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第2章 その12

「アルフレッド遅いねえ」


 心配そうに呟いて少女が何度も小屋の表を覗きにいく。


「そんなに心配しなくてもちゃんと帰ってくるよ」


 そうたしなめるのは水晶玉を磨くトゥーネだ。

 渦中の子供は泣きくたびれて柱にもたれて眠っていた。その不出来な父親は「俺が正しいのは明らかなのに、なんだって話し合いなんかしなきゃならないんだ」とまだぶつくさと零している。

 ジェレムは立てた片膝に肘を置き、静かにイヴェンドに目をやった。すると彼はハッと背筋を伸ばして土間に座り直す。

 初めはこちらを軽んじていたはずなのに「お前が勝手に任せられないと難癖つけてるだけだろう?」と聞いてからイヴェンドは明らかにジェレムに気後れしていた。あるいは畏怖を抱いていると言えるかもしれない。──そう、この態度はかつて仲間に向けられていたのと同じ、偉大なロマに対するものだった。

 おかしな話だ。自分はついこの間、トゥーネやモリスに「ロマらしくない」と嘆かれたところなのに。


(説教したつもりはないんだがな)


 萎縮したイヴェンドから目を逸らす。

 偉そうに何か言える人間ではもうなかった。尊敬されていたのも遠い昔だ。父と肩を並べる男でありたいと願い、行動できていた頃の。

 だが自分は道を踏み外した。ロマとして許されないことをした。そのために多くの仲間が犠牲になり、今では三人きりになったのだ。

 罪には罰が与えられる。それでもトゥーネとフェイヤはなんとか守りたいと思っていたが、二人の心はすっかりあの騎士に惹かれているし、どうあってもアクアレイア人に寛容になれぬ己は見捨てられたも同然だろう。

 これが報いかと薄く笑った。何もかも失うさだめならもっと好きに生きれば良かったかもな、と。


「あっ、アルフレッドだ!」


 フェイヤが扉を開けたのはそのときだった。がさがさと茂みを掻き分ける音がしたと思ったら、間を置かず騎士が一人のパトリア人を招き入れる。


「遅くなってすまない。さあ、どうぞ奥に」


 通されたのは嫌な目つきの女だった。カロを育ててほしいとホリーに頼みに行ったとき、同じ眼差しに出会ったことを思い出す。剣を売り飛ばされた直後のアルフレッドもこんな眼光を宿していた。いつの間にかあの男は元に戻っていたけれど。


「……!」


 マチルダが踏み込んでくるとイヴェンドはさっと我が子を抱き上げた。「絶対に返さないぞ」と敵意剥き出しで彼は元妻を睨みつける。マチルダも負けてはいなかった。彼女は目尻を吊り上げて「渡しなさい!」と手を突き出した。

 早くも修羅場の始まりだ。なお悪いことに大声と振動で幼子が目を覚ます。寝ぼけまなこに母を見つけ、男児は火がついたように泣き出した。


「うああああああああん! うああああああああん!」


 父母以外全員両手で耳を塞ぐ。凄まじい騒音だ。鼓膜が震えすぎて痛い。

 腕に凶器を抱いたイヴェンドはなんとか落ち着かせようと試みたが、母親を求めてもがく拳に顎を殴られて情けなくも返り討ちにされていた。そんな元夫にマチルダは早く子供を返すように繰り返す。


「この泣き声が聞こえないの!? 可哀想と思わないなんて父親失格ね!」


 もっともな罵倒にイヴェンドは唇を噛み、渋々彼女に赤ん坊を差し出した。しかしその手は腰に巻きつけた荒縄までは放そうとしない。


「ほどきなさいよ! 痛がってるじゃない!」


 怒鳴られても擦り傷になっているのが知れるまで彼は要求を飲まなかった。


「うう、子供が泣き止んだからってあいつが正しいなんて思わないでくれよ? 俺だって時間をかければシャボに父親とわかってもらえるはずなんだ!」


 イヴェンドはそうこちらに訴えかけてくる。どうやら己はこの一件の調停者に任じられたものらしい。ジェレムは「わかった」と頷いてやり、興奮状態のパトリア女に向き直った。


