第1章 その3
子供の頃、行きたくても行けなかった場所がある。読み書きと計算を教えてくれる小学校、外国人など助ける気のない救貧院、王国民なら貧乏人でも診てもらえる病院だ。
死にかけたときも、捨てられかけたときも、あの国は決して自分を守ってはくれなかった。安い賃金でしか雇われず、金貸しにも借金を断られ、何度己の生まれを呪ったか知れない。何度救いがもたらされるのを夢見たか。
国籍を得るまでの十五年、人生は苦難の連続だった。あの時代、庇護と援助を最も必要とした少年時代なら、差し伸べられた手の印象も今とは違っていただろう。長すぎた放置も許し、理解し、受け入れようと努めただろう。
だがもう遅い。俺はとっくに一人の足で歩いている。吹く風によろけ、石につまずき、泥道に転んだ日々は過ぎ去ったのだ。
俺はとっくに一人の足で歩いている。父親の手など借りずに。
******
「レイモンド、今日の飯はどうだ? 美味いか?」
問うた男と問われた男を交互に見やり、ルディアはパンをちぎっていた手を止めた。乗り移ったコグ船のこじんまりした船長室は今日も今日とて気まずい緊張に張りつめている。
地図や帳簿類が押しのけられた食卓にはぎこちなく笑う父親と無言の息子、それを見守る他人が二人。先日の歓迎会より多少マシだというだけで居心地は最悪だ。
「えっと、レイモンド? ……まずかったか?」
沈黙に耐えきれず、再度イェンスが尋ねた。槍兵はなお一切答えずに、静かにスープを啜っている。さっさと食べればそれだけ早く席を離れられるので、無駄話などしたくないと言わんばかりだ。
二日ほど風を待った後、クアルトムパトリアを発って一週間が経つ。その間レイモンドの冷淡な態度は一貫して変わらず、むしろ悪化した観さえあった。初めの頃はまだ無愛想か不機嫌と言えなくもない反応だったのが、ここ数日はめげずに笑顔で接するイェンスにガンを飛ばしたり舌打ちしたり、嫌悪を隠さなくなっていた。一度など「俺はあんたと喋りたいことなんかねーんだけど?」と吐き捨てたほどだ。それでもどうにか会話を弾ませようとしてくるあたり、イェンスに諦める気はないようだが。
「……別に、普通」
やっと答えた声は低く刺々しい。眉間に刻まれた濃いしわも「鬱陶しいから構うなよ」と言っていた。
イェンスも壁と話しているほうがまだ報われるのではなかろうか。ルディアは親子の問題に口を挟める立場にないし、友人としてもレイモンドを諭す気はないが、こんな濁った空気を生み出しているのがいつも明るい彼であるのには胸が痛んだ。
普段通りに振る舞えないのは誰より本人が苦しいだろう。会いたくなかった父親の前で、きっとよく耐えているのだ。
「あー……あんたはどうだ? 俺の作った昼飯はちゃんと口に合ってるか?」
と、同席するもう一人の男がルディアに尋ねた。スヴァンテという、この船では若い部類の副船長だ。金髪碧眼で大柄な彼は特に北辺人らしい風貌をしている。羽織った毛皮も屈強な肉体も古代の戦士そのものだった。ついでに言うと、自信ありげに彼が示した魚介のスープも相当古風な――つまり大味な一品だった。
「あ、ああ。……まあまあいける、かな」
ドロドロになるまで煮込まれて、タラの骨まで溶け込んだ琥珀色の液体を匙ですくって舌に乗せる。飲み込むのに覚悟がいるほど奇怪な味ではないものの香辛料があればなという思いは否めない。どうも北辺人にとって味とは塩味を指すらしく、ほかの料理も全部こんな調子なのだ。ルディアはスープにパンを浸し、濃すぎる塩分を中和させた。
