第2章 その5
瞬く星々と半月が暗いブナの森を照らし出す。寝静まった宿場村の門の外、アルフレッドは眠れぬ一夜を迎えていた。
昼間のことでまだ神経が高ぶっているらしい。疲れているのに全然寝つけず、数えた羊もそろそろ柵を破りそうだった。いつまでも気にしていたって仕方がない、どう対処するかも決めただろうと自分に言い聞かせてみるが、眠りの精はますます遠のくばかりである。
(今日は一睡もできそうにないな)
諦めの境地に達し、せめて風邪を引かないように短いマントを被り直した。同じく村外れの森で休むジェレムたちからはすやすやと心地良さそうな寝息が聞こえる。ロマも寝顔には刺々しさなどないのにな、とひとりごちた。
今日の日暮れ、集落を出てきた彼らに保存食の一部を譲ろうとしたところ、徹頭徹尾無視されたことを思い返す。少女フェイヤは冷たい一瞥を投げかけた後、長いスカートを翻してジェレムの背に隠れてしまった。占い女トゥーネの反応も似たものだ。首を横に振る意思表示さえもなく彼女はアルフレッドから離れた。ジェレムに至っては言うまでもない。あの老ロマの場合、罵詈雑言を浴びせられなかっただけましだと考えねばならなかった。
(ジェレムの当たりは本当にきついからな。彼さえ態度を変えてくれれば色々と助かるんだが……)
ブナの幹に背中を預け、アルフレッドは旅に出てから増える一方の溜め息をつく。普段は近くに寄りつかせてくれない彼らが隣にいさせてくれるだけでもありがたいと言えばありがたいが。
(隣とはいえあっちは根元、こっちは枝の上だ。視界に入れてもらえないのに変わりはない)
嫌われぶりを嘆きつつ、斜め下で寄り添い眠るロマたちに目をやった。
ジェレムとトゥーネは幹の左右にもたれかかり、二人の間でフェイヤが丸くなっている。少女の寝相はまるで大きな猫だった。尻尾の代わりに三つ編みを二つ垂れ下がらせ、よく跳ねるしなやかな両足をお行儀良く畳んでいる。骨太なトゥーネの膝を枕にした彼女の熟睡ぶりたるや、こちらに分けてほしいほどだった。
(あの様子だと朝には体力も回復しそうだな。出遅れないように気をつけないと)
どうせ眠れないのなら先に降りていたほうが賢明かとアルフレッドは夜空を仰ぐ。まだ白んではいないものの、東と西で闇の濃さは違ってきていた。一度引いた霧もまた川のほうから垂れ込めている。夜明けはもう間近だった。
「──」
生き物の気配に気づいたのはそのときだ。やや荒い呼吸が耳に入り、狼でも出たのだろうかと身構える。が、どうもそんな様子ではなかった。濃さを増す霧の向こうから足音を殺して何かが距離を詰めてくる。
(……なんだ?)
アルフレッドはきょろきょろとブナの木立に目を凝らした。だが暗闇はまだ深く、月明かりも霧のヴェールに遮られ、正体は掴めない。
(ジェレムを起こしたほうがいいか?)
そう思って再び隣の木を見たときには老ロマはもう起き上がっていた。鋭い目つきで周囲をぐるりと見渡すとジェレムは静かに女たちを揺さぶる。そしてすぐリュートを担ぎ、フェイヤの腕を引っ掴み、その場を駆け去ろうとした。逃亡は失敗に終わったが。
「動くんじゃねえ!」
しゃがれ声が一帯に響く。
ロマを囲んで近づいてきたのはショートソードとクロスボウで武装した三人の強盗だった。逃げ道を塞がれてジェレムが走り出した足を止める。老ロマは女たちを庇いながら後退した。
(まずいぞ。どうする?)
突然の襲撃にアルフレッドは息を飲む。枝から飛び降りれば参戦は可能だが、その前に賊の一人が構えている装填済みのクロスボウをなんとかせねば。着地に手間取っている間に攻撃されては致命傷になりかねなかった。ロマの誰かに当たっても大変だ。
「へへ、逆らうんじゃねえぞ? 余計な大怪我したかねえだろ?」
照準をフェイヤに合わせて弩兵が脅かす。起き抜けの災難に少女はすっかり立ちすくんでしまっていた。トゥーネとジェレムは逃げる隙を窺っているが、剣を見せびらかす頭目と荒縄を持って迫る悪漢に成す術もない。このままでは捕まってしまうとアルフレッドは懐の財布に手を突っ込んだ。
(痛い出費だが人命には代えられん!)