「どうしてここに呼ばれたかはわかっているか?」

「そいつか私、どっちがラクロを育てるか決めるためでしょう? だけどどう脅されたって絶対に譲らないから!」


 マチルダは好戦的な返事を寄越す。子を奪うなら我が屍を踏み越えていけという顔だ。彼女を冷静にさせるべく、まず普通はどうするのかを教えてやる。


「ロマの掟では子供の処遇はその母親に一任するものとされている」

「じゃあ私が連れて帰っても……!」


 喜色を示すマチルダにジェレムは首を横に振った。


「だがお前はこの子を家の奥に隠しているそうだな。お前の親もロマを邪魔者扱いしていたと聞くし、正直子供を返すべきかわからない。だから話し合ってもらうことにした。お前が息子をひとかどの人間に育てられると証明できればそれでいいし、逆にイヴェンドはお前じゃ頼りないということを証明しなきゃならん。俺たちは立会人として中立を貫く。わかったら存分にやり合え」


 ひと息に言い聞かせ、ジェレムはイヴェンドを振り返る。「お前もいいな?」との問いに彼はこくりと頷いた。


「────」


 しばしの間、父母は無言で火花を散らし合った。先に沈黙を破ったのは自信ありと思しきマチルダだ。


「子供がこっちを選んでるのにほかにまだ理由がいるの? 私がこの数日間、どんな思いでいたかわかる?」

「その年齢じゃ母親にしがみつくのも無理ないだろう。分別がつけばこの子にだってどっちが自分の本当の仲間かわかるようになるはずさ!」


 対するイヴェンドも徹底抗戦の構えである。握り拳をちらつかせ、彼は暴力的な脅しさえかけた。

 シャボとしてもラクロとしても望まれるなんてあの子は幸せな子供だな、とジェレムはひとりごちる。

 ホリーに息子の養育を断られた後、ジェレムが再びカロを連れて帰ってきたときの非難は凄まじいものだった。面倒を見るのも押し付け合いで、殺せだのなんだの騒ぐ者もいざ武器を取ると怖気づいて。自然とカロは放置されるようになった。仲間たちは赤子を袋に提げて歩くジェレムをも遠巻きにした。

 邪視はあらゆる災いの源。孤独を、苦痛を、喪失を、その視線で撒き散らす。カロが物心つく頃にはジェレム自らも距離を置いた。父と呼ばせたことは一度だってない。優しさは見せず、嘲笑うことで勇気を示し、皆に災いを近づかせまいと努めた。それでようやく仲間も納得してくれたのだ。ジェレムはカロをロマとは認めていないのだなと。


「私にはロマの生活がいいものだとは思えないけど?」


 冷たい女の声が響く。


「俺にはパトリア人の生活が気詰まりとしか思えないよ」


 イヴェンドが言い返すと反論は即座になされた。


「少なくとも街で暮らせば飢えることも人狩りに遭うこともないわ!」


 だがイヴェンドは物ともせずに一蹴する。


「隣の領主に攻撃されて皆ヒイヒイ言ってるくせに! お前の両親が死んだらお前たちの世話は誰がしてくれるんだ? 金がなくなりゃお前らだってロマの真似事を始めるんだよ!」


 これには一瞬マチルダも声を詰まらせた。


「ッ確かに今は余裕がないけど、二人で食べていくくらいなんとかするわ!」


 語気を強め、言い負かされてなるものかと彼女は父親の性格を責めだす。


「一度は任せたと言ったくせに、潔くないんじゃない? 本当に嘘つきね!」


 今度はイヴェンドがたじろいだ。ロマの世界では信頼する者同士で交わした誓いや約束は絶対だ。しどろもどろに彼は言い訳を始めた。


「し、仕方ないだろ。俺だって仲間を全員失う羽目になるなんて思わなかったんだ!」


 こう聞いてマチルダは真っ赤になって怒り出す。


「減った人数を増やしたいだけならこの子じゃなくてもいいじゃない! 私は私の子供だから愛しいのよ! 一緒にいたいし手離したくないの!」


 だがイヴェンドも彼女の言い分に腹を立てたらしかった。


「愛しいだと? ずっとこそこそ育ててるくせに偉そうに。知ってるんだぞ、俺だって子供が幸せにやってるんなら連れていくのは不憫だと思ってちゃんと調べたんだ! 街の連中はロマにいい感情を持ってない! 結局奴らは肌の色しか見ちゃいないんだ! 何年街で暮らそうとこの子が受け入れられることはないね。子供と離れたくないっていうお前の身勝手こそが一番この子を不幸にするんじゃないのか!?」


