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第2章 その10

 アクアレイアを発っておよそ二ヶ月半が過ぎた。北へ北へと進んでいるため夏の到来はさほど感じられないが、暦の上ではもう六月、あちらこちらの船が入れ代わり立ち代わり港を訪れる季節である。

 ロマとの旅は概ね順調に続いていた。トゥーネとフェイヤがアルフレッドを仲間と認めてくれて以来、刺々しかった老ロマの態度も少しずつ変わってきている。

 この頃のジェレムはじっと物思いにふけり、黙り込んでいることが増えた。嫌がらせに石をぶつけてきたり、怒鳴り散らしたりもしない。だからと言って打ち解けようとする素振りもまったく見せなかったが。

 今日も今日とてジェレムは一人でぽつんと先を歩いている。不安になるほど背中は静かだ。

 何を考えているのだろうか。不機嫌とは違いそうなのに誰とも口をきこうとせず、沈黙は謎めいている。まさかまた良からぬことを企んでいるのでは、と疑念はふつふつ湧き上がった。

 預けた剣を勝手に売り払われたことはもう怒っていない。自分にも感謝してもらえるという思い込みがあったのは確かだ。だから蒸し返すつもりはないが、それとジェレムへの信頼が損なわれたのはまた別の話だった。しかも彼は先導として依然こちらにやり返せる立場にいるのである。


(もしカロがいるのと全然違う方向に歩かされていたら……)


 いやいやいやと首を振った。さすがにそれはないだろう。目的を果たすまでジェレムはずっといけ好かないアクアレイア人を引き連れなければならないのだから。トゥーネやフェイヤとだってすぐにも引き離したいはずである。


(完全に孤立状態だものな……)


「心配かい?」


 と、隣を歩く女ロマに尋ねられる。


「さっき分かれ道になってたし、細いほうに入ったからね。こっちの道で本当に合ってるのか気になるんだろ?」


 人生経験豊富なトゥーネには若造の浅慮などお見通しらしい。「いや、まあ、少しだけ」と濁して返すアルフレッドに彼女はにこりと微笑んだ。


「約束は守ってくれるさ。あんたがはぐれさえしなきゃ平気だよ」


 一番派手に喧嘩していたのにトゥーネはジェレムに懸念を持っていないようだ。冗談めかして「不安なら占ってあげようか?」と問われ、アルフレッドはうっと詰まる。


「あれは本気で信じそうになるからやめてくれ」

「あっはっは!」


 女ロマとは随分打ち解け、商売のからくりを教わるまでになっていた。

 歌や踊りは少々手抜きをする程度だが、金物修理や動物の世話、予言の類はインチキにデタラメばかりだそうである。なんと馬の首に針を刺し、若々しく見せる技まであるという。老人と女子供の三人連れでは露見したときの危険が大きすぎるので今はやっていないという話だが。


「私たちもジェレムに置いていかれないように気をつけるけど、アルフレッドもちゃんとついてきてちょうだいね?」


 今度は反対側から少女に声をかけられた。険のなくなったフェイヤは大きな黒い双眸や褐色の肌のためか、どことなくアニークを思い出させる。ポケットのピアスに触れつつアルフレッドは頷いた。


「ああ、わかってるよ」


 それにしても酷い景色だ。左手には深いオークの森、右手には緩やかな丘が広がる荒れた街道を見渡して溜め息をつく。

 丘陵は広範囲で草が踏み倒されており、道幅を無視して大量の兵が通過したのが見て取れた。大砲を曳いて運んだ轍もくっきり残っているし、あちこちで焚き火の燃えかすが放置されたままになっている。

 紛争の絶えぬ土地と言えば第一に思い浮かぶのは古王国だが、北パトリアもなかなかどうして立派な危険地帯だった。不仲な小邦が一箇所に固まっている以上、衝突は避けがたい運命らしい。

 だがこうして治安の悪い道を行くのは仕方ないことと言えた。安定した国や都市ほどロマの出入りを拒むからだ。気楽な旅は今後も望めないだろう。身辺にはよくよく気をつけねばならなかった。