握った貨幣を弩兵の頭めがけて放る。河原の石投げよろしくウェルス銀貨は美しい弧を描き、的にクリーンヒットした。
「あいたっ!」
叫び声が響くと同時、ジェレムが賊に体当たりして道を開く。女たちは脱兎のごとく走り出した。特にトゥーネの逃げ足は素早く、アルフレッドが地上に降りるわずかな時間に完全に危地を脱してしまう。
「ジェレム! ジェレムも早く!」
と、そこに少女の必死な叫びがこだました。老ロマが弩兵に矢を放たせまいと応戦中であるのに気づいて足を止めてしまったらしい。先に逃げてくれればジェレムも逃げやすくなるものを、仲間を案じる気持ちが仇になったようだ。
「とっ捕まえろ!」
頭目の命令に荒縄男が背中の皮袋を掴んだ。二人の悪党は三つ編みを翻して逃げ惑う少女を挟み撃ちにすると頭から大きな袋を被せてしまう。
「フェイヤ!」
暴れもがく少女に気づいてすぐにジェレムが追いすがったが、皮袋を担いだ賊どもはすぐに霧の奥に見えなくなった。残った弩兵が老ロマにクロスボウを向けたのを、アルフレッドは慌てて背後から絞め上げる。
「……ウウッ……!」
カクンと首を傾けて弩兵は意識を失った。フードが脱げたその瞬間、現れた特徴的なもじゃもじゃ頭に瞠目する。
(こいつ昼間の……!)
盗賊宿の一味と言われていた男だ。ということは、さっきの二人のうち一人はウィルフレッドだったのか。
「フェイヤ! フェイヤ、どこだ! 返事をしろ!」
動揺している暇もなく老ロマの怒号が響く。アルフレッドは「あっちだ!」とジェレムに叫んで走り出した。
宿場村の出入口は二ヶ所しかない。一つは国境の橋へと続くこの北門、もう一つは峠道に続く南門だ。
ウィルフレッドが関わっているならアルタルーペ側に逃げたと考えて間違いない。
(クソっ! あいつ本当にどこまでろくでなしなんだ!?)
怒りに頭が白むのを堪え、アルフレッドは全力疾走で村の小広場を突っ切る。宿場村は寝静まっており、表には誰もいなかった。それなのに山門のほうから馬のいななきが聞こえてくる。
堅牢な壁に囲まれているわけでもなく、夜間も開けっ放しの門を飛び出し、アルフレッドは弩兵から回収しておいたクロスボウを前に構えた。発射した矢は今まさに駆け出さんとしていた馬の後ろ脚に命中する。
「うわあああっ!」
皮袋を抱えたまま盗賊たちは落馬した。膝を押さえてのた打ち回るのはあのしゃくれ顎の男だった。もう一人、ウィルフレッドと思しき頭目はなお這って逃げようとする。クロスボウを茂みに捨て、アルフレッドは武器を愛剣に持ち替えた。
「逃がすか!」
這い逃げる悪党の進行方向に刃を突き立てれば男はビクっと動きを止める。儚い望みをかけて仰向けに蹴り転がすも、父は予測を裏切ってはくれなかった。白み始めた空の下、無精ひげと薄桃の髪が露わになる。
「何をやっているんだ、あんた……!」
「ア、アルフレッド!?」
なんでお前がロマと一緒にと尋ねられる。続いた言葉は最低なものだった。
「み、見逃してくれよ。ロマなんかいなくなっても困らないだろ? お前にもいくらか渡してやるからさ」
──根本的に考えが違う。人から奪うな、命をなんだと思っていると訴えたところで話が通じそうにもなかった。
ジェレムがフェイヤを皮袋から助け出してやったのを見て「あ、てめえ!」とウィルフレッドは声を荒らげる。かけらの反省も見られぬ態度に眩暈がし、アルフレッドは目を伏せた。
「……ッ!」
ガキンという硬質な金属音が響いたのはその直後だ。それはアルフレッドのバスタードソードがウィルフレッドのショートソードを弾き返した音だった。転がされた姿勢のまま父は息子に不意打ちを加えようとしたらしい。
「当たるわけないだろう、そんな見え透いた攻撃」
