第1章 その1
「お父さんだよ」と示された男を見ても、レイモンドにはさっぱり状況が飲み込めなかった。オリヤンがイェンスと呼んだ金髪碧眼の海賊――本当は毛皮商らしいが、一見したところ海賊にしか思えなかった――は確かに己とよく似ていたが、レイモンドには父に会う気などこれっぽっちもなかったし、今更対面するなどと夢にも思わなかったから、まったく虚をつかれてしまったのだ。
ひと言も口にできず、ただぽかんと見つめ返す。北辺人特有の長い手足と、半裸に熊皮のマントという前時代的ないでたちと、いわくありげな刺青や傷痕に覆われた顔を。
あちらも半ば息を詰め、しばらくピクリともしなかった。薄い水色の双眸がレイモンドに向けられて、頭の天辺から爪の先まで辿り尽くす。それが終わると男はくぐもった声で呟いた。
「タッウ……、ハーヤ……、ヘヌンサリーヤウビレレフ……!」
知らない外国語にどきりとする。長い髪を振り乱し、イェンスは桟橋に膝を折った。
波の音に低く嗚咽が入り混じる。とめどなく涙を流し、跪いた男は天に祈りを捧げていた。まるで感謝の意でも示すかのように。
(なんだこれ……)
嫌悪感がせり上がり、レイモンドは眉をしかめる。男の傍らではオリヤンが「北辺語じゃ通じないよ」とイェンスに伝えていた。助言にはっとして熊皮の北辺人が立ち上がる。
「すまん、嬉しくて動揺した。まさか本当にこんな日が来るなんて……!」
今度は流暢なアレイア語だ。喜びに浸り、少なからずはしゃぐ二人を一瞥し、レイモンドは不快感を強める。目の前で繰り広げられている光景が茶番にしか見えず、吐き気がした。
嬉しい? 何がだ? その涙はなんなのだ?
「……どういうこと?」
尋ねた声は自分のものとは思えないほど荒んでいた。すぐにオリヤンが振り返り、的外れな返事をよこす。
「ああ、レイモンド君。さっきイェンスが言ったのはね、君が無事に十八歳を迎えられて良かったと――」
「いや、そうじゃなくてさ。なんなのこれ?」
いつもの愛想笑いはできなかった。オリヤンには何から何まで世話になっているというのに。
最初から俺の父親が誰か知っていた? だから北へ向かう船に乗せたのか? 親切心でもなんでもなく。
「あ、ええとだね……」
亜麻紙商はやっとレイモンドの不機嫌に気づいたようだ。寝ぼけた顔の男を一旦脇に置き、なだめる素振りを見せてくる。それさえ許容できなくて、肩に伸びてきたしわくちゃの手を振り払った。
「裏でこそこそ、こんなお膳立てしてたのかよ……!」
商船のはしごを降りたルディアは荒々しいレイモンドの声に瞠目した。港に戻ってきたオリヤンをいち早く迎えに飛び出した槍兵は、なぜかその亜麻紙商を激しく睨みつけている。
青筋を立て、頬を強張らせ、険のある形相だった。これまで見たことがないほどに。
(なんだ? どうしたんだ?)
レイモンドが怒りを露わにするなど滅多にない。否、これが初めてなのではなかろうか。軽い不平不満ならいくらでも口に出すけれど、どんなときも彼は持ち前の天真爛漫さを忘れないのだから。
(大商館で問題でも起きたのか?)
