたことを! 誰の剣がお前の心臓を貫いたか!」と鼻息荒くコリフォ島での惨劇を聞かせてみるが、やはり彼にはなんのことだかさっぱりわからない様子だった。
もどかしくて腹立たしい。そんな顔をするならなぜこいつは自分のところに化けて出たのだろう。
何か未練があるから地上をさまよっているのではないのか。晴らしてほしい無念があるから俺に頼もうとしたのではないのか。それなのに俺の何がお前を戸惑わせているんだ。
「……悪かった。もう言わない……」
拳を握り、ぽつりと詫びた。愚かな要求をしてしまったと。
イーグレットが昔の姿をしているのは、殺されたことも覚えていないのは、もう王としての重責に苦しみたくないせいかもしれない。彼はただ楽しかった少年時代に戻りたくて、不要なものを捨て去っただけかもしれない。だったら復讐を考えるのは己一人で十分だ。不遇に過ぎた友人にもう何も背負わせたくない。
「……初めてイェンスに会った日のこと、お前が俺を友達だと言ってくれた日のことを覚えているか?」
この問いにイーグレットは薄灰色の瞳をぱっと輝かせた。二十年前と少しも変わらない、優しい笑みを浮かべてカロに頷き返す。温かな眼差しにこちらの頬も綻んだ。
「あのとき俺は本当に嬉しかったんだ。荷物以下でしかなかった俺を、お前が意味ある存在にしてくれた。お前に出会わなければ俺は、自分を呪って孤独に生きるしかなかった」
荒々しい海の男たちに混じり、友人のために、イーグレットを守るためだけに強くなった。ほかのことはどうでも良かった。こんな眼を持って生まれて、友情より尊い何かを得られるとも思えなかった。たとえ命を捨てても失いたくなかったのに、それをルディアは。
「……なんだ? 屈んでほしいのか?」
ふと手招きに気がついてカロは腰を曲げた。イーグレットは前髪もよけろと指で払う仕草をする。
――星みたいだ。
懐かしい声がした。黄金を宿す右眼を見つめ、音もなく友人が囁く。実際は何も聞こえなかったけれど、思い出の中の声が耳に甦った。私は君のこの目が好きだよと彼が笑う。
ああそうだ。イーグレット、お前がそう言ってくれたとき、俺にもようやく暗い空に星が見えた気がしたんだ。厚い雲を振り払って、白く輝く満月が。
「うーん? こっちで話し声がしたと思ったんだけどなあ?」
突然響いた足音にカロはハッと身を伏せた。暗がりから夜道を見やれば武装した複数の男が近づいてくるのが映る。おそらくコーストフォート市の自警団だろう。彼らは逃げた凶悪犯を警戒中に違いない。
息を殺し、カロは足音が通り過ぎるのを待った。幸い気配は悟られなかったようである。零時の鐘を耳にして男たちはいそいそと市門に引き揚げていった。
「やれやれ、やっと交替か」
「早く家に帰ってゆっくり休みたいぜ」
「おい、お前らちゃんと並べよ! 通れるのは一人ずつだからな!」
普段は適当な門番が今日はやけに入念に出入りする者をチェックする。奥のほうでは次の巡回に出ると思しき市民らが剣や槍を手に待機していた。
どうやら市は傷害事件の発生を受け、一時的に街の守りを強化したらしい。もう一度ルディアを狙うにしてもしばらく入り込めなさそうだった。
チッと小さく舌打ちする。連れがあの深手ではルディアもそう大きく動けはしないだろうが。
(何か手を考えないとな)
近づいたと思ったらまた遠ざかる。寄せては返す波のよう。だが今度こそ。
ひとまず引き揚げることにして、カロはそっと市門を離れた。八月十一日、深夜遅くのことだった。
******
――うう、いてえ……。
存外な痛みに呻き声すらあげられず、レイモンドはうずくまる。養父の放り投げた工具がみぞおちに直撃したせいなのに、黄緑の頭をしたアクアレイア人は謝りもしなかった。ほんのちょっと振り返り、「そんなところでボーっとしてたら危ないだろ」と迷惑そうにぼやいただけだ。痛がるレイモンドを見ても、ごめんなのひと言も、大丈夫かのひと言もなかった。
