第2章 その4
いい夜を過ごした翌日はいい朝が来るものと昔から決まっている。すっかりアルフレッド一行と打ち解けたウァーリとダレエンは、久しぶりに大人数での和気あいあいとした食事のひとときを楽しんだ。
利害抜きの関係は安楽でいい。陽気に慈しみ合うことができる。排他的だと言われるロマなのに「どうせしばらくこの村にいるし、私たちも化け物探すの手伝おうか?」とフェイヤに尋ねられたときはほっこりしてしまった。バカ狼はいつも通りのマイペースで「それは助かる。しかし俺より先に手を出すなよ」などと応じていたが。
少し遅めの朝食の後、ウァーリたちは二人一組になって村を回ることにした。ジェレムとトゥーネは留守番だ。彼らは頭が痛いそうで、しばらく横になっていたいらしい。
「昨日のうちに村の南半分は調べたのよ」
ウァーリが伝えるとダレエンも続ける。
「果樹園に林檎の木が植わっているだけで目ぼしいものはなかったがな」
そう聞いてなるほどとフェイヤたちが頷いた。
「それじゃ今日は北半分だね」
「ああ、俺とフェイヤはあっちの粉ひき小屋のほうに回ろうか」
北西に広がる田園跡を指差してアルフレッドが言う。
「だったらあたしたちはあっちね」
そうウァーリは北東のブナ林と牧場跡を振り返った。ダレエンも「人面獣を見つけたらすぐ大声で呼んでくれ」と頼む。
「病気が流行ったのは冬だそうだから一応もう平気とは思うが、変なものには触らないようにな! くれぐれも気をつけて!」
騎士と小さなお姫様とは一軒家の前で別れた。心から案じてくれる真摯な声に「ハーイ!」と返し、ウァーリは二人と反対方向へ歩き出す。
「ホントいい子だわ、アルフレッド君。ますます近習にしたさが募っちゃう」
「うむ。十年はしっかりとした鍛錬を続けている感じがするな。今のあの剣は短すぎるのか軽すぎるのか身体に合っていないようだが、本来はもう一段上の実力の持ち主だろう」
ダレエンがそんな高評価を下すとは珍しい。ウァーリは「まあ」と瞬きする。
「けどこの身体じゃジーアンには誘えないのよねえ。あーん、なんてもったいない!」
などと話していると、晴れた空に一羽の鷲が旋回するのが目に入った。偵察に先行させていた部下だ。あの鋭く曲がった黒いくちばしは間違いない。
「どうしたのかしらね? あたしたちが着くまでセイラリアにいるようにって言ったのに」
「聞いたほうが早い。おい、降りてこい!」
ダレエンが高く腕を差し出すと、気づいた鷲が舞い降りてくる。ウァーリはジーアン語の文字表を取り出し、猛禽の爪に順番に示させた。
「この村……、牧場……、ハイランバオス……!?」
聖預言者の名を読み上げた途端、狼男の目つきが変わる。報告によれば彼はセイラリアの大学図書館に数日入り浸ったのち、つい先程この北の牧場にある畜舎に入っていったそうである。
「……!」
ウァーリはダレエンと目を見合わせた。まさか人面獣より先にあの男と遭遇することになるとは。
「急ぐぞ」と狼男が走り出す。ウァーリもその後に続いた。
(ハイランバオス……!)
