第1章 その5
「あのフスとかいうのはなんなのだ?」
そう問うたルディアにオリヤンはかぶりを振った。イェンスとは付き合いの古い亜麻紙商にも『右手』の正体は定かでないらしい。「何と言われても、遠い時代の祭司としか」と不足すぎる説明が返される。
待っていてくれと言われて素直に待つ間にレイモンドが船を降りてしまったのでルディアはコグ船に様子を見にきたオリヤンを客室で質問攻めにしていた。フスは危険なものではないのか、手品の類ではないのか、レイモンドや周りの人間に悪い影響はないのか、矢継ぎ早の問いかけに亜麻紙商は押され気味だ。
「とりあえず普通にしていれば実害はないよ。あれ自体はそう大それたことをしでかすわけじゃない。航海の難所で進路を指し示したり、敵の足首を掴んで転ばせたりする程度だ」
我々は一種の守護霊と捉えているとオリヤンは言う。あの右手が消えたとき、イェンスの命も尽きるのだろうと。
「どういうことだ?」
「私も詳しくは知らないが、昔のフスは鼻から下の全身が見えていたそうだよ。イェンスは彼のおかげで生き延びたと言っているし、フスがイェンスを守ってきたと考えるのが自然だろう。でなければあれほど重い呪いを抱えて何十年も過ごせまい」
きっぱりと断言され、ルディアはしばし沈黙した。霊的なものの一切を否定するわけではないが、やはりどこか腑に落ちなくて。
所詮神話など神格化された歴史に過ぎない。語り継がれるうちに誇張された話にいかほどの信憑性があるだろう。神々にせよ怪物にせよ、結局その正体は祀り上げられた古代の英雄か、でなければ擬人化された自然の力のどちらかだ。そんなものの呪いがどうとか言われてもすぐに信じる気にはなれなかった。
(大体レイモンドがあの首飾りをつけ始めたのはこの冬の話だぞ? それまでお守りが側になくても特に何事もなかったが)
渋い表情のルディアを見やり、何か勘違いしたのだろう。オリヤンが優しい声で「怖くなったかい?」と尋ねてくる。
「君だけでも私の船に戻るかね?」
「いや、いい。別に恐れてはいない」
顔色一つ変えずに断ると亜麻紙商はにこりと笑った。
「ブルーノ君は豪胆だな。パーキンなんてあんまりイェンスの船に近づくのはやめてくれとしょっちゅう泣きついてくるのに」
「あの金細工師、どうしている? 大人しくしているのか?」
「ああ、今までで一番大人しいよ。君たち二人を酷く案じている。『俺に金持ちを紹介するまでは絶対に無事でいてくれ』と」
パーキンらしい台詞にルディアは苦笑いを浮かべる。とりあえず、イェンス怖さで縁を切られることはなさそうだ。
「ところでイェンスはレイモンド君と上手くやれているのかな? 二人で街に出かけたとスヴァンテから聞いたんだが」
「…………」
「おや? 私、変なことを言ったかい?」
また黙り込んでしまったルディアを亜麻紙商が覗き込んだ。小さく首を横に振り、「いや、私もどうしてそうなったのかよくわからなくてな」と返す。
「スヴァンテにも言ったんだが、呪いを信じろとか父親と仲良くしろとか私は一度も口にしていないんだ。なのにどう気が変わったのか……」
「おお、ということは、レイモンド君は自発的にイェンスと仲良くしてくれているんだね!?」
オリヤンは手を叩いて喜んだが、ルディアにはとてもそうはできなかった。我慢をやめるという槍兵の言葉がなんだか引っかかっていて。おかしな方向に暴走していなければいいのだが……。
「ん?」
甲板が騒がしくなったのはそのときだった。コグ船に誰か来たらしく、桟橋に梯子の渡される音が響く。オリヤンと顔を見合わせ、ルディアは狭い客室を出た。
レイモンドたちが帰ってきたのかと思ったが、どうやら違ったようである。老水夫に囲まれていたのは商売人らしい白髪の北辺人だった。
「ヨアキム! ヨアキム、ウルサンマーエ!」
親しげに北辺語で呼びかけて、亜麻紙商は初老の男のもとに駆け寄る。血相を変えた客人の一報はたちまち船上を騒然とさせた。
「デハスタ! ヒジェップ、イェンス! カンフェムティーミェーエ……! ヒジェップ、ヒジェップ……!」
ルディアが聞き取れたのはそこまでだ。意味などまったくわからなかったが良くない知らせであるのはわかった。どこの民衆もどよめくときは同じトーンでどよめくらしい。
