第1章 その4
一方その頃、客人の去った船長室には穏やかならぬ悶着に気づいた船員たちが集まっていた。十人も入ればぎゅうぎゅうになる船尾の一室は心配顔の水夫で戸口まで溢れている。口々に皆が嘆くのは氷のように硬く冷たい若者のことだった。
愛する仲間に囲まれてたくさんの励ましと慰めを受けてもイェンスの表情は晴れない。息子のことが気がかりで仕方ないのだろう。まさかこれほど呪いに対して無頓着とはスヴァンテも驚いた。イェンスの祈りについても、あってもなくても変わらない、無意味なものだと言わんばかりで。
「なあ、どうすりゃもっと危機感持ってもらえると思う? レイモンド、俺の話なんて全然聞こうとしねーのに」
涙目で問われてウーンと首をひねる。さっきからイェンスは「あの首飾りを捨てられたらどうしよう」「フスの姿を見せたいけどカーモス神に勘付かれるんじゃないか」と悪い想像ばかり巡らせて神経をすり減らしていた。
北辺の厄介者を一手に引き受け、長く見捨てずにいてくれる器の大きな男である。だがその器には最初からひびが入っていた。どんな嵐にも戦いにも平然としているくせに、呪いの恐怖にはすこぶる弱い。スヴァンテにとっても神は偉大で恐ろしい存在だが、生々しくその力を感じてしまうイェンスにはもっと凄まじい、もっと圧倒的な、血も凍りつく力の権化のようだった。
「せめてレイモンドが俺の言葉を信じてくれれば……」
「おい、イェンス」
「絶対にお守りを壊したり、遠くへやったりしちゃいけないぞって耳にたこができるまで言い聞かせるのに」
「おい、イェンスってば」
「たとえ十八を過ぎてても北辺をうろついてる間は危ないって――」
「イェンス、レイモンドだぞ! おい、イェンス!」
戸外からの呼びかけにイェンスがエッと振り返る。すると混み合う船長室の出入口に神をも恐れぬ二代目が顔を現した。
「うおっ!? ど、どうした? 忘れ物でもしたか?」
食事に呼ばれたとき以外出てこないものと思っていたのでスヴァンテも目を丸くする。普段と違うのはそれだけではなかった。なんとレイモンドは眉間にしわを寄せてもいなければこちらを睨んでもいなかったのだ。どころか口元は笑ってさえいる。皮肉のきいた笑みではなく、ごく普通の朗らかさで。
「あー、その、さっきはさすがに言いすぎたなって……」
青天の霹靂だ。飛び出した台詞にスヴァンテは耳を疑った。挨拶より舌打ちされた回数のほうが多いイェンスも目玉を剥いたまま固まっている。
レイモンドは後ろ頭を掻きながら「ごめんな」と謝った。一体どういう心境の変化なのだろう。別人としか思えぬ豹変ぶりである。ほかの船員たちも皆、ついていけずにざわめいた。
そんな周囲の反応は意にも介さずレイモンドはイェンスに近づく。テーブルの奥にサッと引っ込み、スヴァンテははらはらと親子のやり取りを見守った。
「く、首飾りは捨ててないな? 捨てちゃ駄目だぞ?」
「ああ、ここにつけてるよ。っつーか俺、そんなこと話しにきたんじゃねーんだけど」
「わ、悪い! よ、よ、用件はなんだ?」
「じきにディータスとかいう街に着くんだろ? あんたが誘ってくれた買い物、その、行ってもいいかなと思ったから」
「え……っ!? ええっ!?」
困惑しきったイェンスが助けを求めてこちらを仰ぐ。今まで我が子の機嫌を取ろうとするたびに冷たく撥ねのけられてきた彼だから、どう答えるのが正解なのか迂闊には返事ができない様子だった。
「い……、行きゃあいいんじゃねえのか? 一緒に、二人で」
掌を返してこないかレイモンドの顔をチラチラ見ながら助言する。だが予想に反し、二代目の態度に変化はなかった。
「い、いいのか? 本当に行ってくれるのか?」
「本当だって。そっちが嫌ならいいけどさ」
「嫌なわけあるか! わわわ、わかった、一緒に行こう!」
コクコクと頷くイェンスの目は嬉し涙に潤んでいる。仲間たちも大はしゃぎだ。あちこちで気の早い祝福の声が飛び交った。