いまだにそれを敵の名前と認識しきれないでいるのは己だけなのだろうか。ジーアン帝国は裏切り者に容赦しないが、蟲の中から離反者が出たのは今回が初めてだ。
千年間、自分たちはただの人間にならあっさりと冷酷になれた。しかし真の同胞に対してはどうだろう。疑わしいとされたラオタオでさえそのまま十将に据え置かれているくらいである。皆まだ半信半疑なのでないか。
(見極めなくちゃ。本当にもうハイランバオスにあたしたちのもとへ帰る気はないのか)
突きつけられた敵対宣言も、尽きかけている寿命の話も、冗談ですと言ってほしかった。いつもの余興の演出でちょっとやりすぎちゃいましたねと。
そうでなければ崩れてしまう。何百年と信じてきた固い絆が断ち切れたら、ジーアンはばらばらになってしまう。
(確かめなくちゃ何も進まない。わかってるつもりだけど、やっぱり気が重いわね)
先延ばしにもできないが、いい方向には転がるまいと感じているだけに尚更。この直感が正しくないことを祈るしかできない。
(普通じゃないわよ。あの人を輝かせるために、自分は敵になりますだなんて……)
戦闘態勢を整えつつウァーリたちは牧場跡に駆け急いだ。果樹や畑を横切る畦道がやけに長く感じられる。
戦いたくないと嫌がる己の心には、見て見ぬふりをするしかなかった。
******
「ただいま帰りました。アイリーン、蟲たちの世話をありがとうございます!」
ハイランバオスの挨拶に彼女がハッと振り返る。か弱き女研究者はそれでも文句の一つくらい浴びせてやる気になったのか「今までどこで何をしてきたんです!?」と金切り声で怒鳴りつけた。
答える意味も義務もない問いなど無視してハイランバオスはぐるりと畜舎を一瞥する。ある程度成育したものは瓶に移し替えておくように命じていたので今ここには数頭の獣が残るのみだった。これなら一時間とかからず中身を回収できそうである。
「ねえアイリーン、あなたは確かジーアンに辿り着く前に、北パトリアを放浪したこともあるんですよね?」
土埃で汚れた女に微笑みかける。出し抜けの質問に彼女は「はい?」と首を傾げた。
「何年かこの辺りで暮らしたことがあるんでしょう?」
「え、ええ。さすらっただけで全然住みつけはしなかったですけど……」
うんうんとハイランバオスはにこやかに頷く。「それじゃあ北辺海沿岸に足が太くて短めの、草原にいるような鷲っています?」と尋ねれば、彼女は真意を測りかねつつ「えっ? いえ」と首を振った。
「この辺りだとイヌワシとか、白い尾のパトリアワシくらいかと……。それがどうかしたんですか?」
アイリーンからすればわけのわからない問いかけだろう。しかしこちらにはその返答で十分だ。自分の置かれた状況も、これから取るべき対応も、すべて手に取るようにわかる。
「これだから駄目なんですよ、英雄の馬に相乗りしてきただけの馬鹿者たちは。千年の知恵を持つくせに、これっぽっちも利口にならない」
独白にアイリーンはますます困惑を強めた。それも気にせずハイランバオスは不満を噴出し続ける。
「直視できないんですね、仲間の裏切りも運命の裏切りも! だから今までと同じ感覚で少ない余命を浪費するし、追跡手段を工夫することも思いつかない。蟲について知り尽くした私に差し向ける追手ですよ? まともに頭を働かせていれば、もっと別の器を用意するはずですがねえ」
ああ情けない、とハイランバオスは吐き捨てた。たかが千年程度では生まれ持った資質に躍進など見られないらしい。あの素晴らしい存在のひとかけらでありながら、まったく彼らは搾りかすだ。
「お、お、追手!? 追手ってまさかジーアンのですか!?」
「ええ。ですのでアイリーン、速やかにここを発つ準備をしてください。荷物はまとめて馬の背中に。脳蟲本体と研究ノートさえ持ち出してくだされば結構です。ふふっ、捕まればあなたもただでは済みませんからね。手際良くお願いしますよ?」
