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第2章 その3


 水辺に来るとアクアレイアを思い出す。それが小さな泉でも、深いブルーに王女の瞳が浮かぶのだ。

 ルディアは今どこで何をしているのだろう。

 レイモンドはちゃんと側にいるのだろうか。

 こちらがカロに追いつくまで無事でいてくれればいいけれど。


「……ふう……」


 水筒に湧水を汲んでアルフレッドは立ち上がった。新しい情報は一切なく、いたずらに過ぎる時間につい気持ちが急いてしまう。こんな風ではいけないと己を叱咤してみるものの心を落ち着ける材料は皆無だった。せめてロマたちと良好な関係を築けていれば不安は一つ減るのだが。


「……また置いていかれたか……」


 誰の気配もない渓谷を振り返り、アルフレッドは肩を落とした。ロマ一行の声は聞こえず、付近には滝の音だけが轟々と響いている。一筋縄ではいくまいと覚悟していたつもりだが、こうも存在を軽んじられるとさすがにつらい。

 峠道にはまだ新しい三人分の足跡が残っていた。それを目印に下り坂を駆け急ぐ。


(追いつくのは簡単なんだが、そろそろまともに応対してほしいところだな)


 カロを探す旅を始めて早一ヶ月、アルフレッドはいまだロマの同行者未満であった。アクアレイア人嫌いのジェレムにはもちろん、ややふくよかな中年の占い女トゥーネにも、幼い少女フェイヤにも、ほとんど無視され続けている。

 打ち解ける努力はした。積極的に話しかけたし挨拶は今も欠かしていない。ジェレムのために喉の薬を出してもみたし、それを目の前で踏みにじられても耐えて忍んだ。女子供と老人には堪えるだろう重労働も自ら進んで引き受けている。だが冷遇は一向に改善される兆しがなかった。

 油断していると一人だけ置き去りにされる。今は一本道なので困っていないが、じきにアルタルーペ越えも終わりだ。山を下りても同じ調子でやられたらはぐれやしないか心配だった。

 少し後ろを歩かないと小石を蹴りつけられるのも厄介だし、カロに会わせてもらうまでの辛抱とはいえ神経の磨り減る日々だった。


(まあいい。これも騎士修行の一つと考えよう)


 ジグザグに折れた山道を下りつつ、無理矢理自分を納得させる。いつも世話になっているモリスの親族だし、少なくともこちらから礼を欠く真似はしたくなかった。


「ん?」


 道の先に三人のロマを見つけたのはそのときだ。だが少し様子がおかしい。立ち止まり、何やら小声で話し合っている。

 もしや待ってくれていたのか? 期待に胸を弾ませてアルフレッドは彼らのもとへ歩を速めた。悲しいかな、それはぬか喜びだったけれど。


「あそこに空き家が見えるだろう。お前、ちょっと行って中を調べてこい」


 不遜な物言いで頼まれたのはあばら家の探索だった。指差された木立の奥に目をやれば屋根まで蔦に侵食された古い木造家屋に気づく。日暮れも近いし、ジェレムはあそこを今夜の寝床にしたいのだろう。


「……わかった、行ってくる」


 色々言いたい気持ちを抑え、アルフレッドは頷いた。普段はいないもの扱いなのに自分たちの要求したいことはするんだな、なんて文句を垂れても何にもならない。ここは頼ってくれたことを素直に喜ぶべきだろう。使える人間だと思われていたほうが置いていかれる可能性は下がるのだから。


(もっと普通に信用されたいというのは贅沢な望みなんだろうか……)


 アルフレッドはがさがさと茂みを越えつつ嘆息した。

 ロマというのはいまいち何を考えているのかわからない。先導するのを許さなかったり、かと思えば斥候になれと命じたりする。ジェレムはいつも不機嫌で、女たちは寡黙だった。多くを語らぬ彼らをどんなに観察しても思考を読むのは至難の業だ。生まれ育った環境も、価値観も、何もかも違いすぎて。