歩を早めようとしたルディアの腕が後ろからグイと引っ張られる。思いきりつんのめる羽目になり、「おい!」と金細工師を怒鳴りつけた。
「なんの嫌がらせだ。さっさと離せ!」
「ま、マズいって。あ、あいつイェンスじゃね? 近づいたら災難に遭うぞ!」
「はあ? イェンス?」
パーキンが震えながら指差したのはオリヤンと連れ立って現れた長身の男である。おそらく窃盗容疑をかけられていた亜麻紙商の友人だろう。
何が災難だ馬鹿馬鹿しい。手を振りほどき、ルディアはレイモンドのもとに急いだ。臆病者はそのまま埠頭に置いていく。
「……!」
驚いたのは直後だった。毛皮のマントに熊の頭がついているくらいで動揺はしなかったものの、人間の頭のほうには否応なしに目を奪われた。レイモンドと対峙していたのは、彼と血縁関係にあるのが一瞬で知れる男だったから。
「黙っていてすまなかった」
ルディアには目もくれず、オリヤンが年若い友人に謝罪する。レイモンドは眉間に濃いしわを寄せ、亜麻紙商の言い訳を聞いていた。
「悪気はなかったんだよ。ただ本当に君たち親子を上手く引き合わせられるかわからなかったから……。急に父親だなんて言われて戸惑うかもしれないが、イェンスは事情があって君と一緒に暮らせなかっただけなんだ。ずっと君の身を案じていたんだよ。だからどうか、気を悪くしないでほしい」
(ち、父親だと? このイェンスとかいう男がレイモンドの?)
誰からも否定の声は上がらない。火を見るよりも明らかだということもあるだろうが、どうもそれ以前にオリヤンがレイモンドの出自を知っていた風だ。タダで船に乗せてくれるなど随分太っ腹だなと思っていたら、彼は彼で思惑があったらしい。
ルディアはちらりと隣の槍兵を見上げた。張りつめた横顔は強い拒絶の色を示している。日頃能天気なこの男がきっぱり「会いたくないし知りたくもない」と言っていた相手だ。心中は察するに余りあった。
「レイモンドって言うんだな。パトリア風だが、いい名前だ」
と、無言の息子にイェンスが笑いかける。親しげに近づかれ、レイモンドは今にも男を突き飛ばしそうだった。これはまずいとルディアは咄嗟に間に割り込む。
「オリヤン、場所を変えて詳しく説明してもらえないか? できれば船で、我々だけで」
背に槍兵を庇いつつ亜麻紙商に問いかけた。オリヤンも、レイモンドの反応が芳しくないのを見取って「あ、ああ」と頷き返す。どうやら彼は親子の対面がもっと喜ばしいものになると考えていた様子だ。
「悪い、イェンス。混乱させたみたいだし、一度きちんと話してくるよ。また後で落ち合おう」
「わかった。いつも通り北辺海まで来るんだよな? 俺も皆に釈放されたって伝えてくるわ。濡れ衣着せられそうになって心配してるだろうし」
提案は通ったらしい。イェンスが一歩引いてくれてほっとする。
「大丈夫か?」
レイモンドを振り仰ぐと「……おう」と抑揚のない声が返った。額はいやに青ざめて、唇も固くなっている。もう少し落ち着かせたほうが良さそうだなとルディアは彼の腕を引いた。
「とにかく船に戻ろう」
イェンスと物理的な距離を取るべく歩き出す。けれど気遣いはあまり意味をなさなかった。さっさとこの場を離れさせたかったのに、真摯な声に呼び止められて。
「なあ、レイモンド、先に一つだけ謝らせてくれないか」
槍兵の足がたちまち凍りつく。振り返ろうとしない息子にイェンスは続けた。
「軽はずみな真似をして、女にも子供にも酷いことをしたとずっと悔いてきた。だけど今、お前がこんなに大きくなって涙が出るほど嬉しいよ。……本当に、本当にすまなかったな」
そう言って男は深々と頭を下げる。他人のルディアにも父親としての愛情が汲み取れるほど深々と。
抱いていたイメージと違って困惑した。我が子を捨てた人でなしだと聞いていたのに。
「…………」
盗み見た槍兵の目は冷たかった。
