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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第2章 地の果てまでも
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第2章 その5

 ああ、風よ、頼むから今すぐ凪いでくれ。さもなければ嵐を招き、一晩でも二晩でもそこらの入江にこの船を足止めしてくれ――。


「……はあ……」


 船長室の前面の窓に目をやってイェンスは力なく息をついた。空は憎いほど澄み渡り、雲の一つも浮かんでいない。帆の受ける順風も、こちらの胸中など素知らぬふりでコグ船を北に運んでいた。

 信じられない。もう一ヶ月経つなんて。明日こそ、明日こそはを繰り返して結局少しも心を通わせられなかったなんて。


「ごっそーさん。そんじゃ俺ら、船降りる支度あるから」


 そう言ってレイモンドがスプーンを置く。部屋を出ようと立ち上がった息子にイェンスは慌てて声をかけた。


「お、おかわりはどうだ? スープもパンもまだいっぱいあるんだぞ」

「もう満腹だよ。腹減ったら街で食べるし、今はいい」

「そ、そうか。街で食べるか」


 オウム返しにレイモンドの言葉を繰り返し、がっくりと肩を落とす。

 別れの地コーストフォートは目と鼻の先に迫っていた。おそらくこれが親子で取る最後の昼食になるだろう。それなのにレイモンドはさっさと行かせろと言わんばかりだ。イェンスにできたのは「その、なんだ、サールリヴィス河を遡る船はもう決まってるのか?」と会話を引き延ばすことだけだった。


「いや、それはコーストフォートに着いてから考えるつもりだけど」

「だ、だったらまだ、河の深いうちはこの船で送っていっても構わねーよな? そうすりゃお前らも旅費を浮かせられるだろうし」

「悪ィけど、コーストフォートからはパーキンって金細工師が一緒になんだよ。あいつあんたのことめちゃくちゃ怖がってるし、無理だと思う」

「そっ、それなら送別会! 送別会くらいさせてくれるか!?」

「送別会? ……はあ、まあ別に、あんたの好きにすりゃいいんじゃねーの」


 素っ気ない返事だけしてレイモンドは扉に手をかける。ブルーノがスープを飲み干したのを確認すると息子はひと足早く船長室を出ていった。


「ごちそうさま。それでは私もこれで」


 ハンカチで口元を拭うと青髪の剣士も立ち上がる。イェンスは藁にもすがる思いで彼の腕を引っ掴んだ。


「な、なんだ?」

「……っ! ブルーノ、頼みがある!」


 必死だった。このまま終わりたくなかった。せっかく生きて出会えたのに、全然何もしてやれていない。あんなわずかな宝石を買い与えた程度では自分が納得できなかった。

 レイモンドとて決して満足はしていないだろう。不足が埋まっていないから彼の眼差しは冷たいままなのだ。イェンスにだってそれくらい理解できる。


「教えてくれ。どうすればあの子を喜ばせてやれるんだ? レイモンドは父親にどうしてほしいと望んでるんだ?」


 恥も外聞もない問いにブルーノはやや言葉を詰まらせた。


「……すまない。我々はここ一、二年の付き合いでな。あまり立ち入ったことまでは」


 やんわりと首を振られ、成す術なく項垂れる。ブルーノは礼儀正しく「親切の数々には感謝している。ありがとう」と頭を下げて出ていった。いつも通りイェンスとレイモンドの仲を取り持とうとはしてくれない。

 扉が閉まるやスヴァンテの短い嘆息が響いた。「やっぱ舐められてんだよ」と副船長はパンをちぎりつつ眉間のしわを深くする。


「お前のしてきた我慢とか苦労とか、わかってねえから感謝も湧いてこないんじゃねえのか? いっそ聞かせてやったらどうだ? この間、あいつが気軽に散財してくれた百三十万レグネだって、お前の汗と涙の結晶なんだぞって」

「よせよ。そんなもん口にすることじゃねーだろ」

「けど今のままじゃ、あの馬鹿お前のすごさをわかろうともしねえじゃねえか。ご機嫌取りなんかやめちまって、言うこと聞けねえんなら海に放り込んでやるって叱ってやればいいと思うがな。横で見ててイライラしてくるぜ」

「…………」


 憤慨気味のスヴァンテにイェンスは小さく息を吐く。まとまりを欠いた味方を結束させるには脅しも有効な手立てだろう。けれど自分がなりたいのは親子なのだ。スヴァンテの言う方法で願いが叶うとは思えなかった。