疎まれていると気づいたのは七つになった頃のこと。日常的に暴力があったわけではないが、捨てられかけたことは何度もあった。遊びに行こう、買い物を手伝え、理由をつけては連れ出され、孤児院の前に置き去りにされた。その意味を悟ったのは、愛しげに弟をあやす養父の姿を見たときだった。
二人の妹とは分け隔てなく育ててくれたし、可愛がってくれた時期もある。だからなかなか察せなかったのだ。養父の関心が完全に失われてしまったこと。彼が男親らしく、小さな家の慎ましい財産をできるだけたくさん跡取り息子に与えたいと考えていたこと。
一年後、下の弟が生まれるとレイモンドはいっそう肩身が狭くなった。母と祖母は変わらず優しかったけれど、二人は養父や弟妹たちにも優しかったので背中に庇ってはもらえなかった。
どんなときに人が歪むか知っている。最初のそれがいつだったか。
「他人の金で飯食って、礼もないのか。厚かましい」
刺々しい口ぶりと、静まり返った食卓の空気。今もまだ忘れられない。八歳の誕生日祝いをしてもらっていたことと、養父になんと答えたかも。
「ごめんなさい……」
レイモンドにはそう返すしかなかった。どうして己が縮こまらねばならないのか、庇護を得るために頭を下げねばならないのか、学校にさえ通えない子供でもわかっていた。孤児院に「うちではアクアレイア人しか引き取れません」と何度も突き返されていたから。
作り笑いを覚えたのはその頃。おべっかと冗談も上手くなった。養父の仲間の顔を覚えると目いっぱい愛嬌を振りまいた。名前に職業、好きな酒まで覚えられたら彼らが養父に「あれなら種違いでも許せるんじゃないか?」と諭してくれた。それがなんとも頼りないレイモンドの命綱だった。
嘘に疲れ、本気で家を出ようと考えたこともある。だが結局、ドアを叩いた救貧院でも同じ現実を突きつけられただけだった。
「君、アクアレイア人じゃないよね? 駄目だよ、ここじゃあ国民の面倒しか見ないんだ」
俺だってアクアレイアで生まれたのに。ほかの国なんか知らないのに。
憤りを、やりきれなさを、何度飲み込んできただろう。それでも笑っているしかなくて。
鬱憤を溜め込みすぎた腹が痛い。腹が痛い――。
******
見知らぬ部屋の柔らかい寝台で目を覚まし、レイモンドは左右に首を傾けた。ずきずきと下腹が脈打っている。鋭い痛みに息を飲み、これのせいであんな夢見たのかと眉をしかめた。
(そうだ俺、カロに刺されて……)
重い頭をなんとか起こしてルディアを探す。早く彼女が無事なのか己の目で確かめたかった。
だが整然とした室内には、緩くうねった黒髪の、少女めいた面立ちの男しか見当たらない。あれっ、こいつ知ってるぞとレイモンドは窓際の美しい青年に目を凝らした。
「ディラン・ストーン……?」
海軍軍医の名を呼ぶとディランがこちらを振り返る。「あ、良かった。意識がはっきりしたみたいですね」と微笑んで彼は寝床に寄ってきた。
「こんなところでアクアレイア人の治療に当たるとは思っていませんでしたよ。かなり深く刺されていて危なかったんですからね」
軽い口調で軍医が言う。「あれから一週間経つんですけど、自覚あります?」と問われ、レイモンドはエッと目を丸くした。ディラン曰く、時々瞼は開いていたが、朦朧として受け答えできる状態ではなかったらしい。「容体が安定するまで起き上がらないほうがいいですよ」とやんわり釘を刺された。
「あんたが助けてくれたのか? なんでまたコーストフォートに?」
レイモンドの問いかけに軍医は「たまたま遍歴修行医として滞在中だったんです」と答える。
「うちの父親が、ストーン家の当主として自分が王都に残ればいい、息子にはジーアンの手の届かない場所で力を蓄えてほしいという考えでして。つい先月までセイラリアにいましたから、あなた本当に運が良かったと思いますよ? イェンス絡みのいざこざと聞いて、私以外の医者は近づこうともしなかったんですから」
ディランの言葉になるほどと頷く。どうやら彼がいなければ自分は冥府へと旅立つところだったらしい。「ありがとうな、恩に着るぜ」と手短に礼を述べ、レイモンドは一番知りたい質問を急いだ。
「ブルーノはどうなった? ちゃんと生きてるよな?」