(早くもっとちゃんとした剣を手に入れないと)


 模造剣の柄を握り、アルフレッドは顔を上げる。


「次に向かうのはどんな街だ?」


 そう尋ねるとトゥーネから「フエラリウスってところだよ」と返事があった。知りたかったのは武器が売られているかどうかだったのだが、街の名前を耳にしてそれどころではなくなってしまう。「え!?」と声を裏返し、アルフレッドは女ロマに問い返した。


「ほ、本当か? 本当にフエラリウスの街なのか!?」


 興奮を抑えきれず、つい鼻息が荒くなる。

 フエラリウスといえばプリンセス・オプリガーティオが暮らす小国のモデルとなった街ではないか。まさかそんな騎士物語縁の地を通りがかるとは。


「そうだけど、知ってるのかい?」


 急に生き生きし始めたアルフレッドにトゥーネがぱちくり瞬きした。普段は出さない大声にフェイヤもびっくりした様子だ。


「ああ、子供の頃から好きな本に出てくる街なんだよ。一度でいいから行ってみたかったんだ」

「?? 本ってなんだっけ?」


 と、アルフレッドの返答を聞いて少女が小さく首を傾げる。きょとんとした顔を見て、そうだロマには読み書きができないのだったと思い出した。

 文字を覚えようとせず、金銭類の取り扱いも雑だったのがアクアレイア人とぶつかった原因の一つだと言われている。苦もなくペンを操って、一国の王と暗号文までやりとりするカロが特殊すぎるのだ。


「ええと、本っていうのはこう、このくらいの紙の束に、フェイヤがトゥーネから聞くような昔話やためになる教えが書いてあるんだ。俺が何度も繰り返し読んだのは『パトリア騎士物語』という話なんだが」


 説明すれば説明するほどフェイヤは「?」と混迷を深めていく。困り果てたアルフレッドに助け舟を出してくれたのは「ふーん、前に聞いたことがあるね。『パトリア騎士物語』ってあんたらのお伽話だろう?」と拳を打ったトゥーネだった。


「要するに絵芝居みたいなもんだ。フェイヤ、覚えてないかい? いつだったか、もっと北のほうの街で年取った男がやってたろう」

「あっ! もしかして四角い台に載せてたアレ?」


 彼女の言葉でフェイヤも腑に落ちたらしい。「そっか、本ってああいうのか」と感心しきって頷いている。アルフレッドの写本には挿絵などという贅沢品は一枚も入っていなかったのだが、余計なことを言うとまた少女を混乱させそうなのでやめておいた。


「それじゃフエラリウスってアルフレッドの好きなお話と関係ある街なんだ」

 フェイヤは頬を綻ばせ、「良かったね」とこちらを見上げる。

「私はよく知らないけど、アルフレッドが嬉しそうだと嬉しいよ。騎士物語に出てくる街なら剣とかいっぱい売ってるかも! 私も探すの手伝っていい?」

「ああ、是非お願いしたいな」


 笑顔を向けるとフェイヤは双眸を輝かせる。歓声を上げた少女が躍り跳ねる姿を眺め、微笑ましさに目を細めた。


「本か。あたしらも文字を知ってりゃもっと違ったのかねえ」


 ぽつりと女ロマが零す。「なんの話だ?」と問えばトゥーネはもの悲しげな声で先祖の過去を教えてくれた。


「昔のロマ──鉱山で奴隷にされてたあたしらの親は、ロマの言葉で喋るのを禁じられていたんだよ。それでも大切な歌だけはこっそり受け継いだけどさ、意味のわかる歌は随分少なくなっちまった。話し言葉なんてほとんどあんたらと同じだろ? 祝いの歌も弔いの歌も、昔はきちんと歌われてたと思うとねえ」

「……!」


 思いがけない事情を知ってアルフレッドは息を飲む。どう見てもパトリア系の民族でないロマたちがなぜパトリア語やアレイア語を日常会話に用いるのかずっと不思議に思ってはいたのだが、まさかそういう背景があったとは考えもしなかった。危険と隣り合わせの暗い穴で酷使されてきただけでも耐えがたい苦難だったろうに。