(……何も望まないのが正解だったのかもしれないな)


 好ましい反応を返してもらおうと考えたことがそもそも間違いだったのかも。呪われた血を受け継がせた分際で。


(俺なんかと関わらないほうが、レイモンドにとってよっぽど……)


 ふと背中に気配を感じ、頭だけ振り返った。見れば半分透けた手がイェンスを力づけるように右肩に添えられている。フスは人差し指を立て、「なるようになるさ」と宙に書いた。ありがたい祭司の言葉にそっと目を伏せる。


(そうだな。きっと、なるようにしかならないんだ)


 まだ一緒にいたかったけれど。もっと何かしてやりたかったけれど。せめて彼のために貯めた金の残りくらいは受け取ってくれるだろうか。




 ******




 ようやくこの気まずい船ともお別れか。甲板でほっと息をつき、ルディアは河口の西岸に広がる美しい街並みを見渡した。

 北パトリア商業都市同盟アミクス――その第二席を占める自治都市コーストフォート。大河サールリヴィスによって内陸と深く結ばれたこの街は南方から岩塩や木材や毛織物、北方からタラやマス、トナカイの毛皮、鯨油やセイウチの牙と、様々な交易品が集まることで知られている。アミクスの盟主は同盟を発足させたセイラリア市だが、交通の便に関してはコーストフォートの圧勝と言えた。もっともここに到着した荷は大半が陸路でセイラリアに送られるので商業都市としての規模に大差はないと聞くけれど。


(……ん? 何か様子がおかしいな)


 ルディアが不穏なざわめきに気づいたのはコグ船が大きな河港の埠頭に差しかかったときだった。活気溢れる船着場で忙しなく働く水夫の一人がこちらに指を向けたと思ったら、その周囲の者たちも次々に仕事の手を止め、不安げに固まってしまったのだ。

 彼らは一様に顔を歪めていた。まるで「なんであいつの船が入ってくるんだ」と言うように。


(……これはあまり歓迎されていないのかな?)


 イェンスの額にあるのと同じ、生贄の紋様が織られた旗を振り仰ぐ。人々が青くなって見上げているのは間違いなくこの旗で、彼らに忌避されているのは間違いなくイェンスであった。

 ふむ、とルディアは近づく河港を一瞥する。着岸拒否の手信号は出されないまでも、市民の示す拒絶反応は強い。ある者は破邪の五芒星を切り、ある者は大慌てで自分の船を遠ざけ、近づいてくるなという意思がまざまざと伝わった。冷遇には慣れっこなのか、毛皮商一行は悠然と桟橋に取りついたが。

 嫌悪の視線が高圧的で露骨なのはコーストフォートが長く権勢を誇ってきた街だからだろう。そういう土地は良かれ悪かれ保守的だ。今までに立ち寄ったのはすべてアミクス非加盟の新興交易都市だったから空気も開放的だったのだ。


(しかし一応イェンスはアミクスの成員だったはずだがな)


 ルディアは毛皮商が聖女パトリシアの護送を任されていたことを思い返す。あれだけ大々的に使われていれば一般市民も彼が同盟者と知っていて当然だ。だというのにこの反応とは。


(まあ邪険にされて当然か。北辺人がパトリア人の組織に紛れているのだし、おまけに彼は得体の知れない亡霊を連れ歩いているのだからな)


 ルディアはちらりと仲間に着岸指示を出すイェンスを盗み見た。なんにせよもうじき関係なくなる話だ。船を降りればレイモンドは二度とここに戻らないだろう。やりたいならやればいいと送別会を認めはしたが、出席するとは槍兵はひと言も口にしていない。


(アルフレッドなら上手く間に入ってやれたのかもしれないが……)


 ふうと嘆息一つ落とし、ルディアは船縁に近づいた。下船準備の整った甲板から縄梯子が放られる。薄手のケープのフードを被って無遠慮な衆目を避け、そこだけ人波の引いた桟橋に降り立った。


「二人とも、夕方には帰ってこいよ!」


 送別会の案内をするイェンスに槍兵が形だけ手を振り返す。そのまま二人で隣の桟橋に移動した。

 呆気ないさよならだ。しかしこれで良かったのだろう。

 レイモンドはやっと少し肩の力が抜けたらしく、「デートの約束覚えてる?」などとニヤニヤ尋ねてくる。いつもなら小突くところだが、今日は「わざわざ言われなくても覚えている」と肩をすくめるだけにした。久々に締まりない顔を見て、こちらもほっとしたのかもしれない。


