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第2章 その8

 アルタルーペの峠を越え、川沿いの平原地帯に入って数日が過ぎた。やっとあの鬱陶しい挨拶をしてこなくなったなとフェイヤは赤髪の騎士を盗み見る。

 押し黙り、一行についてくるアルフレッドの表情は硬い。以前ならこちらが彼に目をやるとにっこり笑いかけてきたものだが、そんな馴れ馴れしさも綺麗に消え失せた。

 いいことだとフェイヤは頷く。このまま自分たちの側からも消えてくれればなおいいが。


「せめて次の街で代わりの武器が手に入ればいいんだけどねえ……」


 と、同じく騎士を振り返っていたトゥーネが呟く。相手はパトリア人なのに甘い態度を見せる彼女にフェイヤは思わず眉根を寄せた。


「まだあいつのこと気にかけてるの? いい加減放っておいたらどう?」


 すぐ前を行くジェレムの背中を気にしつつトゥーネを睨む。アルフレッドがロマに媚びなくなったのは喜ばしいが、トゥーネが普段の彼女ではなくなったのは困りものだ。昨日だって「そんなにあの剣が惜しいなら一人で引き返せばいいんだ」と言うジェレムに不満げな顔をしていたし、理解不能である。老人の機嫌を損ね、仲間の輪を乱して何がしたいのだろう。


「あいつが来てから私たち一度もジェレムの歌を聴けてないんだよ? 特別な歌を教えてもらってるところだったのに」


 フェイヤは自分たちが被っている不利益をトゥーネに訴える。自分としては彼女の間違いを正してやるつもりだったのだが、返ってきたのは思いがけない非難の台詞だった。


「……お前がそんなことを言うロマに育つなんて悲しいね。妹に合わせる顔がないよ」


 溜め息に身が凍る。大好きだった母親の名を持ち出され、フェイヤは大いにうろたえた。


「な、トゥーネ、何を言って……」

「わからないのかい? 自分がどれだけ恥知らずなことを言っているか。確かに彼はロマじゃないさ。だけどあたしらの恩人じゃないか」


 トゥーネはきっぱりアルフレッドを恩人と言いきる。彼女が騎士に感謝しているのは知っていたが、そこまでご大層に考えているとは初耳だった。


「お、恩人って。やめてよ、パトリア人なんかに」


 動揺を堪えて否定する。ロマの道を踏み外そうとしているのはどう考えてもトゥーネのほうだった。パトリア人がロマにどんなことをしてきたか、彼女は忘れてしまったのだろうか。そのうえ恥知らずだなんて、仲間になんてことを言うのだ。

 息を飲み、フェイヤは老ロマのコートを引っ張った。ジェレムならトゥーネに正しいことを言ってくれると思ったのだ。伯母はおかしくなっている。すぐ元通りにしなければ。


「用事さえ済みゃあいつは出ていく。だったら最後まで油断しないほうがいいんじゃないか? 次に俺たちを人さらいの手に委ねるのはお前の言う恩人かもしれないぜ。もしそうなったとき、お前責任取れるのかよ?」


 振り返ったジェレムはトゥーネを強くたしなめた。うん、うん、とフェイヤも老人の言に頷く。だがトゥーネは、もう真っ向からジェレムに逆らうつもりらしかった。


「生き延びるには疑いも賢さかもしれないが、せこい賢さだね。とてもロマのする計算とは思えない」


 一触即発の沈黙が流れる。「あ?」と凄んだ老人にトゥーネは少しも目をやらなかった。そうして更に厳しい口調で言い返す。


「あんたの父親が──ジャンゴが生きていた頃は、相手が誰であれ恩には恩で報いたじゃないか。あんたは立派なロマだった。皆があんたを手本にしてた。それが今じゃどうだい? あんたジャンゴに胸張って、今の自分を見せられるのかい?」


 痛いところを突かれたという顔で一瞬ジェレムが口ごもる。初めて見るその表情にフェイヤはぎくりと身を強張らせた。


「お前に何がわかるんだ。あの頃は小娘以下のガキだったくせに」

「ガキの目にだって偉大なものとそうでないものの見分けくらいついたさ! 一体どこまで落ちぶれるつもりなんだい? 父親の顔に泥塗ってさ、あたしはもうそんなあんたは見たくないよ!」


