第2章 その1
白い帆に目いっぱい風を受け、コグ船は北へと走る。航海は順調だ。この風ならば次の港にも予定通り着くだろう。
甲板に立ったイェンスは横たわる海を見つめ、よし、と右手を握り込んだ。コーストフォートにレイモンドを送り届けるまで残された時間は一ヶ月。親子で過ごせる時間は一秒も無駄にできない。腹を決め、船尾でぼんやりしている彼に近づく。風より読めない気分の持ち主は、今は比較的落ち着いているように見えた。
(大丈夫、普通に話しかけりゃいいんだ。大丈夫)
ディータスで宝石を買い与えて以来、レイモンドの態度はまた一変していた。にこにこ笑うのをやめて、低い声でぼそぼそと喋る。もちろん視線はほとんど合わない。スヴァンテはそれを「存分に大金をせしめたからだろ」と否定的に受け取っていたが、イェンスにはレイモンドが落ち込んでいるような気がしてならなかった。以前と違い、話しかければ返事はするし、無視や反発はしないからだ。食事以外の時間にも船内をぶらつくようになった。とはいえ彼が船員と交流を持とうとすることはなかったが。
「ブルーノはどうしたんだ? お前らいつも一緒なのに」
船縁に肘をつき、一人遠くを眺めるレイモンドに声をかける。すると息子は「いつも一緒じゃあっちも気ィつかうだろ」と寂しげに目を伏せた。
意外な返答にイェンスは瞬きする。もしかして彼の笑顔が引っ込んだ原因は己ではなくブルーノにあるのだろうか。てっきり己でも知らぬ間に失望させるようなことをしたのだと思い込んでいたのに。
「ど、どうしたんだ? 喧嘩でもしたか?」
「してねーよ」
きつく睨まれて一歩下がる。少し喋ってくれるようにはなったものの、踏み込みすぎると拒絶されるのは変わらないらしい。イェンスはとほほと秘かに肩を落とした。
「ところでさあ」
ブルーノの話題を打ち消すためか、珍しく息子のほうから話を広げてくる。レイモンドは白く泡立つ波の向こうに視線をやって問いかけた。
「なんか船団の船増えてねー?」
目聡い質問にイェンスは「ああ」と応じる。そういえば彼にはまだこの船の副業について教えていなかった。いい機会だし、話しておいてもいいだろう。
イェンス一行は毛皮商の一団としてアミクスに登録されている。だが毛皮の売買だけでは老後に十分備えられないし、不仲なアミクスともいつ決裂するかわからない。そういうわけで時々実入りの大きいアルバイトに手を出しているのである。
「俺らの後にくっついてきてる連中は――」
「船なんて増えちゃいねえよ! ありゃ全部俺らとは無関係の他人の船だ! こいつの近くをウロウロしてりゃ海賊に襲われる心配がねえから、ああやっていつも勝手に群がってくんだよ!」
と、藪から棒に割り込んできたスヴァンテが無理矢理話を終わらせてしまう。「おい」と眉を寄せるイェンスには構わず、副船長は「ちょっと船長借りてくぜ」とこちらの腕を引っ張った。レイモンドから遠ざけられ、イェンスは更に眉間に刻んだしわを濃くする。
「おい、なんだよ? せっかく二人で喋ってたのに……」
「いいから来いって、急ぎの用事だ!」
スヴァンテは強引に船長室へと突き進む。
「お前なあ、信用できるかわからない相手になんでもかんでも話すんじゃねえよ!」
扉を閉めるなりそう叱られてイェンスは唇を尖らせた。
「信用って、息子だぞ」
反論するもただちに溜め息を被せてこられる。「どこからアミクスに漏れるかわかんねえだろ?」との言葉には「とっくにバレバレだっての」とやり返した。だがスヴァンテは「それでも明言すんのは避けとけ」と慎重だ。
「これはお前個人じゃなくて俺ら全体の問題だぞ。わかってんのか?」
「…………」
「お前の息子はまだ『お客さん』なんだ。少なくとも俺たちにとってはな」
「…………」