事情を説明されるまでよそ者は長い時間待たなければならなかった。流暢なオリヤンのパトリア語で聞いてもそれはまるで理解できない話だったが。
「はあ? レ、レイモンドがイェンスに金を貢がせてる?」
ヨアキムとかいう元船員曰く、信じられない高額を支払うように水を向けたそうである。わかりやすい恐喝が行われたわけではないが、あれは絶対にそうだったと。
詳細を聞いてもレイモンドのことだと思えず「何かの間違いじゃないか?」と首を傾げる。すると横からスヴァンテが出てきて「こいつのところの宝石を根こそぎ買ってったらしい」と教えてくれた。
「ね、根こそぎ!? 一つ二つではなくて全部か!?」
「ああ、俺も最初は『何言ってんだ。イェンスが奢る気満々で誘ったんだぞ』と思ってたんだが……」
どうやら高額というのは数万ウェルス程度の話ではないようだ。ルディアはごくりと息を飲み、「いや、やはり信じられん。あいつが金をむしり取るような真似をしたとは……」と呟いた。そんな自分に水夫たちは白けた一瞥を投げてくる。
「おい、オリヤン。本当にレイモンドは『明るくて素直ないい子』なんだよな?」
不信の眼差しは亜麻紙商にも向けられた。オリヤンは厳しい表情の副船長にレイモンドがトリナクリア島で人形芝居の一座を助けた話など、実例を挙げて擁護する。
だがその甲斐もなく夕刻まで船はまったく静まらなかった。そして日の沈む頃、凄まじく目を引く皮袋を携えて戻ってきた親子を迎え、今度は水を打ったように静まり返ったのである。
******
一見してイェンスとレイモンドの間に険悪な雰囲気はなかった。一緒に梯子を登ってきて、一緒に皆にただいまを告げて、ルディアに気づいたレイモンドのほうは手を上げて寄ってくる。先日までの槍兵の言動から考えて有り得ない光景だ。
(こ、この馬鹿……!)
どうしたものかと悩んだ末にルディアはレイモンドの腕を掴んだ。そのまま無言で倉庫に降り、客室へと引きずっていく。今の今まで「まさか」と信じていなかったのに、ヨアキムの懸念通りだったらしい。
「レイモンド!」
ルディアがバタンと扉を閉めると勢い二つのハンモックが揺れた。「どうしたんだよ、大声出して」と槍兵はこちらの剣幕にどこ吹く風だ。
「お前なあ、その皮袋はなんだ?」
「おお、これか? 戻ったら見せようと思ってたんだ。ほら、すごくね?」
レイモンドは皮袋を逆さにして布張りのハンモックに戦利品をぶちまけた。山脈をなし、きらきら輝く宝石に頭が痛くなってくる。
「三流品ばっかだけど、これだけあるとゴージャスだろ?」
「レイモンド」
「こういう細かいやつなら換金しやすいかなと思って。コーストフォート市に着いてからも旅は続くし、サールまではこれ路銀代わりにしてさ」
「レイモンド!」
無理矢理話を遮るとルディアは槍兵をねめつけた。
「イェンスには何もしてほしくないんじゃなかったのか?」
問いかけにレイモンドは目を逸らす。ごく静かに、落ち着き払った低い声で「うん、すげーやだ」と槍兵は頷いた。
「でもまあ金に罪はねーじゃん? こっちが迷惑かけられた分くらい、賠償金として受け取りゃいいかと思うことにしたんだわ」
返答に絶句する。
いつものレイモンドらしくなかった。まったくいつもの彼らしくなかった。賠償金を正規の賠償金として受け取るのならともかく、人の気持ちを利用して儲けようなんてやり方は。
「……一体何をやっているんだ? お前はいつも、金にはもっと敬意を払っていただろう?」
レイモンドが実父と折合いをつけられなくても何も言うつもりはなかった。彼がどうするかは彼の自由だと思っていたから。けれどこれは、こうなってはもはや見過ごせない。
「うん、でも先に騙したのは俺じゃねーし。オリヤンさんは俺にあいつのこと黙ってたし、あいつは母ちゃんに自分の事情黙ってたし、お互い様だろ? 先のこと考えたらいくらあっても困りゃしねーんだからさ、くれるっつーもんは貰っとこうぜ」
また声を失った。レイモンドは詐欺まがいの行為をかけらも反省していないらしい。騙したという言葉には憎しみの響きすらあった。
「……なんかあんまり喜んでくれてねーのな。嫌な思いさせられてる分、金になりゃいいかと思ったんだけど」
