第2章 その11
──そんなわけでアルフレッドは単身フエラリウスの街へとやって来た。
一緒に行くと言ってくれたトゥーネやフェイヤは掘っ立て小屋に置いてきた。もしかするとロマが誘拐犯として手配されている可能性があったからだ。
だが気遣いは無用だったかもしれない。フエラリウスには犯罪者を捕まえる余力など少しも残っていそうには見えなかった。
「……酷いな……」
ぼろぼろの小都市を見上げ、ぽつりと零す。大きな戦闘があったとは聞いていたけれど予想以上の惨状だった。城壁は穴だらけ、兵の姿はどこにもない。これならイヴェンドが忍び込むのも造作なかったはずである。
元は騎士物語に登場したのと同じ、古風な石造りの城塞都市だったのだろう。崩れ落ちた望楼や胸壁の残骸が重たく街にのしかかる。市民らは虚ろな表情で積み上がった瓦礫の隙間を歩いていた。井戸は生きているらしく日々を凌げてはいるようだ。だが中には荷車に家財を積んで街を去ろうとする者もいた。
ふと目を上げれば道の前方でひと筋煙が立ち昇っているのに気づく。行ってみると緋色の衣の神官や若い下級聖職者が広場で炊き出し中だった。周囲には椀を持つ人々が長蛇の列を作っている。腹をすかせた彼らには鍋の残りにしか注意が向かない様子だった。
アルフレッドは辺りを見渡し、既に恵みを頂戴した人間を探した。暗がりでスープを啜る四人家族に近づいて「すまない、少し聞きたいことがあるんだが」と声をかける。
「あ? なんだてめえは?」
「俺は旅の者だ。実はこの街に住む、ある女性のことを教えてほしいんだ」
濃い黒ひげの家長に答えつつウェルス銀貨を一枚差し出す。男ははたと黙り込み、次いで何食わぬ顔で謝礼をポケットに突っ込んだ。
「……どこの家のなんて女だ?」
アルフレッドは西門の脇に立つ古い一軒家の特徴を伝える。シャボ──いやラクロの母親、ともかくイヴェンドの元妻が暮らす家だ。石造りの外観や近所に聖堂があることを話すと一家は「ああ、マチルダか」と腕を組み直した。
「あそこのお宅は親切な人ばかりよ。マチルダさんも、明るくて、男の人にもはっきりものを言えるし、とても頼りになるわ」
最初に答えてくれたのは若い娘だ。街の集まりで何度か面倒を見てもらったという彼女はマチルダについて更に詳しい情報をくれた。なんでも代々神殿に聖像や聖印を奉納している職人の娘で、裕福とまではいかずとも何不自由ない暮らしを送っているらしい。
「まあまあ器量良しなんだがね、コブつきだから貰い手がないんだ」
次に答えてくれたのは「とんでもない親不孝者さ」と肩をすくめる母親だ。子供の存在を匂わされたのでアルフレッドは「コブつき?」と素知らぬふりで問い返した。
「あんた、偉い殿方の命令であの娘の身辺調査でもしてるのかい? だったら見初めたお相手には気の毒なこった。コブもコブ、薄気味悪いロマのガキだよ」
彼女はこちらを貴族の家来か何かだと思い込んでいるようだったが、そこは特に否定せず話を続ける。「ははあ、そういう事情か」と早合点した一家は一気に饒舌になった。
「そう、そのロマの男ともまだ切れてねえみたいだぜ。この一ヶ月、また街の側をウロウロしてやがったんだ。あれはマチルダと会ってたに違いないね」
「俺も見た! 自分の恋人までたぶらかされるんじゃないかって、婚前の俺の友達は気が気じゃなさそうだったよ。ロマってのはものすごい美声だからな。どうせなら奔放な女が来てくれりゃ歓迎したのに」
父親がぺらぺら喋り出すと黙って見ていた息子も輪に加わってくる。初めはマチルダに好意的に見えた娘もロマの話題が出た途端「ロマなんか捨てたって別に罪にもならないのにねえ。仲良くしている人たちも皆、そこだけは本当に嫌がってるの」と眉をしかめた。
