第2章 その7
転がり落ちるようにして地下へと続く階段を駆け下りる。何もない地下倉庫に、ルディアの姿が見えなくて焦った。燭台のろうそくが燃えていたので中にいるのはすぐわかったが。
「レイモンド、大丈夫だったか?」
奥のワイン蔵から顔を出しつつルディアが尋ねる。どうやら彼女は印刷機を施錠できる小房に移動させていたようだ。これ幸いとレイモンドはルディアに駆け寄った。
「話は一応片付いたけど、ちょっと面倒なことになっちまった。蔵の鍵は?」
「鍵ならこれだ。面倒なこととは?」
差し出されたものを奪い取り、間髪入れず彼女を奥へと突き飛ばす。唐突な暴力行為に反応できず、ルディアが尻餅をついている間にレイモンドは酒蔵を出て急いで外から鍵をかけた。
「!? レ、レイモンド!?」
驚いた彼女が頑丈な扉に取りつく。格子のはまった小窓を挟んで「ごめんな」と謝った。
「しばらくそこに隠れててくれ。あいつをなんとかしたら呼びにくるから」
勘のいいルディアにはそのひと言で何があったかわかったらしい。わななく声で「カロに会ったのか?」と問われる。沈黙で答えて背中を向けた。
「レイモンド! おい、レイモンド!」
金切り声の響く中、地下倉庫のドアを開ける。とにかくカロに見つかる前にコーストフォートを出なければならなかった。速やかに船を手配し、パーキンとその徒弟にも別の街で落ち合おうと伝えなければ。
(大丈夫、後ろには誰もついてきてなかった。大丈夫だ)
心臓をなだめ、そろりそろりと階段を上がる。まっすぐな階段の、長方形に切り取られた出口に色あせたコートがなびいたのはそのときだ。
血が凍る。逆光でろくに見えないのに、冷たく燃える炎のような眼光は見て取れて。
もう少しだけルディアと話してから外に出れば良かった。そうすればあの男も無人の階段を一瞥し、ほかの場所を探しにいったに違いない。嘆いたところで今更だが。
「…………」
かつん、かつん。無機質な足音を響かせてカロが地下へと降りてくる。
背中の槍に手を回したが穂先を向ける覚悟はまだ持てていなかった。楽しげに友人との出会いを語るイーグレットが思い出されて。カロのほうはとっくにそんな甘さとは決別していたというのに。
「……そこにいるんだな?」
どけ、と顎で促される。首を横に振ると殺気立った双眸に見据えられた。
「さっさとどけ」
同じ台詞が繰り返される。レイモンドはやはり首を横に振り、「陛下は絶対、復讐なんて望んでない」と呟いた。
ロマは眉一つ動かさない。ついと斜めに逸らされた彼の視線が何を見たのかレイモンドにはわからなかった。わかったのは、こんな言葉ではカロの決意が少しも揺らがなかったという事実だけだ。
「あいつは優しい男だった」
浅黒い手がベルトにかかった二本のナイフの片方を握る。さすがにこちらも槍を構えてごくりと息を飲み込んだ。
「あいつは優しかったから、恩知らずの同胞を責めることもしなかった」
戦いになる。予感ではなく確信を持つ。カロは強い。初めてこの男と会ったとき、アルフレッドもモモも簡単に投げ飛ばされた。
戦いたくない。自分たちは敵だったわけじゃない。それにもし、ここでカロを止められなかったらルディアは――。
「だから俺が、あいつの代わりにあいつを殺したアクアレイア人を殺す」
迷いなく告げられた言葉に唇を噛む。
「それがあんたの友達が大事に育てた娘でもかよ……!?」
レイモンドの訴えにカロは冷たく声を重ねた。「娘のはずがないだろう」と。
「……ッ!」
