第2章 その6
夜気を吸い込む呼吸の音が次第に荒くなっていく。はあ、はあ、と切れ切れの息を繋げ、一歩ごとに破れそうになる心臓の痛みも無視してジェレムは山を駆け下った。武装したマルゴー兵の気配はまだそこら中に漂っている。仲間の悲鳴や抵抗の声も響いてくる。
助け出すにはあまりにも力の差がありすぎ、できるのは一人でも多く奴らの手から逃れられるように祈ることだけだった。額を打つ小枝や蔦を払いのけ、皮膚を切り裂く灌木の茂みを掻き分け、獣道をひた走る。
(ちくしょう)
──ちくしょう、ちくしょう。動物みたいに狩りやがって。
振り向けば鬱蒼とした森には松明の火がいくつも浮かんでいた。頭上の樹冠が一瞬途切れたその瞬間、近くに迫っていた追手が「あそこだ!」と声を張り上げる。月光はロマの味方ではなかったらしい。
捕まればどうなるかなど知らなかったが、幸せな場所に連れていかれるはずがないのはわかっていた。憂さ晴らしに嬲り殺されるか、そうでなければ父や祖父、大勢のロマが追いやられてきた鉱山の穴にぶち込まれるに違いない。
「おい、そっちに一匹向かってる! 足止めしてくれ!」
応援を呼んだ兵士はジェレムを挟み撃ちにしようとした。完全に距離を詰められる前に、逃げ場を求めて更に深い茂みに駆け込む。
(誰が奴隷になんてなるかよ)
木の根に足を取られても執念で前に進んだ。だが兵士たちもしつこい。何をしたわけでもない、ただアルタルーペを越えるべく通りがかっただけのロマを上等の獲物同然に追ってくる。
(くそ……ッ!)
崩落が起きたのはそのときだ。何か変な地面を踏んだと思ったら、ガラガラと大きな音が足元に響き、気づけばジェレムは空高く投げ出されていた。後ろを気にして逃げていたせいで崖を見落としていたらしい。
「……っ!」
眼下に広がるのは深い谷。暗闇に光る川面と黒い大岩が目に入った。
ジェレムは崩れた土と一緒に谷底へ落下していく。間もなく強い衝撃とともに水の弾ける音が響いた。
(ぐ……ッ!)
呼吸を奪われ、上下も左右もわからなくなる。必死にもがくが疲弊した四肢はたちまち力衰えた。だがじたばたできなかったのが却って功を奏したらしい。ジェレムの身体は息尽きる前に再び水面に浮かび上がる。
「っはあ、……はあっ」
岸から出っ張った岩の先を掴んで流れに抗った。最盛期を過ぎて久しい肉体はさっさと水から上がれと急かすが崖の上でさっきの兵士が見ていると思うと動けない。
逡巡し、ジェレムは抉れた岩盤が屋根のように被さった川べりに移動した。しばらくここに隠れていれば連中もこっちが流されたものと勘違いするだろう。
「…………」
時間は刻々と過ぎていく。晩秋の夜風が冴え冴えと川面を吹き渡っていく。凍えるのは冷気のためか、かすかに聞こえる絶叫のためか、ジェレムには判別できなかった。
何もできない。握った拳の行き場はない。
誰も助けてはくれないのだ。偉大なロマの先祖たちも。
「おーい、そろそろ戻るぞー」
マルゴー兵の笑い声は夜明けとともに遠ざかった。ジェレムはようやく岸に上がり、峠道に引き返すことができた。
(誰かいないか。俺以外に逃げのびたロマは)
咳き込みながら仲間を探す。濡れた身体を風に晒しすぎたせいか、熱が出て足がふらついた。激しい頭痛と眩暈を堪え、木のうろや崖のくぼみ、あらゆる暗がりを覗き込む。けれど望む人影はどこにも見つけられなかった。
「はあ……、はあ…………っ」
熱はますます高くなる。寒気と吐き気でどうしようもなくなってジェレムは枯葉の山にどさりと突っ伏した。これ以上体温を奪われまいと、必死にその中に潜り込む。
昏々と眠った。目が覚めたとき、何時間過ぎたかわからないくらい。
熱はまだ少しも引いていなかったが、ジェレムはすぐに歩き出した。周辺を徘徊し、疲労に耐え切れなくなるとまた枯葉の山に埋もれ、何度も何度も歩き回った。肺から妙な音がしていた。それでも仲間を探し続けた。
やっとロマに会えたのは二日後。「ジェレム、ジェレム」と呼ぶ声に重い瞼を開いたら、脇に幼女を守ったトゥーネが必死に落ち葉を掻き分けていた。
再び合流できたのは結局この二人だけだ。十四人もいたほかの仲間はどこにいるのか今も知れない。
それが多分、人生で二番目に最悪な出来事だった。
******
夕刻、アルフレッドは村人たちが「よく盗賊を退治してくれた!」と貸してくれた宿の一室で目を覚ました。眠り自体は浅かったものの、柔らかな寝台に横になれたおかげで休養はたっぷり取れた。「一泊ぐらいしてきゃいいのに」と引き留める主人に礼を述べ、村外れの森に向かう。
出発は明日の昼過ぎ。ジェレムはそう話していたがロマの心は変わりやすい。もしかしたら既に旅立ちたくなっているかもしれないし、襲撃のあった翌晩に彼らだけで野宿させるのも心配だった。
だが実のところ、これ以上単独行動を続ける気になれなかった本当の理由は腰の違和感に耐えがたくなったためである。ジェレムに預けた片手半剣を早く定位置に戻したかった。慣れた鞘に触れていなければおちおち眠れもしないのだから。
(手入れはもう済んだかな?)
