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第2章 その2


 カーリスが遠ざかる。紺碧の海と深緑の山岳の間を縫って広がった、明るく華やかな家々が。

 船尾に立って去りゆく街の景色を眺め、レイモンドは深々と溜め息をついた。ジュリアンと別れて船には平和が訪れてくれたものの、気分は滅入る一方だ。


(結局説得できなかったな)


 悲壮なルディアの表情が脳裏をよぎり、また落ち込む。殺されるつもりだと打ち明けて以来、彼女は憑き物が落ちたように晴れやかな態度に戻っていた。

 それが良くない兆候なのは馬鹿な自分にでもわかる。平常心は覚悟が固まりきった証拠だ。これでますますルディアをカロに会わせられなくなった。今の彼女では進んで命を差し出すだけだろうから。


(陛下が悲しむぞって言っても『私は本当の娘じゃない』だもんな)


 ルディアがそう考えているのが一番つらいかもしれない。親子の間の愛情は確かに本物だったのに。

 それとも絆が深かったからこそ「最後まで騙したままだった」との罪悪感も強いのだろうか。

 ちらりと背後に目をやれば、風をはらんだ帆の下で彼女は海を見渡していた。まるでこの世の見納めと言わんばかりで切なくなる。レイモンドは募る焦燥を散らすべく、左右にぶんぶんかぶりを振った。


(弱気になるんじゃねーぞ、俺。何があっても守るって決めただろ!)


 鼻息荒くルディアのほうへ足を向ける。明るく声をかけようとしたけれど、あいにくそれは叶わなかった。レイモンドが口を開く前にほかの男のご機嫌な声が呼びかけてきたせいだ。


「おっ、いたいた! ブルーノさーん、ちょいと倉庫に来てくださいよ!」


 甲板下の船倉に続く梯子から頭だけ出して、パーキンがこちらに手を振ってくる。金細工師に名指しされたルディアはくるりと男を振り返った。


「なんだ?」

「へっへ、ローガンから取り返したアレをご披露しようと思いましてね!

 本当はパトロン以外にゃあんまり見せたくないんですが、アレが戻ってきたのはあんたのお慈悲のおかげなんで、今日だけ特別大サービスです!」


 もったいぶりつつパーキンが誘う。そう言えばやけに大掛かりな機械を積み込んでいたなと思い出し、レイモンドはルディアにそっと耳打ちした。


「見にいくのか? だったら俺もついてくけど」


 護衛役を買って出たのは下心あってのことではない。このモミアゲ男が余計なトラブルばかり招くので警戒心が働いたのだ。ルディアも多少訝しみながら金細工師に頷いた。


「せっかくだ。二人で寄せてもらっても構わないか?」

「ええ、どうぞご遠慮なく! まあしがない一般庶民のお二人には俺のアレがどうすごいのか理解するのは難しいかもしれませんがねえ」


 小馬鹿にした口ぶりにレイモンドはムッと眉間のしわを濃くする。この男は媚びるか見くびるかしかできないのだろうか。オリヤンもよくまたこんなクズを乗船させる気になったものだ。


「それじゃさっさとお願いしますよ! 支度はすっかり整ってるんで!」


 金細工師はそう急かし、いそいそと階下へ降りていく。レイモンドは盛大に嘆息を吐いてルディアと目を見合わせた。


「……期待はできんがローガンが大金を出して開発させた機械には違いない。一見の価値くらいあるだろう」

「なるほど」


 その言葉で気を取り直し、レイモンドは彼女に続いて梯子を下る。ランタンの灯る織物倉庫に降り立つと、積荷を寄せて作られた小スペースに先客が腰を下ろしていた。


「やあ。レイモンド君、ブルーノ君」

「あれっ、オリヤンさんも?」


 尋ねると亜麻紙商は「ああ」と頷く。


「どうやら私に()()を売り込むつもりらしくてね」


 オリヤンが示したのはレイモンドの身長より少し高い、大ネジ式のプレス機だった。ワイン作りの盛んな地域でよく見る葡萄搾りの機械だ。骨組みは木材で、極太ネジと実を押し潰す平板は重たげな鉄でできていた。だがなぜか実を入れる樽と搾り汁の受け口がついていない。