瞬間、目にも留まらぬ速さで腹を蹴りつけられた。鞘から抜かれたナイフに注意を逸らした一瞬に、槍の柄と両腕の隙間を縫って。吹っ飛ばされた身体はそのまま扉を破り、工房の床に転がった。
「がッ……!」
ゲホゴホとむせるこちらを横目に悠然とロマが踏み込んでくる。地下倉庫を一瞥し、ワイン蔵に仇敵を認めてカロは「そこか」と呟いた。
「出てこい。息の根を止めてやる」
そうはいくかとレイモンドは痛みを堪えて立ち上がる。再度槍を構え直し、止まりそうもない背中に告げた。
「姫様に手出しはさせねー。俺が相手になってやる」
「レイモンド! 馬鹿、何をしているんだ!」
格子を掴んでルディアは激しく蔵の扉をガタガタ揺らす。彼女が自分の意思とは無関係に出られないのだと悟ると、カロはこちらを振り向いた。
「お前が鍵を持っているのか?」
「さあな。たとえ持ってたとしても今のあんたにゃ渡さねーよ」
「邪魔をするならお前も敵だ」
「こっちの台詞だぜ。姫様におかしな真似してみろ。その腕切り落としてやる」
戦いたくない。だがこうなっては仕方ない。イーグレットの親友に武器など向けたくないけれど、その親友が愛娘の命を奪おうとしているのだ。
己のためにも、ルディアのためにも、イーグレットのためにも、ここで退くわけにいかなかった。
「あんた自分が陛下の守ろうとしたものをめちゃくちゃにしようとしてるってわかってんのか?」
レイモンドの問いかけにカロの動きが一瞬止まる。どういうことだと怪訝に眉を寄せるので「なんのためにあの人が一人でコリフォ島に行ったと思ってんだよ?」と付け足した。
「あの人は、自分以外の誰も傷つけまいとしてたんだ。それも誰かに押しつけられてじゃなく、自分の意志でだ。確かに姫様は陛下の介錯したかもしんねーよ。けどあのとき陛下はもう、そこに誰もいなくてもアクアレイアの王として死のうって決めてたんじゃねーか! 友達のくせにそんなこともわかんねーのかよ!?」
必死にカロを説き伏せる。もうルディアに矛先を向けさせないために。だが返されたのは悲憤に満ちた言葉だった。
「そのアクアレイアの王というのが問題だ。冠や玉座があいつをあの国に縛りつけた。もしイーグレットが自由なら、きっと今も俺と旅をしていただろう。あいつはアクアレイアのために尽くしたが、アクアレイアはあいつにまったく報いなかった。俺にはそれが許せない。国のためとかほざいてイーグレットの人生を食い潰し、血の一滴まで搾り尽くした――。その女は、俺の友人をいいようにした連中の筆頭だろうが!」
ルディアが息を飲むのがわかった。カロはナイフを逆手に持ち、戦闘態勢に移る。
「だからそれもひっくるめて陛下は納得済みだったんじゃねーかよ!」
叫んでもロマは聞かなかった。おそらくルディアもまともに聞いてはいないだろう。怒りと嘆きと罪悪感が二人の耳を塞いでいた。これでは説得など夢のまた夢だ。
「レイモンド!」
閃く刃を跳びかわす。ナイフを叩き落とそうと狙うがロマの動きは敏捷で、こちらのほうが彼の猛攻を凌ぐのに精いっぱいだった。振りかぶった槍の柄は逞しい腕に弾かれて、また足技が飛んでくる。横面に爪先がめり込み、石床に叩きつけられた。
「……ッ!」
「レイモンド! 馬鹿! さっさと鍵を渡してやれ!」
ルディアに怒号を浴びせられる。これだけ大声で騒いでいるのに近所の者が覗きにくる気配がないのは上階の石工と隣の鍛冶屋がトントンカンカンと仕事に打ち込んでいるせいだろう。第三者が気づいて介入してくれれば事態に収拾をつけられそうなのに、少しも期待できそうにない。