(おお、こりゃブルーノが上手いこと言ってくれたかな)
青髪の剣士の功績と推測し、スヴァンテは感謝を捧げる。ほかにレイモンドが歩み寄る気になった理由は思いつかなかった。きっとフスを視たブルーノが祈りの有効性を説いてくれたのだろう。それでレイモンドも少しばかり考えを改めたに違いない。
(険が取れたらなかなか好青年じゃねえか。オリヤンの言った通り、根はいい奴なのかもな)
うんうんとスヴァンテは一人頷く。笑顔の裏の思惑には気づかないまま。
ちょうどそのとき望楼から「港が見えたぞ!」と声が降ってきた。興奮したイェンスが右舷に覗く大陸の一角を指差して「ほら、あれがディータスだ!」と息子に教える。
断崖に立つ灯台の向こうには深い入江と白い街並みが近づいていた。太陽は十分に高く、親子が街をうろつく時間はたっぷりとありそうだった。
******
ディータスは新進気鋭の商人たちの街である。どの建物も新しく、住人は日を追うごとに増えている。天然の良港に恵まれており、昔から人は住んでいたらしいが、一度地震で崩壊したため長く捨てられていたそうだ。
再びこの地に繁栄をもたらしたのは非アミクスの商人たちだった。閉鎖的な北パトリア商業都市同盟を嫌い、北辺や西パトリア、南パトリアからこぞって集まった結果である。幅をきかせているのは成金ばかりだし、どこを歩いても新参者かよそ者しかいないので、風通しはなかなか良かった。アミクスに在籍はしていても阻害されがちなイェンスたちにとって、数少ない落ち着ける街である。
「ってわけで、昔うちの船に乗ってた連中が何人か店構えてんだよ。入店拒否される心配もねーし、欲しいもんがあれば遠慮なく言ってくれ!」
軽い足取りで港通りを歩みつつイェンスは息子に説明した。雑踏をなす人々はこちらに気づくとあからさまに距離を取るが、今日は少しも気にならない。物珍しげに周囲を見渡すレイモンドを見ているだけで胸が弾んだ。
異国から来た若者には掘っ立て小屋やレンガの商店、漆喰塗りの木造家屋が入り乱れる下町が無秩序に思えるらしい。好き放題に露店の出された大通りを目にして彼は「誰がこの街管理してんの?」と呆れ半分に尋ねた。
「道が舗装されてねーのはともかく、計画性がなさすぎだろ」
「どんどん街が膨らんでるからなあ。今は小汚い安い家に住んでても、一年後には高台に邸宅持ってたりするんだよ。もう少し坂を上がったらまた雰囲気が変わってくるぞ。ある程度成功した奴らの店が並んでるからさ」
「治安とかやばくねーの?」
「良くはねーかな。儲けてる街にはどうしてもならず者が集まるし。けど俺と一緒なら平気だから、安心しろ」
すごい。会話になっている。イェンスは感動に全身をわななかせた。こんなに自然に向き合えるようになるなんて、勇気を出して誘ってみて良かった。
「ふーん、ディータスってそんな急成長してんだ。なんか有名な産業とかあるのか?」
まともな返事や相槌が嬉しくて「ああ、あるある!」と返す声が高く上擦る。
「この街、腕のいい宝石職人が山ほどいるんだ。ダイヤもルビーもサファイアも原石は大抵ここに持ち込まれて綺麗に加工されるんだぜ。俺の仲間もそれで食ってる!」
へえ、とレイモンドは少なからぬ興味を示した。「なら宝石見てみるのもいいな」と満面の笑みを向けられて、イェンスは「任せとけ!」と胸を叩く。
やっと父親らしいことができそうだ。そう思うと嬉しくて気が急いた。
大張りきりで昔馴染みの店に向かう。隣を歩くレイモンドも上機嫌だった。
「おーい、ヨアキム! やってるか?」
目指す店には間もなく着いた。高級宝飾品ではなく、カットと磨きを施しただけの裸の石を売る店だ。三階建ての建物の一階部分を占めていて、奥の半分は倉庫である。小さいが取引は多く、見た目よりも繁盛していると聞く。
「おお、イェンスじゃないか。来てたのか」
重々しいブロンズ製の扉を開くとカウンターで帳簿と睨み合っていた白髪の男が腰を上げた。目聡くこちらの連れに気づき、ヨアキムは碧眼を瞬かせる。猛戦士として鳴らした彼はためらいなく「誰だねこの子は。若い頃のお前さんに瓜二つじゃないかい?」と問うてきた。