毎度レイモンドが「別に、普通」としかコメントしないのはイェンスと慣れ合いたくないせいだけではないだろう。食堂の息子としてはお世辞でもこれを美味いとは言いたくないに違いない。生臭みを嗅ぎつけるたび槍兵は目つきを険しくしているのだから。
「アクアレイアじゃ普段どんなメシ食ってるんだ? 俺は祝祭日に食えるものしか知らなくてさ」
こちらの胸中に気づくこともなく今度はイェンスが別の問いを重ねてくる。レイモンドに話しかけても間がもたないためか最近はルディアに話を振られることが多かった。
団欒の場を盛り上げて、なんとか親睦を深めたいのだろう。己を丸め込んだところで槍兵が心を開くとも思えないが、一応オリヤンの顔を立てるべく丁寧に応じる。船旅はこの先もまだ一ヶ月、サールリヴィスの河口を守るコーストフォート市まで続くのだ。あまり素っ気ない真似はできなかった。
「そうだな、魚なら酢漬けにしたのや、油で揚げたのをよく食べたよ。肉ならワインで煮込んだ仔牛とか、オリーブオイルで煮込んだチキンとか」
ルディアの返答に北辺人たちは「えっ、酢漬け?」「酒や油で煮込むのか?」とどよめく。マリネとかフライの説明をしても彼らにはまるで想像がつかないらしかった。
「それって美味いのか? 酒は酒で飲んだほうがいいんじゃねーか?」
まじまじと助言され、ハハと乾いた笑みが漏れる。塩味オンリーよりは断然美味いのだが。
「ごちそうさま」
そうこうする間にレイモンドが食事を終えて立ち上がった。苛立つばかりの船長室から早くも引き揚げるつもりなのだ。待たせぬようにルディアも急いで残りのパンとスープを掻き込む。
あと何回こんな風にやり過ごさねばならないのだろう。イェンスのコグ船に移って以来レイモンドは極端に口数が減り、笑うこともなくなっていた。
ルディアと客室にこもっているときでさえ彼はほとんど押し黙っている。息を潜め、身じろぎもせず、まるで自分という存在を薄められるだけ薄めているかのように。
レイモンドはきっとよく耐えているのだ。それだけに彼が今の状態をあまり長く続けられるとも思えなかった。
「あっ、ちょっと待ってくれねーか?」
引き留める声がかかったのはルディアが匙を置いたときだった。いつもなら「これ以上こんな部屋にいられるか」という言外の拒絶に負けて息子を見送る父親が、今日は果敢に延長戦を挑んでくる。イェンスは干渉しすぎないように注意している風だったが、さすがに進展がなさすぎて焦れてきたのだろう。
「あのさ、そろそろ次の街に着くんだよ。ディータスってとこなんだが、その、良かったら俺と一緒に回らないか? この船古いし、お前好みのモンも揃ってねーみたいだし、色々買ってやりたいなって思ってて」
ためらいがちな誘い文句に槍兵は扉の前で足を止めた。その背中の強張りに「あ、これはまずい」と予感がよぎる。
レイモンドが喋らないのは無論喋りたくないからだろうが、不用意な発言を避ける意図もあるように思われた。彼とて損得の機微に通じたアクアレイア人なのだ。イェンスに噛みつきすぎて揉め事になればデメリットしかないことは承知しているはずだった。
とはいえそんな勘定はあくまで理性が行っているに過ぎない。そして理性は、それがいかに堅固なものであろうとも小さなきっかけで崩壊するという難点を有していた。
「別にあんたに買ってほしいものとかねーし、そういうのいらねーから」
槍兵が振り向くや、部屋の温度が一気に下がる。底冷えする目に見据えられ、イェンスは頑健な肩を凍りつかせた。
まったく視線が合わないのも、まっすぐ目を見て否定されるのも、どちらも肝の冷えるものだ。侮蔑の眼差しを向けられたのは己ではないとわかっているのに身震いする。