うろたえるアイリーンに「私は彼らの相手をしてきます」と微笑む。可愛い猛獣たちの檻を開け放つべくハイランバオスは畜舎を出た。
(しかしまあ、少しは楽しくなってきました)
我が君は絶望のあまり今も床に伏せていると聞く。太陽が再び空に昇るまでの、前哨戦と思えば詩の一篇くらいにはなるだろう。最高潮を迎えるためにはまだ少し素材に欠ける感があるが。
(コナーのような刺激的な人物と巡り会えれば万々歳なんですけどねえ)
足早に穀物塔の螺旋階段を上りながらひとりごちる。保管庫の鉄柵の向こうには爛々と光るいくつもの獰猛な目が並んでいた。
******
牧場跡へ抜ける長いブナ林の、中ほどまで駆けたところでウァーリは思わぬ衝撃を受けた。前を走っていたダレエンが突然足を止めたのだ。逞しい背中に激しくぶつかり、ウァーリは脇に跳ね飛ばされた。
「ちょっともう、なんで急に道塞ぐのよ!?」
抗議の声を上げたものの発言は腕で制される。ダレエンは無言のままスッと曲がり角の先を指差した。
「おい、あそこの動物なんに見える?」
「え?」
問われて茂みに目をやって、ウァーリは声を失った。ハイランバオスが潜伏中だと聞いたのに立っていたのは熊だったのだ。それも巨大なグリズリーで、奇怪なことに若い娘の顔面が張りついている。本来ならば鋭い牙や濡れた鼻、黒い双眸があるべき場所に。
「はっ? えっ? な、何あれ……!?」
のっそりと近づいてくる人面熊はどう見ても巷で噂の化け物だった。つぶらな瞳がまっすぐにウァーリたちを見つめてくる。出くわした熊に対する危機感より不自然な造形への不気味さが勝った。「今はそれどころじゃないんだがな」と嘆息するダレエンの横でうっぷと朝食をもどしかける。
「やだやだ、ちょっと、無理、グロい!」
早くやっつけちゃってとウァーリは狼男の肩を押した。だが次の瞬間、林に響いた明るい声に怪物の存在など消し飛んでしまう。
「失礼ですねえ、こんなに可愛いマリリンにグロいだなんて! 彼女が傷つくじゃないですか」
声の主は顔を見ずとも推測できた。予想に違わずグリズリーの巨体の陰からディラン・ストーンの姿をしたハイランバオスが現れる。
「長い時間を生きているとだんだん鈍ってくるんですかね。勝つのが当たり前になって、どんなことで足元が引っ繰り返るかもう忘れてしまいましたか? あなたたちは傲慢だとは思いませんが、怠慢になっているとは思いますよ」
薔薇色の頬の青年がにこりと笑いかけてくる。どういう忠告なのかわからず、ウァーリはその場に身構えた。
「ハイランバオス……! なぜ俺たちを、ヘウンバオスを裏切った?」
「あっ! そのストレートな質問ぶりはダレエンでしょう!? 女装しているところを見ると、そちらはウァーリですね。
こんな僻地に十将が狩り出されるなんてジーアンも相当混乱しているみたいです。生まれて百年、二百年の若い蟲たちが暴動でも起こしましたか? 十将もさぞや意見が割れたことでしょう。まだレンムレン湖を探すべきか、残った時間を己のために使うべきか。
けれど結局自分たちでは決めきれなかったのではありませんか? これまでずっと我が君が先頭を駆けてきましたからね。あなたたちでは現状維持を選択するのが精いっぱいだったかなと思います。まあ意思決定のふりくらいはしたのかもしれませんが!」
問いには答えずハイランバオスは気ままに喋る。帝国の現状はほとんど彼の言った通りだった。婉曲に天帝以外全員無能と罵られ、ぐっと歯を食いしばる。
「俺たちの寿命が尽きかけているというのは本当か? その熊の化け物はなんだ? どうやって手懐けた? ――アークとやらに関係のあることなのか?」
煽りを無視したダレエンの、どの疑問にも回答は与えられなかった。預言者の変わらぬ微笑に緊迫感は否応なく増す。業を煮やした狼男は腰の短刀に手を伸ばした。