ハンモックの宝石を苦々しく見つめるルディアに気づいてレイモンドは肩をすくめる。しばし訪れた静寂は今までの居心地悪さの比ではなかった。
「……あのさ。俺が十五のとき、アクアレイア国籍買うのにいくら払わなきゃいけなかったか知ってる?」
不意にレイモンドが尋ねる。こちらに背を向け、宝石を掴み取りながら。
「……五十万ウェルスだろう」
ルディアがそう答えると槍兵は手の中の宝石を握り込んだ。ガリッと貴石の擦れ合う不快な音が室内に響く。
「そう、さっき聞いたらさ、あいつ俺が喉から手が出るくらい金が必要だったとき、その倍は貯めてたんだってさ。笑っちまうよな。こっちは朝から晩までヘトヘトになるまで働いて、それでも全然足りなくて、普通のアクアレイア人ならしなくていい情けない思い、何度も味わったってのに」
レイモンドは乱雑に宝石を皮袋に戻していく。ハンモックの上が片付くと、槍兵は口紐を固く結んでそれを床に放り投げた。
石を駄目にする気かなんて叱ってもきっと意味がない。どうすれば傷ついた者の支えになれるか自分は知らない。
宮廷には親しい友人などいなかったし、ユリシーズとも酷い別れ方をした。
一体何が言えるだろう? 父と思っていた人をこの手にかけた人間が。
「まあ、あんたが嫌だっつーなら今後は控えめにしておくよ」
呟きは重く沈み込んだ。
力づけたかったけれど、ルディアにはやはり何も言えなかった。
******
船長室はまたも集まった乗組員たちでぎゅうぎゅうになる。まるで裁判でも始まったような騒がしさだ。わあわあギャアギャア同時に喚かれ、最初は何も聞き取れなかったが、右肩に浮いた手が皆に混じったヨアキムを指差したので大方の想像はついた。なるほどこれからスヴァンテあたりに息子のことを詰められるらしい。
「――で、結局いくら使ったんだ?」
予測に違わずイェンスの向かいに腰を下ろした副船長が今日の出費を尋ねてきた。「まあざっくり、百三十万レグネかな?」と北方の通貨で答える。するとたちまち室内は阿鼻叫喚に満たされた。
「ひゃ、百三十万ってお前!」
大型の取引以外でそんな額聞いたことがないと皆パニックである。
「言っとくが船の金には手ェつけてねーぞ!? 全部この十九年で俺が貯めた俺個人の金だからな!」
イェンスはヨアキムの店でしたのと同じ主張を繰り返した。我が子のための積立てを我が子のために崩して何が悪いのだと。しかもこれは己が質素倹約に努めて拵えた貯蓄である。使い道にケチをつけられる筋合いはなかった。
「百三十万レグネが全部お前の金? ちょっと待て、そんなに貯め込んでたのか?」
「ある程度の額になったらそれを元手に投資して増やしてったんだよ。ちなみに今日出した分と合わせて四百万レグネだ。だからお前らが心配するこた何もねーんだって!」
まだ動揺している仲間たちを落ち着かせるべく大丈夫だと繰り返す。先細りの船だから金銭の話題には敏感だ。今コグ船に残っている連中はスヴァンテを除いて年寄りすぎたりなんの技術もなかったり、水夫しかできない老人ばかりなので余計そういう傾向があった。引退が決まれば以後彼らはイェンスの渡す年金でしか暮らしていけない。だから船の蓄えには絶対に触れてほしくないのだ。
「ほら、これが俺の個人帳簿だ。大損したときも皆の収支には一切含めてねー。気になるなら確かめてくれ」
イェンスはテーブルの端に積み上げた帳簿の山から一番新しいのを引き抜き、副船長の前に投げた。スヴァンテはただちにそれと全体の帳簿を見比べ始める。
「……なるほど。老後の資金はちゃんと確保されてるな」
そのひと言で高まっていた緊張が解けた。「なんだ、だったらいいじゃないか」「ヨアキムめ、人騒がせな」と一斉に安堵の息が漏れる。緩んだ空気に冷水を浴びせかけたのも同じスヴァンテの言葉だったが。
「けどなあ、レイモンドがお前にいきなり百三十万レグネも使わせたのはまた別の問題だぜ?」
鋭い声が釘を刺す。帳簿を閉じたスヴァンテは乱暴な態度こそ取らなかったものの、怒っているのは明らかだった。
「ヨアキムの言うみたいに、お前あいつに金ヅル扱いされてんじゃねえか? ようやく息子らしくなった途端にこれなんて、正直俺はいい気がしねえよ」