「ああ、あの人なら元気ですよ。ずっとこの診療所で私を手伝ってくださっています」
返答に心底ほっとする。「何度か包帯を替えてもらったのに全然覚えていないんですか?」と尋ねられ、レイモンドはまたもや目を丸くした。
「え……っ!?」
包帯を替えてもらったって、まさかルディアにか? 眠っている間にそんな美味しい思いをしていたなんておぼろげにすら覚えていない。
秘かに多大なショックを受ける。そんなレイモンドに気づく風もなく軍医はにこやかに話を続けた。
「ところであなた方はどうしてコーストフォートに? ブルーノさんは陛下とコリフォ島に向かったと記憶しているのですが、彼がここにいるということは、やはり陛下のご存命は叶わなかったということでしょうか?」
不意打ちの問いに身を硬くする。ディランは「すみません。私の考えた通りだとすると、ブルーノさんにお聞きするのは申し訳ないかなと思いまして」とイーグレットが誰の手にかかったか察しがついていることを仄めかした。
「…………」
「あ、無理に答えなくていいですよ。今の反応で大体わかっちゃいましたし」
気遣ってくれているのかくれていないのか、どちらとも取れる満面の笑みを向けられる。軍医はさして興味なさげに「ただそれならどうしてアクアレイアに戻らずに、こんなところにいるのかなと思っただけで」ともっともな疑問を口にした。
「……しょーがねーじゃん。帰りたくないって言うんだし」
眉間にしわを寄せて呟く。するとディランが「えっ?」と表情を一変させた。
「帰りたくない? 彼がそう言ったんですか?」
異様な食いつきにレイモンドは少々たじろぐ。「そ、そうだけど」との返答に軍医はますます興奮し、「へええ、ふうん。そうですか、自らの意志で帰りたくないと……」と腕組みしたり頷いたりした。
(な、なんだ一体?)
何が琴線に触れたのかわからずに疑問符を浮かべる。彼の喉まで出かかっていた「蟲のくせに巣に戻ることを拒否するなんて面白いですね」という台詞をレイモンドはまだ知る由もなかった。
「とにかく早くブルーノに会わせてくれよ。顔見なきゃ落ち着かねーからさ」
意味不明なディランの言動は放ってせがむ。軍医は「ええ」と微笑んで病室の外に足を向けた。
「――あ、でもその前に一つだけ。あなたこれから半年は安静にしてくださいね。私がチクチク縫ったその傷、次また開いたら今度こそ死にますよ?」
さらりと述べられた忠告にレイモンドは再度固まる。告げたディランのほうは平気な顔でにこにこしていた。笑ってする類の話ではなかった気がするが、この男はどういう精神構造の持ち主なのだろう。
「冗談……ってわけじゃねーよな?」
「はい、私嘘はつきません。あなたまだ、胸のすぐ上まで墓土に埋もれている状態です」
怖々と発した問いには屈託のない笑顔を返される。出血量を思い返せば軍医の言葉が決して脅しでないのは知れた。傷は今も高い熱を持ち、全身に倦怠感を及ぼしている。――しかし。
「……悪い。それ誰にも言わねーでくれないか?」
レイモンドはディランに乞うた。
カロがこちらの都合を考慮してくれるとは思えない。もしもまたあのロマが襲ってきたら、傷が塞がっていようといまいと武器を取らねばならなかった。ルディアに知られれば「お前は寝ていろ」と一蹴されるに決まっている。縄でベッドに縛りつけられたり、槍を隠されたりしては敵わない。
「いいですよ、わかりました」
医者とは思えないほど簡単にディランはこちらの要求を聞き入れた。素直に大人しくしているつもりがないことは彼にも読み取れただろうに、自分の患者は絶対に救うという使命感はこの軍医にはないようだ。
(へ、変な奴)
そう言えばストーン家の跡取り息子は型破りで有名だったなと思い返す。噂に違わぬ奇人ぶりでディランは嬉しげに呪われた男の名前を口にした。
「ブルーノさんだけでなく、お父様のイェンスさんも急いでお呼びしなくてはいけませんね。随分心配なさっていて、この一週間ずっとうちであなたの回復をご祈祷されていたんですよ? ふふっ、これを機に私もお近づきになれるといいんですが!」