とにかくこれが、レイモンドと彼の父の、初めての邂逅となったのである。
******
いつも和気あいあいと食事を取る船長室は気まずいムードに包まれていた。常の明るい彼らしくなく、レイモンドはにこりともせず席に着く。
どうやら自分は段取りをしくじったらしい。眉を歪めた青年の前に腰かけ、オリヤンは胸中で溜め息をついた。たとえこうなるとわかっていても、やはり彼には何も告げずにここまで来たに違いないが。
「さて、何から話したものか……。とりあえず、私とイェンスの関係についてかな?」
問いかけるもレイモンドの反応はない。こじんまりしたテーブルに肘をつき、そっぽを向いているだけだ。そんな彼を隣に座るブルーノが心配そうに眺めていた。普段はどちらかと言えばブルーノが心配される側なのに。
機嫌を取っても無駄だなと早々に諦めをつけ、オリヤンは話を進めることにした。喋れば耳には入るだろう。知れば反発も減じるはずだ。彼はイェンスの呪いを恐れているわけではないのだから。
「……二十年ほど前まで私はイェンスの船で副船長を務めていた。陸に下りて、リマニの街で暮らし始めてからも仲間であることに変わりはなかったよ。私が商会を運営しているのはイェンスたちのためさ。儲けの半分を仕送りしているんだ。彼らだけでやっていくのは正直難しいからね」
レイモンドの膨れっ面がじわりと悪化する。繋がりを隠していたのがよほど気に入らないらしい。険しい額には「騙された」と書いてあった。
「我々が縄張りにしていたのは北の海――いわゆる北辺海と北パトリア海だ。西パトリア海以南に下ることは少なかったんだが、ある年アクアレイアに用事ができてね。皆で漕ぎ出すことになった。あいにく私は熱病にかかり、王国を見る前に下船したんだが、イェンスたちはついでにアレイア地方を回ったり、ノウァパトリアまで足を延ばしたり、未知なる海域を楽しんでいたよ。一年はゆっくりしていたんじゃないかな」
二十歳を迎え、王位を継ぐべく故郷に戻らねばならないというイーグレットを皆で送っていった夏。オリヤンがトリナクリア島で豪商の娘の熱烈な看病を受けていた頃、イェンスは東方巡りをして過ごした。そして周遊ののち、彼は若き王の栄華を拝むべくアクアレイアを再訪したのだ。
「……イェンスが君の母親に会ったのは十一月の精霊祭だった。仮面の魔力に惑わされ、一夜の恋に落ちたものの、なんてことをしたのだろうと冬中怯えて暮らしていたよ。君も噂で聞いた通り、イェンスが神に呪われた不吉な存在だというのは偽りない真実だからね」
神だの呪いだの、突然話がオカルトめいたせいで若者たちが面食らう。だがオリヤンに嘘ではないと力説する気は起きなかった。疑ったり笑ったりできるのは最初だけだとわかっているから。
そのうち嫌でも信じざるを得なくなる。イェンスは普通の人間ではないと。
イェンスの周囲には時々うっすら透けた男の右手が浮いていることがある。彼にはそれが当たり前に「視えて」いるようだった。オリヤン自身、何度か目にした覚えがある。嵐の海で、街の市場で、血飛沫の舞う戦場で。
「しばらくすれば君たちにもわかるだろう。だがその前に、どうしてイェンスがそんな身の上になったかだけは伝えておこう。彼は同情を欲しがる人間ではないし、自分のためには何も話さないだろうからね」
本題はここからだった。オリヤンは北方に馴染みの薄い二人のため、ひと昔前の情勢について話し始めた。パトリア人には北辺の野蛮人として一緒くたにされがちな、二つの部族の因縁を。
「ルスカ族、カーモス族の名を聞いたことがあるかい? 昼を支配するルスカ神を信奉するのがルスカ族、夜を支配するカーモス神を信奉するのがカーモス族だ。両者は長いこと憎み合い、争い合ってきた。祖父の代くらいまでは勢力も拮抗していたみたいだが、北部の開拓に進出してきたパトリア人とルスカ族が手を組むや、カーモス族は東の荒れ野に追い詰められていったんだ。我々の若い頃は、カーモス族討伐が大詰めに差しかかったところだった」