船長室はしんと静まり返る。戸口に立っていたオリヤンが「スヴァンテ」と諌める口調で呼びかけたけれど、副船長は彼に見向きもしなかった。
「イェンス、俺は俺らに新しい家をくれたあんたに感謝してる。だから相手が誰であってもあんたが舐められるのは許せねえ。レイモンドは半分あんたの血を引いてるし、オリヤンの話も信じてえから今日はこれだけにしとくけどな、あんまりあいつが調子に乗るようならこっちもタダじゃおかねえからな」
ひと息に言いきるとスヴァンテは立ち上がり、荒々しくテーブルを離れる。「おら解散だ!」とそこらの者の背中を押しながら彼は甲板に出ていった。
「……イェンス」
居残ったのはオリヤンだけだ。「すまない、まさかこんなことになるとは」と詫びる戦友にイェンスは首を振った。
「気にすんなよ。一応収まったみたいだし、俺が四百万レグネ以上は使わねーように注意してりゃ大事にはならねーだろ。後でまたスヴァンテにもフォロー入れとくよ」
「ええっ!? 注意していないと超えそうな勢いでねだられたのか!?」
「あっ、いや、えーっと」
どうやら墓穴を掘ったらしい。濁そうとするイェンスに「ふ、普段はそんな子じゃないんだ! 奢ってもらうにしても自分で線引きできる子なんだ!」とオリヤンが必死になって訴えてくる。
「私は二人なら素晴らしい親子になれると思ったからこそレイモンド君をここまで連れてきたのであって」
「おい、ちょっと落ち着けって! あのさ、俺わかったんだよ。レイモンドが俺に会いたくなかった理由!」
「えっ?」
「遠くで祈ってただけのくせに父親ぶるなって言われたんだ。アクアレイア人にとって、祈りって価値の低いもんらしい。俺は今まで一ウェルスの養育費も出さなかったから、何もしなかったも同然なんだと。そんで今更そんな奴には何もしてほしくないって、そういう風に考えてたらしいわ」
「なっ……! 会えなかったのも、養育費を出せなかったのも、理由あってのことじゃないか!」
憤るオリヤンに「その理由がわかんねーならしょうがねーよ」と苦笑する。やるせなさはあるものの、八方塞がりなわけでもないからいいのだと。
「スヴァンテはああ言ったけどさ、俺はレイモンドがチャンスをくれたんだと思ってる。だって昨日までは好物聞いても欲しい物聞いても『別に』『ない』で終わってたんだぜ? 俺の財布使う気になってくれただけで進歩だろ? それに俺、神殿育ちで父親ってどんなもんかよく知らねーし、金出せば父親らしいと思ってくれんならそうしようと思って。まあ四百万レグネが限界だけどさ」
認めてもらえるまでは金ヅルでも構わない。そんな思いが胸にあるのは口に出さずとも伝わったのだろう。オリヤンは困ったようにこちらを見つめた。
「心配すんなよ。レイモンドは『いい子』なんだろ? 一緒に過ごす間に俺のことちゃんと見てくれるようになるって」
丸椅子から立ち上がり、イェンスは元副船長の胸を小突く。明るい振る舞いを見せれば見せるほどオリヤンの表情は深刻になったが。
「……できることがあればなんでも言ってくれ。私の連れてきた客だ。責任は私が取る」
生真面目な声でそれだけ告げてオリヤンは自分の帆船に引き揚げていった。宵闇の船長室にイェンスはぽつんと一人残される。
ふうと小さく嘆息し、テーブルに座り直した。引き寄せたランタンの灯りで個人帳簿のページを照らす。
(あーびっくりした……)
イェンスはまだドキドキしている心臓を掌で押さえつけた。
さっきスヴァンテに凄まれたとき、もし口論になっていたら、自分は仲間を顧みず息子を庇うところだった。皆とは三十年以上苦楽をともにしてきたのに。
(俺、自覚してたよりずっと子供のこと大切なんだな)
会えない間も健康を祈り、幸運を祈った。それが生活の一部だった。名前も知らない、顔も知らない、性別さえもわからない我が子を思う祈りの時間が。
不思議だった。長く罪悪感に苦しみ、一生会わずに死ぬことも考えたのに、レイモンドといると愛しいという思いしか湧いてこない。少しでも彼が幸せになるなら自分のことなど捨て置いて、なんでもやってしまいそうだ。
(駄目だ駄目だ。ちゃんと冷静にやらねーと、あっと言う間にすっからかんだぞ! アクアレイア人は使うって決めたら百万、二百万レグネくらいドーンと使っちまうんだからな!)