「へっへっへ、どうする? どこ行く? まだ明るいし、用事済ませた後でもたっぷり時間あるぜ」

「明日でなくて構わないのか? 一日待てば八月十一日だろう?」

「んー、とっとと出発してーからな。川辺の旅だし、明日コーストフォートを出られたら誕生日は夜に蛍見れそうじゃん? あっ、なんなら今晩日付変わるまでぶらぶらする? 今なら財布も潤ってるし、美味そうな店ハシゴしてさ。鐘が鳴ったら乾杯とかして!」


 発言から察するに、やはり送別会に出る気は微塵もなさそうだ。レイモンドはこのまま姿を消すつもりに違いない。コーストフォートは大都市だし、多分見つからずに逃げられるだろう。イェンスも敢えて追いかけてはくるまい。


(良かった。これでもうこいつに変な我慢をさせずに済みそうだ)


 意外だな、と改めて感じる。防衛隊の中ではレイモンドが一番仕事を仕事と割りきっているように見えたのに、こんなところまで無償で――心を切り売りしてまでついてきてくれている。あんたが死んだら俺も死ぬ、なんてどこまで本気か知らないけれど。


「……とりあえずさっさと用事を片付けてしまおう。パーキン一人では印刷機を運べないだろう」


 ルディアは先に港入りしていた亜麻紙商の船に向かった。大型帆船は早くも荷揚げを開始しており、例のアレキサンダー三号も布に包まれ縄をかけられた状態でそろりそろりと甲板から下ろされている。

 地上で搬出を待ち受けているのはパーキンとオリヤンだった。ルディアたちもサッと手助けに入る。大事な大事な印刷機に故障など起きては大変だ。


「おお、二人とも無事だったか! いやー、あのコグ船に乗ってよく五体満足でいられたな! 生きて再会できて嬉しいぜ!」


 しばらくぶりに会う金細工師はなぜか雨用マントを羽織り、目深にフードを下げていた。空は青く、風もからりと乾いていて、そんなものは必要なさそうなのに。しかも自分で大きな声を出しておいて「おっといけねえ」と挙動不審に周囲を警戒する。


「…………」


 ルディアは隣のレイモンドと目を見合わせた。槍兵はどこか呆れた口ぶりでパーキンに問う。


「もしかしてそれ、顔隠してんの?」

「ぎくっ!」

「ぎくっじゃねーよ。この街あんたの生まれ故郷なんだろ? なーにコソコソ……」


 苦言を呈するレイモンドにパーキンは「馬鹿野郎! だからやべえんだろうが!」と小さな声で怒鳴り返した。どうやらこのろくでなしは昔から人に迷惑ばかりかけて生きてきたようだ。面倒に巻き込まれやしないだろうなと一抹の不安がよぎる。


「ま、道中平和であることを君たちの神々に祈ろう」


 そんなルディアの胸中を読んでオリヤンが呟いた。亜麻紙商もパーキン自身にトラブル回避や善行を期待するのはやめたようだ。


「そんじゃ予定通り、行きますか!」


 金細工師が印刷機を乗せた荷車を引き始めたのでルディアたちも彼に続いて歩き出す。港の雑踏を横切って一行は街に入った。

 さて、ここからマルゴー公国の首都サールを目指す前に、一つ立ち寄らねばならない場所があった。金細工師パーキン・ゴールドワーカーの工房だ。彼はアレキサンダー三号を聖王に売り込みに赴く際、一番弟子に留守を任せたのだという。本格的に印刷事業を始めるなら連れていきたい男だそうだ。なんでもほかの徒弟が素行不良の親方に愛想を尽かして逃げ出す中、唯一残った若者で、インクの調合や機械のメンテナンスにも通じているらしい。


「そいつもお前みてーな適当人間なんじゃないだろな」


 話を聞いて疑わしげにレイモンドが目を細める。


「いやいや、ネッドは素直で真面目な犬っころさ。親方には真心こめて尽くすもんだと思い込んでてな! 力は強いし粗食に耐えるし文句もぼやいたことがねえ! 最高のどれ――ゴホン! あー、最高の助手ってやつなんだ!」

