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第2章 その5

 遅い昼食を取り終えると防衛隊は揃って巡視に出かけた。腹が膨れてご満悦なレイモンドとずっと無言のアルフレッドがゴンドラの櫂を握っている。

 夕闇が迫り、人々の距離が近づき、アンディーン祭はますます盛り上がっていた。ルディアの胸中などいざ知らず、漕ぎ進む街には歌い踊る人々が目立つ。

 アクアレイアでは季節ごとに精霊祭が催される。波の乙女アンディーンは国の守護精霊なので初夏の祭典は特に盛大だ。女神の加護に感謝をこめ、老いも若きも高らかに賛歌を響かせる。楽の音は夜通し途切れることがない。

 翌日は建国記念日が続くことも盛り上がりに一役買っているだろう。熱狂は王国生誕祭における指輪奉納の儀式「海への求婚」で最高潮に達する。祝祭を締めくくるのはゴンドラレースと、どこまでも水都らしい祭りであった。


「うーい、そろそろだぞー」


 レイモンドの声にルディアは顔を上げる。大運河を下りきり、税関向かいの国民広場に着いたときには空が暗くなり始めていた。桟橋にゴンドラを舫い、広場へと急ぐ。暗くなる前に付近の検分を済ませておきたかった。

 賊臣が何か仕掛けてくるとしたらこの一帯しか考えられない。北には王家の住むレーギア宮、西にはアンディーン神殿、東には商港と大鐘楼と重要な建築物が集まっているだけでなく、「海への求婚」は例年この広場前で執り行われるからだ。

 着飾った百人の騎士を連れ、王は金襴のガレー船に乗り込む。街を出た船は独立戦争の記念碑が立つ墓島に向かい、祈りを終えると再び大運河へ引き返す。そこで王は国民を代表し、明日からも海と生きると誓いを新たにするのである。アクアレイア人がどれほど女神アンディーンを愛しているかは投げ込む指輪の美しさに表れている。

 問題はその後だった。金のリングが王の手を離れるや否や、待ち構えていた人々がこぞって海になだれ込む。水底に落ちんとする指輪を拾い上げた者には「なんでも一つ君主に願い事を聞いてもらえる」という褒美が与えられるからだ。

 多いときはこの水中戦に五百名以上が参加する。要するに指輪を拾ったふりさえすれば誰でも簡単に王に近づくことができるのだった。


(それでも衆人環視はある。仮に暗殺が成功したとして共倒れは免れんと思うが……)


 いくら不人気街道まっしぐらの父であっても王族は王族だ。不審死となれば詳しく調査されるだろうし、真っ先に疑われるのはグレディ家である。それを計算に入れていない祖母ではなかろう。

 証拠こそ残っていないが、グレース・グレディがかつて父の三人の兄を殺害した事実は宮廷人の暗黙の了解となっている。たとえ嫌疑をかけられたとして祖母自身はハイランバオスのふりをしてやり過ごせるかもしれないが、現当主のクリスタル・グレディは罪を逃れられないはずだ。


(老害め、一体何を考えている?)


 ジーアン騎馬軍の脅威が間近に迫った二年前、その軍事対応を巡って王家とグレディ家は真っ向から対立した。祖母はイーグレットやルディアが大人しい傀儡ではなくなったと痛感したはずである。だからこそ野蛮な手段で排斥すると決めたに違いない。

 ようやく解放されたと思ったのに。血で血を洗う継承争いの幕は下りたのだと。


「……ん?」


 と、神殿前にたむろする人々に気づいてルディアは歩を緩めた。「うげっ」というバジルの声で輪の中心人物を知る。


「人間には誰でも天性が備わっています。商人として生きるべき人間が商人として生きられるのは幸せです。けれどもし商人となるべき人間が農夫になってしまった場合はどうでしょう? 可哀想なこの農夫は決して幸せになれません。世界にはこのような間違いが溢れています。これらを正さない限り、私たちは永遠に災難を享受し続ける運命にあるのです」