峠道に落ちた剣の、ろくに研がれてもいない刃を冷たく見やる。改心なんてしなさそうだなと左の拳に力をこめた。
「なっ、おま、親になにす」
台詞は最後まで聞かなかった。喋れば喋るほど溝が深まるだけだから。
ウィルフレッドの顔面に埋まった拳骨を引き抜くとアルフレッドはまだ意識を残していた最後の賊に剣を向けた。
「ヒッ!」
お慈悲をと乞われたが、人さらいに同情の余地などない。怯えてジェレムの胸にすがるフェイヤを見たら余計許す気になれなかった。
「言い訳なら法廷でするんだな」
喉元に切っ先を突きつける。老ロマに「こいつを縄で縛ってくれ」と頼むと今日はさすがのジェレムもこちらに協力してくれた。
しゃくれ顎の盗賊は己の用意した荒縄に縛られ、情けなさそうに項垂れる。ウィルフレッドも別の木に括りつけられた。
「ジェレム、トゥーネは?」
まだ鼻をぐずらせながら心配そうに少女が問う。
「上手く逃げた。多分橋のほうにいるから探しにいこう」
老人の返事に頷き、フェイヤはジェレムの手を握った。だが少女は歩き出すなりその場にへたり込んでしまう。
「あ、痛い……!」
「どうした? 怪我か?」
アルフレッドは二人の側に立ち止まった。どうやらフェイヤは落馬した際に捻挫したようである。足首周りが腫れていて無理すると悪化しそうだった。
「動かしちゃ駄目だ。川まで連れていって冷やしてやるんだ。なんならうちの軟膏を塗れば……」
薬屋の息子として助言するもジェレムにきつく睨まれる。たった一回窮地を救ったくらいではまだ仲間とは認めてもらえないらしい。フェイヤのほうも顔を伏せ、礼など言ってくれそうになかった。
(う、うん、まあ、感謝されるためにしたことじゃないしな)
一抹の切なさに知らず乾いた笑みが浮かぶ。アルフレッドの胸中には関心を向けることもなく、ジェレムはフェイヤに「明日の朝までじっとしていろ」と言い聞かせた。
(明日の朝? だったら今夜はまたこの近くに泊まるわけか)
よし、とアルフレッドは小走りに駆け出す。
「村外れで伸びている奴も住民に引き渡してくる!」
一応ジェレムにひと言入れて先に北門まで戻った。
いくら怠惰な司法官でもここまでお膳立てしてやれば裁判を開くだろう。
人間を売った金で暮らそうなんて輩はさっさと裁かれたほうがいい。それにウィルフレッドが牢獄に繋がれれば、今度こそこんな邂逅に苦しむこともなくなるはずだ。
──それからアルフレッドは宿場村の長に山ほど証言を書き取ってもらった。司法官が内容を疑うようならサール宮に連絡してくれとチャドの印が押された旅券の写しも取らせて。
気分がいいとは言えないまでも、身内の悪事を打ち止めにできて安堵はしていたと思う。あの父親との関係も多少なり清算できたと。
それで気が緩んだのだろう。
いつもなら絶対にしないことをした。
******
「銀柳亭の無法者どもが捕まったぞ!」
喜びに沸く宿場村にリュートの音色が響いたのは昼過ぎ。危うくさらわれるところだったという話題性も相まって、ジェレムたちはいつもの倍以上稼いだようだ。
今日到着した行商人が不思議そうにロマと彼らを囲む村人たちを見ていた。なんだって踊りもしない子供にまで菓子や花輪をやっているのかと。
裁判に必要だろう口述を終え、村長の邸宅を出てきたアルフレッドは広場の様子を見て安堵した。三つ編みの少女の側には占い女の姿もある。トゥーネも無事に二人と合流できたようだ。
「──おい」
と、こちらに気づいた老ロマが立ち上がった。奏でていたリュートを担ぎ、ジェレムはアルフレッドに向かってすたすたと歩いてくる。目が合うことも稀ならば声をかけられるなど初めてで、一瞬目が点になった。
(えっ? 俺だよな?)