 イヴェンドの言葉にマチルダは絶句する。愛情が枷になっているという指摘に彼女は多大なショックを受けたようだった。


「だ、だから連れていくのを認めろって言いたいの!? ロマの子になったって別の不幸がつきまとうだけじゃない! いつもロマ狩りにビクビクして、雨に打たれて、寒さに震えて、どこへ行っても早くよその街へ行けって言われて、それで最後はあんたみたいな男になるだけなのよ!?」

「ずっと家の中しか知らずに生きるよりましさ!」

「外に出さないのはこの子を守るためなの! 石をぶつけられたり笑われたりしないように! 私だって本当は街を見せてあげたいわ!」

「あげたいだけじゃ全然駄目だ! お前はこの子に何もしてやれてない!」

「そんなことない! そうよ、この子がもう少し大きくなれば一緒に出かけてみようと思ってるわ! それで満足!?」

「そして街中の人間に蔑まれて家に逆戻りするんだろ!?」

「しないわよ! 適当なこと言わないで、人さらいのドブネズミ!」

「なんだとこの性悪女!」


 舌戦はやまない。口論は次第に罵り合いじみてくる。

 そのとき熱くなったイヴェンドがアルフレッドに「おい、お前! 街でロマの子供がどう思われてるか聞いてきたんだろ? この女に現実を教えてやってくれ!」と頼んだ。入口の脇に立っていた騎士は神妙な面持ちでイヴェンドとマチルダを見やる。その視線は最後に母の腕で怯える幼子に向けられた。


「……俺の耳にした限りでは、ロマとの混血児は不吉とされて、煙たがられている様子ではあった」


 アルフレッドの報告にイヴェンドは「ほら!」という顔をしてみせる。得意になって彼はマチルダに勝利を宣言しようとしたが、騎士の言葉はまだ続いていた。


「ただまあ、混血児が災いを招くなんて迷信に過ぎないからな。東パトリアの新女帝はロマと同じ褐色肌だが、それでもノウァパトリアは聖王の血統を守るパトリア古王国以上に繁栄を極めている。

 ノウァパトリアは本当にすごいぞ。世界中からありとあらゆる人間と商品が集まってくるんだ。貴族も船乗りも学者も芸術家も胡椒も砂糖も絹も宝石も。街の人たちもそういった具体例を知れば無闇に悪い悪いとは思い込まなくなるんじゃないか?」


 イヴェンドはぽかんと目を丸くする。マチルダも「え、そうなの!?」と驚愕の声を上げた。

 騎士曰く、昔はアクアレイアでも皮膚や毛髪が真っ白な赤ん坊が生まれると悪いことが起きると信じられていたそうだ。だが大海に漕ぎ出すようになった国民は、やがて地域によってそれは神の子と見られているとか、普通の子供と一緒くたに扱われているとか、逆に自分たちがありふれた存在だと考えていた双子や三つ子のほうが恐れられているとか、多くの事例を知るうちに「白皮が不吉という説にはなんら根拠がない」と気づき始めたそうである。


「例えばあなたが怖がっていた左右色違いのカロの目も、土地によっては精霊からの賜りものだと言われて珍重されている。毎日怪我人や病人がやって来てありがたく拝むんだそうだ。黄金の目に薬効があると信じて」