「……ま、まあ、なんだ、そう言うなって。見てみりゃ何か気に入るかもしんねーだろ? 金のことなら気にしなくていいからさ。いつかお前に会えたときのためにって結構貯めてあるんだよ」
イェンスはなおしつこく食い下がった。だが彼の気遣いは逆にレイモンドを怒らせたらしい。「は?」という声とともに青筋の立ったこめかみが引きつる。
「だからそういうのいいっつってんだよ。アレイア語わかる? パトリア語で説明したほうがいいか? 今まで何もしてこなかった奴に、今更何もされたくねーんだって!」
荒々しい台詞ののち、部屋はしいんと静まり返った。イェンスもルディアも息を飲み、その場に釘づけになってしまう。
「…………」
長居すると言い合いになると断じてか、短い溜め息一つ零して槍兵はドアに手をかけた。そんな彼をまた別の声が引き留める。ここで退散させてくれればまだしも平行線を保てたものを。
「いやいやいや、そいつはちょいと聞き捨てならねえぞ。何もしてこなかったなんてこたねえよ。イェンスはちゃんと、子供のためにできることはしてきたんだから」
反論したのはスヴァンテだった。船長を慕う副船長は席を離れ、険しい顔でレイモンドに近づく。たしなめる口調に槍兵は目を吊り上げた。
「できることはしてきた? 俺はなんにもしてもらった覚えはねーけど?」
「呪いの話は聞いただろ? お前がこうして生き延びてるのはイェンスがお前のために毎日祈りを欠かさなかったからだ。雨の日も風の日も雪の日も嵐の日も、こいつがこっそりまじないを続けてたの、俺らは皆知ってんだよ」
レイモンドは「は?」と怪訝に眉を寄せた。おそらく本当にわからなかったのだろう。スヴァンテが何を言いたいのか。ルディアにもそれが真面目な弁護だとすぐには察せられなかった。あまりにも文化的背景が異なりすぎて。
「だから、お前がカーモス神の餌食にならねえようにイェンスはいつも祈ってたんだって。特別な月は肉断ちもしたし、でかい供物も捧げたし」
聞けば聞くほど共感から遠くなる。説得力のまるでない主張をレイモンドは鼻で笑い飛ばした。
「祈ってたって、なんだそれ? 北辺じゃそんなことが『してやったこと』のうちに入るのかよ?」
スヴァンテもまさか一笑に付されるとは思いもよらなかったらしい。「そんなことだと?」と目を丸くして彼は槍兵に凄んだ。
「お前それマジで言ってんのか?」
どうも厄介な事態になってきた。常識に差がありすぎて会話が会話になっていない。これは仲裁が必要そうだとルディアは椅子から立ち上がった。異文化理解もない状態で罵倒し合うなど愚の骨頂だ。とにかく一旦場を収めねば。
「そんなことだろ。んなもんただの自己満足じゃねーか。ひょっとしてこれもあんたらの言うまじないのつもりで置いてったわけ?」
が、ルディアが間に入るよりもレイモンドの切れるほうが早かった。槍兵は首の紐を手荒く掴むとセイウチの牙の首飾りを引っ張り出す。今にもそれを床に叩きつけそうな彼を見てイェンスがさっと顔色を変えた。
「レイモンド!」
「母ちゃんに渡されたから仕方なく持ってたけど、もう返すわ。意味なさそうだし、つけてても腹立ってくるだけだし」
レイモンドはテーブルに引き返し、イェンスに首飾りを突き出す。「駄目だ」としきりに首を振る父親に冷めた目を向け、槍兵は「俺の趣味じゃねーんだよ」と手を離した。
「――レイモンド!」
瞬間、響き渡った怒号にビリビリと空気が揺れた。電光石火の速さで首飾りを引っ掴むとイェンスは我が子にそれをもう一度つけ直させる。
鬼気迫る形相だった。分別を失くしかけていたレイモンドまで一瞬飲まれてしまうほど。
「これは駄目だ。気に入らなくても持ってなくちゃ駄目だ……! 頼むから、お願いだから外さないでくれ……!」