思わず周囲を見回すが辺りにほかの人影はない。ジェレムに「来い」と顎で示され、わけもわからずついて歩いた。事件の詳細を尋ねようと群がってきた村人も老人のひと睨みで退けられる。
「どうかしたか? なんの用だ?」
村外れの森まで来てやっと立ち止まったジェレムに尋ねた。すると老ロマはこちらに背を向けたまま、小銭の詰まった小袋を突き出してくる。
「な、なんだ?」
「受け取れ」
ぶっきらぼうに彼は小袋を押しつけてきた。盗賊退治の礼のつもりか「いや、そんなのはいい」と断っても「お前の取り分だ」と言って聞かない。
「本当にやめてくれ。金が欲しくて助けたわけじゃないから」
固辞に折れたのはジェレムのほうだった。
「本当にいいんだな?」
老ロマはそう念押しして謝礼を懐に片付ける。ありがとうとは口が裂けても言いたくないらしく、それからしばらくジェレムはむっつり黙り込んだ。
「…………」
そよ風がブナの枝葉をざわめかせる。あまりにジェレムが何も言わないのでアルフレッドはもう行ったほうがいいのかと踵を返しかけた。
だが彼の話は終わっていなかったようだ。唐突に振り返られ、今度は空っぽの右手を差し出される。
「剣をよこせ」
「──は?」
藪から棒に一体なんだと目を丸くした。だが老ロマは発言の意図をなかなか明かそうとはしない。ぶっきらぼうに「いいから」と眉をしかめるだけである。
「戦いに使わせてしまっただろう。手入れをしてやると言っているんだ」
事情を知らない人間が聞けばジェレムは怒っているのかと勘違いしたはずだ。声の響きは辛辣な言葉を口にする普段となんら変わりなかったし、朗らかさや親しみなどは少しもこもっていなかったから。
だがアルフレッドは彼がなんとか謝意を示そうと歩み寄ってくれている気がしてとても嬉しかった。わかりやすい態度ではなくとも、己が彼らを守ろうとしたことに心動かされてくれたのだと。
「研ぎ石は持っているのか?」
問いかけに老ロマが頷いた。面倒そうに頭を掻きつつ「金物修理を請け負うときに包丁を研いでやることもある」と教えてくれる。それだったら安心だ、とアルフレッドはベルトにかけた鞘ごと剣を取り外した。
「任せるよ。ありがとう」
本当は今から自分で研ぐつもりだったのだが、せっかくの申し出を断りたくない。これを機にロマたちと仲良くなれれば嬉しかった。
信頼し合っていたほうがやり取りだってスムーズになる。日常会話に支障がなくなる程度には壁は取り去ってしまいたかった。
(初めてだな。自分の剣を誰かに預けるなんて)
ジェレムにバスタードソードを託すと軽くなりすぎた腕が違和感を訴える。剣が肉体の一部になっているのを実感し、アルフレッドはそんな自分を誇りに思った。
「フェイヤがまだ歩きにくそうだから出発は明日の昼前にする。宿でも取って寝てきたらどうだ?」
これまでのジェレムからは考えられないほど親切な気遣いにアルフレッドは口元を緩める。
「そうさせてもらうよ、ありがとう」
再度礼を告げ、宿場村に引き返した。
父親のことは残念極まりないけれど、いいこともあって良かった。
このときは心からそう思っていた。
******
パトリア人は嫌い。大事な人を連れていってしまうから。
パトリア人は嫌い。音楽に手拍子を打っておいて、次は拳で殴りつけてくるから。
アクアレイア人も、マルゴー人も、パトリア人の仲間だとジェレムが言っていた。だから油断しちゃいけない。助けられたなんて思っちゃいけない。刃を振りかざす人間は、いつでもそれを好きなほうに向けられるのだから。
「フェイヤ」
しわがれた声に名を呼ばれ、フェイヤはハッと顔を上げた。見上げればついさっき騎士と広場を出ていったジェレムがすぐ側に立っている。
「喜べ。上手く運んだぞ」
縁石に座るフェイヤの隣に老人は腰かけた。薄い唇には笑みを浮かべ、鼻歌まで口ずさんで。
さらわれかけて大泣きしたのを思い出し、フェイヤは気まずさで縮こまった。ロマの子は強くなければならないのに、なんて不格好なのだろう。
ジェレムが川で足首を冷やしてくれている間も泣き言ばかり吐いてしまった。剣が怖い、あれで脅されるかもなんて。
「恐れるものはなくなった。これでもう大丈夫だな?」
老ロマは手ぶらの両腕を広げてみせた。優しい手に頭を撫でられ、フェイヤは小さく頷き返す。
占い業に精を出すトゥーネは客の相手に忙しく、こちらの会話など聞こえていない様子だった。どこぞの宿に潜り込んだか赤髪の騎士の姿もない。
土埃を巻き上げて行商人の馬が慌ただしく南門をくぐっていった。フェイヤたちの越えてきたアルタルーペを彼らは逆から登るらしい。
過ぎ去った一行の膨れ上がった荷の中に見覚えのある剣が混じっていた気がしたが、もう一度目を凝らすことはしなかった。
フェイヤは腫れの引ききらぬ足首を擦り、老人の肩にもたれかかっていた。