正論すぎて言い返せない。黙り込むイェンスにスヴァンテは「わかったか? わかったら行ってよし」とどちらが年上かわからない台詞を吐く。渋々ながら頷けば扉は再び開け放たれた。
(なんだよ『お客さん』って……。最初は皆『イェンスの息子なら俺らの息子も同然だ』って言ってくれたのに)
すっきりしない胸を抱えてイェンスはレイモンドのもとへ引き返した。もう客室に戻ったかもと思ったが、一人船尾に佇む息子を見つけてホッとする。
「レイモンド!」
名前を呼んでも反応は薄い。しかしそんなことにはへこたれず、次の街には何日後に到着する予定だとか、特産品は王侯貴族が好んで羽織る豪奢な毛織物だとか、興味を持ってくれそうな話を捲くし立てた。
けれどディータスではあんなに熱心に耳を傾けてくれたレイモンドなのに、今回はかけらの関心もなさそうだ。「欲しい物ないのか?」と尋ねても「この間買ってもらった分だけでいいや」と淡白に返されるだけだった。
「……遠慮しなくていいんだぞ? 財布にはまだ余裕あるんだし」
イェンスは焦燥まじりに促した。金をかけてやるほかに、どんなことが父親らしい行為なのかわからないから必死だった。そんなこちらの心境を知ってか知らずかレイモンドは小さく首を横に振る。
「んなこと言ってたらまたあの副船長がすっ飛んでくるんじゃねーの?」
皮肉な笑みは彼が船内の微妙な空気に勘付いていることを告げていた。
「あ、いや」
思わず言葉を濁したイェンスに、レイモンドは「もう行けば? 俺も一人でぼーっとしてたいし」と零す。それは今までの拒絶に比べれば遥かに穏やかなものであったが、響きが柔らかいだけに受け入れるしか術がなく、イェンスはそっとその場を追い払われた。
「……えと、そんじゃまた、晩飯のときにな?」
「ああ、じゃあな」
「…………」
後ろ髪を引かれつつ船尾を離れる。足取りは重く、いつまでも背後の息子が気にかかった。
愕然としてしまう。飛び越えられない溝の深さに。
それでも近づく方法はあるはずだと、雪解けの日は来ると信じているけれど。
これでいいんだよなと嘆息し、レイモンドは海を見つめた。金銭を要求せず、邪険にもあしらわず、淡々と受け流していれば彼女に余計な心配をさせないで済むんだよなと。
(お前はいつも、金にはもっと敬意を払っていただろう――か)
ルディアの言葉を思い出すにつけ複雑な気分になる。彼女の指摘は正しいが、それは間違いでもあったから。
あんな男の懐から出た銀行証書を汗水流して得た給金と同じに扱えるわけがない。それが宝石に変わろうと、どぶの底に流されようとどうでも良かった。使われるべきときに使われなかった養育費など。
(大体どんな商売で貯めた金かもわかんねーしな)
レイモンドはコグ船の後方を行く十数隻もの帆船を見やる。アミクスの旗を掲げるのはイェンスの船だけで、後は全部ディータスの成金どもの船だった。あえて突っ込む気もないが不自然なことこのうえない。これだけの船が一斉に港を発つなんて、まるで初めから示し合わせていたようではないか。
(まあ別に、俺らにゃ関係ねー話だ)
かぶりを振って思考を散らす。冷静さを欠いている自覚はあった。ルディアの言う通り、いつもの自分らしくないと。
だからもう、なるべく何も考えないと決めたのだ。私怨に振り回されて一番大事なことを見失ってしまわないように。命を狙われ、自分自身も死ぬつもりでいるルディアのことを、今はとにかく守りきらなくてはならない。些末な己の事情など二の次だ。
(この船降りたら姫様がデートしてくれるって言ってたし、頑張るぞ)
大丈夫、それならお釣りがくるくらいだとささくれた心をなだめる。
コーストフォートに着いたら一日だけ楽しんで、サールリヴィス河を遡って、サールで皆と合流して。そうしたら今度は皆でルディアを説き伏せにかかろう。自分は偽者だ、甘んじて死を受け入れる、などとのたまう彼女を。