 とはいえ十歳足らずの女の子にまで冷たい視線を向けられるのは悲しかった。見知らぬ大人に対する不信感というよりは、不埒な男と警戒されているような気がして。もしそんな誤解があるなら即刻弁解したい。己は騎士を志す者で、誓って女性に乱暴はしないと。クズなのは父親だけで、母親がきちんと育ててくれたと。


「ええと、入口はここか?」


 ともかくもアルフレッドは頼まれ事をこなしにかかる。

 峠道からやや逸れた立地なのが引っかかるが、玄関と思しきドアの周りには蔦は絡まっていなかった。よくよく見れば雑草に埋もれて『銀柳亭』と傾いた看板もかかっている。


(中にマルゴー人がいるかもと思って俺に行かせたのかな?)


 であれば先程の指示も納得だ。ここが空き家ならロマにも寝泊まり可能だが、宿なら大抵叩き出される。無用な衝突を避けるためにはアクアレイア人の自分が下調べしたほうがいい。


「ごめんくださーい」


 立てつけの悪いドアを押し込み、アルフレッドは湿気漂う屋内に踏み込んだ。朝夕の霧にやられたのか、壁板も床板も黒ずんで一部は腐りかけている。


「すみませーん、宿の方はおいでですかー?」


 異様に軋む足元に注意しつつ声を張った。玄関を開いてすぐのカウンターは無人、奥の食堂にも人はいない。階段は薄暗く、壊れた手すりも修繕されずにそのままだ。誰も住んでいなさそうだな。そう断じて踵を返す。


「お泊まりで?」


 突如響いた野太い声にアルフレッドは飛び上がった。心臓をどきどきさせて振り向けば、食堂の更に奥、薄暗い厨房から顎のしゃくれた中年男が現れる。たちまち酒の臭気が満ちてアルフレッドは顔をしかめた。


「あ、いや、泊まりというか……」


 しまったなと態度には出さず身構える。どう見ても男は堅気の人間ではない。額に派手な傷跡があるし、これ見よがしにナイフなど携えている。こんな宿に泊まったら法外な値をふっかけられるか、身ぐるみ剥がれて売り飛ばされるかしそうだった。


「おお、アルタルーペを越えてきたのかい? おんぼろ宿だがウチでゆっくりするといいよ」


 なお悪いことに厨房から別の仲間まで顔を出す。獲物を逃がすまいとばかりに二人はさっとアルフレッドの前後を塞いだ。


(これはとっとと逃げるべきだな)


 ここに泊まりたいわけではなく、道を聞きたかっただけということにしよう。そう決めてポケットの小銭を握る。少し弾めば穏便に見逃してくれるだろう。二対一だがこちらは帯剣しているのだ。


「実は麓の道のことで……」


 途中で言葉を飲み込んだのは、二番目に出てきた男が突然フードを下ろしたからだった。出し抜けに「お前もしかしてアルフレッドか?」と問われ、当惑に唾を飲む。尋ねた男のモモと同じ髪色は否応なしに胸をざわつかせた。