軍医は北辺の疫病神に並々ならぬ関心があるらしい。やっぱり変な奴だなとレイモンドは引き気味に眺める。半裸の己の上体に例の牙のお守りが戻されているのに気づくと更にドン引きした。これは港に捨てたはずだが、もしかしてあいつ、潜って拾い上げてきたのだろうか。
(うう、なんかめちゃくちゃ顔合わせづらいぞ)
四百万ウェルス貸してもらったことと言い、ルディアを助けてもらったことと言い、でかい借りばかり増やしている気がする。顔を合わせづらいと言えばルディアに対してもそうなのだが。思いの丈をぶちまけてしまったわけだし。
「ブルーノさーん、お連れさんが意識を取り戻しましたよー」
悶々とするレイモンドなど気にもかけずにディランは廊下に顔を突き出した。一棟丸ごと彼の下宿らしい診療所に涼やかな声が響き渡る。
ドタバタと騒々しい足音が駆けてきたのは直後だった。待ち侘びていた人物は間もなく姿を現した。
「……っ! レ、レイモンド!」
髪を振り乱し、ルディアは大股でレイモンドに迫ってくる。凄まじい形相だ。叱られ慣れたお調子者の直感で「これはどやされるな」と身構えた。予想通り鼓膜を破る勢いで大きな雷が落とされる。
「このたわけ! 大馬鹿者! 頼みもしないのにこんな大怪我……! 腹より頭を診てもらったほうがいいんじゃないのか!?」
あんまりな物言いにレイモンドはハハ、と苦笑いを浮かべた。こちらの胸を揺すろうと伸びてきた手が掴む襟のないのに気づいて直前で止まる。ルディアはそのまま膝を折り、枕元に身を屈めて小さく声を詰まらせた。
「……死ぬところだったんだぞ……!」
「うん、でもまあ、一応なんとか生き延びたし……」
答えつつ妙な感動を覚える。ああ、姫様だなあと泣き出しそうな青い双眸をしみじみと見上げた。
心配させてしまったが、守れて良かった。こうしてまた話ができて。本当にディランには感謝しなくては。
安堵に気が緩むと同時、ぐううと腹の虫が鳴った。そう言えば寝こけている間、胃に何も入れていないのではと思い当たって更に空腹感が増す。
「あの、なんか食っていい?」
尋ねるとディランに「おやまあ、元気が出てきましたね」と笑われた。
「ですがまだ固形物はいけませんよ。ブルーノさん、いつもの栄養剤をお願いします」
「? 栄養剤?」
耳慣れない言葉に首を傾げるレイモンドを置いてルディアが「わかった」と立ち上がる。薬棚に並べられた琥珀色のガラス瓶を一つ手に取り、彼女は中の液体を深い丸皿に移し替えた。
「食事兼内服薬といったところです。もう二、三日はこれで我慢してください。様子を見て麦粥なんかもお出ししていきますので」
軍医によればこの一週間、同じ処方が続けられていたらしい。外傷に飲み薬なんて聞いたこともないが、新しい治療法の一種だろうか。
「最初にこれを飲ませたときの効果には目を瞠るものがあったぞ。あっと言う間に血色が良くなって生気を取り戻す様がはっきりと窺えた。少ししょっぱいかもしれんが、文句を言わず医者に従え」
ほう、とレイモンドは瞬きする。ルディアが褒めるからには相当いい薬なのだろう。それならさっそくと肘をついて起き上がる。
「いッ……!」
「馬鹿! 腹に力を入れるんじゃない!」
激痛に汗が滲んだ。ルディアには「いいからお前は動くな!」と怒鳴られたが、頼まれてもしばらく身動きできそうにない。レイモンドは涙目でシーツを握りしめた。
「あはは、気をつけてくださいねー。それでは私、イェンスさんに声をかけてきますので」
まるきり他人事といった素振りでディランは病室を後にする。治す気があるのかないのか判別の難しい男だ。腕は確かなようだけれど。
「まったくお前はもう……。ほら、さっさと口を開けろ」
「えっ?」
「飲ませてやると言っているんだ。安静にと指示を受けていないのか?」
「いや、それは言われたけど……。えっ? えっ?」
丸皿を手にベッドの隣に腰かけた姫君を見やって赤くなる。黄色っぽい薬液のスープを匙にすくい、ルディアはそれをレイモンドの唇に押しつけた。
「急いで飲んでむせるなよ」
「んっ、んんっ」
(うわー! なんだこれ!? なんだこれ!?)
