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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第2章 地の果てまでも
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第2章 その6

 待ち侘びていた男の名前が耳に入ったのはコーストフォートの市門をくぐる直前だった。


「おい、聞いたか? イェンスが来てるらしいぜ」


 しかめ面でそう話す若い男を振り返り、カロはその場に足を止める。荷運びの列が滞り、あちこちから文句が飛んできたけれど、そんなことはどうだって良かった。


「そりゃマジか? おっそろしいなあ」

「俺らがセイラリアに向かう間に消えてくれるといいんだが」


 そう声を潜める人夫のもとへつかつかと歩み寄り、「イェンスがなんだと?」と問いかける。


「うわっ、な、なんだよお前」

「今イェンスの話をしていただろう」

「あ? ああ、港にあいつのコグ船が入ったんだ。商売しにきたって感じでもないらしくて、薄気味悪ィなって皆で……」


 終わりまで聞かずにカロは担いでいた大袋を下ろした。目の前の男にそれを押しつけ、商都に向かう労働者の群れと反対方向に歩き出す。


「お、おい! 仕事ほったらかしてどこ行くんだ!? 俺にこの荷物運べってのかよ!?」


 引き留める声は耳に入らなかった。ようやくあの男に会える。そう思ったら居ても立ってもいられなかった。


「喜べイーグレット。これでお前の仇に一歩近づくぞ」


 少し遅れてついてくる若い友人に笑いかける。イーグレットはなんのことかわからないという顔で首を傾げた。


「覚えていないのか? お前を死に追いやった薄情なアクアレイア人だ」


 尋ねると少年はいっそうきょとんと目を丸くする。どうも本気でルディアに何をされたか忘れているらしい。仕事はいいのかと問うようにイーグレットはしきりに市門を振り返った。


「……安心しろ。たとえお前に思い出せなくとも、俺が必ずお前の無念を晴らしてやる」


 河港へ続く大通りを急ぐ。東西に長い街なので、イェンスに会えるまで少し時間を食いそうだった。だがそれもここまでの月日を思えば微々たるものだ。


「地の果てまででも追いつめて、きっとこの手で殺してやるからな」


 物騒な言葉に少年はびくりと華奢な肩をすくませた。更に足を早めたカロをイーグレットは懸命に追ってくる。伸ばされた手が何度も己を擦り抜けるのにカロは少しも気がついていなかった。

 前しか見ていなかった。憎い女の幻しか。

 後戻りできぬ道を進んでいく。胸の炎に急き立てられて、ただ前へ。







「えっ?」


 見知った男とすれ違った気がしてアイリーンは人波を振り返った。ぐるりと一帯を見渡すもその姿は既になく、見間違いだろうかと悩む。


「…………」


 目を凝らしてもやはり彼はどこにもいない。賑わう街にはめいめいの生活を送る人々が西へ東へ行き交うのみである。

 今は頼まれた買い物の途中だ。早くパンと薬を買いにいかなければ。下宿で腹をすかせたハイランバオスが待っていることを思い出し、無理矢理前に向き直った。この街も随分ロマが多いから彼を見た気がしてしまっただけだろう。きっとそうに違いない。


(……でもなんだか引っかかるわ)


 のろのろと雑踏の隙間を縫いながらアイリーンは胸を押さえた。

 アクアレイアを去ったカロはサールに行かなかったようだった。北パトリアにはイーグレットと共通の知人がいると聞いたことがあるし、案外本当に近くにいるのかもしれない。もしばったり出会っても、どうしていいかわからないけれど。


(友達甲斐がないわね、私)


 今だって、すぐに名前を呼べば良かったのにそうしなかった。考え直させる自信がなくて逃げている。剥き出しの憎悪と対峙するのが恐ろしくて。


(こんなの友達って言えるのかしら?)