(アルたち今頃どうしてるかな。アイリーンと、カロの奴も……)
白い雲のたなびく空に目を細め、レイモンドは深々と息をついた。
カロが刃を収めてくれればいいのだが、どうすればあの男は踏みとどまってくれるのだろう。素直に勝負したのでは絶対に勝てない。ルディアに戦う気がない以上、皆と一緒になるまではなんとか遭遇を避けなければ――。
******
「ああっ! 待って、待って、外に出ちゃ駄目よぉ!」
どこの誰とも知れない中年男性の顔をした羊を畜舎に連れ戻し、アイリーンはふうと胸を撫で下ろした。「ごめんねえ、お日様の下に出たいだろうけど我慢してねえ」と謝るが「めええ」と答える人面羊に理解できた様子はない。彼の脳は人間のそれではなく、顔だけがつぎはぎされた状態なのだ。
「やっぱり家畜小屋に繋ぐんじゃなくて、穀物倉庫の檻に戻してあげたほうがいいのかしら……」
小窓から覗くレンガ塔を見上げ、アイリーンは重い息を吐く。あそこは暗いし、あまり身動きも取れないし、飼育環境的には最悪なのでなるべく使いたくないのだけれど。
「でもあなたたち、うっかり人に見られたら殺されちゃうかもしれないものね……」
畜舎をぐるりと一瞥し、残酷な光景に胸を痛める。廃村の牧場跡には脚だけ牧羊犬のヤギだとか、上半身がメスで下半身がオスの牛だとか、尻尾が蛇の犬だとか、頭と身体の模様が異なる猫だとか、山ほどキメラが溢れていた。
おぞましく哀れな化け物を生み出したのはハイランバオスだ。どんな目的があってのことか知らないが、あの聖者は一帯に人が寄りつかないのをいいことに非道な生物実験を繰り返しているのである。
「……だけど全部私に丸投げしたきりで、あの人どこへ行ったのかしら……」
魔獣鳴きやまぬ騒がしい畜舎にぽつりと零す。問題の男は廃村から姿を消し、どこへ行ったかまたわからなくなっていた。
アイリーンがハイランバオスの足取りを掴んだのは半月前、七月初旬のことである。数日後にはディラン・ストーンになりすましていた彼を見つけ出したものの、「よくこの隠れ家に来てくれましたね!」と逆に歓迎されて今に至る。聖預言者曰く、ちょうど脳蟲の世話に長けた人間が欲しかったそうだ。
今度こそあの人にアクアレイアを狙った真意を問おうと思っていたのに何をやっているのだろう。ここに来てから餌やりと水やりと干草運びと畜舎清掃に忙殺されて研究ノートも読み込めていない。あの人が脳蟲を使ってどんなことができるか調べているのは明らかなのに。
「はあ……」
吐き出した溜め息は深かった。金輪際あの人には従わない、崇めもしないし感謝もしない。そう決めたはずなのに、現実は上手く行かなくて。
(だけどハイランバオス様――いえ、ハイランバオスが戻ってくるまでこの子たちを放っておけないものね……)
食べ物をくれと口を突き出す動物たちに順番に飼料を与えて回る。こういう弱さを見抜かれていいように使われているのだとわかっていてもどうしようもなかった。元はと言えばバオス教の救貧院でも実験をやめられなかった自分が悪い。脳蟲の存在さえ知られなければ、彼らとてキメラに生まれつくことなどなかったのだから。
(そうよ、全部私が悪いのよ……)
ぐすんと大きく鼻を啜る。するとうっかり宙を舞う藁屑を吸い込んで激しくむせた。脳蟲たちは「おいおい、どうした」「大丈夫か?」「頼りないなあ」と言いたげにアイリーンを見つめてくる。
堪らなかった。アイリーンの間抜けさには気づけても、自分たちの置かれた環境の異常さには気づけない彼らが。前と少しも変わっていない情けない自分が。
どうしたらいいのだろう。どうしたらカロやルディアに償うことができるのだろう。今ですら個人的な興味でキメラたちに惹きつけられている愚か者なのに。
(こんなんじゃまたあの人に『変わらなくていいんですよ』って惑わされるわ)
