第2章 その9
──タムナ、この子は本当にしっかりした声で泣くな。きっと将来すごい歌うたいになるぞ。
麻布の袋越しに赤ん坊をあやすジェレムに妻は曖昧な笑みを返す。難産ではなかったものの、産後崩れた体調は良くなる兆しがまったく見られず、案じたジェレムが「俺がおぶろう」と言ってもカロを離さない彼女はますます痩せていく一方だった。
──もうじき生まれて一年か。皆に見てもらう日も近いな。
なんの悪意もなく話しかける。最初にどの歌を教えてやろう、踊りはいくつで覚えるだろうと。そのすべてに彼女は心病み、命を縮めていたというのに。
宿営地に選んだのは緑深く美しい渓谷だった。清らかな急流が段々になって滑り落ちる荘厳な滝を眺め、切り立つ丘でささやかな宴を始める。杯には酒がつがれ、祝いの歌とリュートの音色が重なり合って天空に響き、晩冬の太陽は輝かしい赤子の未来を約束するかのようだった。
タムナは仲間に「早く、早く」とせがまれるまでカロを隠したままでいた。渋る彼女に業を煮やして「いい加減にしろ」と叱ったのは誰だったか。いずれにせよ、それが災いの箱を開く鍵となったに違いない。
麻袋はただちに破られ、魔除けの布に巻かれた赤子が抱き上げられた。待ち望んだ我が子との対面にジェレムは胸を高鳴らせる。
目元はなお一枚の薄衣に覆われていた。ふっくらした唇や丸い頬にはタムナの面影、まっすぐな鼻筋にはジェレムの面影が見て取れる。眼差しは誰に似ているのか楽しみだった。
一切はまだ希望に満ち溢れていた。ジェレムは幸福の中にいて、たとえ青春の傷が痛む日はあっても耐えきれぬほど重い荷を背負わされる予感など少しも感じていなかった。
薄衣を優しく剥ぎ取り、閉じられていた赤子の瞼が開くのをじっと見守る。言い尽くせない愛と歓喜を胸に抱いて。
何度も同じ夢を見る。自分はもうこれから起こるあらゆる災難を知っているのに懲りもせず同じ過ちを繰り返す。
息を飲み、我が子の右眼を覗き込んだ。光り輝く黄金には世界で一番間抜けなロマが映っていた。
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陰鬱な眠りから目を覚まし、ジェレムがそっと顔を上げると、焚き火の前でトゥーネとフェイヤが並んで丸くなっていた。近くに寄るなと言ったのに話を聞かない女たちだ。おまけに守ってもらっているつもりなのか、隣には片膝を立てたアルフレッドまで寝かせている。
眉間に深くしわを寄せ、ジェレムは即刻立ち上がった。
気分が悪い。むしゃくしゃする。ここはロマの──同胞だけの居場所だったのに。
(どれだけ奪えば気が済むんだ、アクアレイア人め)
行くぞとの声もかけずにジェレムは一人街道を歩き出した。背後では早くも一つ減った気配に勘付いて騎士が瞼を擦っている。足を早め、できるだけ距離を稼いだ。もっとも多少急いだところですぐ追いつかれるとわかっていたが。
(トゥーネもフェイヤもなんだってあんな奴に尻尾を振る?)
忌々しさをぶつけるように土を蹴る。
若くて腕が立つからか。それとも綺麗ごとを並べ立てるのが得意だからか。そうやってこちらが心を開いたその途端、道理の通らぬ常識を押しつけるのが奴らなのに。
(それでも俺よりまともな男と見なされたわけだ)
自嘲の笑みがこみ上げた。うすら寒い朝霧を突っ切ってジェレムはひたすら歩き続ける。
本当はわかっているのだ。二人がアルフレッドについたのは、自分が尊敬に値するロマではなくなったせいだということ。
昔は何もしなくても周りが勝手についてきた。揉め事を仲裁するのはいつも自分の役目だった。己の信じる道義に従い、仲間を褒めたり叱ったり、疑問も持たずによくやれたものだ。今ではすっかりそんな力は失くしてしまった。
(どこまで落ちぶれるつもりなんだい、か)
トゥーネの台詞を思い出し、どこまでだろうなと自問する。戻れるものなら己とて昔の自分に戻りたかった。カロのあの眼に出会う前に。
「…………」
邪視は混乱と不幸を呼び寄せ、最後には一族を破滅させるという。
酷い耳鳴りにジェレムはしわ深い顔を歪めた。どぼんとどこかで女が滝壺に飛び込むあの音がする。
(もう疲れたな)
連れ立って歩き始めた三人を肩越しに振り返り、ジェレムはひとりごちた。
疲れてしまった。老い衰えた我が身でも残された仲間を守ろうとやってきたのに、女たちには己よりあのアクアレイア人が正しいと言われて。
それが事実であろうとも自分には到底受け入れられないというのに。
(もう疲れた……)
虚勢を張るのも己を奮い立たせるのも一人ではなかったからできたことだ。そろそろ休んでもいいんじゃないかという気がする。フェイヤが一人前になるまでは何年かまだ踏ん張らなければならないだろうが、今は少しだけ休んでも。
(何が駄目だったんだろう)
努力なら人の倍以上してきたし、心を広く持とうともした。そうしたら全部めちゃくちゃになってこのざまだ。
路傍の小石を蹴り飛ばそうとしてジェレムはふくらはぎに力をこめた。だがすぐに虚しくなってやめにする。物に当たるようになったのは、ホリーに拒絶されたあの日からだと思い出してしまったから。
(俺だって父親に胸を張れる立派なロマでありたかったさ)
ぐっと拳を握りしめ、ジェレムは己を責め立てるいくつもの声を振り払った。
カロが普通のロマの子だったら。タムナが生きていてくれれば。
考えても仕方がないのに掴めなかった幸せの夢想は尽きない。
それは同時に自分がどん底にいるという証明にほかならなかった。