 彼はいつも味方でいてくれたのに、自分はそうなれていない。嘆き、呪い、苦しむ彼の力に少しもなれていない。

 ブルーノに脳蟲を寄生させた十五の歳、アイリーンは父に家を追い出された。北へ北へと流れたけれど根を生やせず、アクアレイアに逃げ帰ったのは三年後。そのときモリスがカロの話をしてくれた。「今は遥か東の国で、お前さんと同じようにひとりぼっちでいるはずだ」と。

 ジーアンで彼を見たときすぐにわかった。生物学的な見地からオッドアイについて語るとおかしげに吹き出された。寂しい夜は故郷の歌を歌ってくれた。実物を見もしないうちから蟲の存在を信じてくれた。グレースの悪事を止める手伝いをしてくれた。いつも、いつも、見捨てずに支えてくれた。それなのに自分は。


(でも私、姫様に剣を向けるなんて……)


 何度も何度もかぶりを振る。気づけばパン屋の軒先を通り過ぎていて慌てて道を引き返した。


(私、こんなところまで来て何をしてるの?)


 ハイランバオスの小間使いをするために皆と離れたわけではない。己の罪を償うために旅立ったのだ。それなのに、今度こそ変わらなければと思うのに。

 本当に、何をやっているのだろう。




 ******




 自分でもらしくないことをしていると思う。ちょっと格好つけすぎたかなとレイモンドは苦笑した。

 あの男に頭を下げるなど本当にできるのか、想像してもまるで現実感がない。胸にあるのは結局誰かを当てにせざるを得ない自分に対する情けない思いだけだった。


「おお? なんだ、早かったな?」


 桟橋に戻ってきたレイモンドを見下ろしてイェンスが口元を綻ばせる。薄い水色の双眸は後方に控えたウンベルトを捉えてはたと停止した。スヴァンテやほかの乗組員も縄梯子を放ると同時、招かれざる客に気づく。


「やあ! どうも、どうも」


 艶めく頬髭を撫でつけてウンベルトはにこやかにお辞儀した。そんなことで気まずさは拭いきれなかったけれど。

 レイモンドがアミクス幹部を連れてきたことで、なごやかに送別会の支度をしていたコグ船の空気は一変した。どういうことだと訝しげな視線が飛び交う。ウンベルトに続き、パーキン、オリヤンまで甲板に上がってくるとイェンスが船長らしく説明を求めた。


「なんの用だ、ウンベルト? 珍しいじゃねーか。あんたが俺の船に顔を出すなんて」

「いや、別にたいしたことではないんだ。ご子息と少々込み入った話があってねえ」


 男の発言にぴくりとイェンスの片眉が動く。老水夫たちは警戒を強め、腰に結わえた短い斧に手をかけた。ウンベルトは怖気づいた様子もなくパーキンを前方に突き出す。そのまま彼はすくみ上がるモミアゲ男を紹介した。


「こいつはパーキン・ゴールドワーカー。この街の金細工職人だ。実は彼、我々アミクスに借金をしていてね。しかも期日が過ぎたのに、その金を返せないと言うのだよ」

「? それがどうしたってんだ?」


 イェンスは眉間にしわを寄せて問う。赤の他人が誰にいくら借りていようと自分たちには関係ないだろうという顔だ。


「ふふ、実はね、彼は君の息子の仲間らしい。私がパーキンの物的資産を取り上げようとしたら、そいつは困ると止められてしまったんだよ。代わりに金を用意してくれるって言うんでこうしてついてきたわけさ」

