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ルディアと王都防衛隊~海の国の入れ替わり姫~  作者: けっき
第3章 朝もやの向こう
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第3章 その3

 帆船は広々と奥行きの深い湾に入る。港町──いや、湾港都市と言うべきか──はこれまた雄大な川の河口に位置していて、東西の岸と大きな中洲に赤い屋根の家並みをぎっしりと詰め込んでいた。

 中洲は商業地区らしく特に立派な石造りの港が備わっている。しかも街には網目のように水路が巡り、橋の多さも舟の多さもアクアレイアを彷彿とさせた。


(うわ、姫様大丈夫かな)


 レイモンドの心配をよそに「ここがクアルトムパトリアだよ」とオリヤンが教えてくれる。毎年の航海で彼の商会が必ず立ち寄る街だそうだ。

 第四(クアルトム)のパトリア。ありがたそうなその名前は最も古い居住区が聖都と同じく七つの丘陵に囲まれていることにちなんでつけられたという話である。堂々とパトリアを自称するだけあって繁栄ぶりは確かに見事なものだった。


(パトリアって本来は『故郷』って意味なんだっけ)


 思い出して頬が引きつる。波を越えて響いてくる威勢のいい水夫たちの声も全盛期のアクアレイアと重なった。ルディアのために中洲の湾港だけは避けてほしかったけれど、船は無情に河の中央へ進んでいく。


「うん?」


 と、オリヤンが怪訝な声を立てた。パーキンが「旦那様、どうかしましたか?」と問うと「いや、あそこ」と亜麻紙商は船着場の一角を指差す。

 そこにあったのは美しく飾られた、とびきり豪華な帆船だった。船縁を覆う紅の飾り布も、船首を守る黄金製の女神像も、普通の商船にはまず見られないものである。おまけに望楼の頂にはパトリア大神殿とパトリア王家の聖なる旗が掲げられていた。


「ありゃ、なんか高貴な方がご滞在中っぽいですねえ」


 怖い人じゃなきゃいいですがと金細工師が肩をすくめる。そうこうするうち商船は桟橋に取りつき、一行はクアルトムパトリアの商港に降り立った。


「いやーあんたたちついてるねえ。今この街には聖女パトリシア様がおいでになっているんだよ! きっと女神様のご加護があるよ!」


 高貴な方が誰なのかは最初に入った税関でただちに知れた。年老いた役人が実に嬉しそうにニコニコと、何も聞かないうちから話してくれたからだ。


「へー、聖女パトリシア様?」


 誰だっけ、と思いつつ復唱する。名前を聞いても思い出せないということはきっと見たことがないのだろう。昔から人間に関する記憶力だけはいいのだ。知っていればすぐにわかる。


「パトリシア・ドムス・オリ・パトリア。パトリア王家の第七王女だな。月の女神ディアナに仕える筆頭巫女で、年若いながら歴史や文化に造詣の深い学者としても有名だ」

「おお、なるほど」


 ルディアの耳打ちにレイモンドは拳を打った。それで大神殿の旗と聖王家の旗が仲良く並んでいたわけか。


「パトリシア様は何年も北辺で布教活動をなさっていたんだがねえ、適齢期になられたんで巫女の資格は返納して俗界に戻られるんだ。聖女としてはこれが最後の旅になるんだよ。お国に戻られたら屋敷の奥に引っ込められちまうかもしれないし、今のうちに尊いお姿をたっぷり拝んでおかなきゃねえ」


 オリヤンの船団が積荷のチェックを受ける間に老役人は愛想良く船主一行をもてなしてくれた。パトリシアの尽力でどれほど多くの北辺民が救われたか、またどれほど女神ディアナの霊力が高まったか、わざわざ丸椅子を引いてきて語ってくれる。


「本当にね、北辺はあの方のおかげで文明開化したと言っていい。ディアナの巫女姫が現地入りするまで北辺人は畑の耕し方も知らない野蛮人ばかりだったんだから」

「そうですか、ハハ……」


 特にパトリアの神々を信仰していない亜麻紙商は笑っていたが、少々居心地悪そうだった。だがそんな温厚なオリヤンが続く言葉には顔色を変える。


「護衛団だってすごいもんさ! 北パトリアの商業都市同盟アミクスが二十も武装船をつけてるんだ。それにここだけの話だが、北部じゃ名を聞いただけで大男も震え上がる、あのイェンスの船も来てる」