 ジェレムは目を吊り上げて「知った風な口をきくな!」と叫ぶ。トゥーネはトゥーネで「そっちこそ! あたしらの尊敬してたジェレムはどこへ行ったんだい!?」と金切り声で応酬した。怒鳴り合いは瞬時に取っ組み合いに変わる。いきり立った二人はほとんど同時に互いの胸倉に掴みかかった。


「そりゃあモリスにしょうもないロマになったと嘆かれるはずだよ! ロマのために戦ってくれた男を苦しめてなんとも思わないとはね!」

「あいつが思い上がってただけだろうが! 助けた見返りがあって当然なんて考えてるから馬鹿な思い違いをしたんだ!」


 フェイヤは「やめて!」と間に割り込む。しかし聞く耳は持たれなかった。ジェレムなど喉をゴホゴホ言わせているのに苛烈に声を張り上げる。


「なんだってアクアレイア人の肩を持つ? 昔の男でも恋しくなったか?」

「侮辱する気かい!? 思い出なんて重ねちゃいないよ!」


 えっとフェイヤは目を丸くした。昔の男? どういう意味だ? トゥーネはロマ以外にも夫を持っていたことがあるのか?

 気になったが疑問を挟む余地はなく、二人の争いはますます過熱していく。声というより身体をぶつけ合うように大人たちはいがみ合った。


「嘘つけ! お前はあちこちで色んな男に声をかけられてたからな! どうせその誰かに似てるってオチだろう!?」

「馬鹿、ジェレム! あたしはただ恩知らずになりたくないと言っているだけじゃないか! ロマじゃなくても信じられる奴はいる。あんただって昔はそう言ってただろう!? あのときから──、カロが生まれてから、あんたはどっかおかしいよ!」


 この言葉に激したジェレムはトゥーネの長い黒髪を引っ掴んだ。彼女が殴り殺されるのではないかと案じ、フェイヤは再び絶叫する。


「やめて! やめて! ジェレム、お願いだから!」


 子供の力では暴力を止められず、必死に老人に呼びかけた。トゥーネも逃れようと暴れるが、怒り狂った男の腕をほどけずに右に左に振り回されている。制止の声が響いたのはそのときだった。


「何をしているんだ!」


 騎士は素早くジェレムの腕を引きはがし、トゥーネを己の背に庇った。一瞬今度はアルフレッドが老人をぶちのめすのではと焦ったが、そんなことは一切起きずに静寂が立ち込める。


「…………」


 睨み合いはしばし続いた。しかし胸甲だけとはいえ鎧を着込んだ若者相手に立ち向かうほど無謀にはなれなかったらしく、老ロマは鼻息荒く拳を下ろす。

 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、トゥーネが騎士に「ありがとう」などと礼を述べるのでフェイヤはまたハラハラしなければならなかった。言われたアルフレッドのほうは「いや、別に……」と暗い声で答えただけだったが。


「今日はこれ以上進まん。俺は一人で寝る」


 と、ジェレムが路傍の草むらに荷を投げてどっかりと横になる。えっ、えっ、とフェイヤが戸惑っているうちにトゥーネのほうも「ああ、それじゃあたしも好きにさせてもらうよ」と騎士を連れ、離れた場所に焚き火の支度を始めた。

 ジェレムとトゥーネに歩み寄りの気配はなく、険悪な雰囲気が見えない壁を作りだす。


(ど……どうしよう……)


 フェイヤは決裂した二人の間で途方に暮れた。まさか自分たちがバラバラになってしまうなんて。


「…………」


 少し迷ってフェイヤは老人のすぐ横に腰を下ろした。追い払われたらどこに行こうかと思ったが、幸い瞼を閉じたジェレムは何も言わないでいてくれる。

 空はいい天気なのに、吹く風はとても穏やかなのに、一帯は恐ろしい緊迫に満ちていた。


(ジャンゴってどんな人? トゥーネの昔の男って?)


 できるだけ大人しく座っていたが、頭の中はぐるぐると忙しない。


(二人にもパトリア人を信じていた頃があったの? 私何も聞いてないよ?)