「なっ……!? ほ、本当か?」


 コグ船は大いにどよめく。ばつの悪さに目を逸らしつつレイモンドは「ああ」と頷いた。


「どうしてもアクアレイアに持って帰らなきゃならねーもんが差し押さえられちまいそうなんだ。だからなんとか、こっちで払ってやれたらと思ってる」

「そ、そうなのか。……ここに戻ってきたってことは、この間の宝石だけじゃ足りなかったんだな? な、仲間の借金ってのはいくらなんだ?」


 イェンスは怖々と問うてきた。ここで誤魔化しても仕方ない。レイモンドはできるだけ平静に「い、一千万ウェルス……」と答える。


「はああ!? 一千万ウェルス!?」


 思った通りコグ船の男たちは目を剥いた。「一千万ウェルスって何レグネだ?」「に、二千六百万レグネ!?」「そんな金どこにあるんだよ!」と甲板は大騒ぎになる。


「二百五十万……いや、三百万ウェルスなら私も出せるんだが」


 そうオリヤンが申し出ても怒号は一向に収まらなかった。


「そのどうしても持って帰らなきゃなんねえものってなんなんだ!?」


 スヴァンテに問われ、レイモンドは返答に窮する。印刷機の話なんてしても理解を得られると思えなかったからだ。

 だがそれでも話さなければ筋が通るまい。慎重に言葉を選び、レイモンドはアレキサンダー三号について説明を試みた。


「本とか護符とかを刷る機械だよ。手で書くより手間も時間もかからねーし、一度にたくさん作れるんだ」


 案の定イェンスたちはぱちくりと瞬きする。その重要性も、金の匂いも嗅ぎつけられず、彼らはいっそう顔を渋くした。


「おいおい、わけのわからねえこと言わねえでくれるか? 本とか護符とかを刷る機械? それがなんの役に立つってんだよ」


 スヴァンテは話にならないと首を振った。「財産差し押さえっても奴隷として売られるわけじゃねえんだろ? だったら他人に頼らずに、こつこつ真面目に返していけばどうだ?」と至極真っ当な意見をのたまわれる。


「それじゃ駄目だから言ってんだろ」


 もどかしさを堪えてレイモンドは続けた。


「今のアクアレイアには必要なもんなんだよ。また同じもの作ろうと思ったらもっと金がかかるんだ。だから……」

「いや、アクアレイアが大変だって話は俺らもオリヤンから聞いたがよ、それなら持って帰るべきなのは食糧とか毛皮とか生活に必要なものなんじゃねえの? やっぱ意味がわかんねえよ」

「……っ」


 この男とは話していても埒が明かない。意を決し、レイモンドはイェンスに向き直る。先見の明のない相手を理屈で説き伏せるなんて不可能だ。なら情に訴えるしか道はない。


(ほんと金持ってないっつーのは屈辱的だよな)


 やりたいこともできないし、やりたくないことをやらずにいることも許されない。ただ思い知らされるだけだ。立場の弱さや人生のままならなさを。

 頼み事などしたくなかった。援助の一つもしてくれなかった父親に、助けてくれなんて言いたくなかった。

 だがそれでルディアの力になれるなら、そうするしかないではないか。


「……貸してくれねーか、一千万ウェルス」


 拳を握り、この通りだと頭を下げる。「なるべく早く返すから」とレイモンドは一時の貸し借りであることを強調した。


「…………」


 イェンスは是とも否とも答えない。腕を組んだまま黙り込み、顔を上げないレイモンドを見つめてくる。

 老水夫たちはそんな船長をひやひやと眺めていた。彼らが「断れ、断れ」と念じているのはレイモンドにもわかっていた。


「……スヴァンテ、帳面見せてくれ。俺のと船のと両方だ」


 イェンスは副船長を船長室に走らせる。届けられた分厚い帳簿にしばし無言で目をやった後、男は残念そうに呟いた。


「……皆の老後の蓄えまで合わせても三百五十万ウェルスがやっとだ。お前の五十万ウェルスと、オリヤンの三百万ウェルスを入れてもまだ三百万ウェルス足りない。なんとかしてやりたいのは山々だが……」


 イェンスが開いて見せてくれた帳簿からは何度確かめても同じ計算結果しか出てこなかった。ダメ元でパーキンに「三百万ウェルス出せるか?」と聞いてみるが「持ってるわけねえだろ!」と怒鳴られる。聖女のサイン入り神話集を売っても三百万には届かないだろう。万事休すだ。これ以上どうしようもない。


「ふふっ、なるほどねえ。君、思ったより小金を貯めているじゃないか」


 忍び笑いを漏らしたのは傍らで顛末を見守っていたウンベルトだった。「君がこちらの条件を飲むなら三百万ウェルスくらいおまけしてやってもいいが?」とアミクス幹部は得意げに髪を掻き上げる。