こんなことをしてもらっていいのだろうか。どぎまぎしながら介抱を受ける。
(姫様、嫌々やってるんじゃないよな? 思いきってまだ俺とデートする気があるかどうか聞いてみようかな?)
薬の味などそっちのけでレイモンドはぐるぐる思考を巡らせた。
「あ、あのさあ」
意を決し、口を開いたときだった。窓に吊られた鳥籠からヒュウと冷やかす声がしたのは。
「!?」
タイミングの良さにビクンと肩をすくませる。また傷口が引きつりかかってレイモンドは慌てて全身を弛緩させた。
なんだなんだと目玉だけ動かして鳥籠を見やる。すると茶色の翼をたたんだ猛禽が面白がるようにピイピイと鳴き声を追加した。
「ああ、あいつはディランの飼っている鷹だ。気にしなくていい」
「お、おお……そっか……」
空気読んでくれよ鷹、とがっくりする。結局何も聞けないままで丸皿は空になった。
「よし、次は六時間後だ。ほかに飲むのは水くらいにしておけよ」
ルディアがサイドテーブルに器を置く。記録帳に摂取時刻を書き込む彼女はいかにも慣れた手つきをしていた。もしかしたら包帯を替えるだけでなく食事の世話もしていてくれたのかもしれない。想像してへへへと口元がにやけた。
「意外と腹膨れたな。どんな調合してんだろ?」
上機嫌で問いかけるも「さあな」と気のない返事をされる。ルディアも薬の詳細は聞いていないようだ。彼女が愛想に欠けていたのは、答えられない質問をしたせいではなかったようだったが。
「……すまなかった。本来私が一人で対処すべき事態に巻き込んで」
突然そう詫びられてレイモンドはぎょっとした。見ればルディアが苦しげに表情を歪めている。
「もっと早くにお前と別れておくべきだった。印刷機をアクアレイアになどと考えずに」
「ちょっ、あ、謝るなよ! 全部俺が勝手にやったことなんだから!」
痛みを堪えてぶんぶん首を振る。責任を感じているらしい彼女にレイモンドは必死で訴えた。
「っつーかカロの注意を引きつけるために一人でウロウロするとか絶対やめてくれよ? んなことしたら傷が開こうが医者が止めようがあんたを追いかけていくからな!」
「いや、それはしない。カロはもうお前を敵と認めてしまった。もしあいつがここにやって来たとき私がいなければ、今度こそあいつはお前を殺してしまうだろう。さすがに私に手をかけた後までお前を狙うまい。だから……」
「こらこらこら!」
もしやルディアにはあの告白が聞こえていなかったのだろうか。でなければこんな台詞が出てくるとは思えない。自分に彼女を見捨てられるわけないのになぜこうも聞き入れがたいことばかり言うのだろう。これはいけない。これは早々に何か対策を練らなくては。
「しばらくはコーストフォート市がロマの立ち入りを全面的に禁止するらしいから、街を出なければ安全なはずだ。お前の怪我が治るまで私もここでお前を守るし、何も心配することはない」
「そうじゃなくてさあ……!」
と、そのとき、コンコンとドアをノックする音がした。「入りますねー」との声と同時、ディランが中に戻ってくる。続いて現れた男を見やってレイモンドは気まずさに眉をしかめた。
「あっ、レ、レイモンド……!」
不眠不休で祈っていたのが即座に知れるやつれっぷりでイェンスが青い目を潤ませる。軍医が「もう玄関で悪霊除けの呪文を唱えていなくても大丈夫だと思いますよ」と告げると男はぺこぺこ頭を下げた。
「ありがとう、ありがとう。本当になんて礼を言えばいいか」
「ふふふ、どういたしまして」
「治療費はあんたの言い値で払わせてもらうよ。用意に少し手間取るかもしれないが……」
ディランはにっこり微笑んで掌を擦り合わせる。
「お代は後日で結構です。それにお金ではなくて、私の頼みを聞いていただく形で頂戴したいんですよね」
そう聞いてイェンスはぱちぱちと瞬きした。
「頼み事? 今あんまり金がないからそれでいいならこっちも助かる」
と軍医に了承した旨が返される。