付け込まれてしまう。そのままの自分でいいのだという甘い言葉に。
(それでずっと逃げ回ってきたんじゃない。あの街もこの街も自分には居場所がないって決めつけて、諦めて、挙句の果てにあんな宗教に引っかかって)
もういい加減にしなくては。もしまたハイランバオスの手を取ってしまったら、自分はきっと永遠にこのままだ。
******
同じ頃、苦悩する女のことなど露知らず、ハイランバオスは北辺海の中央に浮かぶフサルク島の廃墟と化した大神殿の奥にいた。
石材にはさほど恵まれていない土地なのに灰色の列柱は高く厳めしい。船をかたどった祭壇も素朴ながら力に満ちて、かつてここに集った人々の勇猛さを想起させた。
神像という神像が破壊されているのは威容を傷つけるためだろう。広範囲に及ぶ焦げ跡は聖殿がかつて敵対部族の襲撃に遭った事実をまざまざと物語っていた。
「ううん、やはり見つかりませんねえ……」
祭壇に安置されているはずの聖櫃を探し、ハイランバオスは奥の間を回る。しかし何度見ても、どこを見ても、アークは影も形もなかった。空っぽの船形祭壇の周囲には干乾びて割れた装飾水路が無残な姿を晒すのみである。
「まったくコナーも人が悪いです。知っていたなら教えてくださればいいものを」
実地調査に入る前に現地での聞き込みは済ませていた。だから聖殿がもぬけの殻ということは承知した上で来たのだが、それにしても酷い話だ。アークがなければ遺跡の価値など無いに等しい。せっかくレンムレン湖の有力な情報を得られると思ったのに、とんだ無駄足ではないか。
「となると今後どうしましょう。ひとまず脳蟲実験は続けるとして……」
むうんと頭を悩ませながらもう一度見渡した大神殿は、植物に侵食されてはいるが土に還るほど激しく風化はしていなかった。地元ルスカ族によれば聖域が放棄されたのはほんの四、五十年前のことだという。
『ご神体』と最高祭司になるはずだった少年がカーモス族の手に落ちて、彼がルスカ神に疎まれる存在となったため、神官たちは呪われた地を離れることにしたらしい。聖櫃がどこへ持ち去られたのか手がかりは何もなし。否、それを知っているだろう人間は一人だけ判明していたが、会うのはなかなか難しそうだった。
北辺人がこぞって恐れるイェンスという毛皮商。彼が生贄時代のあれこれを話してくれればカーモス族がアークをどこに捨てたか推測できるかもしれない。残骸とはいえ探し出す意味はあるはずだ。古き故郷、レンムレン湖にもあっただろう蟲産みの聖櫃が一体どこに埋もれたのか類推する材料として。
「ふむ。人事を尽くして天命を待つほかありませんかね。運命が私の味方なら進むべき道はきっと開かれるでしょう」
ハイランバオスは大きく頷いて踵を返した。これ以上こんなところに用事はないと指笛を吹き鳴らす。
「引き揚げますよ!」
ピュウ、とお利口な返事をしたのは琥珀の瞳と翼を持つ狩猟用の鷹だった。厚手の革手袋をはめた腕に硬い足をちょこんと乗せ、鷹は次なる指示を待つ。
「ふふ、せっかくですし少し寄り道して帰りますか? 実験場はアイリーンに任せておけば半月は安泰でしょうから」
ピイピイという疑問の声にハイランバオスは微笑を浮かべた。そんなに長く彼女を放っておいていいのかと案じているらしい。
「大丈夫、廃村のすぐ側までは戻りますよ。セイラリアで調べものがしたいんです。あの商都の大学になら北辺人の抗争についてパトリア側の資料が残っているかなと思って」
この返答に鷹も納得したようだ。ピュウピュウと喉を鳴らすと琥珀の猛禽は船着場を目指して飛び立った。――と同時、聴覚が別の鳥の羽音を捉える。
「…………」
しばし目と耳を澄ませたのち、ハイランバオスは陽光を受けて照り輝く森の大神殿を後にした。いまだ同胞の裏切りに動じているらしい古い仲間の、尾行の下手さに笑い出しそうになりながら。