「えっ!?」

「お、おまけって本当ですか旦那様!?」

 目を潤ませるパーキンにウンベルトは「もちろん。だがイェンス次第だよ」と頷いた。


「……一応聞くが、どんな条件だ?」


 手練手管のオーラ漂う紳士の狙いはどうやらこちらの後出しする条件のほうにあったらしい。ウンベルトには最初からイェンスに一千万ウェルス出せないことがわかっていたようだった。ダシにされたなと直感したが、レイモンドは何か言える立場になかった。大人しく彼の言う条件とやらに耳を傾ける。


「この際だからはっきりと言わせてもらおう。イェンス、君たちのアミクスに対する重大な背信行為、それをただちにやめてもらいたい」


 意外な言い渡しにレイモンドはえっと瞠目した。


(ア、アミクスに対する重大な背信行為?)


 なんだそれはとコグ船の船員たちを一瞥する。戸惑うレイモンドとは対照的に、イェンスはさしたる動揺も見せず、もっと言えば多少ふてぶてしい態度で尋ね返した。


「なんのことだ?」

「とぼけたって無駄だ。北パトリア海と北辺海の荒れ狂う海峡を、妙な霊力で君の船――いや、君の船団だけは易々と越えていける。君がアミクスを通さずに、新興都市の成金どもを我々の縄張りである北辺海に招いているのは調べがついているんだよ。そんなことをされては都市同盟の存続に関わる! 君たちはそれで割のいい臨時収入を得ているのかもしれないが、全体のためには百害あって一利なしだ。私の言っている意味がわかるかね?」

「えっ、えっ、どういうこと?」


 まったく話についていけず、レイモンドはウンベルトに尋ねた。「どういうも何も!」と怒り心頭で彼は答える。


「君はアクアレイアから来たのだったね。よろしい、ならば我らがアミクスの窮状を説明してさしあげよう!

 北パトリア商業都市同盟アミクスは北パトリア海及び北辺海沿岸に位置する交易都市の総称だ。我々は古くから助け合い、支え合い、交易路を確立しては損も得も分け合ってきた。

 ただこの交易路というのが曲者でねえ、北パトリア海から北辺海に入る際、凄まじい霧と暴風と潮流で幾百という船を葬ってきた魔の海峡を通らなくてはならないのだよ。あまりに多くの人命が失われたため、アミクスは同盟発足の年にこの海峡の航行を禁じた。代わりにコーストフォートとセイラリアを結ぶ街道を整備したのだ。こうして我々は陸路で積み荷を運ぶことになり、危険な海峡を回避するようになったわけだ。

 ところがイェンスは違った! この男には神がかった力があり、魔の海峡も真冬の海も物ともしない。彼がアミクスに登録した頃はまだカーモス族の残党が北辺の各所に息を潜めていたものだから、我々はイェンスの船にだけは特別に魔の海峡の航行許可証を発行した。今でもその証書は有効だ。そしてねえ、君のお父上は、その許可証を利用してとんでもない悪事を働いているのさ!」

 息つく間もなく捲くし立てられ、レイモンドはぽかんと目を丸くする。更にウンベルトはイェンスの悪事についても語り始めた。

「時代は移り、航海術が発達し、船そのものも昔に比べて頑強になった。それはいいことだと思う。しかしアミクスには災難な面もあった。西パトリア海の商人どもが台頭してきて我々の勢力圏を侵すようになったのだ。奴らは一向にアミクスに従わず、陸路で関税を払うこともせず、魔の海峡を通って北辺海にやって来る! なぜそんなことが可能なのか? 調査して突き止めたのは君のお父上が一枚噛んでいるということさ。

 なんとこの男は我々に秘密で海峡の案内料を取っていたんだ! 信じられるか? 彼とてアミクスの一員なのにだぞ? 今まで我々が西パトリアに売りにいっていた商品は西パトリアの商人どもが売りさばくようになってしまった! 西パトリアで買いつけていた商品も同じ運命を辿った! 北辺海に織物なんぞを運んでも、もう以前の半値でしか売れやしない! それもこれもイェンスの進んだ航路を成金どもが覚えてしまったせいだ!