どうやらマチルダがよそ者の子を産んだことは街中に知られているようだ。しかも受け入れられている雰囲気ではない。「自分の腹からあんな黒い赤ん坊が出てきても平気だなんて信じられない女だ」と彼らは一様に吐き捨てた。
「血が混ざり合うとろくなことがない。あんなガキがいるからこの街もこんな目に遭ったりするのさ」
恨みがましく嘆く母親にアルフレッドはつい「領主たちのいざこざはロマと関係ないんじゃないか」と言ってしまう。迷信深さを注意され、彼女はキッと目を吊り上げた。
「いいや、本当にろくなことがないんだ。北のほうじゃ家畜や獣を犯した馬鹿がいるそうでね、夜な夜な人の顔をした化け物が出ると聞くよ」
今度は怪談か、と秘かに嘆息する。北パトリアは船の行き来する都市以外、どこも百年発展が遅れていると小耳に挟んだ覚えはあるが、これがかの賢明なプリンセス・オプリガーティオの治める民かと思うとつらくなってくる。いや、現実に存在する姫でないのはわかっているが。
「ロマが家畜や獣と同じに見えるのか?」
諭そうとするアルフレッドに家長は「なんだよ、あんた連中を庇うのか?」と舌打ちした。父親がこちらに背を向けるや否や一家はつんとそっぽを向く。もう関わる気もなくしたらしい。アルフレッドは礼だけ告げて踵を返した。
広場に戻ったアルフレッドは目立たぬように主婦や老人、若者や子供たちにそれとなく同じ話を振ってみた。だが反応は先刻の四人家族と大差ない。確かにこの街はロマの子供に優しくなさそうだなと感じる。
(でも俺だって優しい街で育ったわけじゃないぞ)
アルフレッドは己の幼少期に思いを馳せた。散々叩かれた陰口も、涙が出るほどの情けなさも、まだはっきりと思い出せる。
生きづらい日々の中でも友達はできたこと、そして夢を見つけられたことも。
(あんな家に帰したって子供が不幸になるだけさ、か)
第三者として冷静に子供の置かれた状況を見極めるつもりだったが、噂話を聞いたくらいでは結論など出なさそうだった。寄り道はやめにしてマチルダの家に向かうことにする。
暗くなってきたし急がなければ。そう思いつつ細い通りの角を曲がったときだった。大柄な、旅行者らしき厚化粧の女にぶつかったのは。
「やーん、大丈夫だった?」
低音の声にぎょっとする。ばちんと熱いウィンクを送られ、アルフレッドは身を反らしたまま硬直した。
「ごめんなさいねえ、すーぐどっか行っちゃう連れがまたいなくなったから、キョロキョロしちゃって前方不注意だったわあ」
女はシナを作って詫びてくる。女──いや、これは女装の男かもしれない。顔立ちは整っているものの顎の産毛が若干濃いし、頬に添わせた手はごつく、パフスリーブの旅行用ドレスでも隠せないほど身体つきががっしりしている。
「だ、大丈夫だ。そちらは?」
動揺を隠して問うと「あたし? あたしは好みのお兄さんと触れ合えて逆にハッピーよ」と彼女は薄赤く頬を染めた。どうリアクションすべきかまったくわからずに「なら良かった」とだけ返す。
「怪我がなくて安心した。こちらも以後気をつける」
「うふっ、ご丁寧にありがと」
すごいインパクトの女性だな、と圧倒されつつ会釈して別れた。パトリア語のイントネーションも訛りのせいで習いたてのように独特で、肌の色が違えば東方人と間違えたかもしれない。
(なんにしても旅人がやって来るようになれば街の景気も回復してくる。早くオプリガーティオに相応しい都市が甦ってくれるといいな)
アルフレッドは今度こそマチルダのもとに歩き出した。三つある街門のうち一番小さな西門に近いのが彼女の家だ。
