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第1章 その2

 年々豪華になっていくオリヤンの船を見上げ、イェンスは感嘆の息をつく。製紙業というのはよほど儲かるものらしい。去年は三隻の船団だったのが今年は五隻に増えていた。停泊するのはどれも新型帆船で、イェンスの船の倍ほども大きい。まったく驚くべき商才だ。この調子なら数年内にもう一、二隻持ち船が増えるのではなかろうか。


(老後の心配いらねーなあ。本当に頼りになるわ、オリヤンは)


 誇らしい気持ちでイェンスはうんうんと頷いた。仲間内では一番の稼ぎ頭で、いつも親身に相談に乗ってくれて、おまけに息子とも会わせてくれるなんて。頭が上がらないとはこのことである。

 オリヤンがいてくれて本当に良かった。彼の励ましがなければ自分はきっと女を孕ませた後悔で海に身を投げていたに違いない。


(レイモンド、早く出てこねーかな。肉と魚どっちが好きだろ? 海育ちなら魚かな? アレイア海にはいなかったけど、タラとかニシンとか食うかな?)


 そわそわしながら梯子の下で息子が降りてくるのを待つ。柄にもなく緊張し、一方では浮かれきって、平常心を保つのが難しかった。桟橋を行ったり来たりしてみたり、何度も船を仰いでみたり、勝手のわからぬ田舎者同然の振舞いをしてしまう。


(落ち着け俺、こんなんじゃ威厳も何もあったもんじゃねーぞ)


 イェンスはそう自分に言い聞かせた。尊敬されたいのならもっと堂々としていなければ。ただでさえアクアレイアは豊かで進んだ国なのだから。


(でかくて綺麗な建物がいっぱいだったもんな。それこそオリヤンの船みたいにぴかぴかで――って、ん? 待てよ……?)


 そのとき不意にイェンスは重大な事実に思い当たった。レイモンドの乗ってきた元副船長の船に比べ、自分のコグ船は狭いうえにみすぼらしいのではないのかと。これでは息子をがっかりさせるかもしれない。


(あれ!? の、乗り換えたらグレードダウンになっちまう!?)


 自虐でも謙遜でもなくイェンスたちの船は古い。耐久性・操作性・居住性と三拍子揃った新型帆船を買う金がないわけではないのだが、いまいちその気が起きないのは「買っても長く使わないのでは」という疑念を消しきれないからだった。何しろ乗組員たちは高齢化が進みに進み、半数以上が六十歳を過ぎている。一番年若いスヴァンテでさえ来年は四十歳だ。この先いつ陸に降りるかわからないのに大枚ははたけなかった。せめて新しい水夫が来るなら設備一新も検討できるのだが。


(っつーか周りが年寄りばっかりだと退屈させちまわねーか? しかもうち、全員合わせても二十人ぽっちだし……)


 あれ、これまずいんじゃねーのとイェンスは息を飲む。できればレイモンドには船や仲間や自分を気に入ってほしい。そのためにできることはなんだってするつもりだ。だが本当に好感を持ってもらえるのか今更不安になってきた。自分にとっては当たり前の環境でも、もしかしてレイモンドにとっては――。


「おおーい」


 イェンスがぐるぐると悩み始めたちょうどそのとき、頭上で友人の声がした。見上げればオリヤンが梯子の途中で手を振っている。彼に続いてレイモンド、そしてもう一人先程も見た青髪の剣士が降り立った。


「イェンス、この子も君の船に乗りたいと言うんだが構わないかい? 名前はブルーノ・ブルータス、出身はアクアレイアで、レイモンド君の友達だ」


 紹介を受け、イェンスは青年を一瞥した。ブルーノとやらは礼儀正しく頭を下げてお辞儀する。物腰は洗練されており、どこか高貴ですらあった。しかし厭味な感じはせず、面差しはきりりと凛々しい。

