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第3章 その1

 ――もう誰も信じてはいけないよ。

 ――ルディア、お前は強くなって生き伸びるんだ……。


 一番古い思い出は父の涙と戒め。重い病に倒れ、生死の境をさまよっていたルディアが奇跡的に回復した夜、痛いほど強く手を握られたのを覚えている。

 当時ルディアは五歳になったばかりだった。母は既に冥府の人で、父の側には娘のほかに誰もいなかった。

 どれほどの熱に侵されていたのだろう。目を覚ましたルディアは簡単な言葉すら思い出せなかった。だがそうなって却って良かったのだと思う。おかげでルディアはもう一度人生をやり直すことができたのだから。

 忘れ形見を喪いかけた父は二度と我が子をグレースに預けなかった。祖母が毒を盛ったのではと疑ったのだ。

 それまでグレースはルディアの教育係だった。王に嫁がせた娘を操り人形にしたように、祖母は次期女王の孫娘をも言いなりにさせようとしていた。

 鞭の痛みと狡猾な優しさを刷り込まれたままだったら今頃どうなっていたか知れない。けれどルディアも、娘を守ると決意した父も、あの日から傀儡ではなくなった。

 父はルディアに護身の剣と与えられるだけの知識を与えた。危険と思われる行為はすべて制限されたし、親しい友人を作ることも許されなかった。貴族の娘は箱入りと決まっているが、ルディアの入れられた箱は殊更に頑丈だった。

 来る日も来る日も勉学と稽古に明け暮れる孤独な日々。けれど己を不幸とは思わなかった。窓の外に目をやれば守らねばならぬ国があったから。

 使命感、あるいは未来に燦然と輝く希望があれば人間は耐えてゆける。「力を得るまで牙は隠しておきなさい」という父の厳命に従ってルディアはか弱い姫を演じた。慎ましい孫娘に油断したグレースはルディアを無害と捨て置いた。


 ――でもお父様、私はいつまで他人に心を許してはならないのですか。


 問いかけに父が答える。


 ――いつまでもだ。君主は親や伴侶にも油断してはいけない。


 ルディアはむっと唇を尖らせた。ですがお父様はいつも私をお守りくださるではありませんか、と。


 ――味方でありたいとは願っているよ。けれどもし私がお前の邪魔になったときは、迷わず切り捨てなさい。


 優しい微笑に悲しくなる。決して愚かではない父の中にそんな選択肢のあることに。

 ルディアは強くならねばならなかった。第一は国を守るために。第二は父を守るために。それができなかったときは何も残らないとわかっていたから。


 ――ルディア、誰も信じてはいけないよ。お前は自分の足で進み、自分で道を選ぶんだ。お前がいつもお前らしくあれば、そのうち寄り添ってくれる誰かが現れるかもしれない。お前の孤独も少しはやわらぐかもしれない……。


 暗闇に父の姿が掻き消える。姫様と呼ぶ声がしてルディアは木漏れ日の注ぐバルコニーを振り返った。


 ――軍務を終えてただいま戻ってまいりました。少し見ない間にまた美しくおなりですね。


 賞賛はそう珍しいものではない。年頃になったルディアは波の乙女の化身と称されるまでになっていた。だがやはり想い人に褒められるのは格別だ。頬が勝手に熱を持ってしまう。

 近づいてくる人間は腐るほどいた。裏では誰がグレディ家と繋がっているか知れないから交際の類は全部断ってきたのにユリシーズだけは拒めなかった。「私にも遅い初恋が来たようで」としどろもどろに打ち明ける彼が愛しくて。

 娘心に期待した。父の言っていた「ルディアに寄り添ってくれる誰か」とは彼のことではなかろうかと。リリエンソール家は二代に渡って名将を輩出した王国海軍の雄である。ユリシーズが王配となれば民も喜ぶに違いなかった。

 父も婚約を祝ってくれた。王家に利するところ多く、良縁に恵まれたなと。ルディアも彼と一緒ならより良い国を築いていけると確信していたのに。


 ――マルゴー公国の第二王子と結婚することになりました。どうかわかってください。私たちのアクアレイアを守るためなのです……。


 決定事項とルディアの謝罪を呆然と聞くユリシーズを思い出す。うろたえるあまり、優しい彼も一度だけルディアに声を荒らげた。


 ――私は心を捧げたのに、あなたはそんな無慈悲な真似をなさるのですか!


 ごめんなさいと詫びるほかなかった。圧倒的な軍事力を持つジーアン帝国に対抗するには強い結びつきを持つ陸の味方が不可欠だった。海軍の出世街道を行くユリシーズには二重に耐えがたかったろう。祖国を守るのにガレー船では頼りないと、そう主張したも同然だったのだから。

 それでもルディアは初恋という言葉を信じた。親も伴侶も信用するなと説く父にさえ友と呼べる人間が存在するのだ。己にとってのたった一人は彼だった。たとえルディアが姫としての上辺の姿しか見せていなかったとしても。


 ――夫婦になることはできずとも、きっと私を支えてください。


 あなたの愛が本物なら、とルディアは言った。それがどんな傲慢な要求かも知らず。

 長い沈黙ののち手の甲に口づけたユリシーズの、唇は震えて凍えきっていた。




 ******




「…………」


 視線を感じて目を覚ます。瞼を開けば寝台で横になるルディアを猫とモモとレイモンドが覗き込んでいるのが映った。


「ニャーン!」

「見回り行ってきたよー」

「今のところ特に何も起きてないぜ!」


 平然と王女の寝所を訪ねる彼らの怖いもの知らずには素直に感心させられる。これまで通りブルーノ・ブルータスとして扱えと命じたのはこちらだが、槍兵など「恥ずかしい! もうお婿に行けない!」と大騒ぎしていたくせに。