 ハイランバオスの説法に聞き入っているのは仮面の王国民たちだった。普段は気になる世間体も今日は素顔と一緒に鳴りを潜めているらしく、エセ聖人に並々ならぬ関心を寄せている。


「へえ、それじゃ幸せになるには自分の能力に見合った仕事に就けばいいってことかい?」


 好奇心旺盛な男が尋ねた。ニンフィでハイランバオスを囲んでいた漁夫たちと違い、彼の声音には「いっちょこの兄ちゃんの本性を探ってやろう」という気概が窺える。対する聖預言者はにこやかに質疑応答を始めた。


「いいえ、単に能力に見合っているだけの仕事ではありません。能力を高めることで己自身の品格も高まり、関わる人々に喜びをもたらす天職にこそ人間の幸福があると言えます」

「ほう、なるほどねえ。ちなみに俺は商人こそまさに天職と自負しているんだが、近頃ちっともいいことがない。商売したくてもさせてくれない連中がいるんだわ。こいつはどういう理屈なのかご教授いただけるとありがたいねえ」


 ジーアンへの皮肉を込めた物言いに男の仲間が忍び笑いを漏らす。聖預言者はこの質問にも動じた様子を見せなかった。


「それはあなたや我々のせいではありません。ただあなたに少なからぬ影響を与える人物が天命に背いているのです」

「ふむ、と言うと?」

「商人が商売を知らず、扱う商品の良し悪しもわからなければ買い手はとても困るでしょうね。それと同じであなた方に良き運命を授けるべき者が悪い運命しか授けられない嘆かわしい現状があるのです」

「運命を授ける? おいおい、まさかあんた俺たちの女神アンディーンを悪く言うつもりじゃなかろうな?」

「いいえ、違います。あなたも少し考えればきっと思い当たるでしょう。天性に恵まれず、能力不足の否めないまま大きな仕事に従事している、見合わぬ冠を戴いた男がいることに……」


 低く静かな囁きに聴衆がざわめく。それはいかに仮面越しでも聞けば不敬に値する罪深い言葉だった。

 目配せと小突き合いの波の後、人垣はそそくさと気まずげにばらけていく。それさえ意に介した素振りを見せず、ハイランバオスは声高々に予言を続けた。


「近く災厄に見舞われますよ! 天帝に治められたジーアンと違い、王として君臨すべき本当の王を持たぬこの国は!」


 宮殿の目と鼻の先でなんたる愚弄だ。以前は「根も葉もない中傷を」と眉をひそめるだけで済ませていたが、彼の正体がグレース・グレディかもしれないと知った今となっては捨て置けない。


(あんな布教活動を許すなど、海軍は何をしている!?)


 ルディアはぐるりと雑踏を見渡した。白銀の騎士は剣の柄にも手をやらず、広場の隅で静観している。

 その職務怠慢ぶりにカッとなった。大股で人波を突っ切って、鼻っ柱に噛みつくように吠え立てる。


「護衛役ならあの御大尽に口を慎むよう言い聞かせるべきなのでは?」

「……それができるならとっくにそうしている。ハイランバオス殿に気分良く帰国してもらえるかどうかで通商条約の行方は決まるんだ。防衛隊風情が余計な口出しをしてくるな」


 ユリシーズは眉を寄せ、忌々しげにルディアを睨み返してきた。

 想定内の反応だったのになぜか動揺を打ち消せない。彼はグレディ家の長女と婚約していると、アイリーンに聞かされた言葉が胸に棘を刺していた。馬鹿馬鹿しい。まだ真実と断定されたわけでもないのに。


「だが国王陛下に対して……」

「お前の言いたいことはわかっている。私とていたずらに民の心を惑わせたいわけではない。だが今は仕方ないのだ。ほら、あの男に勘づかれる前にとっとと失せろ」


 演説をやめない宣教師から遠ざけるようにルディアは肩を突き飛ばされた。

 乱暴な仕草だった。宮殿ではいつも優雅だった彼と同じに思えないほど。


「…………」


 信じられない。本当にユリシーズはグレディ家に与したのか。後でルディアに情報を流すために一時的に協力するふりをしているだけではないのか。


(そうだ。そうに決まっている)