ひれ伏すように崩れ落ち、イェンスは「頼むから」と繰り返す。か細い声の常軌を逸した震え方に槍兵はややたじろいだ。だがレイモンドは父親が迷信的であればあるほど憤りを覚えるらしい。すぐにまた顔を歪め、「馬鹿じゃねーの」と吐き捨てた。
「ビビって逃げて、遠くから祈ってただけのくせに、父親ぶろうとするんじゃねーよ!」
スヴァンテを押しのけて槍兵は船長室を飛び出した。甲板を駆け渡る足音はそのまま床下の倉庫へと消えていく。レイモンドを追いかけようとルディアも身を翻した。
「待ってくれ、ブルーノ!」
が、外に出る直前にイェンスに呼び止められる。彼はもう起き上がり、長い髪を振り乱してこちらに迫っていた。
「あの子は呪いを恐れていないとオリヤンが言ってたが、まさか少しも信じていないのか!? どんなに危険な血を引いているか自分でわかっていないのか!?」
あまり必死に尋ねてくるのでつい目を斜めに逸らしてしまう。信じていないのはルディアも同じだ。正直レイモンドが怒っている理由もわかる。恐れなくてもいいようなものを恐れた父親のために、彼は多大な辛苦を強いられる羽目になったのだから。
「……アクアレイア人は商人だからな。ゲン担ぎで守護精霊は大事にするが、こういったオカルト話は胡散臭く響くというか……」
ルディアの返事にイェンスはスヴァンテと目を見合わせた。交錯する視線が震える。どうする、まずいと逼迫した声が響いた。そんな船長に何かの同意を示す素振りで副船長が小さく頷く。
「ブルーノ、呪いは本物だ」
神妙な面持ちでイェンスはこちらを振り返った。青ざめた唇が「パトリア人には疑われることもあるが、嘘じゃない」と真摯に告げる。
そう言われてもとルディアは返す言葉に悩んだ。わかった信じると口にするのは簡単だが、それはそれで別の面倒を生みそうで。
「――」
そのとき突然イェンスがルディアの左手首を握った。他人には触れないようにしていると言っていたのに、予告もなく、本当に突然。
異変はただちに全身を襲った。左腕から波打つような悪寒が駆け、頭も胴も四肢も臓腑も凍りつく。
「……っ」
ぞっとしたというだけならばこれほど驚きはしなかっただろう。ルディアが目を瞠ったのは、この世のものとは思えぬモノがイェンスの傍らに覗いたからだ。
――手だ。霧のごとく透けた白っぽい男の右手。それがイェンスの右肩辺りに浮いている。
「な、ん……っ」
指をほどけば幻は消えた。跳ねる心臓を押さえてルディアは後ずさりする。
「視えただろ? 視えたなら、どうかあの子にお守りを捨てるなと言ってくれ……!」
イェンスは頼むと深く頭を下げた。目にしたものを信じられず、ルディアは呆然と室内を見回す。
けれどもうあの不可解な右手はどこにも見つけられなかった。種や仕掛けの類もだ。船長室は先刻とまったく変わらず、狭く雑然としている。
「大丈夫、ここにいるのはカーモス神でもルスカ神でもない。フスという名の何百年も昔の祭司だ。俺に悪さしなけりゃフスは大人しくしてるよ」
説明を聞いてもさっぱり意味がわからなかった。亡霊――、ということなのだろうか。そんなものが存在するとしての話だが。
「いいか? 本当に頼んだからな?」
イェンスもこれ以上教える気はないらしく、戸口に立って見送ろうとする。彼は一刻も早く息子に忠告してほしいようだった。
促されるままルディアは船長室を出た。フスが一体何者なのか、なんの判断もできないままで。
******
ハンモックに腰を下ろしたルディアの様子はどこか普段と違っていた。腕を組み、唇に人差し指を押し当てて、何やらじっと物思いに沈んでいる。