(いや、だけどもうじきパーキンが弟子連れて帰ってくるはずだ)
それまでなんとか持ち堪えればきっとカロを追い返せる。
諦めない。俺が守る。そう決めた。――だから。
「うおらッ!」
鍵を得るべく近づいてきたカロを振り払い、床に半分膝を残した恰好で起き上がる。頬に残る痛みにも、口の中に広がる鉄臭さにも構わず槍を振り回した。
天井が低いせいで攻撃はどうしても単調になる。拳や蹴りに何度となく打ちのめされ、叩き伏せられ、あれよという間に打撲と裂傷だらけになる。
実力差にはやはり埋めがたいものがあった。カロはまだ痣の一つも作ってはいなかった。
「レイモンド! もうやめろ! 私なんかを守らなくていい!」
次第にボロボロになっていく己にルディアが必死で呼びかける。彼女は扉に体当たりしたが、丈夫なワイン蔵はその程度ではびくともしなかった。
(パーキンの奴、いい工房持ってんじゃねーか)
防御万全のルディアを見やって口角を上げる。痣だらけになりながら薄笑いを浮かべるレイモンドにカロは苛立った様子で眉をしかめた。
「いい加減に鍵をよこせ。俺もそう気を長くしていられない」
「渡さねーっつっただろ? 俺だって半端な気持ちでここに立ってるわけじゃねーよ」
睨み合う。譲れない、どうしても失えないもののために。
一生金だけ大切にして生きていくのだと思っていた。自分はこのまま、どこの誰にも、王国人になりきれないまま、羨ましさや寂しさからは目を逸らし、へらへら笑って、猫背も治らないままで。
金さえあれば何もかも手に入るなんて考えたことはない。だが金さえあればもっと楽に生きられるとは思っていたし、稼ぐのも貯め込むのも好きだった。あればあるほど、それがちゃんとした金ならもっと安心できた。
今はわかる。もしルディアに出会わなければ、一億ウェルスあったって自分は幸せになれなかったと。
「……なぜ退かない? お前は最後までイーグレットを逃がそうとしていた。この女とは違うはずだ」
「……そうだな。できれば俺もあの人には生き延びてほしかったよ。けど姫様も、同じように願ってたこと知ってるからな」
にわかにカロの目が厳しくなる。ふっと笑って腰を落とし、槍の穂先をロマに向けた。
一生金だけ大切にして生きていくのだと思っていた。本気でそう考えていたのに、まさか自分が他人のために一千万ウェルスも借金を拵えるなんて。皆が聞いたらどんな顔をするだろう? モモには熱を測られそうだ。
アクアレイアに生まれて良かった。ルディアに会えて本当に良かった。
俺はもう昔の俺じゃない。――俺はもう、人並みに幸福でいるために、人生に開いた大穴を金で埋めようとしなくていいんだ。
「つまり降参する気はないんだな?」
静かにカロが問うてくる。
威圧的な眼差しに挑発的な笑みを返した。
「惚れた女残して誰が逃げられるかよ」
ああ、口が滑ったな。そう思ったがルディアの反応を気にかけている余裕はなかった。殺気を増したカロが「そうか」と二本目のナイフを抜いたからだ。
(――来る)
直感と同時、カロは懐に飛び込んできた。槍のひと突きは紙一重でかわされ、回り込まれた左側面に思いきって肘を打つも足払いをかけられる。
レイモンドはバランスを崩してその場に転倒しかかった。よろめいた身体の、がら空きの半身を襲ったのは鋭いナイフの刃だった。
「っ……!」
鮮血が噴く。殴られたり蹴られたりしたのとはまったく異なる冷たい痛みが左下腹を痺れさせた。
(なんだこれ……)
切られた? 刺された?