 無理矢理自分を納得させ、ルディアは背後を振り返った。白銀の騎士はもうこちらなど見ていない。


「……行こう。まずは大鐘楼だ」


 呼びかけた防衛隊は四人ともユリシーズにあからさまな疑惑の視線を向けていた。特に定期商船団の早期再開を望むレイモンドは「ご機嫌取りならほかに方法あるんじゃねーの?」と言いたげだ。

 ハイランバオスとすれ違うとき、ルディアはさり気なくグレースと共通する部分がないか探してみた。目についたのはしなやかな皮の乗馬鞭だ。足が悪いため馬には乗れないという触れ込みなのに、妙に腰に馴染んでいる。


(お祖母様もあんな教鞭をお持ちだったな……)


 偶然かもしれない。まだ二人が同一人物とは信じられない。アイリーンたちの胡散臭さだってハイランバオスに勝るとも劣らないのだから。

 だがもしも、本当にグレディ家やユリシーズに陰謀の兆候が認められたそのときは――。


「ジーアンの預言者、なかなか小気味いいこと言ってくれるねえ」

「王が王に相応しくないってやつか? ま、俺たちゃ思ってても口に出せねえからな」

「そうそう。ルディア姫もマルゴーの入り婿なんか貰っちまってよぉ、王国が乗っ取られないか心配だぜ」


 漏れ聞こえてくる声に強く唇を噛む。即位前から持て囃されたことのない父だが、最近の支持率低下は目に余った。

 責任の一端はルディアにある。己が読み違えたのだ。ジーアン帝国に対する共同戦線の強化を優先するあまりに。

 マルゴー公国がアクアレイア海軍の確実な庇護を求めてチャドを差し出したというのが実情でも、傍目には陸軍増強が進まないのは隣国の圧力のせいだと見えなくない。民衆は不安なのだ。このままでは経済面でも軍事面でも王国が危ういのではないのかと。


(王家の評判が地に落ちて、民衆自らグレディ家の戴冠を望むようになれば、お父様が退場するだけで王位は転がり込んでくる……か)


 形式的には君主制でも祖国の内実は貴族共和制である。王家など、パトリア古王国の聖なる血筋を絶やさぬために遇されているに過ぎない。

 民の声は王の権威を揺るがすに足りる。それを煽動せんとするエセ預言者の言動には胸騒ぎがしてならなかった。


「ああ、すみません。大鐘楼は昨日から立ち入り禁止なんですよ」


 と、灯台に続く橋を渡ろうとしたルディアを若い軍人が引き止めた。


「立ち入り禁止?」


 兵なら誰でも出入り可能な施設だろうと怪訝に問う。都市の全景を見渡せるここで重点的に見回るべきポイントを話し合う予定だったのに。

 下っ端らしい少年は申し訳なさそうに「ゴンドラレースのコース取りを確認しようと大鐘楼に上る参加者がいるそうで……」と理由を説明してくれた。


「へ? レガッタの?」

「確かに上から覗けば有利な位置取りは考えやすいでしょうけど……」

「なんで大鐘楼だけ? 海上封鎖もしなきゃ取り締まりにならないじゃん」


 レイモンドとバジルとモモが青年に詰め寄る。困り果てた彼は「だってそう言われたんですよお」と三人の追及をかわした。


「言われた? 誰に?」


 剣に刻まれた伯父家の紋章をちらつかせてアルフレッドが問う。鷹の意匠を目にした少年はおもむろに姿勢を正し、敬礼のポーズで答えた。


「ハッ! ユリシーズ・リリエンソール中尉です!」


 瞠目し、肩越しに広場を振り返る。不可解な指令を出した男は宮殿に客人を連れ帰るべく、雑踏を歩き出したところだった。


「…………」


 白だと思っていた色が薄いグレーから濃いグレーに変わっていく。疑いたくなんてないのに。

 明日は何も起こらなければいい。

 ルディアはぎゅっと震える拳を握り締めた。





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