 パーキンはこれをどうするつもりなのだろう。オリヤンの商船に果実の類は積まれていないはずだけれど。


「ただの葡萄圧搾機にショックリー商会が融資したのか?」


 あからさまに胡散臭そうにルディアが尋ねた。彼女もローガンが卑劣な手で我が物にした発明品の実物を見て拍子抜けしている。そんな彼女に金細工師はふふんと不敵な笑みを浮かべた。


「いいや、こいつは葡萄圧搾機なんかじゃねえ。もっとすんげえ代物さ!」

「葡萄圧搾機ではない? ふむ。確かにここに用途不明の折り畳み式作業台が付属しているみたいだが……」

「おっ、なかなかいいところに気づいたな! そう、ここの作業台を展開することで無駄なく次の工程に進めるようになってんだよ!」

「ワイン用でないなら想像がつかないな。一体何をプレスするんだ?」


 バジルがいたらヨダレを垂らして微に入り細に入り機械を調べているところである。だがあいにくレイモンドにもルディアにも弓兵ほどの情熱はなかった。


「まあまあ、順を追って話してやっから」


 座るように促され、ひとまず二人でオリヤンの横に腰を下ろす。


「えー、皆様、本日はお集まりいただきましてまことにありがとうございます」


 着席するやパーキンが薄っぺらな前口上を始めた。たった三人の観客相手に金細工師は恭しくお辞儀までする。


「海原を行く船の中ということで、足元がこのようにぐらぐら揺れておりますけれども、わたくしパーキン・ゴールドワーカー、誠心誠意皆様に世紀の発明をご紹介させていただきたく」

「いいからさっさと本題に移れって」


 長引きそうな気配を察してレイモンドはヤジを飛ばした。「馬鹿! 二十年も費やしてようやく完成したんだぞ!? もう少し喋らせろよ!」と怒鳴られたが右から左に聞き流す。


「私も帳簿のチェックがあるから早くしてもらえると助かるんだが」

「はいっ! 旦那様! かしこまりました!」


 オリヤンの苦言にはすぐに頭を下げるのだからやっていられない。まったく調子のいい男だ。


「そういうことなら単刀直入に申し上げましょう! 実はこいつはボクが人生を賭して作った活版印刷機、その名も『アレキサンダー三号』なのです!」


 ああ、なるほど。アレキサンダーを略してアレと呼んでいたわけか。そこにそんな意味があったとは──ではなくて。


「カッパンインサツキ?」


 なんだそれはとレイモンドは眉をしかめる。ルディアとオリヤンもきょとんとしていた。名前を聞いてもなんの道具かさっぱり見当もつかない。


「いいですね、その鳩が豆鉄砲食らったような顔! でもわからなくって当然ですよ! これはまだ世界のどこにも存在しない新技術なんですから!」


 理解の進まないレイモンドたちを脇にしてパーキンは印刷機とやらの説明を始める。なんでも紙と型とインクを用意してこのアレキサンダー三号でプレスすれば型に塗られたインクが紙に転写されるそうである。


「なんだ、カッパンインサツって要するに版画のことか」


 馴染みのない呼び方をするからわからなかった。版画なら知り合いに職人がいるし、版木を見せてもらったこともある。木の板に絵が彫ってあって、何枚でも同じ絵が刷れるのだ。知り合いの工房の親方は「時々コナー先生から依頼がくるんだぜ」と自慢していた。


「ちっちっち、版画とはちょーっとワケが違うんだなあ」


 しかしパーキンは人差し指を横に振って否定する。「まあ百聞は一見にしかずでしょう!」とアレキサンダーの裏から大きな木箱を取り出すと、金細工師はその蓋をぱかりと開いた。