尋常でない出血がレイモンドにその答えを示していた。瞬く間に上衣も下衣も朱に染まる。刃が臓腑に達しているのは明らかだった。
(なんだこれ……っ)
こんなに痛いもんなのかと傷を押さえてうずくまる。膝をついたレイモンドの前にカロはゆらりと立ち塞いだ。
「レイモンド!」
ルディアの叫ぶ声がする。なお凶器を握りしめ、追撃を加えようとするロマに彼女は喉が裂けそうなほど大声を張り上げた。
「やめろ、カロ! 私のしたことにそいつは一切関与していない! もう何もしないでくれ!」
歪む視界に血の滴ったナイフが映る。格子窓のルディアを振り返り、淡々とした口ぶりでカロは告げた。
「ロマの世界にもたった一つだけ法がある。血讐と呼ばれる法だ」
石工か鍛冶屋か知らないが、カンカンと響く雑音がうるさい。何をもたもたしているのかパーキンはまだ戻りそうになかった。早くカロをなんとかせねばルディアが危ないというのに。
「ロマとロマの間で殺しが起きたとき、殺されたロマの家族が殺人者、またはその血縁の誰かを殺す。そういう報復が暗に認められている」
痛みを堪え、膝をついたままそっと槍を握り直す。カロの目はまだルディアのほうに向けられていた。
「俺とイーグレットに血の縁はないが、同じ報復が認められてもいいだろう。お前は俺の友人を殺したために自分の仲間を殺される。それだけの話だ」
非情な言葉に空気が凍る。ルディアが愕然と目を瞠る。カロが振り向くその前に、レイモンドは握りしめた槍を投げた。なけなしの力を振り絞ったそれはあっさり避けられてしまったが。
「……逃げろ! 早く! レイモンド!」
扉を揺らしてルディアが叫ぶ。ついぞ聞いた覚えがないほど彼女の声は逼迫していた。
間合いを取ろうと後ずさりするが胸倉を掴み上げられる。傷の上から強かに殴られ、逆流した血を吐いた。
「がはっ……!」
「鍵はこれか」
懐を勝手に漁り、目的のものを見つけるとカロはレイモンドを投げ捨てる。痙攣する身体を無理矢理ねじり、手を伸ばそうとしたが無駄だった。つい先程閉めたばかりの扉がギイと開かれる。
「待ってくれ。私はどこにも逃げないから、先にレイモンドを医者に――」
嘆願はぷつりと途切れた。ルディアの足が浮いているのが目に入った。カロが彼女の首を絞め上げているのだ。
(ひ、姫様…………)
受けた傷は深く、まだ出血が止まらない。早く助けを呼ばなければ。誰でもいいから早く誰かを。
(姫様……)
しなければならないことはわかるのに、腕も足もまったく言うことを聞いてくれない。歯を食いしばり、壁に寄りかかり、眩暈を堪えてレイモンドは立ち上がった。よろけながら目指した階段は途方もないほど遠かった。
******
生まれる前から息子をずっと守ってきた首飾りが波間に沈んで見えなくなり、嫌な予感が胸をよぎった。コグ船からレイモンドが飛び出すや、噴出した皆の不満で甲板はまた大騒ぎになったけれど、とてもじゃないがイェンスに文句を聞いてやる余裕はない。事と次第を説明しろと求められ、仲間にぐるりと取り囲まれたオリヤンを尻目に大急ぎで桟橋に駆け降りた。
若さが羨ましくなるスピードで遠ざかるレイモンドをともかくも追いかける。アミクスの街で船を離れることは滅多にないから「うわ、イェンス!?」「く、来るなあ!」と市民はたちまちパニックを起こした。
混み合う大通りなのに、進行方向を塞いでいた者たちは我先に逃げていく。ありがたいやら悲しいやら胸中は複雑だった。それでもなかなか息子の背中は見つけられなかったが。
(くそ、どこ行ったんだ?)