博識なブルーノが小さく頷く。彼は辺境の歴史までよく学んでいるらしい。教育にせよ、商業にせよ、アクアレイアはよほど進んだ都市なのだろう。ほんの少年だったのにイーグレットも物知りで、しばしば手助けしてくれたことを思い出す。
「私やイェンスはルスカ族に属している。いや、属していたと言うべきかな。イェンスは、幼くして神殿に召し上げられた未来の最高祭司だった。だが彼はカーモス族の襲撃に遭い、七つの歳から十年もの間、夜の神の生贄になるべく監禁されて育ったんだ」
おどろおどろしい話にレイモンドの肩がぴくりと揺れた。父親の不幸に彼が心を痛めてくれるのを期待してオリヤンは続ける。
「我々の神は激しく厳しい気性でね、不可抗力でも約束を破った人間や膝元を離れた人間を許さない。敵の手中となったイェンスはルスカ神の怒りを買い、見捨てられた身となった。それだけでなく成長した彼は、今度は対カーモス族の有用な『兵器』として奪還されたのさ」
北辺の民にとって生贄の儀式は重要だ。かける時間が長いほど、流れる血が神に近いほど、成功したとき部族は多大な恩恵を受けられる。その逆に、失敗すれば峻烈な罰が待っていた。
「イェンスは十八歳の誕生日に殺されるはずだった。討伐軍が彼を救い出したのはその前夜だ。儀式を台無しにされたカーモス族は、以後イェンスを極度に恐れるようになった。カーモス神が彼を通して一族に『天罰』をもたらすからさ。
だがそれでイェンスがルスカ族の仲間に戻れたわけじゃなかった。ルスカ神も、ルスカの神官でありながらカーモス神の気配を纏うイェンスを嫌悪した。だからルスカの民は自分まで神に見放されまいとイェンスに近づかなかった。彼の側にいても平気だとされたのは、初めからいない者扱いの不義の子とか、刑罰を受けた犯罪者とか、まあとにかく、問題のある人間だけだったんだ」
私もその一人だとオリヤンは告げる。イェンスがいてくれたおかげで故郷を追放された後もなんとか生きてこられたのだと。
「イェンスのもとには様々な境遇の、だが似たり寄ったりの人間が集められた。一隻の船が与えられて、我々はカーモス族討伐軍の末席に加わった。ほかには生きていける場所がなかったからね。獅子奮迅の働きを見せたよ。そうしたらイェンスはますます人々に恐れられるようになっていった」
オリヤンはイェンスの奇襲夜襲によってしぶとかったカーモス族もほとんど姿を消したことを語った。軍務が終わると毛皮の売買で生計を立てたことや、北パトリアの商人に幾多の辛酸を舐めさせられたことも。
「しかしイェンスにとって一番つらかったのは、いつまで経っても『呪われたイェンス』の名が消えなかったことだろう。決して口には出さなかったが彼も自身を恐れていた。イェンスが君と暮らせなかったのは呪いを移さないためにだよ。少なくとも子供が十八歳になるまでは生贄を食らい損ねたカーモス神の目を逸らすために関わっちゃいけなかった。血を分けた我が子だからこそ顔も名前も知ってはいけなかったんだ」
ルスカ神でもカーモス神でもなく波の乙女の加護を受けるアクアレイア人であれば十八歳を過ぎれば会っていいはずだった。イェンスにできたのは、ただ耐えて待つことだけだった。
「イェンスは君を捨てたんじゃない。側にいたくてもいられなかったんだ」
わかってくれただろうかとオリヤンはレイモンドの横顔を見やる。だがその眼差しは相も変わらず刺々しかった。
「……理由ってそんだけ? ま、別にどーでもいいけどさ」
青年は乱暴に椅子を蹴って立ち上がる。そのまま船長室を出ていこうとするのでオリヤンは慌てて彼を呼び止めた。
「レイモンド君! イェンスは本当に、心から君を大切に思っているんだ! 私がイオナーヴァ島で君に会ったことを伝えたときも彼は」