 初めて知った大人たちの過去に受けた衝撃は大きかった。だが一番の衝撃は。


(……母さんに合わせる顔がないって、トゥーネは本気で言ったの?)


 フェイヤはぎゅっと自分を抱きしめる。そんなわけないとかぶりを振った。

 だってトゥーネは日頃から「パトリア人に気をつけろ」と口を酸っぱくして言い聞かせていたではないか。もし親切を受けたらいっそう注意しろ、と。


「……ねえ、ジェレム、私たち駄目なことしてないよね? パトリア人は全部信じちゃ駄目なんだよね?」


 怖々と尋ねると老人は「そうだ」と頷いた。


「あの男が俺たちを助けたのは案内役にいなくなられちゃ困るからさ。そこをトゥーネは全然わかってないんだろう」


 返答を聞いて安堵する。フェイヤはもう一歩ジェレムに近づき、自分も彼に寄り添う形で横になった。




 ******




「ええと……」


 狐に摘ままれた心地でアルフレッドは切株に腰を下ろす。

 一体何が起きたのだろう。確かにロマとて喧嘩くらいするだろうが、よもや二対二に分裂するまで深い亀裂が入るとは。


「あっちはいいのか?」


 一応聞いてはみたものの、トゥーネは「いいんだ」と首を振るばかりだった。ぱちぱちと音を立てて揺らめく炎に草をちぎっては投げ入れて、なんとか平静を取り戻そうと努めているように見える。


「……本当はもっと早くこうしなくちゃいけなかったんだ。あたしも年取って臆病になってたのかねえ。もう三人しかいないんだから、皆でよくまとまってなくちゃって」


 言葉の意味を汲みきれず、アルフレッドは首を傾げた。トゥーネは一体なんの話をしているのだろう。最初から聞いていたわけではないのでわからないが、ジェレムたちとは自分のことで口論になったのではないのか。


「でもやっぱり、これだけはちゃんとしておかないとフェイヤが正しいロマになれないから」


 大義を確かめる口ぶりでトゥーネは何度も小さく頷く。恩知らずになっちゃいけないんだ、と彼女は囁く語気を強めた。

 意図は飲み込めないままだったが、トゥーネが何か大きな決断をしてこちらに来たということだけは理解する。ロマも一枚岩ではないらしい。少なくとも彼女はアルフレッドの受けた仕打ちに憤ってくれていた。


「昔はジェレムもあそこまで頑固じゃなかったんだよ。アクアレイア人と結婚して、モリスが生まれるくらいにはあんたらに期待してた時期があったんだ。だけど色々ありすぎてね、もう敵と味方の区別もつきやしない。あたしだってパトリア人なんか大嫌いだけど、あんたみたいに身体張って山賊を追っ払ってくれた男を信じたい気持ちは残ってるよ」


 そう聞いて少し救われた気分になる。けれどまた、脳裏に女将の例の台詞がちらついた。


(どんなにいい顔されたってロマを信じたら駄目だ──)


 気を許せば今度はアニークのピアスやイーグレットの手紙まで奪われるかもしれない。疑心暗鬼が胸を襲う。黙り込むアルフレッドにトゥーネは物憂げな眼差しを投げかけた。


「……あんたのほうはもう駄目かい? 大事なものをめちゃくちゃにされて、もうロマを信じられなくなったかい?」

「──」


 問いかけに、静かに彼女を見つめ返す。不安げに揺れる黒い瞳。諦め半分の眼差しは、胸の底に押し込めた遠い日の記憶を呼び起こした。

 声がする。あいつはクズの子供だから、真面目そうでも気をつけろよと。


「いや……、そんなことはない」


 気がつけばアルフレッドは横に首を振っていた。我ながら呆れた大馬鹿だと思ったが、ほかの答えは知らなかった。

 人を信じたい。そう願うのは、自分が人に信じられたいと願っている裏返しなのだろうか。親がどうとか周りがどうとか関係なく、自分自身を見てほしいと願っているから。


「あなたは俺のために怒ってくれたんだろう? だったら俺も、その気持ちに応えたい」


 トゥーネはほっと息をつく。「剣のこと、本当に悪かったね」と詫びられて胸はまだ痛んだものの、言葉には出さずにおいた。何も知らなかった彼女を悪く思いたくない。


「あたしに何かできることはある?」


 気遣いは素直に嬉しかった。アルフレッドは黙考し、「それじゃ歌を聴かせてくれないか」と頼む。パトリア人やアクアレイア人の歌ではなく、本物のロマの歌をと。

 トゥーネは少々たじろいだが「あんまり上手くないよ?」と気恥ずかしげに前置きすると、咳払いして背筋を正し、ふくよかな胸に手を置いた。昼下がりの平原に、間もなく優しい歌声が響き出す。