「ちょ、ちょっとダレエン! 少しは穏便に……」
「穏便に? 寝ぼけたことを。穏便にやってあいつを捕まえられるものか!」
「あはっ! あなたのそういう率直なところ、好きですよ。我々は皆とっても仲良しでしたし、もしかすると私を敵だと思えないお間抜けさんが続出するかと心配していたんですが、ダレエンは切り替えが早くって助かります。そう、知りたいことは力ずくで聞いてください! 私も簡単には捕まってあげませんが!」
短刀の刃が閃くと同時、ハイランバオスが人面熊の尻を叩く。合図を受けた怪物はバウッと吠えてダレエンに飛びかかった。
「マリリンに入っている脳蟲は、愛情を持って飼育した猟犬に寄生させたものです。私の命令ならなんだって聞きますよ! 性格も我慢強くて勇敢です!」
けしかけられたグリズリーの体当たりを狼男は腕を使ったジャンプでかわす。図体に似合わぬ俊敏さで怪物は再度ダレエンに襲いかかった。
「……ッ!」
「ダレエン!」
加勢してやらねばなるまい。だがハイランバオスから目を離すわけにもいかない。彼の手にはクロスボウが握られており、矢も装填済みだったからだ。
こうして直接対峙して、ウァーリにもようやく実感が生まれた。彼がもはや昔の彼とは違うということ。自分の知っている詩人ではないこと。
「あはは! 上手くかわしますねえ! でも避けるだけではお得意の狼戦法が使えないのではないですか? マリリンを消耗させるどころかあなたのほうが疲労困憊していきますよ? やはり本物の獣のほうがスタミナは上ですからね!」
宴会芸でも楽しむように聖預言者は声を立てて笑う。ダレエンに向け、弩が構えられるのを見てウァーリは咄嗟に足元の小石を蹴りつけた。顔のすぐ横に飛んできたそれをキャッチしてハイランバオスは眉をしかめる。
「……なんですか、この石ころは? 殺し合いをしてるんだってあなたは理解していないんですか?」
底冷えする目がこちらを見つめた。「何年生きても馬鹿は馬鹿のままですね」との言葉に心臓まで凍らされる。
「あの方の手となり足となるべき直臣がこの体たらくとは嘆かわしい限りです。まああなたの場合、大勢の蟲に慕われているのを買われて十将に選ばれただけですから、多少頭が鈍くても仕方ありませんが。あなた以外の蟲たちも、突出した者なんてほんのわずかですしねえ」
大仰に嘆息するとハイランバオスは「あっ、でも!」と笑顔を取り戻した。きらきらと輝く瞳が未来を語る。彼にとっては喜びに満ちた、こちらにとっては暗澹たる詩人の構想を。
「役立たずでも死ねばあの方の涙を誘うかもしれません! あの方は身内にはどこまでもお優しいですから!」
卒倒しそうだった。初めて味わう不快感に爪の先まで悪寒が駆ける。
仲間だと信じた相手に、確かに家族だった相手に、見下され、格付けされ、呼び起こされたのは恐怖だった。
怒りではなく、憂いでもなく、彼には我々を殺せるのだという強い恐怖。
「ッ……!」
指笛を吹き、ウァーリは配下の鷲を呼んだ。「あの人面熊を倒すまで邪魔させないで!」とハイランバオスの威嚇を命じ、スカートの裾を捲くり上げる。
太腿に結わえつけたナイフを抜いて身構えた。猛毒の塗り込まれた特殊な刃だ。これなら灰色熊を仕留めるくらいわけはない。木々の生い茂る林の中で、ひっきりなしに駆け回る怪物に当てることができればの話だが。
「ダレエン、そいつの足を止めてちょうだい!」
ナイフを握るウァーリの姿が見えたのか、人面熊の猛攻を凌ぎつつ切り込む隙を窺っていた狼男の動きが変わる。跳躍し、ブナの白い枝に飛びついた彼は逆上がりの要領で一回転して勢いをつけ、遅れて飛び上がってきた熊の脳天に強烈な蹴りを叩き込んだ。
「さ、さすが!」
化け物がふらついたチャンスを逃さず助走をつけて飛びかかる。刃は背中の、ちょうど心臓の真下辺りに突き刺さった。
(やったわ! これで十秒もすれば動けなくなるはず!)