同居の両親に見つかると連れ出すのが難しくなりそうなので、家の裏の栗の木に恋人たちが逢引き用に使っていたハンカチを巻く。あとは目印に気づいたマチルダが街外れまで来てくれるのを待つだけだった。
(ロマとパトリア人の子か。いつの時代もハーフは苦労させられるな)
レイモンドも親の浅慮を嘆いていたなと思い出す。幼馴染がアクアレイアの国籍を得るまでどれほどの試練があったか想像すると胸が痛む。簡単な話ではないのだ。帰属する場所を選ぶことも、実際にそこで生きていくことも。
(生まれてきた以上は幸せになってほしいな)
沈みゆく夕日を見送りながらアルフレッドはマチルダの家を後にした。
ふんふんと鼻歌まじりにウァーリは剥がれた石畳を避けつつ歩く。さっきの赤髪の男の子、太い眉毛が生真面目そうで可愛かったわと思い出すにつけ頬が緩んだ。
(ああいう子って一途だし、からかうと照れちゃって面白いのよねえ)
ジーアン十将にはいないタイプ、とニンマリする。蛇と猫はまだ尻が青く、虎は情緒がなさすぎるし、狐に至っては嗜虐趣味、熊にも龍にも猿にも狸にもどうにも食指が動かない。やはり身内より外の男だ。堅物の若者を手練手管で篭絡するのがこの世で最も楽しい恋愛の一つなのだ。
「おい」
と、空気を読まない狼が浮かれ気分に水を差してくる。声のしたほうに目をやってウァーリは頬を膨らませた。
「ちょっと、あんたどこ行ってたの? か弱い乙女をほったらかして!」
こちらの不満など意に介した風もなく、すらりとしたパトリア人男性の身を纏うダレエンは「妙な噂が耳に入ったんでな。少し聞き込みしていた」と広場の一角を顎で示す。
立っていたのは感じの悪い四人家族だ。なんでも彼らの話によれば、北方のなんとかという街で恐ろしい怪物が目撃されたとのことである。
「人の顔をしたグリズリーだとか、頭を三つも持つ野犬だとか、楽しげな相手だろう?」
そう問われ、ウァーリはがっくり肩を落とした。興味が湧くのはいいことだけれど、もう少し今がどんなときか考えてくれないものか、この獣頭は。
「あのねえ、あたしたち遊びにきたんじゃないのよ? 道草食ってる暇なんかないんだからね」
苦言を呈するウァーリに対し、ダレエンは「もちろんそうだ。だがちょうど通りがかりそうな場所だったのでな」といつものマイペースで地図を広げる。「ここだ、ここ」と強引に覗き込まされて頭が痛くなってきた。本当に、我々がいつ寿命を迎えてもおかしくないという状況をわかっているのか心配になる自由ぶりだ。
まあいいわとウァーリは説教を諦めて子牛皮の地図に目を落とした。見ればダレエンの立ち寄りたがっている街はディラン・ストーンが向かったと思しき都市のすぐ隣である。これなら一日そこで休むくらいはできそうだった。
「だけど遊んでる場合じゃなくなってるかもしれないわよ、この辺りまで辿り着いたら」
気を引きしめてかからなきゃとウァーリはダレエンに言い聞かせる。
ハイランバオスは底の見えない男だ。天帝とは別種の威圧感がある。偵察に飛ばした部下からも「アイリーンを見た」という報告が入っているし、油断はできない。
「あまりガチガチに緊張するのも良くないだろう。本格的に対峙する前に身体はほぐしておくべきだ」
「そうねえ、それは異論ないけど」
果たしてあと何日かかるのやら、と地図に溜め息を落とす。夜は物騒だから宿に泊まらぬわけにいかないし、少なく見積もっても半月は要しそうだ。
「お前が馬を盗まれなければもっと早く進めたのにな」
ストレートな物言いが心臓に突き刺さる。
「ちょっと寝ぼけてただけよ! 草原ではいつも野放しだったでしょ!」
言い逃れしようとするウァーリにダレエンはまるで聞く耳を持たなかった。百年に一度の真面目くさった面持ちで「まったく、お前は俺たちがいつ寿命を迎えてもおかしくないとわかっているのか?」などと非難してくる。