「──はあ?」


 まったく予期せぬ言葉が飛び出し、ジェレムはつい声を荒らげた。調停者の役目も忘れて話に割り込んでしまう。


「黄金の目が邪視じゃないだと? そんなわけあるかよ」


 そう突っかかるとアルフレッドは慌てた様子もなく返した。


「うちは薬屋だからな。あちこちの民間療法を勉強したんだ」


 その口ぶりがあまりにも普通すぎて困惑する。これまで邪視を恐れなかった人間は誰一人としていないのに。

 ジェレムの動揺には気づかず、アルフレッドはまた話を本題に戻した。騎士はイヴェンドたちをひと睨みして「ところで一つ聞きたいんだが」と鋭く問いかける。


「な、なんだ?」


 身構えた白黒の男女は続く台詞に揃って顔色を失った。


「あなたたちは、そもそも生まれてくる子供のことを考えて同じ床に入ったのか?」


 アルフレッドは硬直する二人を見つめ、冷ややかに沈黙しつつ返答を待つ。


「や、その、俺は、子供のことはできてから考えりゃいいかなと……」


 答える途中で居た堪れなくなってイヴェンドは目を逸らした。なんて馬鹿な男だとジェレムは深く嘆息する。だが正直に愚か者だったことを白状しただけまだましか。

 マチルダのほうは「真剣に考え始めたのは身ごもってからだけど、どんな子が生まれてきても決して側から離さないと決めていたわ」ときっぱり告げた。


「街の人たちがなんて言ったって関係ない。私はラクロを裏切らないし、一生ラクロを守っていく。それが母親というものでしょ?」


 だがこの答えにアルフレッドは賛同の意を示さなかった。むしろ先程よりも神妙な響きで厳しい言葉を投げ返す。


「ならもしも街で育てている間、あなたに何かあったときは、この子は敵地にひとりぼっちで取り残されるわけだな」

「……!」


 マチルダは何も言い返せなかった。死はいつどんな形で訪れるかわからない。たとえ彼女が我が子を置いて死ぬことはないと誓ったとしても、それは単なる願望でしかなかった。


「あなたの愛情深さを否定する気はないが、あなたが本当に子供のために行動できているとは俺には思えない」


 ほぼ直接的に考えが浅いと非難され、マチルダは頬を真っ赤にして震える。見かねたトゥーネが「あんたが街を出て親子三人で旅するのが一番いいんじゃないかい?」と聞くと、彼女は「私はロマじゃない!」と首を振った。


「私はロマの音楽が好きだしいいところも知ってるけど、そうじゃない人間のほうが多いってことも知ってるのよ……!」


 マチルダは旅に出たくない理由を訴える。不快感を露わにし、イヴェンドは元妻を睨んだ。


「我が子の苦労と自分の苦労を天秤にかけて、我が子に苦労させる道を選んだってことか?」

「そうじゃないわ。さっきも言ったけど、ロマとして生きるにしてもこの街で生きるにしても、どうせ苦労するなら母親の側がいいって思ったのよ!」

「だからお前が俺と来ればこいつも母親と別れずに……」

「そんなこと言うけどロマはパトリア人の私を仲間として受け入れられるの? もし旅先で捨てていかれたら、私は息子だけじゃなく帰る場所まで失うのよ! そんなの耐えられないわ!」


 マチルダの主張にイヴェンドの怒りが爆発する。「今まさにそのひとりぼっちなんだよ、俺は!」と彼は大声で怒鳴りつけた。


「誰でもいいわけじゃない! 俺だって血を分けた息子だから引き取りたいんだ! 一族の血を、先祖を弔う歌を絶やしたくない気持ちがどうしてお前にはわからないんだ!?」

「それじゃ別の女を作ったらどう!?」

「仲間の女は皆連れていかれたし、ロマを相手にするような破天荒な奴はお前くらいしかいなかったよ!」

「そこに女の子がいるじゃない! あと四年もすればいくらでも産めるようになるわよ!」

「ああそうだな、あの子はシャボの嫁さん候補だけどな!」


 激しさを増す応酬に気づけば間に挟まれた子供が泣き出している。さっきは取り合いになるほど愛されて幸せだなと思った幼子は、今やまったく正反対の不幸な人物に見え始めていた。

 イヴェンドもマチルダも親として純粋な愛情だけ持っているのではなさそうだ。今になって息子が惜しくなったイヴェンドは虫が良すぎるし、マチルダも子供の都合よりは自分の都合を優先している節がある。二人とも今までの生活を変えたくないのだ。幼子は両側から二人に振り回されている。