 このまま連中を放置すればアミクスの権威はどんどん失墜することになる。最悪同盟内部にも海峡を渡って交易する者が現れるかもしれん。そうなったらどうなると思う? サールリヴィス河のある我が市はともかく、陸路の関税が収益の七割に及ぶセイラリアはおしまいだ! 本当にアミクスがなくなって、秩序も何もかも失われてしまうかもしれないのだよ!」

「お、おお」


 それは確かに一大事だ。ぜえぜえと肩で息をするウンベルトにレイモンドはこくこくと頷く。

 そうか、それでディータスの街を出てからこそこそとついてくる船が増えたわけだ。彼らもなかなか悪どい小遣い稼ぎをするではないか。


「許可証には『イェンス一行の航行を認める』って書いてある。俺たちゃ別に決まりを破ってはねーよ」


 ところが犯行を指摘された本人は反省の色も見せなかった。耳の穴をほじりながらイェンスはいけしゃあしゃあと己の正当性を主張する。開き直ったその態度にレイモンドは開いた口が塞がらなかった。


「今までアミクスが俺らに何をしてくれた? パトリア文字の読めなかった頃は二束三文で毛皮買い叩いてくれてよ、今だって同盟の設備もほとんど使わせねーくせに。ささやかな儲けに目くじら立てて、騒ぐときだけはご大層に騒ぎやがって。アミクスが俺らにも相応の年金を用意してくれるんなら俺らだって本業の毛皮売りだけでやってけるんだぜ?」


 何を言っているのだこの男は。呪いだなんだと忌み嫌われている身の上で、それでも商売ができるのは、結局アミクスに属しているからではないか。それなのにどうして組織と対立するようなことを言うのだ。


(――ああそうか。こいつは一人じゃないからか)


 己との明確な差に思い至って腑に落ちた。イェンスには仲間がいる。たとえ同盟から追放されても一応は食っていけるのだろうし、アミクスはアミクスで海賊避けの用心棒に使えるイェンスを手離したくないに違いない。なんの力も持たないガキが、百戦錬磨の商人の国で命を繋いでいたのとはまったく事情が違うのだ。この男は、きっと今まで他人のお情けにすがることなどなかったに違いない。


(…………)


 胸がざわつく。冷たい汗が脇を濡らした。


「君の言い分などどうでもいい」


 ウンベルトの冷めた声にレイモンドはハッと我を取り戻す。


「私が聞きたいのは同盟に許可証を返上する意思があるかないかだ。君がそうしてくれるなら返済は七百万ウェルスで勘弁してやろう」


 どうするね、と問いかけるアミクスの重鎮にイェンスはちっと舌打ちした。スヴァンテがしゃしゃり出てきて「金も証書も渡すわけねえだろ。老後の生活がかかってんだぞ!」と吠える。


(――だけどオリヤンさんから仕送り受け取ってるんだろ?)


 冷徹な声が脳裏に響いた。七百万ウェルス出したって急に生活できなくなるわけではない。船や積み荷を差し出せとまでは言われていないし、店を構えた昔の仲間もきっと助けてくれるのだろうと。


(なら俺に、貸してくれたっていいじゃねーか)


 一千万ウェルスじゃない。七百万ウェルスでもない。宝石の分を入れたってたった四百万ウェルスだ。しかも航行許可証は、自分たちの浅慮が理由で没収されるも同然なのに。


(こいつなんて言うのかな)


 レイモンドは難しい顔でうつむいているイェンスを見やる。出すと頷くのか、出さないと首を振るのか、固唾を飲んで見守った。

 もしもできないと言われたら。それは無理だと言われたら俺は――。


「……銀行証書と航行許可証を取ってくる」


 踵を返し、イェンスは船長室に向かった。後ろでオリヤンが盛大に溜め息をつき、懐から三百万ウェルスの証書を取り出す。船員たちは顔面蒼白で「おい、嘘だろ!?」「だって蓄え全部だぞ!?」と絶叫した。