「つーかさ、なんでオリヤンさんは俺にひと言も教えてくれなかったわけ? 俺が会いたがらないかもとか全然考えなかったの?」
唇は笑っているが目は少しも笑っていない。イェンスの凄惨な運命に露ほどの憐憫も示さないとは予想だにせず、オリヤンはたじろいだ。レイモンドなら父親を慮る優しさを見せてくれると思ったのに。
「……イェンスのほうが君に会うのを怖がるかもと思ったからだ。私が君より彼の気持ちを優先したことは恨んでくれて構わない。だが君を連れてきたのは私の独断で、イェンスには関係のないことだ。君も苦労したと思うが、どうか温かく接してやってくれないか? 君が考える以上に彼は呪いに縛られてきたんだよ。それだけはわかってほしい」
優しい男なんだとオリヤンは友人を庇った。しかしいつまでも了承の返事はない。レイモンドはすっと脇を通り過ぎ、「俺、部屋に戻るわ」と船長室の扉を開けた。
「うわわっ!」
と、そこに盗み聞きしていたと思しきパーキンが転がってくる。レイモンドはそれも無視して甲板をすたすた歩いていった。すぐにブルーノが後を追おうとしたけれど、もたつく金細工師に通り道を塞がれる。空気を読めない厄介者は「えへへ」と曖昧な笑みを浮かべ、「だ、旦那様ってイェンスのお仲間だったんですね?」などと尋ねた。
「……それがどうかしたのかな?」
多少苛立ちながら応じる。身振りでどけと示したが、パーキンは気づかずに手を揉んでいた。
「い、いえ、前に伺った、人を殺したって話も本当なのかなって……」
どこまでも不躾な男である。深々と嘆息し、オリヤンは浅薄も浅薄な問いに答えた。
「そうだよ、たった一人の肉親を殺したんだ」
一瞬ブルーノが息を飲んだ。イメージを裏切ったかなと自嘲する。
「う、うはは、せ、性格に似合わないワイルドな過去をお持ちで……っ」
真っ青になり、金細工師は脱兎のごとく逃げ出した。扉が開くとブルーノも目配せだけしていなくなる。多分「ついてくるな」という意味だろう。少しの間、レイモンドをそっとしておいてやれと。
取り残された小さな部屋でオリヤンは肩を落とした。最初から上手くいくだなんて楽観視はしていなかったが、もうちょっとましな始まりになると踏んでいたのに。
(なんにせよ、こうして縁はできたんだ。親子なんだし、側で暮らせばきっとすぐ打ち解けられるはずだ)
それこそが楽観視にほかならなかったとオリヤンが悟るのはもう少し先の話である。このときはまだイェンスに肩入れするあまり、レイモンドの胸中も、事態の深刻さも、少しも理解していなかったのだった。
******
来たれ、我が軽舸に 誰が汝の明日在ることを知らん
青春は麗し されど川のごとく過ぎ去る
愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを――
ずっと昔、イーグレットに教わったアクアレイアの抒情歌を口ずさみながらイェンスは広い商港の突き当たりを目指して歩いた。足取りは軽く、重石でもつけていないと宙に浮きそうなほどである。
ああ、今朝はなんて素晴らしさだ。俺は嬉しい。本当に嬉しい。
(レイモンド、レイモンドか)
声には出さず、大事な名前を何度も唱える。長い呪縛が消え去ったのを実感して歓喜せずにはいられなかった。こんなところで踊り出せばまた通報されるだろうから、鼻歌で紛らわせておくけれど。
「おーい、皆! 帰ったぞー!」
船着場の最奥にひっそりと停泊中のコグ船に声を張り上げる。すると船縁に数人の老水夫が顔を出した。
「イェンス! おいお前ら、イェンスじゃ!」
「おお、無事で良かった!」
帰還の知らせを耳にしてほかの仲間も集まってくる。投げよこされた縄梯子を伝い、甲板に上がった船長を皆はぐるりと取り囲んだ。
「イェンス、戻ってこれたんだな!」
「ったくどうなることかとヒヤヒヤしたぜ」
