第2章 その1
冬には深い雪に埋もれ、湖も凍りついていた最果ての地は、点々と白っぽい苔に覆われた岩肌を天に晒していた。
季節は夏。とはいえ北風は痛いほど冷たく、降り注ぐ日射も弱い。着岸作業に追われる船員は誰一人汗を掻いていなかった。隣のイーグレットに至っては毛皮の上からケープまで着込んでいる。
寒がりの友人と船縁に並び、カロは厚板が渡されただけの不恰好な船着場を眺めた。錨はすぐに下ろされて、手空きの者から順に上陸を開始する。熊頭を被った船長に「おーい、お前らもついてこいよ」と手招きされ、二人で桟橋に降り立った。
「半年ぶりか。夏じゃオーロラは出ないかな」
薄水色の空を見上げ、残念そうにイーグレットが零す。カロも「そうだな」と呟いた。
この地に来るのはこれで二度目だ。一度目はイェンスの「墓参り」とやらに付き合って生贄時代の彼が閉じ込められていたという古い洞窟神殿を拝んだ。あのときは世にも美しい天の光が迎えてくれたが、今日は荒れがちな波の音が響くばかりである。
辺りをぐるりと見渡すも、極北の地に街や集落の類はない。視界に映るのはなだらかに隆起しながら断崖へ続く苔むした丘だけだ。樹木一本生えておらず、雪解け水で土は湿り、湖畔は静まり返っていた。鏡のような湖で泳ぐ魚の影を横目に一行は岬を目指す。
イェンスがここへ来たのは祈りではなく別れのためだ。
引退の決まった十名の中にはカロの音楽仲間もいて、もう一緒には歌えないのかと思うと少し寂しくある。イェンスが言うには「将来のために必要な別れ」だそうだし、ロマとしても未練がましくする気はないが。
「やれやれ、まさかトナカイ野郎どもを討伐してきた俺たちがトナカイ飼って暮らす羽目になるとはなあ」
複雑そうに肩をすくめ、刺青ずくめの戦士がぼやく。
「仕方ねえって。軍務が終わればお払い箱にされるのは目に見えてたんだしよ」
「そうだとも、行き場がなくなるよりかマシさ。地上でも力を合わせて生きていこうぜ。なあ兄弟!」
この頃やっと聞き慣れてきた北辺語にカロはそっと耳を澄ませた。イェンスたちの事情はよくわからないが、一時は相当危ない状況にあったらしい。国に船を返却させられるかもしれないとか、解散命令を出されるかもしれないとか、皆戦々恐々としていたようだ。どうしてカーモス族を追い払った彼らのほうが怯えるのかカロにはさっぱり理解できなかったが。
「しかしイーグレットはいい提案をしてくれたよ。こんな北まで政府は食指を伸ばさない、カーモス族の抜けた穴を新しいねぐらにすればいいというのは。さすが未来の国王様だな」
と、すぐ後ろで感心しきった声が響く。振り返れば副船長のオリヤンが古傷のある両目をにこやかに細めていた。
「いや、私は思いつきを言ったまでだよ。実際にトナカイを飼っていた船員がいなければ使えない案だったのだし、この先どんな苦労があるかわからない。褒めてもらってありがたいが、少し気が早いんじゃないか?」
友人はやや照れくさそうに、けれども真面目な顔で返す。対するオリヤンは「それでも未来の苦難を想定して動けるようになったのは君が私たちの商売を手伝ってくれたからさ」と首を横に振った。
「パトリア語がわかるようになって以来、パトリア人のでたらめに騙されなくなってきたし、蓄えも潤ってきた。本当に君には頭が上がらないよ。あいつらも、君たち二人がもたらしてくれた希望は絶対忘れないと言っていた」
オリヤンは列の中ほどに目を向ける。今日でイェンスの船を去る男たちの、堂々とした後ろ姿にイーグレットも表情を引き締めた。
カーモス族討伐に片がつき、イェンスたちは軍属の特殊部隊ではなくなったらしい。もう新しい船員が補充されることはないし、船や武器が傷んでも取り換えてもらえないそうだ。
自分たちの力だけで生きていかなくては。先のことも考えて行動しなくては。イェンスはこの頃しきりにそう唸っていた。
十名だけを最果ての地に残すのは未来への布石だという。彼らがトナカイの放牧生活に慣れてきたら、水夫としては衰えすぎた仲間の面倒を見てもらおうという計画なのだ。
「我々は誰も故郷に帰れないからね」
新しい家を建てないと、と呟くオリヤンの声には多少不安の色が滲む。彼もまたいずれはどこかに隠居して、仲間を引き取るなり仕送りするなり恩返しに励むつもりらしかった。
カロには住み家を欲しがる彼らが不思議で仕方ない。今の場所にいられなくなったら次の場所に移るだけではないのか。
土地への執着など持てば生きにくくなるばかりだろう。ロマはずっとロマの力だけで生きてきたし、国なんてものを頼りにしたこともない。彼らなら同じ生き方ができそうなのに。
「これからいくつかそういう拠点を増やせるといいな。そのほうがきっと皆も安心できる」