「ま、今更嘆いたってどうしようもないことさ。気にしないどくれ」


 トゥーネはなんでもない風に笑う。アルフレッドが返す言葉に悩む間に彼女は「ちょっと、置いてくんじゃないよ!」とフェイヤを追いかけていった。

 自分たちの言葉を失うというのは、故郷を失うような痛みや苦しみを伴うのではなかろうか。

 そう思うとジェレムの憎しみが苛烈に過ぎるのも当たり前のことに思えた。憎悪の対象が西パトリアの人間の中でも特にアクアレイア人に偏っているのは解せないが。


(アクアレイア人とは接する機会が多かったから、すれ違いも頻繁に生じたのかな)


 アルフレッドは女たちの更に前を行くジェレムを見やる。脳裏には「カロが生まれてからあんたはどっかおかしいよ!」とのトゥーネの台詞が甦っていた。

 何がきっかけでジェレムはアクアレイア人を嫌い始めたのだろう。もちろんモリスの母とは相当揉めたのだろうけれど、どうにもほかにも理由がある気がしてならなかった。でなければロマ狩りに対する恨みは自分たちより古王国人に向けられるはずだから。


「ん?」


 そんなことを考えていたらジェレムがふっと道を逸れ、森の中に踏み入っていった。あれ、フエラリウスの街に行くのではなかったのか、とアルフレッドは慌てて駆け出す。


「ああ、平気平気。この辺りは木こりの作った掘っ立て小屋が空いてるときがあるからね、泊まれないか見にいってみるんだろう」


 追いついたトゥーネの言に「なるほど」と頷いた。彼女は「ほら、こっちだ」とうねる木々の間をすいすい歩いていく。フェイヤも軽い足取りで続いた。

 一歩森に踏み込むとそこはもう別世界だった。天を突く逞しい大樹や細い枝を伸ばした若木が一斉にアルフレッドを見下ろしてくる。侵入者に驚いたリスがオークの実をしっかりと腕に守って茂みに逃げた。木漏れ日の中をしばらく行けばそれらしい小屋が見えてくる。ジェレムは小屋から少し離れた木の陰に立っていた。


「おい、あの中を見てこい」


 ぶっきらぼうな命令にアルフレッドは「わかった」と頷く。刃の丸い模造剣しか持っていないのは不安だが、ロマたちに斥候などさせられなかった。もし野盗が潜んでいたらロマを見て悪い考えを起こすかもしれない。フェイヤたちをもう危険な目に遭わせたくなかった。それなら自分が絡まれたほうがずっといい。


「──誰だ!」


 が、今回は扉を開けるまでもなく野蛮な盗賊はいないと知れた。外の気配に気づいて中の男が飛び出してきたからだ。褐色肌に黒い髪と目のロマの男が。


「なんだお前は? ここらの兵士じゃなかろうな?」


 鼻先に鋭いナイフを突きつけられる。骨ばった顔つきの、三十路そこそこと思しきロマは妙に小屋の奥を気にしつつ警戒を強めた。


「いや、俺は旅のアクアレイア人で」


 腕を広げて相手をなだめつつアルフレッドは振り返る。


「ジェレム、ロマだ! あんたの仲間じゃないのか?」


 呼びかけると木陰に隠れていた一行が男の前に姿を見せた。見知らぬロマは最初に出てきた老人を見やり、驚愕の声を上げる。


「ジェ、ジェレム!」


 なごやかな再会のひとときが訪れるかと思いきや、男はきつく目を吊り上げ、耳まで真っ赤にして怒りだした。そのまま止める暇もなく彼はジェレムに掴みかかる。


「おい! カロはあんたが西パトリアから追い出したんじゃなかったのか!? あいつこっちに戻ってきてるぞ! どうしてくれる!? 俺は、俺はあの邪眼に見られたかもしれない……!」


 早口に捲くし立て、男は乱暴に老ロマを揺さぶった。前触れもなく飛び出た名前に止めに入ろうとしたのも忘れてアルフレッドは瞠目する。


(この男、カロに会ったのか!?)