「パトリアの嘘つきども、ふざけた言いがかりをつけおって! なーにが聖女パトリシア様じゃ!」
「ほんとほんと、ここまで来て詫び入れろっての!」
憤慨する彼らを「まあまあ」となだめる。アミクスとの不仲は今に始まったことではない。化かし合いはお互い様だし、無罪放免となった今、イェンスに話を蒸し返す気はなかった。
「そんなことより聞いてくれ、この街にオリヤンが来てるぞ!」
熱しやすい彼らには別の火種を与えてやる。一年ぶりの仲間の名前に「おお」と明るい声が上がった。そこに「俺の子供を連れてきてくれたんだ。こーんなでっかくなっててさ! もういっぱしの男だったぜ!」と付け加えれば甲板は大いに沸き立つ。
「そりゃ本当か!?」
「そうか、ついに会えたのか!」
「ああ、しかもオリヤンが言うには俺が釈放されたのはレイモンドが――あ、息子がレイモンドっていうんだがな、裏で頑張ってくれてたおかげだそうだ。もう感無量でさ!」
「おおおお!」
ろくな経緯も説明していないのに船上は早くもお祭り騒ぎだった。独り身の男ばかりで子供がいるのはイェンスだけだから、皆レイモンドがやって来る日を心待ちにしていたのだ。
昨夏までオリヤンしか知らない隠し子だったとは思えない。皆自分のことのように手放しで喜んでくれて、感謝してもしきれなかった。肝心のレイモンドはなんだか不服そうだったけれど。
(やっぱ俺みたいなのが父親じゃ嫌だったかな? もっと知的で都会的な父親が理想だったとか……。いや、けどこればっかりは仕方ねーもんな。腹決めていい親父になれるように頑張らねーと!)
むんと拳に力をこめる。脳裏に息子の姿を描けば心はおのずと鼓舞された。何があってもきっと平気だ。最大の懸念は解消されたのだから。
(俺の祈りは呪いに勝った。あの首飾りは今も子供を守ってくれてる――)
大きな罪を犯してしまった精霊祭の三ヶ月後、どうしても気になって訪ねた三度目のアクアレイアでイェンスは例の娘と再会した。折しも都はカーニバルの真っ最中、正体は隠したままで済んだ。
家のドアを叩いたら身ごもっていると聞かされて、目の前が暗くなったのを覚えている。悪い予感が当たってしまった、取り返しのつかないことをしたと。けれどあのとき首に提げていたお守りだけは渡せて良かった。フサルク文字を刻んだ牙と、子供を産んでくれた女に改めて感謝しなくては。
「で、その息子はどこにいるんだ? まだオリヤンの船なのか? 早く俺たちにも会わせてくれよ! なんなら北辺海までこっちの船に乗せてやろうぜ!」
と、興奮気味のスヴァンテに熊皮のマントを引っ張られる。オリヤンの引退後、最年少ながら副船長の座を継いだ男の提案に皆は揃って飛びついた。
「おお、そいつはいい! めいっぱい歓迎してやろう!」
「イェンスの息子はわしらの息子も同然じゃ! 可愛がってやらんとな!」
「そうと決まれば、ほらイェンス、ぼさっとしてねえで呼んでこいや!」
「うわっ! こら! 押すんじゃねーって!」
戻ってきたばかりなのにコグ船を追われ、イェンスは再度桟橋に下ろされる。困った顔をしてはみせたが胸は喜びに満ちていた。仲間たちも息弾ませて船縁から手を振ってくる。
「大急ぎで甲板片付けておくぜ!」
「酒とつまみもたっぷり用意しとくからな!」
「うわっはっは! 今日は宴会じゃ!」
「ったくお前ら……! ありがとな、任せたぞ!」
年甲斐もなく頬を赤くしてイェンスは来た道を引き返した。初めこそ普通に歩いていたが、だんだん早足、駆け足になる。
(レイモンド……! レイモンドって呼んでいいんだ、これからは!)
ああ、今朝はなんて素晴らしさだ。俺は嬉しい。本当に嬉しい。
ずっと会いたかった。会えば災いを招くかもしれなくても、それでもずっと。
(俺たちどんな親子になれるだろう? レイモンドは、俺のことなんて呼んでくれるのかな?)