「…………」


 本当にこの男は、と槍兵ともども呆れ返った。後ろで荷車を支えるオリヤンも白い目でパーキンを見つめる。


「つーかオリヤンさん、別にあんたまで来る必要ないんだぜ? 印刷機くらい俺らで十分運べそうだし」


 と、レイモンドが亜麻紙商に告げた。言外に「自分の船に帰ったらどうだ?」と言っているのは明らかだ。だがオリヤンは「いや、私にも手伝わせてくれ。どうせだし用事が済んだら一緒にイェンスのところへ帰ろう」と笑顔でかわす。本当に食えない男である。ここでも彼は旧友優先でレイモンドを逃がしてやる気はないらしい。


(まあオリヤン一人なら撒けないこともないだろう。頃合いを見計らって対処するか)


 胸中に呟き、ルディアはにぎやかな街を見上げる。赤レンガの時計塔が三時の鐘を打っていた。瀟洒な街並みに相応しく、お洒落な都会っ子たちが帽子を押さえて駆けていく。彩色タイルの敷き詰められた長い坂道をルディアたちは慎ましく歩いた。

 荷運び人の姿が目立つのは市門から港に直結する通りだからだろうか。ぼろをまとった労働者に混じって黒い肌がちらつく。見知らぬロマとすれ違うたび心臓がどきりと跳ねた。レイモンドも辺りが気にかかる様子だ。


(カロ――)


 不意に吹き抜けた強い風がルディアのフードを取り払った。別にそのままで良かったのに、槍兵はアクアレイア人と知れる髪色を隠そうと即座にケープを被せ直してくる。

 ピリピリした緊張が指先から伝わった。お前が気にすることではないと諭すのも憚られるくらい。


(どうしてこいつはいつまでも私の側にいるんだろうな)


 同情心や義務感で損をできる人間でもないくせに。

 思考を打ち消すようにルディアは小さくかぶりを振った。考えても仕方ないことだ。結論は変わらない。ブルーノに身体を返したら、カロの気の済むようにさせる。たとえレイモンドがどう言おうとも。


(私はあの国に帰れない)


 資格がない。何者としてあの海を眺めればいいかもわからない――。


「あ、そこそこ! あのティアラの看板がかかってるとこが俺の工房!」


 パーキンの声にルディアはハッと目を開く。見ればとっくに中央広場を通り過ぎ、大通りから一本逸れた工房街に入っていた。


「ティアラの看板? んなもんどこに出てるんだ?」

「すぐ目の前にあるだろ! ほら、そこの鍛冶屋のすぐ横の!」

「はあ? 鍛冶屋の横は石工のアトリエじゃねーか」

「だからほら、その間だって!」


 示された指の先を見やってルディアたちはえっと目を丸くした。

 言うまでもなく金細工には黄金が用いられる。材料からして高価だし、その顧客も王侯貴族の場合がほとんどだ。パーキンのことだから多少傷んだ工房を構えているに違いないとは思っていたが、しかしまさか、金細工師の仕事場がここまで貧相になれるとは予想だにしていなかった。


「いや、お前これ倉庫じゃん……?」


 地下へと続く階段の前でレイモンドがささやかにつっこむ。ティアラの看板がかかっていたのは鉄を打つ音が響く鍛冶屋と、のみを入れる音が響く石工のアトリエに挟まれた、騒々しいわ狭いわ暗いわの空間だった。


「色々あって最初の工房は手離したんだよ……」


 うつむいたパーキンが哀愁を漂わせる。色々というのが借金絡みの問題なのは聞かずとも知れた。


「中は結構広いんだぜ? 倉庫っつってもいい感じのワイン蔵がついてるし、地下だから蝋燭代はかさむけどな」


 砂の溜まった階段を数段降りると金細工師は壁の棚からランタンを取り出す。「入口開けっからアレキサンダーを運んでくれるか?」との彼の要望に頷いてルディアたちは荷台の印刷機を下ろした。

 葡萄圧搾機を改造したアレキサンダー三号はレイモンドの背丈よりも高い。壁にぶつけないように気をつけつつ、えっちらおっちら階段を進む。


「それにしても本気なのだね。パーキンをアクアレイアの富豪に紹介してやるというのは」


 と、オリヤンがルディアに話しかけた。


「魅力的な新技術ではあるからな。軌道に乗ればマーチャント商会の亜麻紙も飛ぶように売れるぞ。他人の投資で大儲けだ」

「それはいい。新しい船を二隻も買って今ちょっと貧乏なんだ。楽しみにしておこう」


 当たり障りない会話のつもりだったのだが、ルディアの台詞を聞いて槍兵がやや表情を曇らせる。亜麻紙の流通経路を確保するのに今後もオリヤンとは縁を切れないと考えたのかもしれない。