相変わらず率直な男だ。イェンスは隣のレイモンドを気遣いながら今までのいきさつを簡単に打ち明ける。
「えっ、それじゃお前さん、アクアレイアで子作りなんかしてたのか?」
連れているのが血の繋がった息子だと知るとヨアキムはしばし声を失った。更に詳しく話をすれば彼はしみじみレイモンドを一瞥する。見世物じゃないぞと怒るかと思ったが、意外にレイモンドはにこやかに応じた。
「そうか、そうか。良かったなあ、十八になるまで生き延びられて。イェンスに感謝しろよ」
そんなギリギリの発言もあったが目立った反発は見られなかった。祈りなどしてくれたことのうちに入るかと罵倒していたのに。
(いや、待てよ。笑ってるだけで同意はしてねーかも……)
ハッと気づいてイェンスはヨアキムに問いかける。
「と、ところで商品はどこだ? この子に何か買ってやろうと思ってるんだが」
ようやく掴んだ絆を深めるチャンスなのだ。仲間とはいえ他人のうっかりでふりだしに戻りたくない。蜂の巣をつつかれぬようイェンスは話を逸らした。
「おっ、いいぞ。ちょうど縞模様の綺麗なメノウが入ったところだ。ほかの石もひと通り持ってこよう」
気のいい元船員はさっと倉庫に向かってくれる。しばらくするとカウンターは並べられた宝石類でいっぱいになった。目を瞠るほど大きな石はないけれど、赤いのやら青いのやら、色とりどりの粒がきらめく。
「どうだ、どれか気に入ったか?」
なんでも欲しいだけ買ってやるぞとイェンスは銀行証書を取り出した。「そうだなー」と陳列物を吟味するレイモンドに「本当に遠慮しないでいいからな」と念を押す。
今まで何もしてこなかった人間に、今更何もされたくない。そう言っていたレイモンドがイェンスの願いを聞き入れてこうして同行してくれたのだ。己もできる限り懐の深いところを見せたかった。
元より我が子に会えたそのときは望みのすべて叶えてやりたいと考えていたのである。レイモンドがどの宝石を望もうと断る選択肢はなかった。それでもやはり、彼の言葉には面食らったが。
「じゃあこのカウンターのやつ全部」
思わず「えっ?」と聞き返したイェンスにレイモンドは笑顔で続ける。
「あっ、無理なら買えるだけでいいんだぜ。どれも小指の爪半分ないし、一つ五千ウェルスもしねーと思うんだけど」
固まったのはイェンス一人ではなかった。今の今まで「一番いいのを選べよ!」と気さくにアドバイスしていたヨアキムも目を点にしている。
「ぜ、全部って、確かにうちの商品は金持ち向けのデカさも派手さもないけどな」
「うん。だからこういうのは量を持つのが一番いいと思って。それにあんまりお高い一点モノだと管理するのが大変だろ? な、あんたもそう思うよな?」
無邪気に同意を求められ、イェンスは返答に窮する。そりゃあまあ、欲しいだけ買ってやるとは言ったが。
「……あれ? 駄目だった?」
ふと声に冷淡な響きが戻った気がして「あ、いや」と首を振る。イェンスは慌てて店主に勘定を求めた。
「ヨアキム、いくらになるか計算してくれるか?」
「ええっ!? も、ものすごい額になるぞ。いいのか?」
「ああ、大丈夫だ。金ならある」
心配するなと言ってもヨアキムは疑わしげだ。「いいんだって、子供のために貯めてた金を子供のために使うんだから」と諭すとやっと仕事に取りかかってくれた。出された数字が普通の買い物ではまずお目にかからない殺傷力の高さだったのは言うまでもない。
「お前本当に大丈夫か?」
銀行証書にサインする直前、ひそひそと北辺語で尋ねられた。言わんとすることはよくわかる。親子であるのをいいことにタカられているんじゃないかと伝えたいのだ。
「大丈夫だってば。子供の前で変なこと言うなよ」
同じく北辺語で返し、イェンスは宝石の詰まった袋を手に取った。一括払いだから高額に感じるだけで、十八年分の小遣いと思えばどうということはない。自分はこの辺りの海では名の通った男なのだから、これくらい妥当な金額だ。