 申告通り、彼女は確かに歌うたいとしては平凡な類だった。声はあまり伸びなかったし、高音を歌うと途切れ、低音を歌うと掠れる。それでも歌は悲しみを包み、やわらげる力を持っていた。

 軽すぎる腰に手を伸ばす。

 いつか戻ってくるだろうか。自分があの剣に相応しい騎士でさえあれば。


「…………」


 子守唄にまどろんで、アルフレッドはいつしか座ったまま眠り込んでいた。ジェレムの舌打ちにもフェイヤの戸惑いにも気づくことなく。




 ******




 翌日も気まずい分裂状態は続いていた。辿り着いた次の街でフェイヤは一人小さく嘆息する。

 振り向けば道の遠くに二人分の人影が揺れていた。開きすぎた距離が怖くてジェレムの手を引いてみるものの、老人はさっさと門をくぐってしまう。

 訪れたのは申し訳程度の土塁と防壁に守られた小さな田舎街だった。簡素な聖堂以外には普通の家屋と大差ない宿と酒場、鍛冶屋と雑貨店くらいしかない。

 通行人には年寄りや女が目立つ。それでいて物々しい雰囲気だった。近辺で小競り合いが増えているのと何か関係があるのだろう。すれ違った数人の主婦が「うちの亭主はいつ帰ってくるんだか」と嘆き合っている。どうもこの街の男たちは戦場に狩り出されてしまったらしい。


「踊れや騒げやって感じじゃねえな。路銀はこの間がっぽり稼いだし、食い物の調達だけしておくか」


 後で落ち合おうと言ってジェレムは一人で行ってしまった。老人の後ろ姿を見送ってフェイヤはくるりと踵を返す。

 街門脇ではちょうどトゥーネがアルフレッドに手を振っているところだった。騎士も用事があるらしく、彼女とは別行動を取る雰囲気だ。

 今ならトゥーネと二人で話ができるかも。

 意を決し、フェイヤは急いで伯母に近づいた。「来て!」とロマ好みの派手なスカートを引っ張るとそのまま誰もいない葡萄畑の裏に回る。

 聞きたいことは一つだった。昨日の信じがたい裏切り行為についてである。


「どうしてあいつにロマの歌を聴かせたの!?」


 答えてと迫るフェイヤにトゥーネはまたも悲しげに眉をしかめた。今までとまるで違う彼女にただ恐ろしくなる。本当に、トゥーネはどうしてしまったのだろう。

 フェイヤにはわからないことだらけだった。それなのに彼女が勝手な真似をやめないから不安は余計に膨らんだ。このままではトゥーネがジェレムに追い出されてしまうのではないか、自分たちは離れ離れになってしまうのではないのかと。


「ねえ、ジェレムに謝ってよ! 今ならきっと許してくれるから!」


 どうか仲直りしてくれと温かな胸にすがりつく。だが彼女は自分から折れるのは不可能だと首を振った。


「ジェレムは恩を仇で返した。ロマとして、あたしはそれを許せない」

「だからその考え方がおかしいって言ってるのよ! 私たちに刃を振り下ろすかもしれないパトリア人から武器を取り上げて何が悪いの? あんな剣、ないほうがずっと安心できるでしょ?」

「恩人を騙してまで自分たちの安らぎが欲しいのかい? あたしが歌ったのはあんたたちの忘恩を償うためだよ。だけど悲しみは癒しきれなかった。まだ罪は残ったままだ」


 返答にフェイヤはますます混乱する。罪など犯した覚えはなかった。彼女に呆れられるいわれもない。自分はいつも大人たちの言いつけを守ってきたし、トゥーネもなんていい子だとたびたび褒めてくれたのに。