「うう、あたしが悪かったってば!」
半べその謝罪でウァーリは無理やりこの話題を終わらせた。せめて馬車でも捕まえられればいいのだが、街がこの惨状では望むべくもないだろう。ああ、だから不慣れな土地は嫌なのだ。
胸中で文句を垂れつつウァーリは今夜の宿を求めて大通りを歩き出した。
******
待ち人が現れたのは深夜だった。誰かが枝を踏む音を聞き、アルフレッドは太い木の陰で面を上げた。
ランタンも持たず、街外れの木立へと忍んできたのは二十歳くらいの細身のブロンド女性である。月明かりが彼女の強張った顔を照らし出していた。勝気そうな目をきょろきょろさせて、女は一番太いオークのすぐ側までやって来る。
「あなたがマチルダさんか?」
「ッ!」
なるべく驚かせないように声をかけた。だが彼女は見知らぬ男の姿に臆して後ずさりする。そのまま身を翻して逃げようとするのでアルフレッドは慌てて彼女を呼び止めた。
「待ってくれ! 大丈夫だ、怪しい者じゃない。俺は旅のアクアレイア人で、アルフレッド・ハートフィールドという者だ」
両手を上げて害意がないことを示す。マチルダはその場に留まってくれたが「どうしてアクアレイアの方が私の名前を?」と問う声は警戒心に満ちていた。さっさと本題に入ったほうが良さそうだなとアルフレッドは話を切り出す。
「イヴェンドというロマに聞いた。もしまだ彼と息子さんに会う気があるなら案内させてもらうつもりだ」
申し出にマチルダは青い目を見開いた。
「二人がどこにいるか知ってるの!?」
途端彼女の顔つきが鬼気迫ったものになる。目の下の隈も、げっそりした頬も、疲労より執念を感じさせた。「あの子は酷いことされてないでしょうね?」と必死の形相で尋ねられ、アルフレッドは少々たじろぐ。紐で繋がれた幼子を思い浮かべつつ「まあ殴られてはいないかと」と口ごもり気味に答えた。
「会わせて! 早くラクロを返して!」
マチルダは長いブロンドを振り乱して詰め寄ってくる。わかった、わかったとアルフレッドは彼女をなだめ「この街にいるわけじゃない」と押し返した。
「街道沿いにオークの森があるだろう? そこの木こり小屋にいるんだ」
そう告げるとまた不審げな目を向けられる。嘘をついて人買いに売る気じゃないでしょうねという表情だ。まあ普通は信用しないよな、とアルフレッドは男の子のつけていたキルトのよだれかけを差し出した。
「あなたとイヴェンド、どちらが子供を引き取るかは話し合いで解決してくれ。俺は事情があって別のロマと一緒に旅をしているんだ。たまたまイヴェンドがあなたから子供をさらったことを知り、捨て置けなくてここまで来た。
最初に断っておくが、俺はあなたを案内する以上の助けにはなれない。だが俺も連れのロマたちも特にイヴェンドの味方ではないから、その点は安心してほしい」
アルフレッドの説明にマチルダは眉を寄せた。
「あの子を返してくれるんじゃないの?」
「イヴェンドは家の中に押し込められている息子が可哀想だと言っていたよ。一応彼の言い分も聞いてやるべきじゃないのか?」
彼女は不満そうだったが、こちらがそう尋ね返すと黙り込む。
「……フエラリウスで一緒に暮らそうって言ってもまるで聞かなかったくせに、今更……!」
愛憎入り混じる響きでマチルダは吐き捨てた。小さく嘆息し、アルフレッドは「行こう」と暗い夜道を先導する。
(本当に、子供が可哀想だな)
呟きは喉奥に飲み込んだ。通りすがりの人間の同情心など何にもならない。自分にできるのは彼女を案内してやること、そしてせめて子供の立場から夫婦の決着を見守ることだけである。