 そうか、息子にはこんな立派な友達がいるのか。なんとも喜ばしいことではないか。


「ああ、もちろんいいぜ。つーか逆に助かるよ。ちょうど今、若いの一人じゃやりにくいかなって考えてたところなんだ」


 イェンスは快諾し、ブルーノによろしくと告げた。


「本来はパトリア式に握手するべきなんだろうけど、悪ィな、あんまり他人に触らないようにしててさ」


 そう詫びると青年は「わかった。よろしく頼む」と頷く。こちらを畏怖する素振りはなく、自然な受け答えだった。久々にまともなパトリア人ではないかと嬉しくなる。イーグレット然り、アクアレイア人とは相性が悪くないのかもしれない。


「まあ窮屈な船だけど、寛いでくれ。なんだったら居ついてほしいくらいだぜ。昔は生きのいい水夫が大勢いたんだが、年取ったり怪我したりで年々減ってく一方でな」


 勢いで勧誘してみると「すまない。我々は旅の途中だから」と首を振られた。ブルーノは申し訳なさそうに別れの予定を口にする。


「私とレイモンドはマルゴー公国を目指しているんだ。あなた方と同行させてもらうのはサールリヴィス河の河口までになる」


 えっとイェンスはレイモンドを振り返った。「本当か?」と問うも息子からの返事はない。ついと視線を逸らした彼の代わりに「ああ、実はそうなんだ」と答えたのはオリヤンだった。


「マルゴーで待ち合わせをしているらしくてね。まあだけど、今後は会おうと思えばいつでも会えるわけだし」

「そ、そっか。先約があるのか。そんならしょうがねーな」


 心底残念ではあったが納得して引き下がる。気持ちを切り替え、イェンスは小さくうんと頷いた。少しの間しか一緒にいられないのならその時間を大事にしよう。そう決意する。


「あのさ、遠慮せず甘えてくれよな。今まで側にいられなかった分、子供には色んなことしてやりたいと思ってるから」


 精いっぱい父親らしくイェンスはレイモンドに呼びかけた。だがまたしても息子の反応は返ってこず、おやっと首を傾げる。彼は唇を尖らせて、ポケットに手を突っ込んだまま足元を睨みつけていた。アレイア語、間違ってないよなと案じつつ「皆が歓迎会の準備してくれてんだ。行こうぜ」と再度話しかけてみる。


「…………」


 訪れた沈黙は長かった。最初に耐えられなくなったオリヤンが肘でこつんとレイモンドの腕をつつく。すると息子は深い溜め息をつき、やっと言葉らしい言葉を口にした。


「……行きゃいいんだろ。わかってるっつーの」


 投げやりに言い捨ててレイモンドは桟橋を歩き出す。慌ててその先導に回りもって、イェンスはオリヤンの袖を引っ張った。


「な、なんか怒ってねーか? 俺もう既にやらかした?」

「いや、すまん。これは私の失策だ」

「えっ、ど、どういうこと?」

「唐突すぎたと言うべきか、強引すぎたと言うべきか……」


 後ろを歩く若者たちに聞こえないように北辺語で事情を問う。レイモンドはどうも父親に会いたくなかったようだと聞かされてイェンスは喉を詰まらせた。


「や、やっぱ俺みたいな呪われた人間が父親だっつーのはアクアレイア人でも受け入れがた」

「そうじゃなくて、なんと言うか、心の準備ができていなかったみたいなんだ。複雑な年頃だし、まだ戸惑っているんだと思う」

「と、戸惑って」

「ああ、私もできるだけサポートするが、そっちも早く親子らしくなれるように頑張ってくれ。ひょっとしたらこの航海が最初で最後のチャンスになるかもしれない。まあ、だけど、船に乗せてしまえばすぐに馴染んでくれるとは思うがね。レイモンド君はとても素直で楽しい子だし、うちの水夫連中とも一日で仲良くなっていたから」

「そ、そうか」


 性格がひねているわけではないのだなとひとまず胸を撫で下ろす。それなら酒でも酌み交わして親睦を深めよう。己とて問題児ばかりの戦闘集団を率いて荒波を越えてきたのだ。きっかけさえ掴めればきっとなんとかなるだろう。