 ガラス工房は街から離れすぎているため、ルディアたちはブルーノの実家で順番に仮眠を取っていた。交代制のパトロールはルディアとアルフレッドの番である。隊長の所在を聞けば先にゴンドラで待機中とのことだった。


「わかった。お前たちも今のうちに休んでおけ」


 紺碧の夜空は薄ぼんやりと白んできていた。王国生誕祭の開始時刻を考えると長く憩わせてやれないが、不眠不休よりはましだ。いざというとき使い物にならないのは困る。


「ふっふっふ。ところが俺は次の巡回にも付き合っちゃうんだなー」

「はあ? どういう風の吹き回しだ? 特別手当など出さないぞ。悪いことは言わないから体力を無駄にするな」

「違うよねー。レイモンドお手柄なんだよねー」

「ニャ!」

「お手柄?」


 どういうことだとルディアは首を傾げた。長身の槍兵を見上げれば鼻高々にゆるふわのオールバックを撫でつけている。


「喜んでくれ。大鐘楼に登れるぜ!」

「何?」


 意外な報告にルディアは瞬きした。夕刻立ち入りを禁じられた大鐘楼に入る手立てを見つけてきたとはどういうことだろう。


「つっても中に堂々とってわけじゃねーから行くのは俺とアルと姫様……じゃなくて、ブルーノの三人な。時間もそんなねーぞ! さ、早く早く!」

「あ、おい!」

「いってらっしゃーい」


 手を振るモモとアンバーを残し、ルディアはレイモンドに腕を引っ張られて店の外階段を下りていく。ゴンドラに乗り込むやアルフレッドが漕ぎ出した。座り乗りをからかう者はもういない。


「さすがに祭りの夜だな。こんな時間にこれほど人通りがあろうとは」


 吊りランタンに照らされた岸辺や水路を見やってルディアは嘆息した。踊り騒ぐ酔漢も、睦み合う恋人たちも、揃いも揃って仮面・仮面・仮面だ。この中に国王暗殺を目論む刺客が潜んでいるとして、果たしてそうとわかるだろうか。


「夜闇にまぎれようと雑踏にまぎれようと不審者は目立つ。俯瞰で見れば尚更だ。大鐘楼へ急ごう」


 ルディアの思考を読んだようにアルフレッドが舟を進めた。横顔がこちらを向くことはなく、視線は一切交わらない。あれだけ派手に怒鳴りつけてくれたくせに、まだルディアへの憤懣が消えていないらしい。意外に面倒な男だ。


(まあいい。どう思われていようと職務を怠らん限り責めはせん)


 駒は最低限の役割を果たしてくれればそれでいい。それ以上のことは求めていない。期待して判断を誤るのも、裏切られて平静を欠くのもごめんだった。ルディアとて王女という大駒を務め上げねばならないのだから。

 笛の音色と陽気な合唱が響く大運河へ漕ぎ出るとレンガの塔は目前だった。ルディアたちは周囲に浮かぶ大型船を隠れ蓑に目的地へと忍び寄る。

 入口、つまり広場側の橋は封鎖されたままであったが、小舟を横づけする分には制限されていないようだ。アルフレッドは大鐘楼の裏に回ってゴンドラを舫わせた。

 と、そこに先刻の若い兵士が現れて「こっそりお願いしますね!」と忠告を与えてくる。「わかってるって」と答えるレイモンドはやけに親しげだ。


「なんだ? 賄賂でも握らせたのか?」

「いーや、俺は身銭は切らねー主義だ。そうじゃなくて、あの見張り兵どっかで見たことあるなって思い出してみた結果、なんとうちの常連に言い寄ってる男だったんだよ! そんで食堂ランチデート工作一回で手ェ打ってくれたってわけ」


 人間の顔を忘れないという彼の特技はここでもいかんなく発揮されたらしい。なるほどそれでお手柄か、と頷いた。


「中には入っちゃいけねーけど、上には登っていいってさ」


 水上にどっしりと聳え立つ大鐘楼。その赤レンガの壁面に備えられた鎖編みの長い梯子を指差してレイモンドが笑う。

 えっと思わず二度見した。まさか内階段ではなくこれで上まで登るのかと。


「んじゃ俺が先頭、ブルーノが真ん中、アルは一番後ろな!」


 どうやらそのまさかだったらしい。ひょいと数段先に上がった槍兵に「ではプリンセス・ブルーノ、どうぞこちらへ」と恭しく手を差し伸べられる。

 乾いた笑みを無理矢理引っ込めてルディアは一段目に足を置いた。少しでも体重がかかると鎖縄は頼りなく沈み込む。


「……大丈夫なのかこれは? 留め金が外れて墜落する危険はないのか?」

「風も出てねーし、大丈夫大丈夫!」


 能天気に励ますレイモンドが恨めしい。この馬鹿者は大鐘楼が何階建てだと思っているのだろう。十八階だぞ、十八階。

 だが登り始めた以上は文句を言っても仕方がない。微風でも振動でも容易に揺れる鎖梯子に恐怖しながらルディアは尖塔の頂を目指した。





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[気になる点] 誤記?:鎖梯子 少しでも体重がかかると鎖縄は頼りなく沈み込む。
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