 すぐにも話を聞きたかったがジェレムを睨む双眸は鋭く、口を挟める雰囲気ではなかった。しかも老ロマが「そうか、そりゃ悪かったな」と厭味も皮肉もなく詫びたため、驚愕のあまりアルフレッドの思考は一瞬真っ白になる。


(えっ……!? い、今、謝っ……!?)


 幻聴か、でなければ聞き間違いかと疑ったが、どうやら現実だったようだ。しかし男は謝罪に不満だったらしく、いっそう老人にがなり立てた。


「謝って済む問題かよ! あの呪われた眼に近寄っちまったんだぞ! 本当にあんた耄碌したぜ。昔はあんたより頼りになるロマはいないと思ってたのに。それにアクアレイア人と一緒にいるなんて……!」


 男がジェレムに詰め寄ると非礼に怒ったフェイヤがトゥーネの陰を飛び出す。


「何よ!? アクアレイア人と一緒にいちゃ悪い!?」


 甲高い声で叫び、少女は彼を突き飛ばした。不意打ちに男はよろけ、老人のコートの襟から手を離す。


「ジェレムのことも馬鹿にして! それ以上言ったら許さないから!」

「お、おお、こんな小さなお嬢ちゃんも一緒だったのか」


 彼はフェイヤを見た途端、どうしてか嬉しそうな顔をした。「アルフレッドはジェレムが道案内してるところなの! 変な人じゃないし!」と怒鳴る少女に「いや、すまない。俺もちょっと言いすぎたな」と四角い頭をへらへら下げる。


「……?」


 年長者に取り入るのならともかく、なぜ彼はフェイヤに愛想笑いなどするのだろう。アルフレッドは怪訝に眉を寄せた。男は更に掘っ立て小屋を指差して「せっかく会えたんだ。もう少し話さないか?」と一行を中へ促す。


「そうさせてもらおう。同胞からの誘いを断る理由はない」


 ジェレムが申し出を受けたのでトゥーネやフェイヤ、アルフレッドも老人の後に続いた。

 カロの所在を知るまたとないチャンスである。よし、と気合を入れ直す。

 しかし結局小屋の中でカロの話はできなかった。待ち受ける新たな難問を、アルフレッドはすぐに目の当たりにすることになる。




 ******




 入口の低さに反して屋内は広かった。床板こそ張られていないが大人が五、六人ゆったりと足を伸ばせそうな土間がある。見たところ去年の薪を使いきり、今年はまだ伐採を始めていないという感じだ。木こり小屋という割に斧や鉈といった道具はほとんど置かれていなかった。


「ふええ、ふえええ」


 突如響いた泣き声にアルフレッドはびくりと肩を跳ねさせる。一体なんだと思ったら中央の柱の陰で小さな男の子が涙ぐんでいた。まだ三つにもならなさそうな幼子だ。腰にはぐるりと縄が巻かれており、その一端は基柱にしっかり結びつけられている。


(び、びっくりした)


 心臓を押さえつつ薄暗い小屋の内部に目を凝らした。迷子紐かなと思ったが、それにしては手触りの悪そうな荒縄だ。頭の形がそっくりだし、父親は先程のロマだろう。母親も小屋の中にいるのだろうか? そう思い、周囲を一瞥してみるもそれらしい女性はいない。父子以外には誰の姿も見当たらなかった。

 アルフレッドがきょろきょろする間にジェレムは土間に胡坐を掻く。老ロマに腕を引かれ、フェイヤがその横に腰を下ろした。


「顔を見せるのは初めてだったな。生まれて十年になった、フェイヤだ。名はこの子の兄から貰った」

「……初めまして」


 露骨に不信を滲ませた上目遣いで少女は愛想もへったくれもない挨拶をする。男のほうは「イヴェンドだ」と手短ながら笑顔で返した。


「あの坊主は?」


 ジェレムの視線が例の幼子に向けられるとイヴェンドと名乗ったロマは今頃気づいたような素振りで「ああ」と振り向く。そのまま彼は柱の隣に腰をかけ、嫌がる子供を無理矢理自分の膝に乗せて老ロマ一行に披露した。


「こいつは息子のラクロ──だったが、少し前にシャボに改めた」


 へえ、改名の風習なんてあるのかとアルフレッドは興味深く聞き耳を立てる。だがすぐにそうではないということがわかった。ジェレムとトゥーネが揃って眉をしかめたからだ。二人はいかにも訝しげにイヴェンドを見つめ返した。


(うん? なんだこの空気?)