「大体あんたが最初から私の頼んだ通り街に住んでくれていれば良かったのよ。ラクロと自分を秤にかけてラクロに別れを告げたのはあんたじゃない!」


 マチルダはそう声を張り、「あんたが街で働き口を見つけてくれるなら仲直りしてもいいのよ? できっこないでしょうけど!」と鼻で笑った。


「旅をしないロマなんてロマじゃない! 俺に誇りを捨てろってのか!」


 猛反発するイヴェンドに「じゃあ街を捨てられない私のことも悪く言わないで!」と女は怒号を響かせる。そこに子供の絶叫が加わり、木こり小屋は酷い騒々しさだった。


「よしよし、大丈夫だからねえ」


 と、争う元夫婦の隙間から腕を伸ばしたフェイヤが幼子の手を握る。そこで父母は我が子の号泣にはたと気がつき、いがみ合いをぴたりと止めた。

 少女が「いい子、いい子」と撫でてやっても子供はむずがるのをやめない。大人たちに運命を委ねるしかない小さき者を憐れんでフェイヤはこちらに助けを求めた。


「……ねえジェレム、この子が幸せになる方法はないの?」


 ジェレムはしばし沈黙する。簡単には答えられそうもなかった。

 幸せになどなりようもない境遇に生まれつく人間は存在する。カロがまさにそうだった。

 アルフレッドは邪視を迷信だと言うが、実際カロが生まれてから様々な不幸が起こったし、皆あの黄金に怯えていた。

 悲しいが、どうしようもないことなのだ。目玉を入れ替えることができないように、子供の肌を白くすることはできない。母親の愛を受けてパトリア人の蔑みの中を生きるか、母親の温もりを失ってロマとともに漂泊するか、二つに一つしか選べないのだ。

 フェイヤに伝える優しい言葉が見つからず、ジェレムはただ首を横に振ろうとした。だがそこで、またしてもアルフレッドが妙なことを言い出す。


「幸せなんて子供が勝手に探し始めるさ。親が邪魔さえしなければ」


 ──そんな意味不明なことを。



 たとえ赤の他人でも夫婦喧嘩の金切り声を耳にするのは嫌なものだ。

 アルフレッドはそう胸中に呟いた。どうしても古い記憶の扉が開き、無関心ではいられなくなる。

 子供は勝手に自分の幸せを探し始めると言ったのは過去の己を思い返しての言葉だった。母ローズは子供の教育に手を抜かなかったけれど、人々の心ない詮索や邪推から守ってはくれなかった。それはどんなに愛が深くても不可能なことだったからだ。彼女がアルフレッドにしてくれたのは固く門戸を閉ざしてしまうことではなく、アルフレッドが自分の道を見つけるまで家庭に安らげる場所を作り、外へ送り出し、じっと見守ることだった。

 ブラッドリーのようになりたい。トレランティアのような騎士になりたい。人生の目標が見えたとき、アルフレッドは人前に出ることを恐れなくなった。自分の不幸がどうしようもないものだと思わなくなったから。


「ただ守られているだけじゃ弱くなる。今はこの子にも親の愛が必要だろうが、パトリア人として生きる道も、ロマとして生きる道も、ほかの何かになる道もあるんだと示してやれれば暗い時代が過ぎ去るまで耐えることはできるんじゃないか」


 イヴェンドとマチルダはどういうことだと顔を見合わせる。胸の深くの言葉を汲んで、アルフレッドは思うまま話し続けた。


「自分の生き方くらい、この子が大きくなったとき自分で決めると言っている。問題は選択の自由があるかと、選択する精神を持っているかだ。その二つさえあれば子供は自分が幸せになれそうな道を歩いていくよ。

 父親を選ぶか母親を選ぶかはわからない。どちらも選ばずに気の合う友達や恋人と別天地を目指すかもしれない。いつも人狩りを警戒しなければならないのも、いつも誹謗中傷を浴びなければならないのも、どちらもあまり幸せではないだろうが、そんなことを言い争うよりあなたたちがこの子にしてやるべきなのは、この子に不幸から脱却する力を与えることじゃないのか? そういう話が一度も出てきていないのが彼の一番の不幸だと思う」


 屋内がしんと静まり返る。アルフレッドは動じて固まった父母二人の反応をじっと見つめていた。

 幼い頃のレイモンドの声が脳裏に甦る。「俺も父親クズなんだ」とぎこちない笑みを浮かべていた。出自にこだわらず自分を騎士にしてくれた、叙任式でのルディアの姿も。


「いつか自分と同じ苦しみを抱く誰かに出会える日も来るだろう。迷信なんかに惑わされず自分自身を見てくれる誰かにも会えるかもしれない。その未来のために今どうするべきか話し合わないでどうするんだ? それともこの子は、あなたたちの願望を満たすただの道具に過ぎないのか?」


 問いかけにマチルダは小さく肩を震わせた。イヴェンドも気まずそうに息子を見やる。

 言いたいことは言ったのでアルフレッドは大人しく脇に引っ込んだ。最終的な決定権を持つのは彼らだし、子供のために骨を折るのも彼らだということは承知していた。


「……なあジェレム、あんたはどう思う? この子が大きくなったとき、ロマとして旅立つことを決めてくれたとして、ずっと一人でいたロマが正しいロマになれると思うか?」


 と、イヴェンドが老人に問う。ジェレムは複雑な表情を浮かべて黙り込んだ。しわ深い顔はきつく眉根が寄せられて、薄く開いた唇はわななき、怒ったようにも迷っているようにも見える。

 アルフレッドには老ロマが何を考えているかわからなかった。ただ不思議と目を逸らすことができず、その横顔を見つめていた。



 正しいロマとはなんだった。

 拳を握り、ジェレムは必死で考える。なりたいと願っていたのは、目指していたのは、一体どんなロマだったか。


(なんであいつを思い出すんだ?)