そわそわしつつ北門をくぐる。
ブナが葉陰を落とす森に踏み入ればロマ一行は大地にどっかとあぐらを掻き、首飾りや腰飾りを編んでいるところだった。
彼らは財布を持つ習慣がないので稼いだ金は紐で繋いで全部アクセサリーにしてしまうのだ。二重になった装飾品を見るに、実入りは大きかったらしい。今度舞い踊るときはさぞ見事に銀貨や銅貨がきらきら輝くことだろう。
(さて、俺のバスタードソードは……)
アルフレッドは作業の邪魔をしないように愛剣を探した。そこらの幹にでも立てかけてあるかなと思ったが、ジェレムの側には古いリュートしか置かれていない。ぐるりと一帯を見渡してみてもトゥーネが占いに使用するガラス球のほかは水筒や手ぬぐいなどのわずかな日用品しかなく「あれ?」と思わず首を傾げた。
もしや研ぎ師に任せたのだろうか。ジェレムの口ぶりでは自分でやってくれそうだったのに。
「すまない、そろそろ剣を返してもらえるか?」
多少訝りながら尋ねる。しかし老ロマの返事はなかった。まるで何も聞こえなかったかのように無視される。尾を引く長い静寂に、黙々と貨幣に紐を通すしわだらけの指先に、嫌なざわつきが胸を襲った。
「……ジェレム、聞こえなかったか? 俺の剣を返してくれ」
極力穏やかに呼びかける。だがジェレムは無反応だ。フェイヤも下を向いたままで、こちらを見たのはトゥーネのみだった。アルフレッドが丸腰なことに気づくと占い女は瞬きし、次いで老ロマを一瞥する。
焦燥を振り払おうと「おい、聞こえているんだろう?」とつい荒っぽい声を出してしまう。するとジェレムは口元を押さえて吹き出した。プッというその笑い方が完全に人を小馬鹿にしたものだったため、アルフレッドの平静は更に遠くへ追いやられる。
「剣はどこだ?」
苛立ちの滲む四度目の問いにジェレムはようやく返事した。「良い値で売れたよ」と信じがたい言葉を吐かれ、「は?」と口角が引きつる。
何を言っている、この男は。売っただなんて冗談でも口にしてほしくない。
「行商人に見せる前に丁寧に研いだおかげかな」
アルフレッドの示す不快など気にも留めずに老ロマは喋り続けた。得意満面に「俺の腕もまだまだ現役でいける」などと自慢され、笑う余裕もなくなってくる。
「ふざけるのはやめろ。自分で取りにいくから早く──」
「そっちこそ、笑えない冗談はよせよ。よこせと言われてお前は了承したじゃないか。あの剣は俺が貰い受けて、こうして金に換えたんだ。今になって返せと言われたって困る」
さも心外そうに肩をすくめる仕草に目の前が暗くなった。
意味がわからなさすぎる。本当に、彼は一体何を言っているのだ?
「……預けただけだ。手入れしてくれると言うから」
震える声で反論するがジェレムの態度はどこまでも素っ気ない。
「預かるなんて俺はひと言も口にしてないぞ」
とんでもない詭弁に絶句した。カーリスの悪徳商人だってもうちょっとましな言い訳を考える。少なくとも自分の連れを罠にかけるなんてことはない。
「……騙したのか?」
アルフレッドは首飾りの出来映えを確かめている老人に詰め寄った。「勝手に誤解しておいて酷い言い草だな」などと嘆かれ、掴みかかりそうになる。
だがそれはなんとか堪えた。そんな乱暴を働けばカロに会える唯一の方法がなくなってしまうから。
「誤解させるような言い方をしたのはそっちだろう……!」
かろうじて口にできたのはそれだけだった。だがジェレムは、アルフレッドの悲しみや怒りなど些細なことだと言わんばかりに吐き捨てる。
「どんな名剣でも親指切られりゃ握れなくなるんだ。どうせお前は騎士として駄目になるんだし、後生大事にあんなもん持っててもしょうがないだろ?」
なけなしの冷静さも消し飛んで、頭の中が真っ白になった。激昂し、老ロマの胸倉を掴み上げる。
「あれは俺の尊敬する人がくれた……っ!」
そこまで叫んでアルフレッドは手を離し、ただちに村に引き返した。
くだらない言い争いをしている場合ではない。すぐに剣を取り戻さなくては。
よりによって行商人に売り渡すなどなんてことをしてくれるのだ。もし既に旅人が出発していたら──。
想像して血の気が引く。森を抜け、簡素な門をくぐり直すとアルフレッドは舗装されていない円形広場に駆け込んだ。
(どこだ? 剣はどこにある?)