「えっ!? 本当に!?」


 驚くオリヤンに老役人は「ああ、この港には停泊していないがね」と自分のことでもないくせに妙に得意げに答える。レイモンドがルディアに「誰?」とひそひそ問うと「知らん」と淡白な返事があった。


「い、イェンスってまさかあのイェンス?」


 パーキンはイェンスなる人物について知っているらしい。金細工師の顔面は見る間に青ざめ、歯までガチガチ鳴り始める。


「どんな奴なの?」


 尋ねればパーキンは「知らねえのか!?」と大声で怒鳴り返した。


「北辺の超有名な蛮族さ! 熊みたいな男でな、海賊でさえ奴の船を見た途端剣を捨てて逃げ出しちまう。イェンスに近づくと古き神々の怒りを食らうって言われてんだ。実際これまで何人も呪いのせいで大怪我したり、頭がおかしくなったりしてて」

「はあー?」


 なんだそれはとレイモンドは顔をしかめる。蛮族? 古き神々の怒り? ということは異教徒ではないか。なんだってそんな男が聖女の護衛などしているのだ。


「御せるなら海賊よけにはもってこいの人材ということか。そいつもアミクスの一員なのか?」


 パーキンはルディアの問いにこくこく頷く。蛮族なのに北パトリアの組合に属しているとは一体どういうことだろう。危険人物かそうでないのかいまいち判然としなかったが、とりあえずその商業都市同盟とやらに宗教を理由とする加入制限がないことはわかった。


「俺の知り合いがイェンスとの取引で揉めた後、馬車に轢かれて右足切断したんだけどよ、そいつは『イェンスに右足で蹴りつけたせいだ』っつってたんだ……!」


 怯えるパーキンを見て老役人はフッフッフと急に人の悪い笑みを浮かべる。


「奴の船は湾のすぐ外に錨を下ろしてる。この港に入るまでに、西にも東にも北にも南にも動かないおかしなコグ船を見なかったか? もしも見たとしたらそれは……」


 恐怖を煽られた金細工師は「ヤダヤダ! 夜中一人で便所に行けなくなる!」とオリヤンに抱きついた。耳を塞ぐパーキンに老役人は更におどろおどろしい口調で迫る。


「イェンスが護衛を務めるのはこの街までだそうだから、あんたたちこれから北パトリアへ向かうなら、しばらく奴と同じ航路を行くことになるかもしれんなあ……」

「ギャー!! イヤだー!! いっそ殺せーッ!!」


 税関の天井に金細工師のけたたましい悲鳴がこだまする。そろそろ黙らせたほうが良さそうだ。

 と、レイモンドがルディアに目配せしたときだった。わあっと人々の明るい声が響いたのは。


「んん?」


 ふと窓の外を見やれば聖歌を合唱しながら歩く行列が目に入った。誰も彼も陽気で楽しそうである。


「おおっ、あんたたち! パトリシア様がお通りだぞ!」


 そう言うと老役人はイェンスの話題など綺麗に忘れ、大喜びで扉を開いた。




 ******




 好々爺の皮を被った税関役人はパーキンを脅かしたのと同じ口で「聖なる方に手を合わせていけ!」などとのたまう。自分の喋りたいことだけ喋って調子のいいクソジジイだ。これだから年寄りは嫌いなんだ。

 無遠慮に背を押され、パーキンが石造りの税関を出ると水路脇の通りには人が溢れ返っていた。どうやら聖女様のお散歩に下々の人間が喜んで付き従っているらしい。


「うわ、すげーな。大人気じゃねーか」


 同じく表に押し出されたレイモンドが感嘆の声を上げた。隣ではブルーノが「第七王女は一般庶民からの支持が厚いからな」などとまたもや知識人ぶっている。


(ケッ、聖女っつってもあのアホ聖王の娘だろ? どうせブヨブヨのダサダサに決まってらあ)


 鼻を鳴らし、パーキンは行列の先頭に目をやった。そうしてすぐに間違っているのは己のほうだと気づかされることになった。

 なぜならそこに立っていたのはディアナの化身と呼んで一向に差し支えない、たおやかで美しい姫だったのだ。


(グワーッ!)