 振り払っても振り払っても浮かんでくるのは十六歳のカロだった。恩知らずの王を庇い、甘んじて追放を受け入れた。

 母親がおらずとも、父親がおらずとも、あれは勝手に育っていた。姿形などに囚われず、友のためなら己がそしられることを厭わず、自分などよりよほどロマらしいロマに。

 ジェレムにはずっとそれが耐えがたかった。「これは我々とは違うものだ」と烙印を押したこと自体間違っていたのではないかと思えた。あのときにはもうやり直しなどきかなくなっていたけれど。


(置いていかれたのはどっちだったんだろうな)


 胸中で自問する。

 正しいロマになれなかったのは俺かあいつか。


「……なりたいと思えば目指そうとするさ。案ずることじゃない」


 そう呟いてジェレムはそっと目を伏せた。鋭い痛みをやり過ごすために奥歯を噛む。

 わかっていた。とっくにわかっていたことだった。

 何が駄目だったかなんて。


「マチルダ」


 イヴェンドは決意した男の顔で元妻を振り返る。「隠さずに会わせてくれるんだったらこの子の小さい間はお前に預ける」と彼は言い切った。未練がましく手にしていた荒縄も放り捨て、「俺たち二人で、いや、三人でなんとかやってく方法を考えよう」と前向きに。


「……私も悪かったわ。あなただってこの子の父親なのにちょっと言いすぎたみたい」


 マチルダも反省の姿勢を見せた。二人ともアルフレッドの批判が痛烈に胸に響いたようである。

 和解した彼らに礼を述べられ、騎士は「いや、別に俺は頭を下げられるほどのことは」とうろたえた。その傍らではフェイヤがににこにこ嬉しそうに頬を緩ませている。


「アルフレッドって知らないロマの子供のことでも真剣に考えてくれるんだ」


 少女の言葉にトゥーネもうんうん頷いた。当のアルフレッドは居心地悪そうに後ろ頭を掻くばかりだったが。


「深く関わればロマやパトリア人なんて分け方をしなくなるのは当然だろう? 俺にとってフェイヤはフェイヤだし、トゥーネはトゥーネだし、この子だって同じだよ」


 心底不思議そうに騎士は言う。こういう男に女子供が懐くのは仕方ないことに思えた。


「おい、後はお前らに任せていいな?」


 ジェレムがイヴェンドたちに聞くと二人は「はい!」と強い声で返事する。彼らの態度は見違えるほど改まり、これなら最後まで調停人が見届ける必要もなさそうだった。


「トゥーネ、フェイヤ、お前らはさっさと休め」


 疲れたろうと小屋の隅に女たちを促す。それから再度イヴェンドに「こんなときに人狩りに遭ったら目も当てられないからな。今夜は俺が見張りに立っておいてやる」と声をかけた。


「お前も来い」


 アルフレッドにそう命じ、先に掘っ立て小屋を出る。騎士はすんなりついてきた。以前もこんなほっと緩んだ空気の中で、騙され、奪われ、こけにされたことも忘れて。もっともジェレムにもそんな真似をする気は更々なかったが。