「悲しみ? 悲しみって何よ? あの騎士が何をどう悲しんでいたっていうの?」


 泣きそうになりながら怒りにも似た感情をぶつける。どうして彼女はこちらの話に耳を貸してくれないのだろう。もどかしくて気が変になりそうだ。


「騎士ってのは家族や恋人と同じくらい自分の剣を大切にするんだよ。そりゃあんな奪われ方をすれば悲しいに決まってるさ」

「嘘!」

「嘘なもんか。大体嘘ついてどうするんだね」

「絶対嘘だもん! だって私、パトリア人が悲しんでるところなんか見たことない!」


 フェイヤは叫んだ。「あいつらは私たちが泣いてるときでも笑ってるし、そうじゃなきゃ威張ってるか怒ってるかでロマとは全然違うじゃない! これ以上馬鹿なこと言わないで!」と。

 それを聞いたトゥーネはハッと瞠目する。また嘆かせるようなことを言ってしまったかと思ったが、今度彼女が見せたのは失望の表情ではなかった。


「……ああ、そうか、そうだよね」


 ぶつぶつと呟くとトゥーネは額を押さえてよろめく。


「ああ、そうだ。お前にはわからないのが当たり前だ。人さらいを怖がって、あたしたちがお前を危険から遠ざけてきたんだから……」


 彼女の声には沈痛な悔恨の響きがあった。ひょっとして思い直してくれたのだろうか。フェイヤはトゥーネの台詞の続きに期待する。


「ごめんよ、お前がどんなに素直な子供かあたしは忘れてたみたいだ。お前がアルフレッドのことを心ない怪物だって思い込んでても仕方のないことだったのに……」


 ジェレムほどではないにせよ、長い年月を生きてきた女ロマはすんなり己の非を認めた。しかし彼女の謝罪はフェイヤをますます戸惑わせる。トゥーネの口ぶりではまるでこちらが誤りを正しいと信じているかのようだったから。


「どういう意味? 思い込んでるって何?」


 尋ねると逆に「フェイヤはアクアレイア人のこと、どれくらいジェレムから聞いているんだい?」と返される。「パトリア人じゃなくてアクアレイア人の話だよ」と念押しされ、改めて考えてみたところ、ジェレムが彼らを特別嫌っていること以外ほとんど何も知らないと気づいて愕然とした。


「ア、アクアレイア人は、戦争の手伝いをしたロマを街から追い出しちゃったんでしょう?」


 それでも唯一耳にたこができるまで聞かされた深い恨み節を口にする。だがトゥーネには冷静に切り返されただけだった。


「どうしてロマが彼らを手伝っていたのかは?」

「……し、知らない……」


 フェイヤは正直に無知を明かす。するとトゥーネは一度も聞いた覚えのない過去のいきさつを語り出した。


「あのね、昔のロマは穴掘りが得意だったんだ。ずっと遠くから横穴を掘って敵城の壁の真下に火をつけてやることができた。そんな技術を持っていたのはロマがパトリア人の鉱山で長いこと働かされていたからさ」


 うん、とフェイヤは神妙に頷く。ジェレムにもトゥーネにも散々聞かされてきたから、そこに送られたロマが少なくないのは知っていた。人狩りに遭った母と兄もそういった鉱山のどこかで生き延びていると信じている。たとえ二度とは会えなくとも。


「あたしらの親世代までは本当に酷い暮らしを強いられていた。一日中ずっと穴を掘り続けて、病気になっても休めないし、ろくに食べるものもない。ガスが出て大勢死ぬこともあったらしい。ロマの言葉を使うのも禁じられて、随分たくさんの歌が忘れられてしまった。完全なロマ語を話す人間もいなくなった。そんなロマを暗い穴から助け出してくれたのが、アクアレイアの最初の王様になったダイオニシアスって人なんだよ」


 えっとフェイヤは瞬きする。アクアレイアの名が意外な形で現れて、思わず疑いの眼差しを向けた。しかしトゥーネは訂正などせず話を続ける。


「ジェレムの父親でジャンゴという偉いロマがいてね、彼はダイオニシアスに恩を返そうと仲間を率いてアクアレイアに味方したのさ。だからロマが戦争を手伝ったこと自体、貸しでもなんでもないんだよ。むしろ戦場が潟湖に移って役に立てなくなった後もぐずぐず去らないロマばっかりで、却って迷惑かけたんだ」