そう返事したイーグレットは、カロよりよほどイェンスたちを理解している様子だった。
彼がロマとは違っているのを感じるとき、酷く堪らない気持ちになる。その差異がいつか自分たちを引き裂きそうで。
けれどもしイーグレットがロマと同じ考えの持ち主だったら、この呪われた右眼は決して受け入れてもらえなかったに違いない。
「おおーっ!」
「いたぞ、トナカイの群れだ!」
不意に前方で歓声が上がった。どうやら早くもカーモス族の置き土産が発見されたようである。響いてきた声によれば、冬にはいなかったトナカイが岬のあちこちで苔をついばんでいるとのことだった。
「……!」
イーグレットは目を輝かせ、早足になった。「行こう」と手を伸ばされてカロは奇妙な違和感を覚える。最近どこかで同じ彼を見た気がしたのだ。
──ああ、このときの記憶だったのか。
現実の思考が混ざった途端、夢はぐにゃりと大きく歪んだ。
イーグレットも、オリヤンも、北の岬も遠のいて消える。すべて深淵の闇の中に。
次にカロが目を開けたとき、眼前にあったのはアルタルーペの山々だった。
******
峠を越え、長く険しい山道を下り、麓の村を通り過ぎたのがつい昨日。カロは北パトリアとの国境に近いマルゴーの森で眠っていた。
朝というにはまだ暗く、景色は青い薄衣をまとっている。辺りには濃い霧がかかっており、視界は不明瞭だった。
身を委ねていたブナの根元から起き上がり、カロは目つきを鋭くする。鳥のさえずる声とは別に何者かの息遣いが聞こえていた。
獣ではない。それならもっとわかりやすい殺気を漂わせる。一人でもない。二人──いや三人、こちらの逃げ道を塞ぐように少しずつ近づいてくる。
(山賊か)
そう断じ、幹を背にして立ち上がった。
ロマはしょっちゅう人狩りに遭う。イーグレットは「西パトリアの奴隷制度は廃止されたはず」と言っていたが、こっそりと人身売買に励む商人や奴隷を鉱山で働かせる領主は今も大勢いるのだ。
腰のナイフに手をかけた直後、「大人しくしな! そうすりゃ命だけは助けてやる」としゃがれ声が響いた。霧の向こうから現れたのは予想通りのならず者。悪党らしく三人とも目元までよれよれのフードを下ろしている。
「へへ、怪我したくねえだろ? 抵抗しないほうが身のためだぜ?」
頭目と思しき無精ひげの男が剣をちらつかせる。
ほかの一人はクロスボウを構え、もう一人は縄を手に下卑た笑みを浮かべていた。目当てが路銀ばかりでないのは明らかだ。
こちらが何も言わないのを怖気づいたと受け取ったのか、山賊どもは悠々と薄汚い手を伸ばしてくる。眉をひそめることもせず、カロは腰に差したナイフを閃かせた。
「うぎゃああッ!」
最初に悲鳴を上げたのは顎のしゃくれた縄男だ。顔面に切りつけられ、賊はその場に屈み込んだ。
「て、てめえ!」
続いて矢を放とうとした癖毛の男に足元の小石を蹴りつける。射手の姿勢が崩れたために矢はまるで見当違いの方向に飛んでいった。弩兵が狼狽した隙に間合いを詰め、ナイフを握ったままの拳でその顔面を陥没させる。
「おぶうっ」
返す肘で背後に忍び寄っていた頭目にも一発お見舞いした。よろめいた男の喉に「まだやるか?」と鋭い刃を突きつければ実力の差を思い知った賊どもは「クソッ!」「覚えてやがれ!」とお定まりの文句を吐いて逃げていく。
手応えのない連中だ。カロはナイフを懐に収め、ぱんぱんと服に着いた埃を払った。復讐の肩慣らしにもなりやしない。
「──」
と、もう一つ視線に気づいてカロは森を振り返った。朝もや漂うブナの木立の間からいつもの白い影が覗く。
「イーグレット」
呼びかけると彼は嬉しそうに駆けてきた。返り血のついた右手を心配そうに見つめてくるので「これくらい大丈夫だ」とズボンで拭う。すると若い友人はほっと安堵の笑みを浮かべた。
「さあ行くぞ。イェンスに会うにはまだまだ北を目指さないといけない」
イーグレットはこくりと頷く。未だ彼は一度も声を発さないが、意思の疎通には困らなかった。
(まるで生きているみたいだな)
影を作らず、少しの物音も立てずに動くこと以外は。
思い出と重なる部分は多いものの、この亡霊が己の生み出した幻だとはカロには到底思えなかった。友人は無念を残して死んだのだと、本当はまだ生きていたかったに違いないと、確信は日ごとに強まる。ルディアへの殺意もまた。
(あの女を探し出すのにイェンスの力を貸してもらえれば……)
何年かかろうと構わない、命は命で償わせてやる。そう胸中に呟いてカロは北パトリアに続く街道を歩き出した。
(ああそうだ、イェンスになら今のイーグレットが『視える』かもしれないな)
自分だけの妄想でなければいいと願いつつ、森を跳ねる白い影の後に続く。この一ヶ月後、カロを追ってアルフレッドやジェレムたちが同じ場所へやって来るとはまだ知る由もないままに。