早く側に行かなくては。生贄を求めるカーモス神に食指を伸ばされるその前に。取り返しのつかないことになる前に。
(しくじったな。無理にでもオリヤンを引っ張ってくるんだった)
自分一人ではレイモンドがどこへ行ったのかわからない。確かあの金細工師は工房に戻ると言っていたが。
「おい、フス、俺はどこに行けばいい?」
海でも陸でも困ったときは大抵道を示してくれる祭司の右手に問いかける。だが彼も千里眼の持ち主ではない。刺青の入った指は固く握られたままだった。
「……っ!」
もどかしさに気が触れそうになる。胸騒ぎはどんどん酷くなっていった。
ああ、もっと強く言い聞かせておけば良かった。お前は本当に危険な身の上なんだぞと。あの子に何かあったらどうすればいい。心配で胸が張り裂けそうだ。
「……!?」
人影が躍り出たのはそのときだった。この暑いのに、黒いケープを着込んだ白い少年が、音もなくふわりと石畳に舞い降りる。
正直目を疑った。それはこの世に、こんな若い姿でいるはずのない男だったから。
「イ、イーグレット……!?」
亡霊は懸命に何かを捲くし立てた。だが声は少しも聞こえない。反応の薄いイェンスに焦れ、いいから来てくれと急き立てるように彼は大きく手招きした。心なしかその額は汗ばんでいるように見える。
思いがけない人物は、思いがけない場面にイェンスを導いた。大通りを一本逸れた工房街の中ほどの、人目につかない暗い穴。湿っぽい地下へと続く階段をイーグレットが先導する。先へ進むほど濃い血の臭いが漂った。悪い予感は現実のものになりつつあった。
「レイモンド!」
壁にすがり、ほとんど倒れかけている我が子の名を呼ぶ。駆け寄ろうとすると目線で逆方向を示された。
振り返ればブルーノが背の高いロマに首を絞められている。腕も足も力なく垂れ下がり、顔色は紫で、意識は残っていそうにない。ひと目で危険な状態と知れた。
「何やってる!?」
薄汚いコートの男に掴みかかる。どうしてイーグレットが自分の前に現れたのか、イェンスはそのときその理由を知った。
目を瞠る。「カロ?」と呟くと同時、相手もオッドアイを丸くする。
「イェンス? まさかそっちから来てくれるとは」
「な、なんでお前がここに……。一体何して…………」
呆然とするイェンスにフスの手がブルーノの首に食い込む指を示す。ハッとして「その子を離せ」と声を荒げた。
「俺の息子の友達だ。何があったか知らないが、これ以上はいくらお前だって許さねーぞ」
「息子? 友達? ……なんだ、おかしな縁があったものだな」
逞しく成長したロマはやや驚いた表情でイェンスとレイモンドを見比べる。解放されたブルーノがどさりと音を立てて床に転がった。ただちに呼吸と脈を確かめるが、剣士はもうほとんど死体と変わらなさそうだ。
「イェンス、こいつはイーグレットの仇だ。こいつがコリフォ島に追放されたイーグレットにとどめを刺した」
「何?」
「俺はこいつに報いを受けさせねばならない。イーグレットの友人として」
「…………」
カロは窒息させただけでは飽き足らず、もっと念入りに殺そうと言っているようだった。まだ蘇生の可能性があるからかもしれない。だがそれなら自分はブルーノを助けてやらねば。レイモンドの父親として。
「……カロ、一旦退け。今はお前の話をゆっくり聞いていられない」
「俺に退けだと? まさかイェンス、そいつらに味方するつもりか?」
「なんの判断もできねーからには二人の手当てが優先だ。だから行け!」
頼むから昔のよしみで頷いてくれと祈る。カロは眉間に深いしわを寄せた後、「死体はいじくり回すなよ」とだけ告げて地下倉庫を出ていった。
まだあどけなさの残るイーグレットがぺこりと頭を下げてロマを追っていく。何がどうなっているのか理解は及ばないままだった。このうえ更にイェンスは意味不明な我が子の行動を目の当たりにさせられる。
「ば、馬鹿! 何やってんだ! 医者呼んでくるまで大人しくしてろ!」
下腹からだらだらと血を流すレイモンドはブルーノの横に膝をついていた。心臓が止まっているのを確かめると息子は苦痛に呻きつつこちらを仰ぐ。
「い……医者は後だ。水を、今すぐ水を汲んできてくれ」
「は、はあ!?」
脂汗を浮かべて何を言うのかさっぱり意味がわからない。「いいから早く!」とレイモンドは怒号を響かせた。
「っ……!」
「お、おい、平気か!?」
「……っ平気、だから、早く、」
激痛に喘ぐ息子をなんとか横たえようとする。だがレイモンドは残り少ない力で必死に抵抗した。水を汲んできてくれの一点張りで、自分の止血をしようともしない。
「駄目だ、とにかく手当てが先だ。すぐに医者を連れてくるから――」
「水だっつってんだろ! 頼むから行ってくれよ! 俺に親父って呼ばせたいならこれ以上あんたを恨ませないでくれ!」
血の混じる咳をしてレイモンドが苦しげにのたうつ。こんな我が子を放って水など汲みにいけるわけがなく、恨まれたって医者が先だと立ち上がった。
と、そのとき、イェンスはフスの右手が何かを指差しているのに気づいた。示された先に目をやればブルーノの耳からもぞもぞ這い出す「何か」が映る。
(え……?)