 聞かねばならないことがある。一つだけ、どうしても。

 月が見下ろす森に立つ。強い夜風が鬱蒼と茂る葉を揺らし、不気味な音色を奏でていた。

 星が瞬く。かつて赤子の瞳に見たのと同じ金色の凶星が。

 今になってアクアレイア人に物を尋ねなくてはならない己の無様を笑いつつジェレムは騎士を振り返った。


「……邪視が迷信というのは本当か?」


 できるだけなんでもない風に問う。話しかけられたことに困惑はしたものの、アルフレッドはやはり普通の、ジェレムよりもっとなんでもない声で返した。


「ああ、オッドアイは国や地域によってまるで扱いが異なるよ。あちこち旅をしていても地域の人と長く交流しなければ知る機会は少ないだろうが」


 簡単に明言されて腹が立つ。「嘘をつけ」とジェレムは騎士に反論した。


「現に災いを呼び込んだ奴もいる。そいつはどう説明するんだ?」


 だがアルフレッドは怯まない。まるで何も知らない子供に言い聞かせるように丁寧に諭してくる。


「幸運にせよ不運にせよ、誰にだって訪れるものだ。身近に特殊な外見の人間がいると、その人に結びつけて考えやすくなるだけの話だろう」

「そんなわけあるか! でたらめほざきやがって」

「トゥーネの占いもそうじゃないか。例えば数日内に何か不幸が起こりますと言われたら、怪我をしたり物を失くしたり誰かに怒鳴られたりしたときに予言が当たったと思い込む。本当は何日も一度も嫌な目に遭わないなんて稀なことなのに、自分は未来を見透かされたと勘違いするんだ」


 ロマの行為を例に出され、ジェレムはハッと息を飲んだ。自身もよく使う手だ。からくりはよく知っていた。


「……本当に邪視とは違うのか……?」

「ああ、違う」


 それでも念を押すジェレムにアルフレッドは断言する。逆に「カロの右眼が邪視だから嫌ってきたのか?」と不意を突かれ、思わず本音が出てしまった。


「そんなんじゃない」


 声が震える。汗が滲む。

「じゃあどうしてだ?」なんて言葉は無視してやれば良かったのにどうしてもそうできなかった。

 長く、長く、心の底に押し込めていたそれは堰を切ったように溢れ出した。その濁流でくだらない戯れ言は押し流さねばならなかったから。


「……あいつを生んだ二番目の妻は、自分を責めて崖の上から身を投げた」


 血を吐くような声に騎士が目を瞠る。

 己の意思では止められず、ジェレムは古く苦い記憶に喋らされた。


「急にロマ狩りが増えたのも、仲間が大勢連れていかれたのも、全部あいつが生まれてからだ。あいつがいたせいで俺たちは……!」

「だからそれは結びつけて考えているだけだ。奥さんが亡くなったのは本当に気の毒だが……」


 アルフレッドはジェレムの言葉を否定する。それを否定し返したくて「嘘だ!」「嘘つきめ!」と喚いた。

 あの妖しい輝きが邪視でないなど有り得ない。なんの魔力も持たないなど。


「だったら俺の悔いてきたことはなんだったんだ!?」


 半狂乱のジェレムに騎士が瞬きする。「悔いてきたこと?」と問われるまま、ジェレムは誰にも明かさず死のうと決めていた秘密を口走ってしまった。


「俺があの眼を美しいと思ったから、皆苦しんだんじゃないのか……!」


 誰に何を話しているのかジェレムにはほとんどわからなくなっていた。月光も、星明かりも、冷たい風も、全部さっきのままなのに世界が引っ繰り返った気がする。


「俺が邪眼に魅入られたから。どうしてもあいつを殺せなかったから──」


 震える手でアルフレッドの肩を揺すると騎士は唾を飲み込んだ。

 ジェレムはなお荒々しく言葉をぶつける。そうしていないと無慈悲な呪いに追いつかれそうだった。


「俺は、俺はあの眼を見て喜んだ自分を悔いてきた。全責任が自分にあるのが恐ろしくて、こうなったのも昔の女がカロを引き取ってくれなかったせいだとアクアレイア人を憎んだ。それなのにお前は、俺を苛んできたものを、俺たちを苦しめてきたものを、ただの思い込みに過ぎなかったなんて言うのか!」

 激しく咳き込み、ジェレムはその場に崩れ落ちる。喉の痛みより、肺の痛みより、心臓が痛くて苦しかった。

 大地に拳を叩きつけ、握った草を引きちぎる。声にならない声で叫ぶ。

 ──そして。


「だったら俺は、ちゃんと父親になれば良かった……」


 滴が頬を伝い落ちた。呪いは今、ジェレムの足首を捕まえた。

 こんなに時間が経ってから、老い先短い身になってから、こんなのあんまりではないか。すべて取りこぼしたことを思い知ってから死ねというのか。




 ******




 小屋の扉が開く音に振り返り、アルフレッドは身振りで「大丈夫」と告げた。物わかりの良い少女はすぐ屋内に首を引っ込める。老人はまだ起き上がれず、顔も上げられないでいた。まだしばらく放心状態は続きそうだ。