 状況を飲み込めないアルフレッドにフェイヤがちょいちょいと手招きする。少女にひそひそ「ラクロは『ロマじゃない男の子』って意味。シャボは『ロマの男の子』って意味だよ」と耳打ちされ、えっと幼子に目をやった。


「ふえええん」


 男の子は弱々しく泣きじゃくる。涙のために閉じられていた瞼が開いたその瞬間、思わぬものを見てアルフレッドは瞠目した。

 瞳が青い。左右どちらも、普通のロマとは全然違うスカイブルーだ。


「どういうことだ?」


 問いかけたジェレムにイヴェンドは答えなかった。代わりに「さっきは無礼をしてすまない。俺とこの子をあんたたち一行に加えてもらえないか?」などと頼んでくる。


「そんな話はしてねえよ。どういうことだって聞いているんだ」


 強い語調で問いただされ、男はうっと喉を詰まらせた。しかし誤魔化しては何も進まないと判断してか、ぼそぼそと子供の出自を語り始める。


「シャボは、その、パトリア人の女に生ませた……。だからこういう目をしている……」


 返答にジェレムは一段と表情を厳しくした。


「ラクロだったのをシャボにしたとか言っていたが、母親はどうしたんだ? ここにいないってことは死んだのか?」


 老ロマは眼光鋭くイヴェンドをねめつける。冷や汗を垂らして両手を上げ、男は勘弁してくれと言わんばかりだ。だがジェレムは追及をやめなかった。


「おい、まさかとは思うがお前……」


 言い当てられそうになり、イヴェンドもついに観念する。彼は半ばやけくそで重大な犯罪行為があったことをぶちまけた。


「ああ、そうだ。母親はフエラリウスの街にいる。この子は俺が彼女のところからさらってきた!」


 衝撃的な告白にアルフレッドは息を飲む。さらってきたとはどういうことだと我が耳を疑った。

 詰問するまでもなく男は言い訳を始める。ロマ狩りに遭って仲間が皆連れていかれてしまったこと、一族の血を絶やさないために一度は別れた妻子が必要になったこと、けれどパトリア人の彼女は旅立つのを拒んだこと。それで彼は強引に、子供だけ奪い去ってきたという。


「街の奴らはまだ誰も気づいてない。元々この子は家の奥に隠されてたみたいなんだ。だから……」


 イヴェンドの発言にアルフレッドは思わず「だが母親は探し回ってるんじゃないのか?」と尋ねた。関係ない奴はすっこんでいろと言うように男はキッと睨んでくる。それでも余計な口を挟まずにはいられなかったが。


「その子だって家が恋しいはずだ。さっきからずっと泣いているじゃないか」


 そう言った後、アルフレッドはトゥーネやジェレムの反応を窺った。

 ロマは盗みに肯定的だ。余裕のある人間から分けてもらうのは当然と考えるのだ。その代わり金のあるときはけちけちせずに大盤振る舞いしてみせるし、貸した所持品が壊れた程度で騒ぎもしない。だがこの場合どうなるのだろう。

 元はラクロという名だったならこの子はそれまでパトリア人として暮らしていたということだ。ロマの問題に口出しするなと言われても、もし彼らがロマの理屈だけを押し通そうとするなら自分は──。


「馬鹿を言うな」


 幸いアルフレッドの憂慮はすぐに解消された。ほかならぬジェレムが「誰に生ませた子供だろうとロマとして育てるかどうか決めるのは母親だ」と言ってくれたからだ。


「お前のしたことはロマに相応しくない。シャボはラクロに戻してやれ」


 その声は初めて耳にする、賢人らしい落ち着きのある声だった。

 意地悪く横暴な性格の目立つジェレムがこんな風に若いロマを諭すとは意外だ。モリスやトゥーネの口ぶりから、昔の彼が見事な男だったのは察していたが、今のジェレムには当時の片鱗が感じられる。残念ながらイヴェンドの胸に彼の言葉は響かなかったようだけれど。