「ありがとな、オリヤン」


 イェンスは己の経験と嗅覚を信じた。我が子ながら、レイモンドはまったく一筋縄で行かない相手だったのだが。




 ******




 ――気持ち悪い。声にならない声で呟く。ストレスは避けるタイプだし、胃の弱いほうでもないのに凄まじい不快感だ。

 背中が視界に入るだけで蹴り飛ばしたくなるから自然うつむきがちになる。気がつけばまた猫背に逆戻りだった。

 朝霧の晴れた港はレイモンドの心境に反して健全な活気に満ちていた。荷の積み込みに精を出す男たちの声が響き、帆を張った船は次々と出航していく。

 金があればあのうちのどれかに乗せてもらえたのだろうか。考えると悲しくなった。リマニで得た賞金はタイラー親子にほとんど渡してしまったし、残額ではとても二人分の旅費に足りない。ルディアのくれた記念硬貨を合わせても無理だった。これはもう、コレクターに売る気など更々ないけれど。


(姫様のこと困らせないようにしねーとな)


 ポケットのコインに触れながら隣を歩く彼女を見やる。ルディアはただちに視線に気づき、レイモンドの顔を仰いだ。


「……なんかごめんな」


 詫びるこちらに彼女は「気にするなと言っただろう?」と苦笑する。でもさと言いかけたところで船着場の端に着いた。「ホー、ホー」とかいうイェンスの呼びかけにコグ船の甲板がざわめく。多分「おおい」とか「帰ったぞ」みたいな意味だろう。

 黒ずんだ船縁に年老いた水夫たちがしわくちゃの顔を並べる。号令とともに船に上がる橋板が渡された。飛び交うのは聞き慣れない北辺語。彼らに応じる笑顔のオリヤンを見ていると、そもそも彼は遠い国の人間だったのだと見切りもついた。

 ぐるりと辺りを見渡せばルディア以外は揃いも揃って薄い瞳の者ばかりだ。それなのにこれっぽっちも親近感が湧いてこないのはなぜだろう。重い足取りで甲板に上がり、レイモンドは更に気が重くなった。温度差のある歓声と拍手に包まれて。


「喋れる奴はパトリア語使ってくれ! 北辺語、全然知らねーらしいんだ」


 盛り上がる仲間たちにイェンスが伝える。すると「よく来てくれた!」とか「よろしくな!」とか訛って聞き取りにくい言葉で熱烈に歓迎された。

 いつもの自分なら愛想良く「どうもどうも」と応じる場面である。だが今はとてもそんな気になれなかった。うきうきと返事を待つ彼らに対し、募るのは苛立ちだけだ。暴言を堪える代わりにレイモンドは沈黙した。花道を素通りし、オリヤンを振り返る。


「……で、次は何すりゃいいの?」


 皮肉たっぷりの問いかけに年上の友人は顔を歪めた。できるならこれは駄目だと見限って一旦降ろしてほしかったのだが、希望は無視されたようである。意外に食えない亜麻紙商は「歓迎会まで同席するよ。終われば私は自分の船に戻るけれど、君たちは皆とゆっくりしてくれ」と答えた。


「ダヘイテ、レイモンド。ダヘイテ、ブルーノ――」


 しばらくオリヤンは北辺語で古巣の仲間に何事か話し続けた。親切なことにレイモンドたちの紹介をしてくれているらしい。緊張気味だとか昨日の騒動で疲れているとかでっち上げでもしたのだろう。非礼に固まりかけていた船員の表情は少しやわらいだかに見えた。

 彼らが甲板に毛皮を敷き、車座になって腰を下ろすとレイモンドたちも座るように促される。両側をイェンスとオリヤンに挟まれて舌打ちした。心配せずとも逃げやしないのに。


「この酒は美味いぞ。こっちは今の時期しか食えない魚だ」


 勧められた酒と料理が目の前に積み上がっていく。ひと晩何も食べておらず、腹は空いていたのだが、ついに指を伸ばすことはなかった。ただ静かに、岩のごとく鎮座して、耐えがたきが過ぎるのを待つ。


「……ひと口だけでも食べてみないか? 好物はなんだ? 持ってくるぞ?」


 焦れたイェンスに尋ねられても聞こえなかったふりをした。オリヤンの目に咎められ、答えるだけは答えたけれど。


「別に、何も好きじゃない」


 悪夢に迷い込んだ気分でレイモンドは無意味で無駄な宴会を眺める。北辺の老いぼれたちはなおしばらく盛り上がる努力を続けたが、それらはすべて徒労に終わった。レイモンドは最後までささやかな抵抗をやめなかった。