客室に戻ってくるのも遅かったし、あの北辺人たちに何か言われたのだろうか。考えなしに声を荒げた尻拭いを彼女にさせたのでなければいいが。
(姫様、呆れちまったかな)
寝床から半身を起こしてレイモンドは溜め息をつく。
あんな風に怒鳴る気はなかった。ルディアに迷惑をかけないようになるべく大人しくしているつもりだったのに。
(なっさけねー、あれくらいで余裕なくなっちまうなんて)
もっと自分を抑えなくては。この船を降りるまで一年もかかるわけではないのだから。
「……レイモンド、お前さっきの首飾りどうした?」
と、こちらを仰いでルディアが尋ねる。予期せぬ問いにレイモンドはムッと唇を尖らせた。今しがたの反省も忘れ、守るべき王女に吠えてしまう。
「まだ持ってるけど、それがなんだよ?」
なぜそんなことを蒸し返すのだと不快感を露わにするとルディアは「いや、少し気になることがあってな」と曖昧に言葉を濁した。
「……悪いがしばらく手放さないでほしい」
理由も告げずに頼まれて反発と不信が芽吹く。急に彼女がイェンスの味方についた気がした。もしやさっきの騒動であの男に同情したのではなかろうか。そんな不安がレイモンドを襲う。
「それってあいつのために言ってんじゃねーよな?」
自分の声に自分で驚いてハッと息を飲み込んだ。常にない冷ややかな口ぶりにルディアも目を瞬かせる。気遣わしげにこちらを見やり、彼女は「違うよ。本当に引っかかることがあるだけだ」と弁解した。
「…………」
八つ当たりだ。そう自覚してレイモンドはハンモックに逃げ込んだ。
伏せた背中に向けられた視線が痛い。こんなみっともないところ、彼女には見せたくなかった。しかも己はルディアを支えるために側にいるはずなのに。
「……ごめん、忘れて」
なんとかそれだけ呟くと長い息を吐き出した。隣ではルディアが床に降りた足音が響く。板の軋みはそのままゆっくり近づいた。
「レイモンド、次の街で降りるか?」
突然の提案にぎょっとする。起き上がってルディアを見れば真剣な眼差しと目が合った。
「な、なんで?」
「だって嫌なんだろう? 私としてもこれ以上、無用にお前を苦しめたくない。手持ちの金は少ないが、幸いコーストフォートまでは陸続きだ。辿り着くのも不可能ではあるまい。ディータスに船が入ったら雲隠れしてしまおう」
辛抱させて悪かったなとルディアは詫びた。酷く申し訳なさそうに。
「あんたが謝ることじゃないだろ」
咄嗟にレイモンドは首を横に振る。ついてきてくれただけでありがたいのに、そんな顔をされては堪らない。大体こうなるように仕組んだのはオリヤンではないか。
「じっとしてりゃ目的地には着くんだぜ? 陸続きっても街道には盗賊が出るし、この船なら海賊に襲われる心配はねーし、別に一ヶ月くらい俺」
あんたのためならという言葉は飲み込んだ。ルディアに変な気を回させたくなかったから。
「私がお前を見ていられないんだよ」
強がるレイモンドに彼女は優しく微笑みかける。囁きはじんと胸に染みた。
ああ、自分はちゃんと一人の人間として尊重してもらっているのだ。それがわかって嬉しかった。そうしてますます承諾不可能になる。優先すべき第一はやはり彼女の身の安全だ。船を降りることはできないと。
「駄目だってば。陸路は危ねーっつってんじゃん」
「しかしな、レイモンド」
「つーかパーキンはどうすんだよ。あいつオリヤンさんの船に乗ってんだぜ? 俺らが逃げたら印刷機ともお別れだぞ」
指摘に一瞬ルディアが喉を詰まらせる。「いや、それは……」としどろもどろになりながら彼女はレイモンドの説得を続けた。
「アクアレイアに印刷産業を確立したいという話は、実現すれば儲けものだという感覚で言ったのだ。それに、なんだ、パーキン自身が出資者を求めて越境してくるかもしれないし」