抑え込んできた思いが溢れ、鼓動は逸るばかりだった。朝靄の晴れた輝く海はきらきらと眩しかった。
******
真面目くさった顔をして、呪いだのなんだの馬鹿馬鹿しい。そう胸中に吐き捨ててレイモンドは客室の扉を閉める。力を入れすぎて激しい音が響いたが、そんなことはどうでも良かった。我慢できない苛立ちを何かにぶつけねば頭がどうかしそうだった。
あまりにも勝手ではないか。予告もなしに、この世で一番会いたくなかった男に引き合わせるなんて。
(大体なんであいつの身の上話なんか聞かされなきゃなんねーんだ? 可哀想だと思うなら納得しろって言いたいのか? 十八年もほったらかしだったくせに)
ずっと君の身を案じていたんだという言葉がよぎり、気がつけば備え付けの長椅子を蹴り飛ばしていた。痛みで一瞬我に返るが平静は長く保てない。あの熊皮のマントのはためきがちらついて。
(くそっ……)
一体どんな顔をすると思っていたのだろう。オリヤンも、父親だとかぬかすふざけた男も。
むしゃくしゃする。とても冷静になどなれない。けれど部屋の外でノックをためらう気配があるのを無視することはできなかった。こんなところで自分がずっと暴れていたら彼女の休む場所がない。
「……入ったら?」
極力いつもの声音を意識して呼びかけた。間もなくルディアがドアを開く。
「レイモンド」
彼女にしては珍しく、表情は気遣わしげだった。話を聞いたほうがいいか、しばらく一人にするべきか、決めかねているのがわかる。レイモンドは片眉を下げ、へらりとルディアに笑いかけた。
「いやー、こんなことってあるんだな! 一杯食わされたっつーかなんつーか。まさか知らない間に親の友達と知り合いになってるなんて、普通は思わねーよなあ!」
「……レイモンド……」
茶化して笑い飛ばそうとしたのに彼女がそれに合わせてくれない。たちまち空気は重くなり、気まずくて仕方なかった。
何を言われるんだろうか。会えて良かったじゃないかとか、そう悪い男ではなさそうだぞとか言われたら、なんて返せばいいんだろう。お決まりの家族論など聞きたくない。それは自分にはなんの役にも立たないものだ。
「…………」
しばらく身構えていたけれど、ルディアは黙ったままだった。静寂を破ったのも「言葉が見つからなくて、すまない」なんて台詞で拍子抜けする。
「何か気の紛れることを言えればいいんだが……」
ルディアがオリヤンの味方でなくて心底安堵した。吐き気がするほど嫌だということ、彼女はわかってくれているらしい。
「いや、いいって。十分助かったよ。いきなりすぎて頭真っ白になってたし、あのまま桟橋で話してたらオリヤンさんかあいつのどっちか殴ってたよ」
助け舟に感謝を述べるとさっき蹴りつけた長椅子に腰を下ろす。「そうか」と呟いて彼女も向かいの寝台に腰かけた。
また沈黙。まるでコリフォ島を出た頃みたいな雰囲気だ。何か話さなければと思うが何も言葉になってくれない。ただ息が苦しくて。
「横になったらどうだ? 昨日寝ていないだろう」
同じく徹夜明けのルディアが休養を勧めてくる。
「いや、だったらあんたが寝ろって。俺こんなテンションじゃ寝つけねーし」
首を振ると彼女は「寝つけなくても目を閉じていたほうが神経は休まる」とレイモンドをたしなめた。
「けどあんたも疲れてるだろ? パーキンのせいであちこち走り回ったし」
「私のことはいい。さっさと横になれ」
「でもさ」
「でもじゃない。わがままを言うな」
「ええー、わ、わがままって。気ィ回してんのにそりゃねーだろ?」
「うるさい。早く寝ろ」
「あっじゃあ子守唄とか歌ってくれたら」
「レイモンド!」
軽口の応酬めいてきたところで目を見合わせ、どちらからともなく吹き出す。「ありがとな」と今度は作り笑いせずに言えた。口角を上げた彼女のやれやれという表情が慕わしい。今なら少し休めそうかもとレイモンドは長椅子に足を上げた。