 関わりたくないのなら関わらなくていいんだぞ。そう言ってやりたかったが口にすることはできなかった。さすがにオリヤン本人の前では言いにくくて。


「あ、あれっ!?」


 素っ頓狂な声が上がったのはそのときだった。ひと足先にドアを開け、工房に入ったパーキンがあちらこちらにランタンをかざしている。駆け回る灯火に金細工師の動揺を見て取ってルディアたちは歩を早めた。


「どうした、パーキン? 何があった?」

「な、なくなってんだよ! 工房の家財がごっそり、仕事の道具も、ネッドの野郎も」

「えっ?」


 ひとまず印刷機を床に据え、工房内をぐるりと見渡す。パーキンの言う通り、地下倉庫はほとんど空っぽに近かった。机や棚があったと思しき場所には塵が積もり、丸椅子の一つも残されていない。ただ奥の小さなワイン蔵に錠前と鍵がぶら下がっているのみだ。


「おいおい、最後の弟子にも逃げられたんじゃねーの?」

「んなわけあるか! き、きっとちょっと出かけてるだけだ!」


 パーキンはそう主張したが見れば見るほど長く出入りした者のない様子で、埃っぽさにルディアは堪らずくしゃみする。


「これは見捨てられた説が濃厚だな」


 ぼそりと呟けばオリヤンも静かに同意を示した。


「そもそも彼に弟子がいたという事実が私には驚きだよ。妄想の人物ではないんだね?」

「やめてくださいよ、もう! んなこと言われると不安になるでしょ!」


 パーキンの涙声が反響する。すると表でそれを聞きつけた者がいたようで、「誰かいるのか?」と問う声が降ってきた。げっと漏らして金細工師は槍兵の陰に身を隠す。だがそんな努力は無駄だった。階段を降りてきた男はパーキンを見つけるなり「ああーっ!」と大声で騒ぎ立てた。


「おおい、皆! パーキンだ! あのクソ野郎が帰ってやがるぞ!」

「なんだって!? パーキンだって!?」

「おっかさん、ひきだしの借用書出してくれ!」

「今度こそ十万レグネ返してもらわにゃ!」


 騒ぎは連鎖反応的に広がり、工房はあれよと言う間に人で埋まる。顔ぶれは老若男女様々いたが、目の血走った者ばかりだった。どうやら全員パーキンに貸しか恨みがあるらしい。中には金細工師のせいで恋人と引き裂かれた女までいるようだった。


「あんたねえッ! あんたがアミクスから借りた大金を返すために、あたしのネッドは毎日毎日奴隷みたく働かされてんだよ!? さっさとアミクスに払うもん払いなさいよ!」

「ええっ!? あいつ留守番サボってやがると思ったらそんなことになってたのか!?」

「そうよ! あんたに教わった技術を売れば解放してやるって言われたのにさ、義理堅くインク作りの秘密守って今日も無賃労働してんのよ! あんないい人に尻拭いさせて良心が痛まないの!?」

「へ、へへへ。いや、けど、もうじきまとまった金ができる予定で……」

「あんたいっつもそう言うけど、本当にまとまった金持ってきたためしがないじゃない! いいから早くアミクスに行くわよ! あんたとネッドを交換してもらわなきゃ!」


 いきり立つ屈強な婦人がパーキンの手首を掴む。そのまま彼女は金細工師を引きずって階段へと歩き出した。


「ちょっ、ア、アミクスでネッドと交換してもらうって!?」

「うるさいわねッ! あんたの借金なんだから、あんたが返すのが筋ってもんでしょ!」

「お、俺これからアクアレイアで新事業の出資者に会わせてもらう予定してんだけど!?」

「ホラ吹くんじゃないわよ! あんたの出資者になろうなんて人間がこの世に存在するもんですか!」

「ヒエエエ! お助けえええ! レ、レイモンド! ブルーノさん!」


 パーキンは半泣きで救助を求める。ルディアは深々と嘆息し、揉み合う二人に近づいた。やはりこの男と一緒にいてトラブルを避けられるはずがなかったのだ。


「すまんがパトロンの話は本当で――」

「うおおおおおっ!」


 パーキンがクズの本領を発揮したのは直後だった。ルディアが女に声をかけ注意が逸れたその瞬間、金細工師は若い娘に全力タックルを食らわせる。腕をほどいて自由を取り戻すや否や小悪党は一瞬たりとも躊躇せずダッシュで路上に逃げ出した。