「そんじゃそろそろ次の店行こうぜ」
と、そこに更なる衝撃が駆けた。まだ買うつもりかと驚愕に震えつつ息子を見やる。レイモンドは扉を開け、既に半分外に歩き出していた。「ほら、早く」と急かされて立ち尽くすヨアキムに別れを告げる。
「悪い、また来る!」
土地勘もないのに先に行ってしまった我が子を追ってイェンスは道を急いだ。ポケットに手を突っ込んだまま悠々とレイモンドは坂を上っていく。より上等な店が立ち並んでいるほうへ。
「いやー、さすがにこんだけ買ってもらうと少しは何かしてもらったって気になるな!」
イェンスが追いつくなりレイモンドは明るく言った。ちょっと金遣いが荒いんじゃないかと注意するつもりだったのに、あっさり出鼻をくじかれる。己に向けられた笑顔に完全に気圧されて。
「あ、あー、その、やっぱり俺ってお前の中で『何もしてこなかった奴』なのか?」
「ははは、そりゃそうだろ? お祈りしたとか言われても、別にこっちは実感ねーし、養育費だって一ウェルスも貰えなかったわけだしさ」
笑い声はぐさりと胸に突き刺さった。毎日真剣に祈ってたのにと悲しかったが、祈祷の成果など気づかずに暮らせるほうが幸せだ。文句を言う気にはなれなかった。
と同時に、自分が試されていることに気づく。十八年間の埋め合わせをしてくれるかどうか、レイモンドは金で測ろうとしているのだと。
出し惜しみなどすれば二度と歩み寄ってくれないに違いない。想像して肝が冷えた。
「で、次はどこに連れてってくれるんだ? できたら俺、またあんな宝石店がいいんだけど」
にこにこと表面上は愛想良く問われ、イェンスは息を飲む。だがすぐに気を取り直した。
金で埋められる溝ならば金で埋めればいいではないか。少なくとも前よりは会話も交流もできているのだ。誠実でいればレイモンドとて打ち解けてくれるはずである。
「あ、ああ、だったらそこを曲がった通りの突き当たりに昔の船員の店があるよ」
「へー、楽しみだな! 今日だけで五十万ウェルスは使いそうだ!」
「……ウェルスって確か、アレイア海で流通してる銀貨だよな? パトリアの貨幣でいうとどれくらいなんだ?」
「ん? そうだな、パトリア金貨一枚で一千ウェルスってとこじゃねーの?」
「…………」
脳内で必死に換算した結果、五十万ウェルスというのはイェンスのへそくりの三分の一に相当するらしいのがわかった。息子が心を開いてくれるとして、果たしてそれまで財布がもってくれるだろうか。
(ふ、船に帰ったら帳簿見直そう……)
いくらまでなら己の裁量でなんとかなるか確認しておかなくてはとイェンスは唸る。まさか子供にこれほど金がかかるとは知らなかった。
「なあ、あんたさ、俺のために結構貯めたっつってたけど、それっていつから貯めてたの?」
出し抜けにレイモンドが尋ねてくる。極力気にしないふりをしたが、値踏みするような質問でなんだか答えにくかった。
「え……えーと、お前がお腹にいるってわかった半年後くらいかな」
「へえ、それじゃさ、三年前ってどれくらい貯まってた? 五十万ウェルスはあった?」
「ん、そうだな。三年前ならその倍は貯まってたんじゃねーかな? えーと、毎年七、八万ウェルスくらいのペースで増やしてたと思うから」
さりげなく限度額を匂わせてみるも反応は薄かった。熱のない声が「ふーん」と呟く。
「な、なんでそんなこと聞いたんだ?」
「いや、別に? 意味とかねーけど?」
穏便にかわされて、却って踏み込みにくくなる。結局そのまま何も聞けず、イェンスたちは次の店に入ることになった。
その後もレイモンドは飽きることなく小粒の宝石を買い漁った。一つ一つはちょっとした贅沢品であり、悲鳴を上げるほどの値段ではない。
だが塵も積もれば山となる。街が夕暮れに染まる頃、レイモンドの予告通り五十万ウェルスが消えた。わずか数時間の出来事だった。