「なんだ、ウィル? 知り合いかよ?」


 しゃくれ顎の男が問う。ウィルという呼称に全身が総毛立った。

 ──なんでこんなところにこいつがいるんだ。


「おお、古巣に残してきたせがれだ! ハハ、おい、随分でかくなったなあ!」


 無遠慮に肩を叩かれ、思わず払いのけてしまう。突然すぎる邂逅に頭の中は真っ白だった。

 男は「あん?」と太い眉を寄せ、酒臭い息を吹きかけてくる。食器の割れる音だとか、見苦しい夫婦喧嘩だとか、小さい頃の記憶が一気に呼び起こされてぞっとした。

 この尊大で憎たらしい顔と声。十年前に比べて老けたが間違いない、大嫌いだった父ウィルフレッド・ハートフィールドだ。


「なんだてめえ、親に手ェあげるたぁ何事だ?」


 人違いだろうと誤魔化したかったが、咄嗟に嘘をつけるほどアルフレッドは器用ではなかった。何より己の顔と態度が血縁を証明してしまっている。

 不精髭を酒のしずくで光らせてウィルフレッドは呆然とする我が子に赤ら顔で喚き立てた。


「久々に再会した父親にそれはちょいと薄情じゃねえのか? 男親は敬うもんだって口酸っぱくして教えてきたろ?」


 嫌悪感が凄まじく、手も足も口も動かない。どうすればいいかわからずに、アルフレッドは硬直したままでいた。


「おい、だんまりかよ。ちゃんと父ちゃんにごめんなさいしろっての」


 冷静さを取り戻したのは襟首を引っ張られたときだった。自分のほうが背も高く、体格もいいと気づいたのだ。

 昔は母の見ていないところで頻繁に暴力を振るわれたから怪物じみて感じていたのに、今の下腹の出た父は街のごろつき以下に思えた。


「……贅沢な家に住んでるじゃないか。屋根付きなんて、あんたにはもったいないくらいだ」


 喉に張りつく声を無理矢理音にする。

 反抗の言葉を聞いてしゃくれ顎の男がぶっと吹き出した。


「嫌われてやんの! うはははは!」

「うるせえ!」


 腹を抱えた仲間を睨んでウィルフレッドが吠え立てる。親に恥かかせたなと言わんばかりの顔を向けられ、何かの糸がぷつりと切れた。


「とっくにどこかで野垂れ死にしたと思ってたよ。安心してくれ、皆あんたがいなくなってせいせいしてる。母さんや俺たちの顔を見に帰ろうなんて少しも考えなくていい」


 早口で言い終えるとアルフレッドは出口に向かう。一秒たりとも同じ場所にいたくなかった。だが扉を開こうとした腕は、むきになったウィルフレッドに掴まれてしまう。


「てめえ、昔は拳骨見せただけですくんでたくせに生意気になりやがって」

「母親に似たんだな。あんたの血が薄くて助かった」

「なんだと!? もういっぺん言ってみろ!」

「あんたみたいなどうしようもないろくでなしにならなくて良かったと言っているんだ!」


 力をこめて突き飛ばせばウィルフレッドはあっさりすっ転んで尻餅をついた。「う、ちょっと飲みすぎた」と言い訳していたが鍛えていない証拠である。

 腕力で勝てないと悟るとウィルフレッドはころりと態度を変えてきた。気色悪い笑みを浮かべ、猫撫で声で息子のご機嫌取りを始める。


「怒るなよ、アルフレッド。お前たちを置いてったのは悪かったと思ってる。ただ俺はもう、あのクソ女とやっていけなかったんだ。子供のことは誰よりも愛してたんだぜ?」


 早く開けと念じながら歪んだ玄関のノブを引いた。アルフレッドは無反応なのに不愉快な空世辞は続く。


「お前、立派な騎士様になったみてえだなあ。さぞかし稼ぎもいいんだろう? どうだい、父ちゃんに一杯奢ってくれないかい? 息子と飲むのが昔っからの夢だったんだよ」


 反吐が出そうな台詞だった。財布を探るつもりなのか、またしても汚らしい手が伸びてくる。「いい剣だ」と鞘に触れられ、苛立ちは頂点に達した。


「近寄るな!」


 怒号で相手を怯ませた隙に力任せにドアを開く。追ってこられたくない一心でアルフレッドは床に銅貨を叩きつけた。


「……これで満足だろう」


 そう吐き捨て、荒々しく宿を出る。再び閉ざした扉はそのまま動かなかった。本当に小金で満足したらしい。

 木立を越え、峠道に戻り、重く深い息を吐く。「どうだった?」とジェレムに問われ、アルフレッドは見たままを正直に答えた。必死に平静なふりをして。


「盗賊宿だ。中にガラの悪いのがいたし、近づかないほうがいい」


 返答を聞き、ロマたちはすぐに歩きだす。礼も言わない素っ気なさが天使の振舞いに思えるくらい酷い数分間だった。だがもうきっと、永久に会うこともないだろう。



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