そのときだった、通路からオリヤンの声が響いたのは。
「レイモンド君、ちょっといいかね?」
やっといつもの調子に戻りかけていたのに努力はすべて水の泡と化す。頬が引きつるのを感じつつ、なんとか「何?」と問い返した。
ルディアも小さく眉を寄せる。鍵なんてご大層なもののついていないドアはすぐに開け放たれた。
「イェンスが君を迎えにきてるんだ。北へ向かうのはどうせ同じことだから、しばらく船を乗り換えてくれないか?」
「はあー!?」
思わぬ頼みにぞっとする。何を言っているのだこの人は。ついさっき怒りを表明したばかりなのに、何も聞いていなかったのか。
「君が乗り気でないことはわかってるよ。しかし私もイェンスの友人として、彼がどんな男か知ってもらいたい。もし断ると言うのなら、悪いが君たちにはここで降りてもらおうと思う」
「なっ……!」
持ち出された条件にレイモンドは絶句した。言うことを聞かねば放り出すぞと脅しているのだ、オリヤンは。こちらにはほかに頼れる知人がいないと百も承知で。
「約束と違うじゃん!」
弱い反論に過ぎないのはわかっていたが責めずにはいられなかった。信じて身を寄せた相手にこんな仕打ちを受けるなんて。自分一人なら「わかったよ、こんな船こっちから降りてやる!」と飛び出しているところだ。
「君にとっても悪い話じゃないよ。船の皆は君に好意を持っているし、きっと愉快に過ごせるはずだ。さあ、わかったら支度してくれ」
オリヤンはレイモンドを急かし、立てかけておいた槍を手渡した。どうやら本気で拒否権を与えるつもりはないらしい。
「……あんたそういう人だったんだ?」
苦々しく吐き捨てる。オリヤンは何も答えず、こちらを見もしなかった。彼はただ「イェンスと腹を割って話してほしい」と繰り返すだけだった。それで全部上手く行くからと言いたげに。
――冗談じゃない。余計なお節介はいい加減にしてくれ。
そう撥ねのけられたらどんなに良かっただろう。わかっている。こんなときいつも、我を通せるのは金を持っているほうなのだ。
「……私も一緒に乗り換えていいか?」
と、そのとき客室でもう一つ声が響いた。見ればルディアが「一人より二人のほうが気詰まりせずに済むだろう?」と荷袋を手に立ち上がっている。
「おや、君も行ってくれるのかい? 怖くなっても次の港までこっちに戻ってこられないよ?」
意外そうに亜麻紙商が瞠目した。ルディアは事もなげに答える。
「迷信深いタチではないしな。それにくだんの呪いは北辺人以外に効果ないのだろう?」
「まあそうなんだが、イェンスの周りでは色々と不思議なことが起こるから、パトリア人にも忌避されているんだよ」
「問題ない。レイモンド、お前はどうだ?」
迷惑でないか尋ねられ、一瞬返答に詰まる。
「そ、そりゃ一緒のほうが俺は嬉しいけど……」
悩んだのは、イェンスの船はオリヤンの船ほど安全でないのではということだった。なにしろあちらは社会不適合の烙印を押された船員だらけだそうだし、王女様を乗せていいか心配だ。たとえ別行動することになっても彼女は慣れた船に残すべきでないかと思える。
「いいのかよ? あんたにゃ居心地悪いだけなんじゃねーの?」
「構わんさ。お前には借りばかり作っているから、たまには返しておかんとな」
微笑とともに青い双眸が伏せられる。ただでさえ心労のかさんでいる彼女をつまらない私的なごたごたに巻き込むのは気が引けた。そんなことを言ったらまた「わがままはやめろ」とどやされそうだが。
「うん、それじゃそうしてもらおう。二人とも下に降りてくれ」
ともあれ船主の意向には逆らえない。レイモンドたちはそれからすぐに古式ゆかしい横帆のコグ船に移ることになった。
――長く忌々しい日々は、こうして幕を開けたのである。