それは確かに生き物だった。透明な、うぞうぞとした繊毛を持つ線虫だった。生贄として洞窟の奥に閉じ込められていた少年時代、戯れにフスが夢に見せてくれた。
(な、なんでフサルクの入れ替わり蟲が……)
右手がイェンスの肩をつつく。祭司は明らかに急げと言っていた。
小さく頷き、階段を駆け上がる。イェンスはすぐ隣の鍛冶屋の扉を叩いた。
「水だ、水を分けてくれ! それと今すぐ腕利きの医者を連れてきてくれ!」
******
ちっぽけな掌に、もっとちっぽけな彼女を受け止め、どうすればいいと絶望する。水は多分もう間に合わない。脳蟲は乾いたら死ぬとアイリーンが言っていたのに、この地下倉庫には酒も海水も真水もなかった。
どうにか戻ってくれやしないか耳に近づけてみるけれど、ルディアの動きは次第に弱々しくなってくる。早くも表面が黒ずんで見えてレイモンドはかぶりを振った。
(いやだ……)
いやだ、死なせない。そんなこと絶対にさせるものか。
朦朧とする頭が名案を思いついたわけではない。ただ少しでも湿り気のあるものを与えたかっただけだった。
(姫様……)
傷口にルディアを押しつけてうずくまる。意識はまだ手離せなかった。彼女をブルーノの肉体に戻すまでは。
「はあ……っ、はあ……っ」
腕が震える。肩がわななく。だんだん力が抜けてくる。
唇を噛み、レイモンドはイェンスが戻るのを待った。
あいつどうして工房の場所わかったのかな。カロとも顔見知りだったなんて。
思考を続けることでなんとか姿勢を保つ。手の中のルディアが生きているのか死んでいるのか確かめる勇気はなかった。
(姫様、ひめさま、ひめさま…………)
そのうち一つのこと以外考えられなくなってくる。怒った顔や悲しげな顔が瞼の裏に浮かんでは消えた。
もう一度ルディアの笑顔が見たい。そんな願いとは裏腹に、掌に溜めた血を何度も零しそうになる。こんなところで終わりたくないのに。
「レイモンド!」
水を張った平桶を抱えてイェンスが戻ったとき、レイモンドには目を上げるくらいしかできなかった。なんとか脳蟲の扱いを伝えようとするけれど、声は掠れて音にならない。
イェンスは何も言わずにこちらの腕を掴んで水中に突っ込んだ。赤い血が霧のように広がって、蟲はぶるりと身を震わせる。それからすぐに彼女は何事もなく泳ぎ始めた。
(よ、か……った……)
レイモンドは安堵のあまり崩れ落ちる。続いてイェンスはブルーノの上体を起こさせ、平桶に頭を沈ませた。
「フス、次は? もう何もしなくていいのか?」
誰もいないはずなのに、そんな声が頭上で響く。
「レイモンド、安心しろ。ブルーノは大丈夫だ」
顔を上げられなかったから何も見えなかったけれど、どうやら蟲は帰るべき巣に帰ったらしい。イェンスが「よくやったな、よく頑張った」とねぎらってくる。
「医者も呼んでもらってるからな。もうちょっとの辛抱だからな」
そっと床に横たえられ、頭まで撫でられて辟易したが、悪態をつく元気などなかった。なんとか目玉を動かして、赤みの差したルディアの頬を確かめる。
(良かった…………)
その直後、世界は色を失って、レイモンドは白濁の底に落ちていった。
******
「大変だ、大変だ! 工房街で人が刺されたぞ!」
物騒な大声が聞こえてきたのは頼まれていた買い物を終えた帰り道だった。「どうやらロマの仕業らしい」と騒ぎの続きが耳に入り、アイリーンはえっと背後を振り返る。
(ロ、ロマが人を刺した? 人ってコーストフォート市民?)