「けどよ、母親が子供を不当に扱ってる場合はその限りじゃないだろ?」


 もう開き直ることにしたらしく、彼は粘り強く主張してくる。声を張る父親の腕で男の子はまたしゃくり出した。片言さえ話せない幼児は見慣れぬ大人や荒っぽい言い合いに明らかに不安を増大させている。


「ほら、やっぱり家に帰してやったほうが……」

「これくらい女が抱けば泣きやむさ!」


 たしなめるアルフレッドの言葉をイヴェンドは撥ねつけた。「女が抱けば、ね」と前に出てきたトゥーネが子供を抱き上げる。しかし泣き声は一向に止まない。フェイヤの抱っこも無駄だった。しかし色の白いアルフレッドがあやしてやると、少しだけ落ち着いた様子を見せる。


「……お前には育てられないんじゃないか?」


 ジェレムに嘆息されるもイヴェンドは「この子は酷い扱いを受けてたんだ!」とかたくなだった。

 曰く、元妻の手から子供をもぎ取ったとき、彼女の両親が「連れていかせろ!」「あれがいたんじゃ再婚もできないよ!」と元妻を押さえつけたそうだ。「今は小さいからいいが、あの黒いのが大きくなって家の外まで出始めたらどうするんだ!?」「家の蓄えもほとんど兵士に持っていかれたのに!」などという言葉も耳にしたそうだ。


「あんな家に帰したって子供が不幸になるだけさ! なあお嬢ちゃん、あんただって『片親がパトリア人なんだから街で暮らせ』と言われたら嫌だろう?」


 イヴェンドは同意を求めてフェイヤを惑わしにかかってくる。


「俺たちはたまにふらりとやって来るよそ者でいたほうがいいんだ! 連中と毎日顔を突き合わせて仲良くやっていくなんて無理な話なんだから!」


 そう訴えられ、今度はジェレムが返答に窮した。


「……それでも母親を無視はできない。俺にも白い肌の息子がいるが、母親に育てられないと言われたときはロマの一員として育てる覚悟はできていた」


 老ロマはきっぱりと言い切る。この台詞にアルフレッドはまたも驚かされた。今までは見えてこなかったジェレムの一面が突然眼前に開けた気がして。

 恨んだり憎んだりするだけではないらしい。口は汚いしひねくれているが、彼にも父親としての責任感や子供の幸せを考える心があるらしい。


「向こうからその子をどうにかしてくれと頼まれたわけじゃなく、お前が勝手に任せられないと難癖つけてるだけだろう?」


 ジェレムは言う。イヴェンドの都合など妻子には無関係だ、と。


(なんでもかんでもロマの肩を持つわけじゃないんだな)


 そう実感し、アルフレッドはならばと静かに挙手をした。


「一つ提案があるんだが、いいか?」


 とにかく子供をこのままにはしておけない。なんとか自分も彼の助けになりたかった。


「一方の言い分だけを鵜呑みにして考えるのは間違いのもとだ。一人の人生がかかっているんだし、ここはその母親と公平な話し合いの場を設けるべきじゃないか?」


 アルフレッドは俺が母親を連れてくる、と宣言する。


「は、はあ!?」


 イヴェンドは最初断固拒絶しようとした。だがフェイヤとトゥーネ双方から「逃げるつもり? 卑怯者!」「息子のためだよ、わかるだろう!?」と迫られて頷かざるを得なくなる。

 珍しくジェレムもアクアレイア人のくせに出しゃばるなとは言わなかった。彼もまた泣きじゃくる幼子の今後を案じているようだ。

 口元を引き締めてアルフレッドは老ロマに向き直った。


「問題なければすぐにでも行ってくる。フエラリウスまでの道を教えてくれるか?」





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