「イェンス! 待て、この馬鹿野郎!」


 慌てて駆け出したスヴァンテが船長の後を追っていく。だがイェンスは考えを変えずに戻ってきたようだった。


「ほら、持ってけよ」

「おおっ! ほっほっほ、いやあ、これでようやく海峡問題の対策が立てられそうだ!」


 目的を果たしたウンベルトは飛び上がって喜んだ。レイモンドから宝石を、オリヤンから三百万ウェルスを受け取ると、彼は上機嫌でパーキンを振り返る。


「さあパーキン、この借用書を受け取りたまえ! ついでにアミクス商館まで一緒に徒弟を迎えにいってやろうじゃないか!」

「うおお! あ、あんなにでっかい負債がさっぱりと……! 皆様ありがとうございました! 本当にありがとうございました!」


 ぺこぺこと感謝の礼を捧げると金細工師は風のごとく縄梯子に足をかける。「ネッドと合流したら工房に戻るから!」とだけ告げてパーキンはそそくさとコグ船を降りていった。

 ウンベルトもやはり許可証を返してくれと言われる前に退散する。部外者がいなくなると甲板は一気に険悪なムードに包まれた。


「……何考えてんの、お前?」


 スヴァンテがイェンスに詰め寄る。


「自分が何したかわかってんのか?」


 マントの襟ぐりを掴まれたイェンスは「わかってるよ」と長い息を吐いた。


「また貯め直す。責任は俺が取る。それでいいだろ」


 スヴァンテの鼻息は荒い。当然次の矛先はレイモンドに向けられた。


「ふざけんなよてめえ、俺らの船めちゃくちゃにしやがって」


 眉を吊り上げ、耳の先まで赤くしてスヴァンテはこちらに凄む。イェンスにたしなめられても副船長は聞かなかった。


「だからいい金ヅルだと思われてんじゃねえのかっつったんだ! 俺の言った通りじゃねえか! すっからかんになるまで搾り取られやがって!」


 スヴァンテは激しく怒鳴り散らす。その物言いにカチンときて、レイモンドは思わず口答えしてしまった。


「返すって言っただろ。搾り取るってなんだよ?」

「お前みたいな奴から返ってくると思えねえだろ! つけ上がりやがってこのクソガキが!」

「は? 自分で言ったことくらいちゃんと守るけど?」

「ま、まあまあ、二人とも落ち着いて!」


 すっ飛んできたオリヤンに後ろから肩を掴まれる。スヴァンテも振り上げた拳をイェンスに抑え込まれていた。乗組員の大半はスヴァンテと同じ気持ちのようだ。船長の手前、加勢こそしないものの嫌な目つきでレイモンドを睨んでくる。


「大体返すとか言って、航行許可証はどうしてくれるんだ? 俺らには貴重な収入源だったんだぞ?」

「そんなもん収入源にしてるあんたらが非常識なんだよ。アミクスが構成員を守るのは、構成員がアミクスを守るからだろ? 少なくともアクアレイアじゃ国や組織はそういうもんだって大切にされてたぜ。アミクスが何をしてくれたとかほざく前に、あんたらがアミクスにもっと貢献しなけりゃならなかったんじゃねーの?」

「ああ!? 最初から俺らを見下してた連中に、なんで俺らが擦り寄らなきゃなんねえんだよ!」

「同じじゃねーんだし立場違って当たり前だろうが! パトリア人の同盟に、北辺人が入れてもらっていきなり対等に扱われるかよ! どうせ気に食わねえ奴らだとか言って仲良くやろうとか協力しようとか考えもしなかったんだろ? 似た者同士で傷舐め合ってりゃ寂しくはねーもんな!」