 聖なる光輝に目を焼かれ、パーキンは両手で頭を庇った。四十余年の人生で汚れに汚れた自分には痛いほどの清廉さが襲いかかってくる。さながらそれは透明な風圧の波状攻撃だった。

 年齢は十七、十八歳であろうか。柔らかなベージュの髪を肩の上でさらりと流し、その人は優しいパトリアグリーンの瞳で周囲に集う女子供らを見つめていた。唇にはふんわりと、胸が温かくなる可憐な微笑みを湛えている。控えめな真珠飾りのついた青いケープ、同じ色の清楚なストレートドレス、神官職であることを示す縦長帽もよく似合う。

 彼女の一挙手一投足が慈愛と癒しを体現していた。我欲にまみれた己でさえパトリシアを見ているだけで心の澱みが薄らぐ気がする。


(す、すごいぜ。これが本物の聖女様か……!)


 ふるふるとパーキンは全身をわななかせた。その姿、いでたちだけで人心を救う存在がいるとは。

 なんだか生まれ直したようにさっぱりした良い気分だ。おお、今、魂の蝋燭に聖なる炎が灯された。おお、聖女よ! 月の巫女よ!


(あっそうだ! パトリシア様のお側に漂う清らかな空気を吸ったらイェンスなんて不吉な名前を聞いて穢れた耳が浄化されるんじゃないのか!? なんなら運気が上がるご利益もあったりして!?)


「パトリシアさまあ!」


 そう考えてパーキンは駆け出した。行列をぶった切り、どかどかと大股走りで目当てのお姫様に近づく。──が。


「無礼者!」


 突然目の前に刃が閃き、ヒッとパーキンは尻餅をついた。見れば聖女の護衛と思しき女騎士がこちらにレイピアを突き出している。

 ダークブラウンの髪をツインテールにした、まだ少女然とした娘だ。しかし身のこなしは俊敏で、パーキンが避けられるギリギリを突いて剣を振り回してくる。


「うわっ! 危ねッ! うわっ!」


 追い立てられたパーキンは尻を擦りながら後退し、あっさりと美しい人から遠ざけられた。


「パトリシア様は処女神ディアナに仕える処女巫女なのだぞ! 男が近づいていいと思うな!」


 女騎士は汚物を見る目でパーキンに忠告する。縮こまって「す、すみません」と詫びたものの、震えた足が彼女の銀の甲冑に触れてしまい、またもやキッと睨みつけられた。


「男の邪気が染み込んだらどうしてくれる!? 私をパトリシア様の第一騎士と知っての狼藉か!?」


 真っ白なハンカチで接触した部分をごしごし拭かれ、あまつさえそれを道端に投げ捨てられ、ショックのあまり涙目になる。そんなパーキンの腕を掴み、レイモンドとブルーノが「何やってんだよお前!」「ほら、こっちへ来い!」と後ろに引きずった。

 聖女一行にしては対応が酷すぎないか。何も公衆の面前でどつき回した挙句、怒鳴りつけることないではないか。


(そりゃ確かに俺は善良な市民ではないけどよお……)


 ぐすんと涙を飲み込んで心の中で「バーカ! ブース! 腐れ×××!」と女騎士を罵倒する。そのとき人垣のほうからこの世のものとは思えぬ美しい声が響いた。


「マーシャ、やりすぎです。男性が近づいたくらいで処女性が損なわれるはずないでしょう。ごめんなさいね、私の騎士が乱暴をして。大丈夫ですか?」


 聖女は自ら膝を曲げ、地べたの男に真っ白な手を差し伸べてくる。慈しみに満ちた尊顔がただ自分にのみ向けられている現実に動揺し、パーキンは一気に舞い上がった。


「お、おお、このくらいなんてこたないです! お手が汚れますので!」


 さっと自分で立ち上がり、恭しく頭を垂れる。この光景を遠巻きに見ていた者たちは「なんてお優しい方だ」「一国の王女だというのに全然偉ぶったところがない」と口々に彼女を褒めそやした。


(ああ、すごいぜ! この圧倒的な清らかさ! 聖女様は実在したんだ!)


 感動のあまりパーキンはパトリシアの面前で五芒星を切った。「おい、左回りだって知ってんじゃねーか」とレイモンドの突っ込む声が聞こえたが無視する。オリヤンも「普段悪さを働いている人間のほうがああいうお方に徳を感じるというのは本当だな」と零した気がするが、きっと聞き間違いだろう。


「お怪我がなくて良かったですわ。どうぞあなたにディアナの加護がありますように」


 それではと可愛らしくお辞儀してパトリシアは踵を返す。パーキンは思わず彼女に「お、お待ちください!」と叫んだ。聖なる人との邂逅がこれっぽっちで終わりだなんてあまりにも惜しかったのだ。


「どうなさいましたか?」


 振り返ったパトリシアは光り輝く笑顔を向けてくる。「あの、その、ええと」と会話を引っ張るパーキンにマーシャとかいう女騎士が舌打ちした。


(ど、どうする!? 何か記念になるものが欲しいけど、なんて言やいい!?)