 ジェレムも昔はそういう考えだったという呟きはフェイヤの心をかつてなく激しく揺さぶった。そんなことは全然知らない、私はなんにも聞いていないと立ち尽くす。


「アクアレイア人のほうが先に掌を返したんじゃなかったの?」


 衝撃のまま口をついた問いにトゥーネは静かに首を振った。感謝を忘れたのはロマのほうだと言わんばかりに。


「ジャンゴとダイオニシアスは立場や見た目の違いなんて関係なく親しかった。あたしらもあやかりたいと憧れたもんさ。だけど今じゃアクアレイア人もロマを嫌っている連中が大半だ。それでジェレムも昔のことは黙ったままでいたんだろう。お前がアクアレイア人に親しみを持って傷つくことのないように」


 ごめんねと再び詫びたトゥーネの顔を見つめ返し、フェイヤは身を震わせる。ジェレムやトゥーネに聞かされてきた忠告がいっぺんに耳の奥に甦り、憤りはいや増した。

 まったくの嘘ではないにせよ、真実でもない言葉を自分は信じてきたのか。

 ロマに危害を加える者として、人さらいもアクアレイア人も同じだと考えてきたのか。──それでは自分は。


「でもジェレムは、パトリア人もマルゴー人もアクアレイア人も大差ないって……!」


 堪らずフェイヤは声を荒らげる。信じたくなかった。また何か大事なことを隠されているのだろうと思いたかった。だがトゥーネはもうフェイヤを優しく騙してはくれない。


「同じだし違うよ。ロマだって考えや性格はそれぞれだろう? アクアレイア人やパトリア人、マルゴー人の中にだっていい奴はいるさ。簡単には見つかりにくいっていうだけで」

「でも、でも、ちょっと親切にされたくらいで信用するなってトゥーネが!」

「そりゃあ下心があるかないかわからないときは用心しなくちゃならないよ。だけどアルフレッドは下衆じゃない。自分の損得なんて考えないであたしらを助けてくれたんだ」

「そんなことない! ジェレムは道案内がいなくなると困るから助けただけだって言ってたもの! 信じていいかどうかなんてわからないよ!」


 躍起になって首を振る。フェイヤにはどうしてもアルフレッドに悪人でいてもらわなければならなかった。善人だという確固たる証拠を突きつけられてはならなかった。だってもしあの騎士がなんら罪なき存在なら、自分が彼にしたことは──。


「カロのところへ連れていくと約束したのはジェレムだけだろう? 案内役にあたしやお前がいなくても何も困らない。フェイヤ、あの騎士にはね、お前を見捨てることだってできたんだ」


 落ち着いた声で言い聞かされ、フェイヤは言葉を失った。

 そうだ、アルフレッドには道を知るジェレムさえいれば良かったのだ。今更そのことに思い至り、にわかに鼓動が早くなる。


「だってジェレムが……、剣が怖いならなんとかしてやるって…………」


 もう何を否定したいのかわからないままかぶりを振った。そんなフェイヤにトゥーネは囁く。


「あたしはね、アルフレッドがお前を取り戻してくれたと聞いたとき、なんて頼もしいんだと思ったよ。あたしはもうお前ともジェレムともこれっきりかと諦めてたから。ほんの短い間だけでも人さらいに怯えずに旅ができるんだって、そう思ったら嬉しかった。お前はそんな風には安心できなかったかい? あの騎士を信じてみたいと思わなかったかい?」


 トゥーネは屈み、温かい手でフェイヤの両手を握りしめた。けれどフェイヤには「だってジェレムが」と繰り返すしかできない。信じるな、裏切られるぞと呪いじみた老人の声が耳の奥にこだまして。


「昔のジェレムは本当にアクアレイアが好きだったし、悪態をつく仲間からも随分庇ってやってたから、それだけ許せないでいるんだよ。アクアレイア人が絡むとジェレムはちっとも冷静じゃなくなるのにあたしの注意が足りなかった。ごめんねフェイヤ、結局はあたしらがお前を傷つけちまったね」