「これが『布教のためのパトリア神話集』で、これが『主神パテルの護符』! どっちも俺がアレキサンダー三号で作った()()()です!」


 倉庫の床に広げられたのは革張りの分厚い本が二冊、それから羊皮紙の札が十数枚。護符はひと目で版画職人の作と知れた。正方形の真ん中に据えられた五芒星はどれもまったく同じに見えたし、ごちゃごちゃした古パトリア文字も重ねて透かせばぴたりと一致したからだ。


(こいつ版画の最後の工程だけ機械化して世紀の発明とかほざいてんじゃねーだろな)


 不信感たっぷりにレイモンドはパーキンを見やる。そもそもあんな鉄の板で版木に力をかければすぐに割れてしまうのに自信満々なのが不思議だ。それに重いネジを手で回すくらいなら普通に刷ったほうが早いし楽なのではなかろうか。


「……なんだこれは?」


 ルディアが声を震わせたのは、レイモンドが「何がすごいのかわかんねー」と言いかけたときだった。振り返れば彼女もオリヤンも瞠目し、食い入るように神話集を見つめている。


「筆跡に少しもブレがない。行間も揃いすぎなほど揃っているし、書き損じもないようだ。これを仕上げた書写生は精霊に代筆でもしてもらったのか?」


 王女の驚愕ぶりに驚いて、レイモンドも余っていたもう一冊を手に取った。開いてすぐに「うわっ!」と仰け反る。神話の綴られたページには一糸乱れぬ神々しい文字がずらりと並んでいた。

 本は版画とは違い、基本的にすべて手書きで量産される。字数もページ数も多いから、ページ全体の版木を彫るより写したほうが早いのだ。手仕事なので語句の誤り、文章の省略は当たり前、酷ければインクの染みが読めないほどに散っていたり、書写生のヨダレの痕がくっきり残っていたりする。

 だと言うのに、この神話集は筆跡の美しさもさることながら余白の輝きまで眩しかった。子供の頃、アルフレッドに読ませてもらった騎士物語とはまるで違う。


「これも版画、いや、北パトリアの職人が研究中だという木版かね?」


 続いて問いを発したのはオリヤンだ。パーキンは「おお、さすが亜麻紙商! よく木版技術をご存知で!」と歓声を上げた。


「けど外れです。木はすぐにすり減るので、いくら文字型を作っても本の印刷に耐えられないんですよ。特にこの神話集は三百ページ越えの大物ですしね! ボクも護符の五芒星は一部木版に頼りましたが、アレキサンダー三号の文字型は全部金属製なんです。

 どういうことかわかります!? 摩耗しにくい金属の可動活字がどう画期的かわかりますか!?」


 これでもかと腕を広げ、血走った目でパーキンが尋ねる。鼻と鼻がくっつきそうなほど迫られたオリヤンは「いや、ええと、私はあまり本を読まないから……」と首を振った。


「ちょッ、旦那様、本読まないってあんた富裕層でしょう!?」

「無教養の成金だからねえ。本は高くて手が出にくいし、なんなら人形芝居のほうが好きかな」

「ちょっとちょっとおおお!」


 当ての外れたパーキンが青ざめた。なんとか関心を呼び起こそうと金細工師は拳を握って力説する。


「北辺民の土地では今、パトリアの神々を崇める人間が爆発的に増えているんです! 改宗のビッグウェーブが来てるんですよ! この『パトリア神話集』を出版すれば絶対に売れるんです!」

「だが北辺民にパトリア語なんて読めないぞ? 印刷は確かに素晴らしい出来だけれど……」

「いや、だから、北辺民じゃなくてパトリア神官に売るんですって! 布教のために山ほど北に来てるんで!