ダレエンはすぐさま跳び退いたウァーリの傍らに舞い戻った。不用意に獲物に接近しないのは彼の最初の宿主だった狼の習性だ。蟲は皆、初めの脳の影響をいつまでも受け続けるのである。
このときもダレエンはのたうつ熊を注視していた。ウァーリの隣で、前だけを見据えて。
「――」
風切り音が響いたのはそのときだ。何かがすぐ側を横切った。異変を察したウァーリが隣を見やるまでに、狩りは終わりを告げていた。
血塗れの男が地に伏せる。その肩は、鋭利な鷹の鉤爪によって鋭く深く切り裂かれていた。動かないダレエンの背に、鷹は悠々と翼を広げる。
どこかで見たことのある琥珀色だ。あれは確か、ラオタオの可愛がっていた――。
「ダ……っ」
役目を終えるとピュウと鳴き、鷹は主人のもとに舞い戻った。追い払われた鷲が代わりにウァーリのほうへと逃げてくる。
「残念でしたね。アクアレイアで山ほど調達できましたから、手持ちの脳蟲は多いんですよ。ほら、この子たちを見てください! マリリンは駄目になってしまいましたが、皆とっても元気です!」
ハイランバオスが指を鳴らすと灌木をがさがさ揺らして四頭の猛犬が現れた。こちらも彼お手製のキメラらしく、腕や足、胴体までもがつぎはぎで、色模様が異なっている。
「……ッ!」
腹立たしいことに大柄な闘犬ばかりだった。ナイフを使ってしまった自分に撃退できるとは思えない。
「行きなさい! ほかの仲間のいるところまで!」
全滅よりはましだろうとウァーリは配下を飛び立たせた。ハイランバオスはくすりと笑い、旅装の外套を翻す。
「ご武運をお祈りしますよ、ウァーリ。それではごきげんよう」
憎らしい台詞を吐いて聖預言者は牧場のほうへ歩き出した。傍らに転がった狼男は声もない。いくらなんでもあっさりやられすぎだと思ったら、爪に毒物が仕込まれていたようだ。ダレエンの負った傷は紫に変色しつつある。
(こっちのワンちゃんたちは無毒だと願うしかないわね)
ウァーリは腰を低く落とし、ブナの幹を背にして立つ。
彼の身体はもう駄目だろう。問題は本体が這い出す前に間に合うかどうかだ。
グルルと唸る犬どもを睨みつけ、ウァーリは拳を握りしめた。
******
指笛が聞こえたのは「あっちの林、変じゃない?」とフェイヤに尋ねられた直後だった。アルフレッドが振り向くと、何か大きな動物が暴れでもしているようにブナの木が揺れていた。盛んに木の葉を散らすのは一部の樹木だけなので突風ではないだろう。最初に頭をよぎったのは格闘の可能性だった。
「……ハニーさんとダーリンさんの向かった方角だ。もしかして、何かあったのかもしれない」
粉ひき小屋周辺の探索は打ち切り、アルフレッドはただちにブナ林に向かうことにする。フェイヤにはジェレムとトゥーネにしばらく家を出るなと伝えるように頼んだ。その後は彼女も二人と待っていてほしい、と。
「えっ? アルフレッド一人で行くの?」
「ああ、そのほうがいい。野獣だの盗賊だのと鉢合わせしたんだったら戦える人間だけが駆けつけるべきだ」
「でも、もしアルフレッドに何かあったら」
「平気だよ。怪我をしたって大抵の処置は自分でできる。遅すぎると思ったらジェレムの判断を仰いでくれ」
案じる少女に平時と同じトーンの声で言い聞かせる。「行こう」と小さな手を取ってアルフレッドは駆け出した。さっき来た道を引き返し、農家近くの畦道でフェイヤと別れる。「気をつけてね!」と声だけが背を追ってきた。
(何か妙な空気だな)
前方に迫るブナ林に目を凝らし、アルフレッドは眉を寄せる。耳を澄ませばグオーンと野犬のものらしき鳴き声が聞こえた。吹きつける風にも血の臭いが混じっている。悪臭は走れば走るほど濃くなった。
(なんだ? 何があったんだ?)
嫌な予感がして先を急ぐ。緑の小路に差しかかってすぐアルフレッドは息を飲んだ。
「な……っ」
林には信じられない光景が広がっていた。ダーリンさんがうつ伏せに倒れ、その側に大型の犬が一頭転がっている。髪を乱し、噛まれた右肩を庇いながら残る三頭と向かい合うのはハニーさんだ。彼女の手にはダーリンさんの短刀が握られていたが、力はほとんど入っていなさそうだった。
「ハニーさん!」
剣を抜き、彼女に飛びかからんとした狂犬の一頭を薙ぎ払う。獣は白い腹を見せて引っ繰り返り、キャウンキャウンと悲鳴を上げた。
「アルフレッド君!」
「大丈夫か!?」
「あたしは平気、でも……!」
ハニーさんは悔しげに唇を噛む。視線の先の連れ合いはぴくりとも動かず、呼吸をしているようにも見えなかった。思わず「ダーリンさんは?」と尋ねたアルフレッドに彼女は無言で首を振る。
「とにかくさっさとクソ犬どもを追い払うわよ! 手伝ってくれる!?」
「わかっ――こ、こいつらは一体……!?」
改めて狂犬たちを前にしてアルフレッドは慄然とした。彼らは前脚も後脚も胴体も尻尾も一つとして「揃って」いないのだ。異なる犬種の異なるパーツが繋ぎ合わされ、一頭の犬を形作っているのである。
(ま、魔獣……?)