「ちょっ、ま、待ちなさいよゴミ男!」


 いっそ天晴な逃げっぷりだ。入口付近に陣取っていた男たちを巧みにかわし、金細工師は階段を駆け上がる。だがもう一歩のところで幸運に見放されるのが彼の宿命であるらしい。「パーキンだって!? あのパーキンが帰っているのか!?」と現れた男と衝突し、金細工師は再び地下まで転がり落ちてきた。


「あっ、ウンベルトの旦那」


 身なりのいい中年紳士の名が呼ばれる。この街では名の知れた有力者らしく、集まっていた人々はさっと姿勢を正した。


「何? ウンベルト?」


 そう言って顔をしかめたのはオリヤンだ。どうも彼には得意な男でないようで、亜麻紙商はそっと後方に引っ込んだ。

 頬髭を撫でつけた中年紳士は「ああ、会いたかったよ!」とパーキンに手を差し伸べた。ヒエッと声を裏返し、金細工師は尻餅のまま後ずさりする。

 どうも二人はいい関係ではなさそうだ。パーキンの目の泳ぎ方から察するに相当な負債を抱えた相手と見える。そしてルディアのこの推測はすぐに事実と証明された。


「君への融資の返済期限、とっくに切れているのはもちろん知っているだろうね?」

「あっ、はい。へへへ、旦那様には随分長々とお待ちいただいて申し訳……」

「謝ってほしいんじゃない。私はただね、君が私の顔に塗りたくってくれた泥を拭ってほしいんだ」

「あっ……へへ……。ハイ、へへっ……」

「けなげで哀れな君の弟子が『お借りしたお金は一生かかっても必ずアミクスにお返しします』と言ってくれているんだがねえ、残念ながら一介の職人には一生かけても返せる額ではないのだよ。このままでは私も君の事業を推薦した立場がないし、どうするつもりか聞きたくてねえ?」

「ど、ど、どうって言うと……?」


 男はどうやらアミクスの幹部らしい。歯切れの悪いパーキンの胸倉を掴むと彼は腹底から激しく怒声を響かせた。


「返せるのか返せないのかどっちなんだ!」

「返せます! 返せます!」


 至近距離で凄まれて金細工師はヒッとその場に頭を伏せる。震え声の返答がほうほうの体で繰り返された。するとウンベルトは口の端ににこやかな笑みを浮かべる。そして優しげにパーキンの手を取った。


「返せる? それは良かった。ではさっそく商館に支払いに来てくれるかね?」


 鮮やかに逃げ道が塞がれる。だが金細工師の財布にはいくらも入っていないはずだった。どこから金を捻出するつもりだろうと見守っていると、パーキンは汗のしたたる汚い顔に精いっぱいの愛想笑いを浮かべて言った。


「あっ、えっと……その、返せるんですけど今すぐにってわけではなくて……。その、もう一年、なんとか待っていただけたらなって……」

「それは前回も前々回もぜんぜんぜん回もぜんぜんぜんぜん回も聞いたのだが!?」

「いや、ほんとに! ほんとのほんとに一年後なら返せそうなんですって!」

「温厚な私もそろそろ我慢の限界だよ! いっそ君を人買いに売りつけたほうがまだ金になるのではないかな!? これ以上は待てる気がしないし、本当にそうさせてもらおうか!?」

「ひええーッ! お、落ち着いてください旦那様! 人身売買は法的にアウトです!」

「借金踏み倒しも法的にアウトだ! わかっているのか君は!」


 ウンベルトはぜいぜいと荒くなった呼吸を整える。しばしの間を置き、彼は「まあいい」と本題を切り出した。


「私も昔馴染の君をあまり酷い目に遭わせたくない。しかしね、借りたものはきちんと返してくれなくては。金がないなら成果物で構わんのだ。それを作り出す技術でもいい。一文無しの君にだって提供できるものがあるだろう?」

「……は? えっ、成果物? 技術?」


 ウンベルトの言葉が飲み込めず、パーキンはきょとんと瞬きする。つまりだ、と男はわかりやすく補足した。


「君の開発した印刷機と君の一番弟子の雇用権。この二つをアミクスに譲ってくれるなら借金はなかったことにしてやろう――そう言っている。どうだね、なかなかいい話だと思わないかい?」