その昔、まだ軍務用の快速船を乗り回していた頃、同じ時を過ごした少年を思い出す。イーグレットは一般のパトリア文字だけでなく、重要な契約文書に使用される古パトリア文字、複式簿記のつけ方にアミクスと駆け引きする際のコツまで教えてくれた。あの少年がいなければ自分たちは北パトリアの商人に潰されて生き残れなかったろう。アクアレイアを訪ねることも、レイモンドが生まれることもなかったはずだ。
(イーグレット……)
アクアレイアでは情勢が一変し、王は命を落としたと聞く。事実なら悲しいことである。再会が叶えば互いに子供の話をしながら酒でも酌み交わせたかもしれないのに。
(死んじまったら本当に何もしてやれねーんだよな)
次の街でもレイモンドを誘ってみよう。健康に良さそうな、美味しいものをたらふく食わせてやろう。
小窓に覗く白い月を見上げ、イェンスはひとりごちた。
いつまでもそこにあるように思わせて、星も、人も、ある日突然息絶えるのだ。してやりたいことは全部、今のうちにしてやらなくては。
******
「イーグレット?」
うつむきがちに歩く人々と荷車の間に白い影を見失い、カロはぐるりと辺りを見回した。既に日は落ち、街道は月明かりが照らすのみとなっている。ロバを引く裸足の男、積荷の重みで軋む馬車、切れ目なく続く荷担ぎの列。目を皿にして少年を探すがやはりどこにも見当たらない。
「!」
不意にうっすら透けた手がにょきりと背後から伸びてきた。振り返り、「そこにいたのか」と安堵の息をつく。にこやかに微笑むイーグレットの、すぐ後に続いていた若い人夫は「は?」と怪訝に眉をしかめた。
「えっ、何? なんか用?」
「シッ! 構うんじゃねえ、そのロマ頭おかしいんだ」
マジかと呟いて青年は連れとそそくさ馬車の陰に逃げていく。繰り上がってカロの後ろに並ばされた壮年の人夫は迷惑そうに顔を背けた。
どうも彼らにはイーグレットの姿が見えぬらしい。おかげでカロはすっかり不気味なロマとして定着していた。ここで仕事を始めてから、日に日に人との距離が開いている気がする。
(まあいい。遠巻きにされるのは慣れっこだ)
小さく短い息を吐き、再び前に向き直った。
長い、長い、荷物運びの行列は今朝商都セイラリアを発ったばかりである。これから一週間かけて、運搬人たちは北パトリア第二の都市コーストフォートまで歩く。
パトリア圏最北の地に辿り着いたカロは、二つの都市を往復する期間労働に就いていた。セイラリアは北辺海に通じ、コーストフォートは北パトリア海に面する。夏はどちらかの海にいるイェンスの所在を掴みやすいと思ったのだ。
彼には不思議な霊力が備わっている。頼めばきっと仇敵を探し当ててくれるに違いない。
(どこに隠れても無駄だ。必ず見つけ出して、俺がこの手で葬ってやる……!)
ぐっと拳を握りしめ、カロは友人の返り血を浴びたルディアを思い浮かべた。憤怒の炎はいまだ衰えず、胸を焼き、血を沸騰させている。
報復のほかにはまだ何も考えられなかった。それはあまりに深く心に巣食いすぎていた。
復讐を果たしたらどうするのか。どこへ行くのか。自分でもわからない。
(あいつの後を追ったって、ロマとアクアレイア人では行く先が違うものな)
ロマの魂は空に還り、子孫の歌に導かれて時々地上に舞い降りてくる。だがパトリアに属する者は、死後その魂を冥府の神に引き寄せられ、地の底深くに潜ると聞く。イーグレットは「きっと私は月の女神の側付きになるからロマと同じ空にいられるんじゃないかな」と笑っていたけれど。
(嘘つきめ。お前は月になど昇らなかったではないか)
屈託なく覗き込んでくる白い幻影に目を伏せる。かぶりを振ってカロは肩の荷を持ち直した。
冥府の番人に見つかれば彼はいなくなるのだろうか。
まだいてくれ。そこにいてくれと切に祈る。この火がすべて焼き尽くすまで。
灰になってからのことは、今はまだ考えない。