 事情は飲み込めていない部分もあるが、ジェレムとカロにどんなすれ違いがあったかはなんとなく想像できる気がした。嘆きの深さも、おそらくは。


「……今からでも何かできるんじゃないか?」


 アルフレッドはジェレムの前に片膝をつく。実際の親子関係を知らないので大きなことは言えないが、気持ちがあるならやれるというのは本心だった。


「……今更合わせる顔があるかよ……」


 けれどジェレムは力なく首を振る。薄闇の中で艶のない白髪が揺れた。


「一度も何もしてやらなかった。憎んだのも本当だ。わざと傷つけて知らん顔していた俺に、あいつも何かしてほしいなんて望んじゃいないに決まってる。親ってのは、子供が親を求めてるときに親でいないと意味がないんだ」


 もう会っても苦しめるだけだろうと老ロマは痩せぎすの肩をわななかせる。悪あがきしようとする自分に言い聞かせるように。

 やっと少し、彼という人間がわかった気がした。矛盾しているように見えた言動の根底に何があったのか。

 仲間思いで、責任感が強くて、だからジェレムは心が歪むほど重い罪悪感を抱えることになったのだ。


「やり直せるさ。会わなくてもいい、親しく話せなくていいんだ。何かの形で繋がることはできるはずだ」


 老人に訴えかけながら、アルフレッドは父との別れを思い返した。最後まで喚き散らし、恨みを吐くのをやめなかったウィルフレッドを。

 せめてあの男が昔を悔やんでいてくれたら、尊敬に値する一面を見せていてくれたら、自分たちも何か変われたのかもしれない。父は牢獄に入れられたがジェレムには自由がある。諦めるにはきっと早い。


「俺にできることがあれば言ってくれ。その、伝言を預かるとか」


 またモモに甘いと叱られそうだなと思いつつ申し出る。けれどアルフレッドには目の前で苦しむ男を放っておけなかった。不幸な親子を見るのもできればこれきりにしたい。


「…………」


 ジェレムはしばし黙り込んだ。咳も次第に酷くなり、見ていられずに擦ってやる。すると老ロマは「おい」と低い声を発した。


「あ、悪い」


 アクアレイア人には触られたくなかったかと手を引っ込める。だがジェレムはその腕を掴んで引き留め、「頼まれてくれ」と呟いた。まだうつむき、草の上に座り込んだまま。


「お前に歌って聴かせるから、カロに会ったら俺たちの──ロマの歌を教えてやってほしい」


 知らないんだ、聴かせてやらなかったから。そうジェレムが零す。

 歌を教える。ロマにとって、それがどんな重要な行為かは尋ねなくてもよくわかった。文字も故郷も持たぬ彼らには歌だけが時間も距離も超越する唯一の絆なのだから。


「引き受けたいのは山々だが、あまり期待しないでくれよ」


 唇に笑みを浮かべて答える。するとジェレムは「はあ? なんでだ」と顔を上げた。


「まさか騙し返したのか? お前がそんなことをする奴だとは」

「いや、俺ものすごく音痴なんだ。正しく伝える自信がない。本当に酷いから……」


 アルフレッドの弁解に老ロマはきょとんと目を丸くする。茶化したつもりはなかったのだが「そうか、そりゃいけないな」と吹き出された。


「ならリュートも一緒に教えるから、あいつに弾いてやってくれ。カロぐらい歌えりゃそれで十分だ」


 ジェレムの依頼にアルフレッドはこくりと頷く。けれどすぐに最初の約束と両立しないことに気づいて「いいのか?」と聞き直した。


「楽器をやるなら親指を落とせなくなるぞ」


 ほら、と右手を振ってみせると老ロマはつまらなさそうにそっぽを向く。


「お互い一つずつ頼み事をするんだから相殺だろう。アクアレイア人のくせにそんな勘定もできないのか」


 厭味にはもう以前のような毒はなかった。ジェレムはすっくと立ち上がり、小屋の周りの警戒にずかずかと歩いていく。

 細い背中にはまだ動揺が窺えた。凝り固まっていたものが流れ出し、困惑も大きいのだろう。だが彼が再び馬鹿げた迷信を持ち出す心配はしなかった。

 気づけば東の空が白み、西から伸びたうろこ雲が淡いピンクに染まり始めている。黎明の美しい光景にアルフレッドは感嘆の息をついた。

 こうして長い夜は明けたのだった。






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