「わあ、とっても嬉しいです! 今後も息子さんの看病、誠心誠意頑張らせてもらいます!」
「ああ、任せたぜ」
いい医者に巡り会えて良かったとイェンスはほっとした様子だった。どうもそちらを向いていられずレイモンドは無理やり顔を横に背ける。
恩着せがましい。自分の治療費くらい自分の財布から出すというのに。
「……ところですまん、ちょっとこいつらと込み入った話があるんでしばらく席外しててもらえねーか?」
意味ありげな言葉にぴくんと耳が跳ねた。軍医は上客に取り入る商人のように「ええ、構いませんよ」と二つ返事で快諾する。
「ちょうど別室で用事を片付けようと考えていたところです。どうぞどうぞ、お気の済むまで!」
ディランは頷き、ペットの鷹に「いい子にしていてくださいね」とウィンクを投げて退室した。その足音が上階に遠ざかるとイェンスはこちらに向き直る。
なんの話をされるかは想像がついていた。この男はカロの昔馴染みであったらしいのだから。
「……ブルーノ、お前がイーグレットを殺したというのは本当か?」
虚をつかれ、ルディアがその場に凍りつく。どうやら彼女はカロとイェンスのやりとりを知らないままだったらしい。レイモンドが昏睡状態にあったとき、おそらくイェンスは祈祷を、ルディアはディランの手伝いを優先し、二人では話す時間を持たなかったのだろう。
「カロがそう言っていた。あいつらは――、カロとイーグレットは、若い頃、俺の船に乗ってたんだ」
イェンスは自分がロマに退いてくれと頼んだこと、その際にカロから凶行の理由を訴えられたことを告げた。ルディアは「そうか」と呟いて、うつむいたきり押し黙る。
(若い頃あいつの船に乗ってた、か)
レイモンドはコリフォ島でイーグレットと交わした会話を振り返った。北辺に君と似た男がいる。イーグレットはそう言っていた。あのときはまさか本当に父親のことだなんて思わなかったが。
「…………」
長く重い沈黙の末、イェンスは再度切り出した。
「事と次第じゃうちの船員の反感まで買いかねない。俺自身イーグレットには世話になったし恩がある。何がどうなってそうなったのか聞かせてほしい」
カロの話に間違いはないのかと念を押される。誤魔化せないと悟ったのか、ルディアは静かに顔を上げた。
「……ああそうだ、陛下に手を下したのは私だ。一人で決めて、一人で実行に移した。報いを受けるべきなのは私だけで、何も知らなかったレイモンドには罪はない」
きっぱりと言いきる彼女に怒りが湧く。堪らずに「あんただって悪いことはしてねーだろ!?」と叫んだ。
「生きたまま捕まったら何されるかわかんなかった陛下を、せめて王族らしく死なせようとした結果じゃねーか! あんたの気持ちもあの人の気持ちも無視して逆恨みしてんのはカロのほうだよ!」
あまり大きな声を出したので腹に響いて身をよじる。息を詰めたレイモンドにルディアとイェンスが両側から「大丈夫か?」と呼びかけた。
「……っ、頼むから自分は死ぬべきだなんて考えるなよ……! でなきゃ俺、なんのために……っ!」
最後まで言葉にできずに歯を食いしばる。落ち着けとなだめられ、ベッドに寝かしつけられた。
ルディアと自分の言い分が異なることは理解してくれたらしく、イェンスは難しい顔で腕を組む。「実はもう一つ聞きたいことがある」と元々神官であった男は思いがけない疑念を投げかけた。
「お前は本物のブルーノ・ブルータスなのか?」
空気が固まる。レイモンドもルディアも凍りついてしまい、何を言っているんだとはぐらかすことができなかった。狼狽を隠しきれないレイモンドたちにイェンスは更なる問いを重ねてくる。
「フサルクの入れ替わり蟲。お前の耳から出てきた生き物はそれだろう?」
確信を持って問われ、たじろいだ。レイモンドは「フサルクの入れ替わり蟲?」と聞いたばかりの言葉を繰り返す。
なんだそれは。まさか北辺にもアクアレイアと同じ蟲が棲んでいるのか。
(し、知ってたからあんなにてきぱき脳蟲を身体に戻せた?)