「んだとてめえ!」


 激昂したスヴァンテがイェンスを振り切って突進してくる。オリヤンが邪魔で避けきれず、拳はこめかみを掠めていった。

 鋭い痛みに眉をしかめる。爪が触れたのか頬が少し切れていた。


「……見た目はイェンスそっくりでも、てめえは俺らと根本的に違うんだってよくわかったぜ。アミクスの肩を持つんだな? 俺たちゃ奴らに散々煮え湯を飲まされてきたのに」

「煮え湯飲まされたら全部敵かよ。世渡りヘタクソすぎなんじゃねーの? 金出してくれたことには感謝してるけど、あんたたちとは一生わかり合えそうにねーわ」


 至近距離での睨み合いに火花が飛ぶ。しかし不意に緊迫が緩み、唇を噛んだスヴァンテが苦々しく吐き捨てた。


「感謝してるっつうならよぉ、一度くらいイェンスのこと親父って呼んでやれよ……!」


 思いがけない言葉に面食らう。スヴァンテを羽交い締めにしていたイェンスも、目を丸くして腕を解いた。


「…………」


 瞠目したままレイモンドは後ずさりする。ほんの一瞬、期待の滲んだ双眸がこちらを見やり、かぶりを振った。


「スヴァンテ、何言ってんだ。レイモンドも、気にしなくていいぞ。んなもん頼まれて口にするようなことじゃねーからな」


 呼んでほしい。顔にはそう書いてあった。わかりやすいくらいはっきりと。

 また胸がざわついて、目の前が暗くなって、上手く呼吸ができなくなった。親父って、と腹の底で嘲笑う。

 理性では――いつも正しい勘定のできる理性では、四百万ウェルスの対価にそれくらい払ってやれと、支払うべきだとわかっていた。

 同時に凄まじい反発が胸の奥から湧き起こる。たかが四百万ウェルスごときでと声がする。


「……なんだよそれ? 気遣いのつもりか? あんたにそういうことされるとすげームカつくんだけど」


 半分笑って告げた言葉にイェンスの眼差しが揺れた。

 首の紐に指をかける。セイウチの牙のぶら下がった、時代遅れの首飾りを服の下から引っ張り出す。


「――こんなことくらいで何かしてやった気になれる人間を、父親なんて思うかよ!」


 引きちぎったお守りを船の外に投げ捨てて、レイモンドは甲板を飛び降りた。どうやって桟橋に着地したのか、どこをどう走って港を出たのか、意識もろくに追いつかぬまま大通りを駆け抜ける。

 もういい。もうどうだっていい。ひとまずにせよ金の問題は解決したのだ。今日はもう眠りにつくまで一切何も考えたくない。


(そうだ、姫様とデートするんだ)


 一緒に楽しい時間を過ごして、潰れるまで飲んで騒ごう。それくらいの金はまだ残っている。何もかも忘れてしまえ。ああだけど、うっかり使ってしまわないように、去年貰った記念硬貨だけは別にしておかなければ。


「……ッ!?」


 急に誰かに腕を掴まれ、レイモンドは思いきり前につんのめった。全速力で走っていたからとても止まれなかったのだ。


「なんだよ! 花も焼き菓子も買わねーぞ!」


 振り返って血の気が引く。広場の露店の客引きだろうと思ったのに、そこにいたのは今最も会ってはならない男だった。

 深い闇を宿す漆黒の左眼と、不吉を告げる黄金の右眼に見据えられ、数分前の出来事が全部頭から吹き飛ぶ。



「見つけた」



 車が通りがかったのは幸運だったとしか言いようがない。二頭馬車の進路に立っていたレイモンドとカロはガラガラと音を立てて突っ込んできた荒っぽい馬車にちょうど真ん中で分断された。

 一も二もなく走り出す。砂埃が、人混みが、目隠ししてくれている間に。

 道は頭に入っていた。何度も何度も振り返りながら駆け抜けた。


(最悪だ)


 まだ皆と合流できていないのに。今は自分一人しかいないのに。


(なんでこんなところにいるんだよ……!)


 姫様に知らせなければ。なんとか彼女を安全な場所に移さなければ。

 けれどルディアが素直に街を出てくれるだろうか。自分からカロに会おうと言い出しはしないだろうか。


(考えろ俺!)


 どうすればいい。どうすればあの人を守れる。全力疾走しながら出した答えは「とにかくあいつと姫様を接触させない」だった。

 レイモンドは工房街をひた走る。錆びたティアラの看板は道の先でぐらぐらと揺れていた。





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