 優しい腕に抱きしめられ、フェイヤの頬を涙が伝う。

 どうしてもっと早く教えてくれなかったの。責める言葉は声にならず、胸で詰まって心臓を締めつけた。

 信じていい人もいるなんて知らなかったから。ロマにも悪いところがあったなんて知らなかったから。私は一体なんてことを。


「トゥーネ、どうしたらいいの」


 フェイヤはわっと彼女に泣きついた。

 剣はもう戻ってこない。自分が遠くにやってしまった。

 後悔しても遅かった。愚かな自分は感謝すべき人を泥沼に突き落としたのだ。




 ******




 この街で一軒だけの鍛冶屋に赴き、並べられた装備品をひと通り眺め回してみたものの、どれもあのバスタードソードの代わりにはなりそうもなかった。主人曰く、領主同士の諍いが頻繁になって飛ぶように武器が売れ、ろくな品が残っていないとのことである。結局ここでは間に合わせの模造剣を購入したに過ぎなかった。

 手に馴染まない柄を握り、アルフレッドは鍛冶屋を出る。素振り稽古をするにしても前の剣と重さが違いすぎ、嘆息は飲み込みきれなかった。


「はあ……」


 陰鬱な気分を引きずって歩く。と、そのとき工房通りの向こうから見知った男がやって来るのに気がついた。

 我知らず眉を歪めてしまう。いつもみたいに避けてくれれば良かったのに、ジェレムは嘲りの笑みを浮かべてこちらに近づいてきた。


「ふん、やっぱりお前もあいつらと同じ顔つきになってきたな。俺たちをいいように使って最後は見向きもしなかった、あのアクアレイア人たちと」


 棘のある老人の言葉に心が乱される。自分から不和の種をまいておいて何を言っているのだろう。それともジェレムにとってはこれが正当な報復なのか。裏切り者のアクアレイア人に対する。


「お前たちがロマを見捨てさえしなければ、俺たちが狩られることもなかったんだ」


 獰猛な目が噛みつくように睨んでくる。ロマの言い分は一方的で、彼だけが正しいとはアルフレッドには思えなかった。腹の底で燻っていた怒りももたげ、つい口答えしてしまう。


「どうしてそんなにアクアレイアを悪者にしたいんだ? 確かにロマは王国を追い出されたかもしれないが、ロマのほうだってそうなるまで勝手な振舞いを続けたじゃないか。自分たちの行動に不幸を招く原因がなかったかは、一度も考えてみたことはないのか?」


 問いかけにジェレムは眼光を鋭くした。対話しようという気はないらしく、老人はだんまりで唾を吐く。独りよがりなその態度にアルフレッドは強く拳を握りしめた。己とてあんなことさえなければロマに不信など抱かなかったのに。


「…………」


 互いにきつく睨み合う。ここを譲ったら敗北を認める気がして退けなかった。騎士としての志も、伯父への感謝も、有名無実な代物に腐らせてしまうように思えて。

 そのときだった。不意に誰かの泣き声が響いてアルフレッドは背後の坂道を振り返った。

 見れば丘の葡萄畑から別のロマたちが歩いてくる。トゥーネに手を引かれ、泣きじゃくるフェイヤの姿にアルフレッドはぎょっと目を剥いた。

 また何かあったらしい。ロマは事件に巻き込まれやすいから、悪さをされたのかもしれない。ジェレムのことは一旦脇に置き、アルフレッドは急ぎ二人のもとへと駆けた。


「どうしたんだ? 大丈夫か?」


 尋ねるや否やフェイヤは更に瞳に涙を溢れさせる。「ごめんなさい」と謝られ、わけがわからずトゥーネを見やった。女ロマは聞いてやってくれと頼むように少女のほうへ視線を向ける。


「ごめんなさい、私がジェレムに剣が怖いって言ったから」


 ああ、そう言えばトゥーネがそんなことを話していたっけとアルフレッドはひとりごちた。しかしどうして今になって。フェイヤはずっとジェレムに従順で、こちらには冷淡だったのに。