 おぐしをひと房いただけませんかと頼むには彼女の髪は短すぎるし「お手が汚れますので」と言った手前、握手を求めるのも気が引ける。なんでもいい、何かないかと必死に考えを巡らせた。


(あっ、そうだ! あれがあるじゃねえか!)


 ぽんと打った手をパーキンは揉み手に変える。


「あのう、パトリシア様はどちらの宿にお泊まりなのでしょう? 実はお願いがあって、のちほど伺いたいのですが」


 そう擦り寄ると女騎士が「貴様なんぞに宿泊先を教える筋合いはない!」と剣で追い払おうとしてきた。その切っ先をかわしつつパーキンは「超絶美麗なパトリア神話の写本を持っているんです! そこに一筆いただけたらと!」と訴える。


「まあ、写本ですか?」


 興味深げな声とともにパトリシアの頬が紅潮した。


「私、神話を読むのも研究するのも大好きなんです! 一文字一文字書写生が丁寧に書き取った写本には無限の価値がありますわ! 一筆お入れする代わりといってはなんですが、是非何日か、いえ、一晩だけでもお借りして読ませていただけないでしょうか?」


 主人がこう言うのでは生意気な女騎士も黙るしかない。パーキンは己の勝利に拳を握った。


「おい、パーキン」


 写本ではなく印刷本だと知っているブルーノたちは肘で小突いてきたけれど素知らぬふりを決め込む。聖王が認めなかった印刷機を娘の彼女が認めるわけないし、これでいいのだ。


「そちらの方々はあなたのお連れですか?」


 と、パトリシアがブルーノ、レイモンド、オリヤンに顔を向けて問いかけた。「あっ、はい」と答えると「青い髪の、あなたはアクアレイアの方とお見受けしますが」と聖女は青年剣士に呼びかける。


(ああっ! 聖王家って確かアクアレイアのこと、毛虫みたいに嫌ってんじゃなかったっけ!?)


 一瞬冷や汗を掻いたけれど、彼女は別にケチをつけようとしたわけではないようだ。嬉しそうに掌を合わせ、大らかな聖女はブルーノたちに問いかけた。


「私、実はアクアレイアの精霊祭で用いられる仮面を集めるのが趣味なのです。本場の方のお話も伺いたいので、良ければ皆さんご一緒にアミクスの大商館にお越しになりません? ちょうど今晩庭で夜会が催されることになっているのです」


 思いがけない誘いに一同はどよめく。気さくすぎる聖女にマーシャは「ちょ、パトリシア様!」と困り顔で声を荒らげた。


「良いではありませんか。城で開かれるような気取った夜会ではありませんし、私が自由にできる時間も残りわずかしかないのですから。あなたがどうしても駄目と言うなら私も考え直しますが……」


 そう言われて女騎士はうっと詰まる。結局折れたのはマーシャのほうだった。


「ああもう、わかりましたよ、お好きになさってください!」

「うふふ、ありがとう。皆さんのご予定は大丈夫ですか?」


 パトリシアの問いに「は、はい。夕刻には荷揚げも終わっているかなと」としどろもどろにオリヤンが答える。行けると口にしてすぐ亜麻紙商はしまったという顔をした。


「それではお待ちしておりますね。きっとお楽しみいただけると思います」

「アミクスの大商館はこの中洲の一番北の突堤だ。日没を過ぎたら一時間以内に来い!」


 物腰柔らかな聖女とは対照的に女騎士の案内はすこぶる高圧的である。だがそんなことは露ほども気に留めず、パーキンは猫撫で声で返事した。


「はあい! 必ず伺いますう!」


 媚びた態度で聖女を見送り、「さあて、そうと決まったら神話集を取りに一旦船に戻らねえとな! 旦那様、いいですか?」と振り返る。するとなぜなのか三人は同時に深々と溜め息をついた。