 驚いたのはルディアたちだ。印刷機をよこせだと、と提案に顔をしかめる。


「ちょ、待った待った! パーキンは俺らとも約束があんだよ。あんたに全部持っていかれるのは困る」


 咄嗟に飛び出した槍兵に男はムッと細い眉を吊り上げた。


「なんだね君は? 急に話に割り込んできて」

「だから、パーキンはこれから俺らと出資者のもとに向かうんだって。そいつの言った通り一年後ならある程度の金はできてると思うから……」

「ほう? 新しい財布が見つかったか? だがこちらの知ったことではないな。行きたければ負債をすっきり清算して旅立てばいいだけだ。さっきも言ったがこれ以上は待てんのだよ。この男が借りた金を返すことはないと私は悟った! 誰がなんと言おうと弟子と印刷機はアミクスに提出してもらう!」

「え、ええーっ! ネッドはともかくアレキサンダー三号はちょっと……!」


 ウンベルトの差し押さえ命令にパーキンも抵抗の姿勢を示す。しかし悟りの境地に達した男は金細工師の訴えになど聞く耳を持たなかった。


「印刷機を取られたくなかったら今日中に借金を返済しろ! 文句があるなら裁判だ!」

「きょ、今日中って!? ウンベルトの旦那、ちょっと生き急ぎすぎじゃないですか!?」


 法廷で勝てるはずのないパーキンが喚き立てる。参考までに「いくら借りたんだ?」と尋ねたルディアに返されたのは目の前が暗くなる数字だった。


「えーっと、その……パ、パトリア金貨一万枚?」

「パ、パトリア金貨一万枚!?!?」


 くらくらする。ローガン・ショックリーへの債務は帳消しにしてやったのに、まだそんな大物が残っていたなんて。五十万ウェルスまでなら助けてやるかと宝石袋を開きかけていたレイモンドも手を止めた。ウンベルトは穏やかな声で「肩代わりできないなら口出ししないでもらおう」と告げる。反論できる者は誰一人いなかった。

 パトリア金貨一万枚――つまり一千万ウェルス。この辺りの通貨で言えば、二千六百万レグネだ。聖堂が一つ建てられそうな額ではないか。船だって乗員つきで一、二隻、大型帆船を新造できるかもしれない。

 ここに来てなんという展開だ。目聡く印刷機を見つけたウンベルトは「おお! これが可愛いアレキサンダー三号か! 主人の代わりにこれからよーく働いてくれよ」と頬ずりしてみせる。

 ――情けない。実に情けない。少しはあの人の愛したアクアレイアのために役立ってから死ねるかと思ったのに、レイモンドにも無用の苦労をさせたのに、こんなことで、こんなところで諦めなくてはならないとは。


「……オリヤン。返済期限を一年として、いくらまでなら私に貸せる?」

「なっ!? ブ、ブルーノ君、パーキンを助けてやるつもりかね!?」


 ルディアの問いに亜麻紙商が声を引っ繰り返す。それでも律儀にオリヤンは「二百……、いや二百五十万ウェルスまでならなんとか」と答えた。

 金持ちのくせに辛口なのは設備投資で一時的に蓄えが減っているからだろう。そんな事情など知らぬパーキンは「一千万くらいぽんとお願いしますよォ!」とオリヤンに泣きついた。


「おや? その道化じみた顔の傷はひょっとして……。パーキン、なんだってそんな男と一緒にいるんだい? まさかイェンスにまで借金したとか言わないだろうね?」


 あからさまに侮蔑のこもったウンベルトの眼差しが亜麻紙商に向けられる。オリヤンが一歩引っ込んだのはやはりそういう理由かとルディアは秘かに眉をしかめた。厄介者のイェンス一派とアミクス重鎮が仲良しこよしのはずがない。これ以上話がこじれなければいいのだが。


「イェンスに借金!? いやいや、さすがの俺もそれはありませんって!」


 金細工師は大焦りでウンベルトの邪推を否定した。ギャラリーと化した人々は突然飛び出したイェンスの名にざわついている。彼らは生来呪いを受けた者を見る目でパーキンを見やり、「疫病神と疫病神ってお互い引き寄せ合うんだな……」「俺はいつかそうなるんじゃないかと思ってたぜ」などと囁き合った。


「いやいや、だから誤解だって! たまたま拾ってもらった相手がイェンスの元右腕とせがれだったっていうだけで、俺とイェンスに直接の関係は」

「何? イェンスのせがれ?」

「ええ、この背の高い金髪のがそうですよ!」

「ちょっ、おまっ……」


 なんだかまた妙な流れになってきた。ウンベルトはパーキンの手に引っ張り出された槍兵の顔をまじまじと覗き込む。彼はイェンスとも面識があるらしく、よく似た風貌のレイモンドに多少ならず驚いた様子だった。