「新しい剣を買うお金、私が踊りで稼ぐから、だから」


 泣きすぎて少女の声は引きつっていた。「いや、その程度の持ち合わせはある」と断ると「でもそれじゃ……!」とますます涙を大粒にする。

 どうやらトゥーネが彼女に何か言ったようだ。だがこんなに激しく泣かれると困惑せざるを得なかった。路傍には興味津々の住民たちが群がってきているし、肩越しに感じるジェレムの視線も穏やかでない。


「だったら私も一番大事なものを捨てる。ほかにできること何もないもの」


 目尻を拭ってフェイヤは宣言した。「一番大事なものって」とアルフレッドは目を瞠る。謝罪の気持ちが本物なのはわかったが、そもそも少ない荷の中からこれ以上何を捨てる気なのだろう。子供の彼女は貨幣のアクセサリーはおろか自分用の楽器すら持っていないのに。


「私がお兄ちゃんに貰った名前、二度と使わない。誰にも呼んでもらわない。だから──」

「な、何を言い出すんだ! そんなのはいい!」


 アルフレッドはぶんぶん首を横に振る。思ったよりも重い発言が飛び出して少し焦った。兄というのはおそらく狩りに遭ったロマだろう。ジェレム一行は以前にもたちの悪い賊に襲われたようだから。


「でも、でも、ほかに私…………」


 ひっくとフェイヤは嗚咽を零す。言葉に詰まった少女に代わり、トゥーネがそっと耳打ちしてきた。曰く、フェイヤというのは男名で、兄妹はもしお互いが引き裂かれてしまったときは名前を交換して片時も忘れないようにしようと約束し合っていたそうだ。


「そんな特別なものなら尚更……」


 固辞するアルフレッドにフェイヤは「いいの」と言い張る。「それくらいじゃないと釣り合わない」と彼女は固い決意の表情で答えた。


「私がフェイヤの名前を捨ててもお兄ちゃんとの約束まではなくならないもの。約束したことさえ忘れなきゃ、心は繋がったままでいられるから」


 少女の台詞にアルフレッドは深く静かに打ちのめされる。「私が悪かったの。だからジェレムに怒らないで」と懇願され、何をしているんだ俺はと震えた。こんな小さな女の子でさえ大切なのは形ではないと知っているのに。


「…………」


 仮にジェレムを言い負かすなり打ち負かすなりできたとして一体それが何になったというのだろう。溜飲は下がったかもしれない。だがそれだけだ。己は危うく騎士ではなく、剣を騙し取られただけの男に成り下がるところだった。


「……いや、やっぱり遠慮するよ。もうフェイヤはフェイヤという名で覚えてしまったし、俺も少し執着心が強すぎた」


 ためらわずに首を振る。「どうして」と問われたが、彼女に名前を捨てさせる権利が自分にあるとは思えなかった。


「フェイヤの言う通りなんだ。貰ったという事実が大事だったんだ。なのに俺は──」


 未熟者で嫌になる。サー・トレランティアにもブラッドリーにも程遠くて。

 長い息をつき、アルフレッドは少女の前に膝をついた。「もう剣のことは気に病まない」と己と彼女に、そして遠い地にいる主君に誓う。

 こんな損失はなんでもないのだ。もっと尊いものを失くすことに比べたら。


「フェイヤも気にしないでくれ。俺は今もフェイヤを助けて良かったと思っているから」

「……!」


 ロマの少女はアルフレッドがただの一度も怒りまかせの暴言を吐かず、感激したらしかった。「本当に?」と聞かれたので「本当だよ」と頷き返す。するとフェイヤは大喜びで老ロマのほうへ跳ねていった。


「ジェレム! アルフレッドはいいアクアレイア人──」


 道端に積まれていた薪が蹴り散らされたのは直後だった。ガラガラと激しい音を立て、転がった材木は少女の足をすくませる。

 一切を拒絶するような、一切に見捨てられたような、底冷えする目で老ロマは女たちとアルフレッドを睨みつけた。そのまま彼はものも言わず、こちらに背を向けて行ってしまう。


「な……なんで? トゥーネ、どうしてジェレムは……」


 蒼白な顔でフェイヤが振り返る。問われたトゥーネは何も答えられなかった。

 筋金入りのアクアレイア人嫌い。それは敵になびいた仲間にまで適用されてしまうらしい。

 老人が去った後も漂う空気は重かった。

 溝はまだ、少しも埋まっていなかった。







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