「はあ、もう……、君という男はなんて厚かましいお願いをするんだ?」

「俺ら夜会に出れるような服持ってねーだろ!」

「写本にサインなどと言うから、ある程度の地位と金はあるものと思われたな」


 エッと驚いて瞬きすると寄ってたかって責められる。


「ええ!? 大丈夫だって! 都市同盟の商館だろ? 俺の故郷にもアミクスの支部があるけど、あそこに出入りする連中はピンキリだからさあ!」

「聖女直々のお招きとあってはみすぼらしい姿で訪ねられまい。恥をかくのがお前一人なら誰も文句はないのだがな」


 反論はぴしゃりとブルーノに撥ねつけられた。こちらのレイピア使いもまた先程の女騎士に負けず劣らず生意気だ。


「仕方ない。今更断るほうが失礼だし、本を取りに戻ったら急いで仕立て屋を探そう」


 オリヤンがそう促すとレイモンドとブルーノは「なんかごめんな」「無駄金を使わせてすまん」と詫びる。


「ええー!? なんで俺が悪いみたいになってんだよ!? せっかく素敵な聖女様とお近づきになれるチャンスなんだぜ!?」


 むすっと頬を膨らませたパーキンに返された反応は冷たかった。


「お前が」

「悪いん」

「だろうが!」


 ぴたりと揃った非難の声は青い空に吸い込まれていった。




 ******




 そんなこんなでレイモンドたちは運河沿いの通りに面した仕立て屋のドアをノックする運びとなった。

 たった一度の夜会のためにどうしてお高い衣装を新調しなくてはならないのだろう。本当に余計な真似ばかりする男だ。きっとこれまでもパーキンは行き当たりばったりの行動で借金を膨らませてきたに違いない。


「ええっ、パトリシア様の夜会に? に、日没までに四着ですか……。わかりました、善処しましょう」


 とんでもない無茶振りをされたのに、店の主人はそれでもパトリシアの客と知ると親切に応対してくれた。「型紙なんか取っていたらとても間に合いませんので、この中からお選びいただけますか?」と古い見本品を取ってきてくれる。棚と布と木製マネキンが人間よりも幅を利かせた店内でレイモンドたちは十着ほどの夜会服を吟味した。


「……ふむ。これくらいのを着ていれば相応に見えるかな?」


 最初に見てもらったのはオリヤンだ。黒い絹地に金の刺繍が入ったチョッキスタイルで亜麻紙商は奥の小部屋から出てきた。


「おお、ラッキーぴったりサイズ!」

「いいんじゃないか?」

「お似合いですよ、旦那様!」


 称賛の声を浴び、オリヤンは頬を赤くする。一人だけいつもと違う服装なのが居た堪れなくなったのか、亜麻紙商はそそくさとお針子に直す箇所はないか尋ねにいった。


「うむ、まあこんなものか」


 続いて試着に呼ばれたのはルディアだ。宮廷育ちの彼女はさすがの着こなしで現れた。

 王女には布地の安っぽさが気にかかる様子だったが、群青の髪に濃紺の上着がよく映えている。軍服風のすらりとした礼装なのも気品を更に引き立てて、本物は違うなと言わざるを得なかった。


「うわあ、どっかの王族みてえ」


 舌を巻くパーキンにレイモンドは胸中でうんうん頷く。この男にも華やかな衣装を通してなら彼女の高貴さが理解できるらしい。


「さて、そんじゃ次は俺が行ってくるかな」


 レイモンドはもたれていた壁を離れ、試着室の仕切り布をめくった。

 選んだのはルディアのそれと似た軍服風の一着だ。だが残念なことに店主が腕まくりまでして着付けてくれたにも関わらず、上着も履物もつんつるてんになってしまう。


「こ、これは……」


 はみ出した手首とにらめっこしてレイモンドはほかの服と取り換えるべきか否か悩んだ。けれどすぐに「これより大きいのはないですよ?」と店主に首を横に振られる。


「ま、まじか!? これ股下もやばいんだけど!?」


 慌てる声は小部屋の外まで漏れていたらしい。「雰囲気だけでも見せてみろ」とルディアの声が飛んでくる。店主にも「一旦外でお待ちください」と言われ、嫌々ながら出ていったらパーキンに指を差されて爆笑された。