「これは確かに、毛皮を着せて髪を伸ばせばそっくりになりそうだ。だが奴に子供がいるなど聞いたこともないぞ。君、本当にイェンスの息子なのかね?」


 問われて槍兵は答え淀んだ。事実そうでも簡単に頷けないことはある。他人の心情に鈍感な金細工師は「嘘じゃないです! こいつコーストフォートまでイェンスの船で来たんですよ! アクアレイア育ちなもんで、今まで噂にならなかったんじゃないですか?」とあっさり暴露してくれたが。


「ほう、アクアレイア育ち? なるほど、なるほど」


 ウンベルトは嫌な感じの笑みを浮かべる。唇に人差し指を当て、彼はしばし黙考した。


「ふむ、今日の私は幸運に恵まれているようだ。君、お父上ならパトリア金貨一万枚――君のところで言う一千万ウェルス、出せるんじゃあないのかね?」

「えっ?」

「ちょうどほかにもイェンスと話したいことがある。もし君が彼にパーキンの借金返済を頼むなら私も同行して交渉するが、どうだろう?」


 思わぬ問いにレイモンドはたじろいだ。当然だ。そんな大きな借りを作れば付き合いも長引くことになる。やっと終わりにできそうなのに受け入れられる提案ではなかった。


「あ、あいつに肩代わりを頼む……?」


 だというのにレイモンドはなぜかすぐに断らない。それどころかウンベルトに「金が払えりゃ印刷機も弟子もこっちのもんってことでいいのか?」などと尋ねる。


「レイモンド!」


 思わずルディアは戸口の槍兵に駆け寄った。これ以上お前が耐え忍ぶことはないと首を振る。

 だがレイモンドはこちらを無視して話を進めた。「もちろんネッドはこの工房に送り返すとも! アミクスとしても即金のほうが好ましいしね」との返答に拳を固め、勝手に決断してしまう。


「……わかった。一千万ウェルス出してもらえねーか、あいつに聞いてみる」


 腕を引き、「レイモンド!」と諌めたルディアに槍兵は「いいんだ」と笑った。


「とにかくアクアレイアにアレキサンダー三号を持って帰らなくちゃだろ?」

「だからそれはお前に負担をかけてまで果たすことでは」

「果たすことだよ。あんたあの印刷機のほかに、明るい未来の話したことねーじゃんか」


 本当にいいんだと押し切られる。食い下がろうとしたけれど「恩に着ます! レイモンド様ぁ!」と突進してきたパーキンに跳ね飛ばされ、ルディアは一歩後退した。

 ウンベルトはにこにこと「善は急げだ。さっそく行こう」と槍兵を急かす。少額請求に訪れていた者たちや一番弟子の恋人は日を改めるように中年紳士に促され、一人また一人と引き揚げていった。


「……私も行こう。おそらくイェンス一人では足りない」


 眉間を押さえてオリヤンが深々と嘆息する。亜麻紙商は金の工面をするためにひと足先に工房を後にした。


「君も来たまえ、一番の当事者ではないか」

「ええっ!? イ、イェンスの船にですか!? ごじょうだ……グエエッ!」


 首根っこを掴まれたパーキンもウンベルトに引きずられていく。「の、喉絞めないでくださいよォ!」と哀願する声は次第に地上に遠ざかった。

 ほんの一瞬、ランタンが燃える薄暗闇にルディアとレイモンドは二人きりになる。陽光差し込む階段を仰いで槍兵は微笑んだ。


「……じゃあちょっと行ってくるわ。あんたは印刷機の番を頼む」

「いや、私も一緒に」

「いいからあんたはここでデートの行き先でも考えといてくれって。……額が額だし、頭下げることになるだろうし、あんま見られたくねーんだよ」


 困り顔で告げられて「だったらお前も行くな」と睨む。もはや主従でもないのにそんな献身は不要だと。


「今ならオリヤンの目もないし、イェンスに会わずにコーストフォートを出発できる」

「……戻ってきたらぱーっとやろうぜ! この五十万ウェルス、全然残らねーかもだけど」


 レイモンドは最後まで笑顔を崩さなかった。止める間もなくルディアを振り切り、階段を駆け上がっていってしまう。

 ――馬鹿者が。

 苦々しく舌打ちし、唇を噛む。どうしてなんて、本当は考えるまでもないのかもしれない。





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