見覚えがあった。こういうモノには。初めて出会ったときのアンバーがそうだった。彼女は最初、上半身が若い女で下半身が駝鳥という異様な風体をしていたのだ。
(だがもうキメラを造っていたロバータ・オールドリッチはいないのに……)
「アルフレッド君、避けて!」
ハニーさんの声にハッとして横に飛ぶ。鋭い牙を剥き出しにして向かいくる敵に一閃を浴びせると、視界の端に奇妙な熊が映り込んだ。苦悶に満ちた表情を浮かべる女面のグリズリーが。
(え!?)
驚きのあまり二度見する。つぎはぎ犬だけでなく人面獣までいたのかと。
だが今はそんなことに気を取られている場合ではない。一刻も早くダーリンさんを介抱するためにこの状況をなんとかせねば。アルフレッドはきつく唇を引き結び、まだ一撃も食らわせていなかった最後の一頭に切りかかった。
「キャウッ! キャウンキャウウン!」
手負いの三頭では敵わないと悟ったか、つぎはぎ犬どもは我先にブナ林から逃げていく。後には作りものめいた犬の骸と熊の骸が一体ずつ残された。
「……ッ!」
片がつくや、ハニーさんはアルフレッドに見向きもしないでダーリンさんのもとに駆け寄る。連れ合いを抱き起こす彼女の横に膝をつき、こちらも手当てに参加した。
「……酷いな。この肩の傷は毒か? 毒爪を持った熊や犬なんて聞いたこともないが……」
出血は既に止まっていた。心臓が止まったために血も巡らなくなったのだ。ダーリンさんほどの使い手を死に至らしめるなど、この熊はどんな凶暴な相手だったのだろう。
「やだ、水筒割れちゃってる……!」
逼迫した声にアルフレッドは顔を上げた。「す、水筒?」と思わず眉間にしわを寄せる。避けられない悲劇を前にハニーさんは錯乱してしまったのだろうか。急に水筒の状態など気にしだすなんて。
「ねえアルフレッド君、水筒持ってない!? 今すぐに水がいるの。できれば塩水がいいんだけど……」
コップ一杯でいいから取ってきて、と彼女は必死に訴える。治療に関係ないぞと諭してもパニックが悪化しそうなので「わかった、水だな?」と頷いた。
もしかしたら死に水を取ってやりたいのかもしれない。それにしては塩水だなんて不可解なものを要求するが。
「これで足りるか?」
疑問を消せないままアルフレッドは懐の小瓶を取り出した。アクアレイアを出る際に持ってきた王国湾の海水だ。できればルディアに会うまでは保持しておきたかったのだが、緊急事態だ。仕方あるまい。
「……! あ、ありがとう!」
引ったくるように小瓶を奪うとハニーさんはダーリンさんの涙袋にそっと指を添えた。理解の及ばぬ行動にアルフレッドは疑問符を浮かべる。
だが謎はすぐに解けた。ダーリンさんの目に涙がせり上がってくるのを見て――それが涙ではなく固体の何かであるのに気がついて、点と点が一本の線で繋がったのだ。あたかも天の啓示のごとく。
「――……」
アイリーンに聞いた話では、ジーアン帝国上層部は蟲の巣窟なのだという。天帝も、十将も、ハイランバオスも、アクアレイアに棲む脳蟲とは別種だが、極めて近い性質の生き物なのだと。彼らもまた、死体に取りつき、器を変え、人とは違う時間を生きているのだと。
「……今何を入れたんだ? ちょっと見せてくれないか?」
蟲に見える透明な何かをハニーさんが封じてすぐアルフレッドは問いかけた。今度はこちらがガラス瓶に手を伸ばす番だった。
彼女は少しためらったが、「何もしないで返してね?」と小瓶をそっと渡してくる。受け取ったそれを眼前にかざし、アルフレッドは息を飲んだ。
やはり違う。線型をしたアクアレイアの蟲ではない。袋型の丸い虫だ。
「……あなたたちはジーアン人か?」