先程カロを見かけた気がしたせいもあり、酷く心がざわついた。興味深げに集まってきた人々に話を広める男の側へとアイリーンも吸い寄せられる。
「凶器はこんな刃渡りのナイフだったとか! まだそこら辺をウロウロしてるかもしれねえから、お嬢さん方は気をつけなよ!」
群衆からは「ええッ!? 怖い!」「捕まってないの?」と悲鳴が上がった。逃げたロマの特徴は男も把握していないらしく、あちらこちらで勝手な憶測が始まる。
「そういや俺、最近変なロマを見かけたな」
「もしかして片目を前髪で隠した奴か? 半分だけ金の眼をした」
荷運び人らしい男たちの囁きにアイリーンは声を失った。動揺のあまり足がよろけて通行人にぶつかって「ぼけっとしてんな!」と怒鳴られてしまう。
(……やっぱりさっきのカロだったんだわ!)
考えるより先に足が走り出していた。大通りを東に、ハイランバオスの下宿とは逆方向に全速力で駆けていく。
コーストフォート市のロマは大抵東の市門周辺をうろついている。今行けばまだ会えるかもしれなかった。会ってどうするかなんて何も考えていなかったけれど。
事件を起こしたのがカロだとは限らない。だが彼が疑われやすいロマの中で特に疑われやすい容姿をしているのは確かだった。
探さなければ。助けなければ。その衝動がアイリーンを走らせた。
(一人にしちゃ駄目だったのよ)
どんなに強く、どんなに孤独に慣れた人でも。いや、だからこそ。
(人任せにしていたら本当に、あの人いつか姫様を殺してしまうかもしれない)
パンと薬の入った籠を抱えただけでアイリーンは市門を飛び出した。カロに会ってどうするか、何を話すか、頭は空っぽのままだった。
******
「先生、先生!」と悲鳴じみた大声が表で響き、ハイランバオスは顔を上げる。続いて下宿の玄関を破壊しそうな勢いでドアを叩かれ、やれやれと書き物机のノートを閉じた。
せっかく脳蟲の研究記録をつけていたのに不調法な邪魔をして。これだから医者をいつでも持ち出せる救急箱だと考えている人間は。
「急患ですか? この時間なら市民病院がまだやっていますよ?」
言外に市民は市民病院へどうぞと応対する。上がり込まれては迷惑なので、扉さえ開けなかった。
「ディラン先生、駄目なんです! どうも刺された人間がイェンスと関係あるらしくって、誰も診たがらないんですよ! それにこの街の住民じゃなくて、先生と同じアクアレイア人だそうで」
「えっ?」
――なんだ今の盛りだくさんの情報は。刺されたのはイェンスの関係者? そのうえアクアレイア人だと?
ハイランバオスはおもむろに玄関を開き、自分を呼びに駆けつけたお人好しの中年女に問いかけた。
「どこにいるんですか急患は? 担架で運んできていないんですか?」
「それがもう、動かせないくらいの重傷で、とにかく早く先生をって」
人死にが出そうな状況に女は狼狽しきっている。それでも比較的正確に伝言ゲームは行われたようだった。
「あはっ、なんだか面白そうなことになってきましたねえ!」
さっと身を翻し、ハイランバオスは机の上の革鞄を引っ掴む。助けられればイェンスに恩を売れるし、彼との繋がりも持てるだろう。仮に助けられずともアクアレイア人の死体なら実験にはもってこいだ。
「行きましょう! さあ私を案内してください!」
喜々としてハイランバオスは部屋を出た。中年女は半べそで「工房街です、パーキン・ゴールドワーカーの金細工工房です」と近道らしい裏通りを駆けていく。
(ちょうど新薬の効果を試したかったところです。瀕死の重傷だなんて、いい被験者になってくれそうじゃないですか!)
ああ、やはり運命は己に味方してくれている。確信を抱き、ハイランバオスはほくそ笑んだ。
赤レンガの家屋が連なる瀟洒な港湾都市には、陰惨な傷害事件発生を告げるけたたましい警鐘が鳴り響いていた。