重い剣を買い取るような商人なら馬なりロバなり連れているはずだ。しかし馬留めや水飲み場にそれらしき荷獣は見当たらない。宿という宿を片っ端から訪ねてみても、小さな宿場村のどこにも行商人など宿泊していなかった。そうして最後の頼みと扉を叩いた酒場ですべての希望を断たれてしまう。
「最近は北パトリアの領主同士が派手にいがみ合っててね。この辺りの村にもいつ食うに困った連中がなだれ込んでくるかわからないからさ、馬も元気だし、食事を取ったら先を急ぐって言ってたよ? もうとっくに一つ目の峠を越えた頃じゃないかね?」
昼過ぎに見送ったからよく覚えてると恰幅のいい女将が言う。今夜この村に泊まるのはパトリア古王国を目指す巡礼たちだけだ、と。
「…………」
アルフレッドは愕然と立ち尽くした。それでは剣はもう自分の手の届かないところに行ってしまったのか。
激しいショックは稲妻となって心を打つ。どれくらいそこで突っ立っていただろう。気がつけばアルフレッドは店を出て、ふらふら歩き出していた。
正気を失くした状態で山門の外へ出る。だが見上げた峠道に行商人の姿などありはしなかった。夕闇迫る山肌は赤く燃え、ただ木々の黒い影だけが伸びている。
追いかけても無駄だろう。わかっているのに諦めはつかない。もしかしたらどこかで足を止めているかも、急げばまだ間に合うかもと考えてしまって。
(不眠不休で歩けば明日の昼には戻ってこられる──)
薄暗闇に一歩踏み出したときだった。誰かの腕に引き戻されたのは。
ぐちゃぐちゃの頭で振り返ると中年の女ロマが険しい表情で首を振っていた。何も反応できずにいるアルフレッドに占い女は「ジェレムがもう村を出るって」と告げる。
「──」
がつんと心臓を殴られた気がした。「出発は明日の昼過ぎじゃないのか?」と問う声は瀕死の病人かと思うほど弱々しい。
けれどもはや体面を保つ余力はなかった。半分はロマの少女のために、半分は己のために、アルフレッドは声を荒らげる。
「怪我をした女の子に歩かせるなんて……!」
「あの子はジェレムが背負うんだと。だいぶ腫れも引いたから、今日だけ気をつけてりゃいけるってさ」
そう言うとトゥーネは申し訳なさそうに目を伏せた。
これまでの無関心な彼女と違い、その眼差しには深い哀れみが滲んでいる。混乱したアルフレッドにはそんな変化を読み取ることはできなかったが。
「すまないね、あたしもさっき何があったか聞いたんだ。フェイヤがあんたのでっかい剣を怖がったから、ジェレムが売り飛ばしちまったらしい」
女ロマの明かした事情も少なからず衝撃だった。
盗賊たちならいざ知らず、どうして味方の自分が怖がられねばならないのだ。彼らのために戦って、不当な対価を要求したわけでもないのに。
「本当にすまない。まさかジェレムがこんな形で報いるなんて……」
トゥーネの謝罪はほとんど耳に入らなかった。闇に沈みゆくアルタルーペの高峰を振り仰ぎ、アルフレッドは震える拳を握りしめる。
息継ぎもままならず、足は動こうとしなかった。ロマについていかなければと思うほど心は真逆の方向に囚われて。──だってあの剣がなければ俺は。
「……剣を取り戻したい。一日でいいんだ。どうにか待ってもらえないか?」
声を詰まらせながら頼む。しかしトゥーネは首を縦には振らなかった。
「ジェレムはきっと待たないよ。すぐにでも国境の橋を渡ろうとしてる。さあとにかく行こう、あんたカロに大事な用事があるんだろう?」
女ロマに手を引かれ、成す術もなく引っ張られる。一歩一歩が異様に重く、振り返るのをやめられない身体は二つに裂けるのではと思えた。
(あの剣は伯父さんが、努力できる人間の証明だって──)
絶望的な心地で宿場村を去る。トゥーネには「あたしはあんたに感謝してる。あたしが隠れてる間、あんたが頑張ってくれたおかげでまた皆と会えたんだ」と礼を言われたが、その意味を汲めるほど思考は回復していなかった。
ぐるぐる回る頭の中で響いていたのは彼女ではなく女将の言葉だ。どんなにいい顔されても連中を信じちゃ駄目だねえ、という。
なぜこんなことになったのだろう。
わからない。どうして剣が手元にないのか。
離れられないと足は無様にもつれたが、アルフレッドには進むしかなかった。カロのもとに辿り着くまでは、ジェレムとともに進むしか。