 神殿建てたら一冊は神話集を置きたいじゃないですか!? でもちゃんとした写本じゃ十年かかるんですよ! 護符も手書きより印刷のほうが早くたくさん作れますし!?」

「ああ、だったら買い手がつきそうだな」


 拳を打ったオリヤンにパーキンは「わかっていただけましたか!」と安堵の息をつく。続いて彼は開発に最も苦労したという大量の文字型を持ってきた。

 整然と木箱に収められた小指大の印形には一つ一つパトリア文字が刻まれており、信じがたいことに総数五万個超だという。一ページにつきおよそ三千の文字型を使うため、そんな膨大な数になったらしい。

 更にパーキンは特製インクを引っ張り出してきた。こちらはなんと水性ではなく油性だそうだ。乾きが早く、印刷に適したものを新しく調合したという。こちらのインクだけでもちょっとした商売になりそうだった。

 性格には難ありだが、職人としての彼の腕は本物らしい。すっかり感心したレイモンドは神話集を捲りながら「これって一冊いくらなの?」と質問した。


「うん? ウェルス銀貨なら百万ちょっとくらいかな?」


 船倉に「はああ!?」と絶叫が轟いたのは言うまでもない。

 パーキンによれば印刷費以外に羊皮紙代とアレキサンダーの開発費も含んでいるとのことだったが、だとしても有り得ない金額だ。庶民には手が届かないどころではない。


「けど亜麻紙商の旦那様がボクと提携してくださったらもっとリーズナブルにできますよ! ページ数も少なくして、主神パテルのエピソードだけに絞って、そしたら一冊十万ウェルスくらいですかねえ。あっ、十万ウェルスの本が百冊あるよりも一万ウェルスの本が千冊あるほうがいいってことでしたら、それもご相談に乗ります!」


 採算は取れる、絶対に儲かると金細工師は繰り返す。だがオリヤンのほうは既に及び腰だ。


「一ついいかい?」

「はい! なんでしょう!?」


 亜麻紙商の問いかけにパーキンは手を揉んで応じた。だがオリヤンとて百戦錬磨の商人である。甘い言葉をそのまま真に受けるはずがなかった。


「そもそも本を刷るためには、君がまとまった資金を持っているか、誰かからまとまった資金を借りるかしなければならないと思うんだが」

「はい、そうですね! ボクは旦那様に借り入れをお願いしたいなあと思ってます!」

「うん、なるほど。それはつまり、本が売れなかったときはもちろん、完成に至らなかった場合でも、私は君と共倒れになるという話だね?」

「…………」


 金細工師が返答に詰まる。オリヤンの冷めた瞳は「君に大金を渡したくない」と言っていた。当たり前の判断だ。商品の額が桁違いなだけに在庫を抱えた際の苦労は明らかだし、パーキンと運命共同体になるリスクなど負いたい人間はいないだろう。


「い、いや、あの、でも、」

「即金で払ってくれるなら君のところに亜麻紙を卸すのは問題ないよ」

「あの、旦那様、けどこれは製本さえちゃんとできれば絶対に売れる──」

「ああ、だろうね。私も商談を持ちかけてきたのが君でさえなければ真面目に検討していたな。本当に残念だ」


 これ以上ない断りの返事にパーキンは砂と化す。


「それじゃ私は帳簿の点検があるから」


 そう梯子を登り去っていくオリヤンに譲歩の姿勢は見られなかった。

 しかしまあ、これは金細工師の自業自得というものだろう。日頃の行いさえ良ければ一考に値する儲け話ではあったのだから。


「俺らも上に戻ろうぜ」


 レイモンドはまだ神話集に釘づけのルディアに呼びかけた。オリヤンと違い、なぜか彼女は倉庫を立ち去ろうとしない。真剣な表情で何やら深く考え込んでいる。


(……? 珍しい話でも載ってんのかな?)


 横からそっと覗いてみるが、ルディアが読みふけっている神話に目新しさは感じなかった。何に興味を引かれているのかよくわからない。


「悪い、待たせたな」


 そう言って彼女が本を閉じたのは随分経ってからだった。

 レイモンドがルディアの考えを知ることになるのは更に後日の話である。



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