 根負けしたのはイェンスである。まったく親しみ合おうとしないレイモンドに乗組員が再び戸惑い始めた昼前、ようやく彼はお開きを宣言した。


「あー、まだ全然早いけど、昨日は色々あったしな。騒ぐのは、今日のとこはこんくらいにしとこうぜ」


 白けた酒宴を惜しむ声など出るはずもない。「そんじゃ部屋まで案内してくるわ」と立ち上がったイェンスに連れられて輪を離れていくアクアレイア人たちに彼らはもう先刻の熱っぽい目を向けてこなかった。

 歓声も拍手も何もない。レイモンドにはそれで良かった。




 ******




 パタンと無機質な音を立て、大慌てで整えた客室のドアが閉ざされる。それきりうんともすんとも言わない扉を前にイェンスはがっくりと項垂れた。

 船を案内しがてら話をしようと思ったのに、挨拶はおろか目も合わせてくれなかった。「俺もブルーノも寝てないから」のひと言で一刀両断されてしまって。剣士のほうは、会釈だけはしてくれたけれど。


「なんなんだあいつ、イェンスに向かってあのふてぶてしい態度!」

「親を敬う気がねえのか!?」

「いや、違うんだ。普段はあんな子じゃないんだよ。怒らせたのは私なんだ」


 薄暗い甲板下倉庫から引き揚げると、皆とオリヤンが一日たっぷり騒ぐはずだった宴会の片付けをしつつレイモンドの不愛想さについて話し合っていた。いきり立っていた者たちも、騙すような形でここまで連れてきたということ、本来は人懐っこく気のいい若者であることを聞き、「ふうん、そうだったのか」と一応納得した様子である。


「おっ、イェンス! どうだった?」


 と、輪の真ん中にいたスヴァンテがこちらに気づき、短い金髪をなびかせて振り返った。副船長の問いかけに胃を押さえ、イェンスは力なく首を横に振る。


「駄目だった……。多分ものすごく怒ってた……」


 連鎖する溜め息と皆の神妙な面持ちがつらい。「何がそんなに気に入らないんだ?」なんて聞いたら火に油を注ぐ気がして何も聞けなかったと吐露すると、ますます救いがたそうに唸られる。