去年の夏に覚えたばかりのジーアン語で問う。するとハニーさんは「えっ? もしかしてあなたもだったの? 誰が回してくれた応援?」と目を輝かせた。けれどこちらの硬い表情を見て彼女はすぐに己の勘違いに気づく。そして今更思い出したという顔で「そうだ……。あなた天帝の誕生日祝いの席にいた……」と零し、それきり口をつぐんでしまった。
「…………」
「…………」
長い沈黙が訪れる。互いの視線はこの状況と互いの腹とを探り合った。
顔に出さない努力はしているようだったが、彼女がアルフレッドの握る小瓶を気にしているのは明らかだ。これをルディアの手に渡せたら、きっと彼女がアクアレイアにいいように取り計らってくれるだろう。だがしかし。
「……!」
そうこうする間に横たわっていた犬の耳からも脳蟲がのたのた這い上がってくる。小瓶を手に掴んだままアルフレッドは骸の前に跪いた。
こちらは馴染みある線虫タイプだ。だが保管に使える道具が残っておらず、見る間に黒く崩れてしまう。
「……何があったんだ?」
この北の地で、よくわからないことが起きている。答え渋る彼女に向き直り、アルフレッドは小瓶を差し出した。惨劇の詳細については語らず、ハニーさんはただ「返してくれるの?」と目を丸くする。
「一度とはいえ手合わせを頼んだ相手に礼を欠きたくない。それに女性にそうつらそうな目をされるとな」
彼女が同胞を懐にしまい込むとアルフレッドはハンカチと傷薬を取り出した。「手当てをしよう」と申し出るが、なぜかぱちくり瞬きされる。
「え? 手当てってあたしの?」
「ほかに誰がいるんだ。肩もそうだが足もやられているだろう」
大真面目なアルフレッドにハニーさんはぶふっと盛大に噴き出した。どうもツボに入ったらしく、しばらくの間笑われ続ける。
「あっはっは、あなた本当にいい子ねえ! でもこれくらい、一人でなんとかできるわよ」
痛むだろう肩を押さえて彼女はすっくと立ち上がった。肌の汚れもスカートの破れも構わずに、背筋を正してこちらを見つめる。
「我が名はウァーリ。貴殿に救われたダレエンともどもジーアン十将の一人である。礼には礼を尽くすのが武人というもの。――この恩は、いずれ必ず」
深々と一礼し、ウァーリはこちらに背を向けた。左足をやや引きずりながら彼女はブナ林を去っていく。
(ジ、ジーアン十将)
あの二人、実は大物だったらしい。何を取り逃がしているのだとルディアに後でどやされそうだなとアルフレッドは苦笑した。
北パトリアでジーアン人と脳蟲キメラに出くわした。これだけでも十分注目に値する情報だ。
後はルディアがいつも通り、分析と指針を与えてくれればいいけれど。
******
幾重にも布でくるんだ瓶類がなおもガチャガチャ音を立てる。割れて脳蟲が死ぬのではないかとビクビクしつつアイリーンは馬を駆った。
「い、一体どこへ逃げるつもりなんですか? セイラリアの下宿には戻れないでしょう?」
「うーん、そうですねえ。どこに逃げましょうかねえ」
答えるハイランバオスはどこかのほほんとしている。危うく尻尾を掴まれるところだったのになぜこの人は平然としていられるのだろう。
「まああちらも深追いできないでしょうし、手近な街でいいのではないですか? そうだ、コーストフォートへ向かいましょう! あそこならストーン家の名前で入れてもらえそうな病院がありますし、死人が出れば実験したい放題ですよ!」
「……ッ!」
露ほどの道徳心も持ち合わせない聖者の言葉に青ざめる。本当に、問うべきことの答えを聞いたらさっさと縁を切らなくては。
馬の手綱を握りしめ、アイリーンは閑散とした道を南西に飛ばした。
目指す都市に役者は揃いつつあった。