「来るかなー? あいつ適当だから、約束してても別の金持ち見つけた途端になかったことにされそうじゃね?」
「来なかったら来なかったときだ。お前は気にせず自分のことだけ考えろ」
そんな風に言われると尚更こちらの都合など後回しにしてしまう。せっかく見つけたアクアレイア復活の希望を北の地に置き去りにしたくもなかった。
「やっぱこのままコーストフォート市まで行こうぜ」
レイモンドはきっぱりと告げる。ルディアはルディアで意地になり、語気を強めて反論した。
「だからお前一人が我慢することはないと言っているんだ。防衛隊は解散したんだぞ? 私やアクアレイアのために、自ら傷つかなくていい」
そりゃ確かにそうだけど、とレイモンドは口ごもる。
主君のためとかお国のためとか、そんな崇高な考えでこんなところまで来たわけではない。自分はただ、好きだから離れられなかっただけだ。
「……わかった。そんじゃ我慢がストレスじゃなくなるようにご褒美くれよ」
「は?」
「そしたら俺も頑張り甲斐があるし、ここにいる価値もちょっとは見出せると思う」
「いや、褒美と言われても私には金が」
「金じゃなくていいんだって。一ヶ月後ってちょうど俺の誕生日くらいだろ? 去年二人で蛍見たみたいにさ、コーストフォートでぱーっと楽しいことしようぜ? なっ、デートしよ!」
デートって、とルディアが呆れ顔で見上げる。思ったより元気じゃないかと白けた双眸が語っていた。
こっちの彼女のほうがいいなと安堵する。謝罪なんかされたって焦るだけでちっとも嬉しくない。
「それでお前の気が晴れるならいくらでも付き合うが、本当に、無理しなくていいんだぞ?」
しつこいまでの心遣いに頬が緩んだ。一人ではないと実感する。ルディアがいてくれるなら、一ヶ月の航海が二ヶ月、三ヶ月に伸びても耐えられるのではないかと思えた。いや、降りていいなら今すぐにでも降りたいが。
(どうせなら日給の出るガレー船の漕ぎ手になりたかったぜ。一ヶ月もありゃ結構稼げたはずなのに……)
そうか、俺、こんなに消耗しているのに収入はゼロなのか。
衝撃の事実に気づいてレイモンドは愕然とする。途端この時間の空費が馬鹿らしくなり、据えかねる怒りが湧き起こった。
「いっそ我慢すんのもうやめちまおうかな。この船にいる以上、絶対ストレスゼロにはならねーし」
そうだ、大人しくしてやる義理などない。自制は全部ルディアのためにしてきたことだ。断じてあの男のためではない。
「我慢をやめる? どういうことだ?」
案じるルディアにレイモンドは「ああ、別に喧嘩しようってんじゃないぜ」と笑った。
「割り切って大人の付き合いするのもありかなってさ」
疑問符を浮かべる彼女を避けてハンモックを降りる。頭に描いた考えが現状よりは己に利する点が多いのを認めると、レイモンドはぴしゃりと両手で頬を打った。
「うん、じゃあさっそく行ってくるわ。あんたはここで待っててくれ」
えっとルディアが声を裏返したが気にせず部屋を後にする。暗い船倉と客室を隔てる小さなドアを後ろ手に閉ざし、レイモンドは甲板に向かった。
梯子にはまばゆい陽光が注いでいる。間の抜けた北辺語も響いている。
無意識にポケットの記念硬貨を探っていた。見せてやるつもりなどない己の心をそこに封じ込めるように、強く、強く、握りしめる。
なんてこたない。心にもない言葉くらい今までだって吐いてきた。せいぜい喜ばせてやればいいのだ。別に何が減るわけでもないのだから。
(担がれたのが俺だけじゃ割に合わねーもんな)
そう胸中に呟いてレイモンドは笑顔の仮面を貼りつけた。