「まあ黙ってたのは悪かったかもな。サプライズっつーのはこう、やっていいときと悪いときがあるからな」

「スヴァンテ、俺どうしたらいい!? スヴァンテがあれくらいの年だった頃、あそこまでギザギザにとんがってたか!?」

「落ち着け落ち着け!」


 すがりついた副船長になだめられても焦燥は消えない。イェンスは掌で顔を覆い、さめざめと己の運命を嘆いた。


「やっぱり呪われた身の上で、父親だなんて名乗ろうとしたのが間違いだったんだ……! 俺なんかがレイモンドに会っちゃ……!」

「そ、そんなことはない! レイモンド君は呪いなんて気にしちゃいないよ!」

「そ、そうだぜ、聞いた限りじゃキレられてんのはオリヤンだろ? 元々会うつもりじゃなかったとしても呪いは関係ねえんじゃねえか?」


 オリヤンとスヴァンテの励ましにほかの船員らも頷く。イェンスのあまりの落胆ぶりに不憫の念を催したのか、仲間は口々に協力を申し出た。


「まああんたが子供によくしてやりたいっつうなら俺らもなるべく親切にするからよ」

「ホントかどうか知らねえが、オリヤンの話じゃいい奴みたいだしな」

「お、お前ら……!」


 イェンスは感激に目を潤ませる。だがいかんせん誰もまともな家庭で育っていないため、どうすればレイモンドが心を開いてくれるのか打開案を示せた者はいなかった。


「ううっ、俺にできることはなんだ……?」


 苦悩するイェンスと一緒に仲間もううんと頭をひねる。


「めげずに声がけしていくとか?」

「シカトされても気にせず笑顔?」


 光明が差したのはそのときだ。最長老の船員がぽつり、「そりゃスヴァンテが荒れてた頃の対応だのう」と漏らしたのだ。


「なるほど、そうか、スヴァンテだ!」


 年嵩の老水夫らが一斉に拳を打つ。


「お前ここに来た頃めちゃくちゃ反抗的だっただろ? ありゃ一体どんな胸中だったんだ?」


 突然問われた副船長は屈強な身を丸め、「ええっ?」とその場で考え込んだ。


「……いや、あの頃は親に捨てられて不安定だったから……。うーん、大勢に構われるとうるせえってなってた気がすっから、無理に距離縮めようとしたり、あれこれ押しつけたりすんのはやめといたほうがいいんじゃねえか? 静かに心の余裕ができるのを待ってやるっつうかさ……」


 スヴァンテが喋れば喋るほどオリヤンが面目なさそうにしぼんでいく。彼は彼で良かれと思ってやってくれたことなのだが、今回はことごとく裏目に出てしまったらしい。


「なるほど、ゆっくりじっくりか」

「ああ、最初のうちは食事だけ一緒に取るとかして、それ以外は自由にさせておくのがいいと思う。食事が当たり前になってくりゃ、だんだん会話に応じる気にもなるだろ」


 おお、と前のめりになってイェンスは頷いた。さすがは最年少、若者目線でものを見れるなと皆も感心しきりである。


「へへ、四十前のおっさんによせやい」


 照れるスヴァンテにイェンスは「あのさ、俺とレイモンドとブルーノが食事するとき、お前も一緒にいてくれねーか? そんで色々アドバイスしてくれ」と頼んだ。情けない頼みだが、副船長は二つ返事で快諾してくれる。


「ああ、それいいな。二人きりよか抵抗も少なそうだし、四人なら多すぎねえし。なんならタイミング見て、なんで会いたくなかったか理由探ってみようぜ!」


 なんて心強い味方だろう。イェンスは「ありがとう、恩に着る」と無骨な手を握りしめた。「大層だな」と笑われたが、スヴァンテはどこか誇らしげだ。


「ま、俺たちゃ皆あんたの味方だからさ」


 副船長が当然のように告げた言葉に船員たちはうんうんと頷いた。




 ******




 天井板の隙間から、高く、低く、ルディアの知らない遠い異国の言葉が零れ落ちてくる。

 倉庫の隅の小さな部屋にはハンモックが二つ吊られているだけだった。その奥の一方に揺られながら、レイモンドは無言で背中を向けている。

 槍兵が疲れているのは見ればわかった。酷く余裕のないことも。


(やはりオリヤンを説得して、船を移らずにいるべきだったか)


 後悔がルディアの胸にせり上がる。己としてもレイモンドがここまで嫌がるとは考えていなかったけれど。


(初めてだ。こいつが人の輪に溶け込もうとしないなんて)


 多分レイモンド一人だったらここには来ていなかっただろう。我慢を強いたとわかるのがつらい。偉そうに借りを返すなどと言って、結局何もしてやれていないではないか。いつもいつも、こちらの都合を押しつけるばかりで。


(イェンスか……)


 しょんぼりと部屋を出ていった男の顔を脳裏に浮かべ、ルディアは以前の、コリフォ島でのイーグレットとのやりとりを思い返した。


 ――レイモンド君、ときに君は顔に落書きをされると不愉快かな?

 ――植物の汁で模様を描いてみてもいいかい?


 両頬に刻まれた二本の線、額の紋様、鼻にかかった大きな傷痕、どれもあのとき描かれたものに酷似している。オーロラの全貌を眺めることができるのも北辺海以北だけだ。


(もしかするとあの男は、あの人を知っているのかもしれない)


 そう考えると胸が震えた。仮に推測が当たっていたとして、何か話せるわけではないが。


(あの人を殺した私に、言えることなど何もない)


 今はそれよりレイモンドだとルディアは小さくかぶりを振った。

 簡単に受け入れることのできない何かが彼にはあるのだろう。せめてわずかでもその苦しみをやわらげてやりたい。


(難しいものだな、親子というのは)


 北辺語の談笑は相変わらず容赦なく降り注いでいた。そっと耳を澄ませてもレイモンドの寝息はなかなか聞こえてこなかった。





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