「うわっははは! なんだそりゃ!? ピッチピチじゃねえか!」

「笑うんじゃねーよ! 俺だっておかしいのはわかってんだよ!」


 怒りを示しても道徳心の薄い金細工師に効果はない。


「しょうがねえな、ここは一つ俺様が渋くてダンディな装いを見せてやる」


 そんなことをほざいてパーキンは自信満々に試着室に入っていく。

 くそ、本当にいやな男だ。あんな奴、クアルトムパトリアの水が合わなくて腹でも下してしまえばいいのに。


「まあ丈は直してもらえるさ。それよりお前は猫背をなんとかしたほうがいいんじゃないか? でないと様にならないぞ」


 ルディアの助言にレイモンドは「いや、目立つの嫌だから」と眉をしかめた。


「アクアレイアに俺より背の高い奴っていなかったじゃん? もうこの姿勢が癖になってんだって」

「なんだそれは? 長身で他人に迷惑をかけたわけでもあるまいに」

「気になるもんは気になんだよ。手足長すぎてアクアレイア人に見えないって言われたこと何度もあるしさー」


 嘆息混じりに首を振った。自分の台詞で暗い記憶が甦り、余計にダメージを食らってしまう。

 あの聖女もレイモンドがアクアレイア人だということをわかっていなかった。外国人に外国人と思われるのはもう諦めているが、せめて己のテリトリーでは少しでも差を縮めたいではないか。たとえそれが意味のない努力に過ぎないとしても。


「だったら尚更まっすぐ胸を張らないか。罪を犯したわけでもなければお前のせいでもないだろう?」


 かけられた言葉にはっとした。顔を起こせば偽りのない眼差しがじっと己に注がれている。


「お前が卑屈になる必要はまったくない」


 そう諭され、レイモンドは肩をすくめた。


「……なーんかアルの言いそうな台詞だな」


 お節介な幼馴染を思い出し、自然と口元が綻ぶ。つらいとき、苦しいとき、手を差し伸べてくれたのはいつもアルフレッドだった。その手を取るのが酷く情けなく感じる日もあったけれど。


「そうか? 別に似せたつもりはないぞ」


 指摘を受けてルディアはやや戸惑いを見せる。首を傾げる彼女にレイモンドは笑いかけた。


「元々どっか似てるとこあるんじゃねーの? あんたはアルほど説教じみてはないけどさ」


 レイモンドがそう言った途端、なぜなのか彼女は態度を急変させた。スッと冷めた顔つきになり、しばしの間沈黙する。どうしたのかと訝っていたら怒り半分呆れ半分の声で問われた。


「……説教じみていない? 防衛隊の中ではお前が一番私から小言を食らっていた気がするが、まさかお前、聞いていなかったんじゃなかろうな?」

「……! い、いや、そんなことは!」


 しまった墓穴を掘ったかとレイモンドは大慌てで誤魔化そうとする。しかしルディアの目は疑わしげに細められたままだった。


「ほんとだって! 全部ちゃんと聞いてたって! た、多分」

「多分だと?」

「わーっ! え、ええとその」


 と、そのとき店の奥で「のわーっ!!」と大きな声がして仕切り布が翻った。見ればズボンに足を引っかけたパーキンが破れた下着を丸出しにして片足立ちでぴょこぴょこと跳ねてくる。

 咄嗟にルディアを背に庇い、レイモンドは「汚いもん見せてんじゃねーよ!」と怒鳴りつけた。


「ひーっ! 寸詰まりってこんな事態になるんだな!? さっきは小馬鹿にして悪かったぜ!」

「いいから早くズボン上げろ! 見えちゃいけないもんが見えてんだよ!」

「ひーっ、ひーっ」


 夜会服もパーキンなどに着られるのを嫌がっているのではなかろうか。値の張りそうな黒ビロードの衣装なのに、この男が袖を通すと台無しだ。小言の件がうやむやになったのは助かったが。


「ひと通りチェックしましたので、これからすぐ寸法直しに入らせていただきますね」


 パーキンが腰帯を締めて出てくると同じ小部屋から巻き尺を手にした店主も戻ってくる。夜会まであまり時間がないために直してもらうのはレイモンドの青地の軍服だけになった。金細工師にはぴっちりした礼装で我慢させることに決まる。

 数時間後、仕立て上がった服を着て試しに少しだけ背筋を伸ばすと「うん、そのほうがずっといい」とルディアが褒めてくれた。俺って結構単純だよなと頬を掻きつつレイモンドは姿勢正しく店を出る。

 西の空ではまばゆい夕日が羊雲を朱に染めて丘の彼方に沈もうとしていた。

 どうやら夜会には間に合ったようだ。




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