ごくりと息を飲み込んだ。答えあぐねてルディアも黙り込んでいる。
「入れ替わり蟲は遥か昔、まだフスの生きていた頃、北辺海の真ん中に浮かぶフサルク島にだけ存在した伝説の蟲だ。人間や動物の骸に宿り、記憶を保ったまま別の死体に乗り換えられる。フスもそういう特別な命を持つ一人だった」
フスって誰だとレイモンドは顔をしかめた。ルディアは知っているようで、「イェンスの守護霊らしい」と雑な説明をしてくれる。
「は、はあ? 守護霊?」
余計混乱するレイモンドにイェンスは苦く笑ってかぶりを振った。「見せたくなかったんだけどな」とぼやきながら元神官はこちらの肩に触れてくる。
「こいつが『視える』ともう誰も俺を普通の人間と思ってくれなくなるからさ。……だけどそんなの、気にした俺が馬鹿だったんだよな」
さっさとお前に呪いの怖さを教えてやれば良かったとイェンスは眉を歪めた。悔やむ言葉が終わるか終わらないかのうちに、レイモンドは視界に霧状の何かが漂っているのに気づく。半分透けた、刺青の入った男の右手。
「……っ!?」
「それがフスだよ。生贄になるはずだった俺を助けてくれた、大神殿の守り人だ」
フスは握手でも求めるようにこちらに手を差し伸べてくる。とても応じる気になれず、布団の奥に慌てて腕を引っ込めた。ルディアを仰げば肩をすくめて首を振られる。どうやら手品の類ではないらしい。
「……フスの時代にはまだ古い神々が生きていた。北辺人がこぞってパトリアの精霊たちに加護を求めるようになったのは、ルスカ神の力もカーモス神の力も衰える一方だからさ。俺たちの神様は死んで悪霊になって久しい。その力が正しく働いていた頃は、フサルク島には色とりどりの髪と目をした人間が溢れ、神殿にもたくさんの蟲が仕えてたっていう話だ」
イェンス曰く、入れ替わり蟲が一斉に死滅し、赤子という赤子が金髪碧眼で生まれてくるようになった頃、ルスカ族とカーモス族も争いを始めたそうだ。凍れる大地で生き延びるために昼の神の恩寵を求めるか、夜の神を畏れ敬うか、真っ二つに意見が分かれて。
「なぜお前が失われた神々の力の一片を宿している? 一体お前が何者なのか、カロやイーグレットと何があったのか、本当のことを話してくれないか?」
真剣な声で乞われ、ルディアはレイモンドと目を見合わせた。部外者に正体を教えられるはずがない。そのはずなのになぜか彼女は迷いを見せる。理由はただちに明らかになった。
「正直に打ち明けてくれなきゃ俺たちは、いや、皆はきっとお前らを許さない。ただでさえレイモンドは借金の件で恨まれてんだ。下手すりゃスヴァンテたちがここに殴り込みに来かねない。いざってときに俺が皆を説得できなかったらレイモンドは――。だから頼む、教えてくれ! カロのことも、イーグレットのことも、仲間のことも大事だけど、それでも俺が一番に守りたいのはこの子なんだよ……!」
懇願に目を瞠る。我が子のためにと必死な男の。
胸の底から声が聞こえた。それで点数を稼いだつもりかという底意地の悪い声が。動じる心を抑えつけ、レイモンドは冷たい声にしがみつく。こんなことで、こんなくらいで、ほだされて堪るかと。
「……私はルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだった者だ……」
ぽつりと落ちた呟きに驚いて顔を上げた。過去形で名乗った彼女は「今までのこと、私が生まれ落ちてからのすべて、あなたにお話ししよう」と理解不能なことを言いだす。
「な、何言っ……」
「お前を巻き添えにするわけにいかないからな。この診療所を動けない以上、イェンスには味方になってもらうべきだ」
「けどそれじゃ、あんたが弱みを晒すことに」
「ああ、だがこれも運命かもしれない。今ここで、あの人のことだけではなく脳蟲のことまで知る人間に出会うなど」
彼女はまるで懺悔する罪人のように項垂れた。けれどそれはほんの一瞬で、すぐにまた凛とした目をイェンスに向ける。
「逃げる気は毛頭ない。あの人の娘のふりをした罪は、命をもって償うつもりだ」
レイモンドの制止を無視してルディアは長い話を始めた。長い、長い、数奇な縁で結ばれた、仮初の親子の話を。




