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第1章 その6


 早く冷静にならなくては。熱くなった血を冷まし、平常心を取り戻さねば。

 そう言い聞かせれば言い聞かせるほど足元が危うくなるのはどうしてだろう。ローガンもジュリアンもいなくなり、胸を掻き乱すものは全部遠ざかったのに。

 悪夢に取り残された気分でルディアは眼前の海を見つめた。王国湾より青い、深い、カーリス人たちの海。こんな港に立っていたら波に足首を掴まれそうに錯覚する。もはやどこにも行けなくなってしまうのではと。


「…………」


 ふらりと歩き出したのはまだ歩く力が残っているのか確かめるためだった。ざわめく船着場の反対に足を向け、誰もいない防波堤へと進んでいく。

 すると即座に足音が一つ追ってきた。初めはためらいがちだったのが、今はわずかの迷いもなく。

 来なくていいと突き飛ばしてやりたかった。心配無用だと言っただろうと。振り返ったら醜態を晒しそうで放っておくしかなかったが。


(お節介め。お前だってアルフレッドを笑えないではないか)


 借りものの身体が重い。感じること、考えることをやめられない心を捨ててしまいたかった。

 粛々と決めたことだけ遂行していれば良かったのだ。贖おうとして逆に罪を増やしてしまうくらいなら。


(なぜ一人にしてくれないんだ)


 緩やかに湾口に伸びた突堤の片端まで来て足を止める。打ち寄せる波が足元で砕け、また海に吸い込まれるのを眺め、ルディアはそっと目を伏せた。

 レイモンドはすぐ隣に控えている。何も言わずに、相も変わらず心配そうにこちらの横顔を見つめながら。

 早く愛想を尽かしてくれればいいのに。なんという女だと呆れ、見下げて、何もかも忘れてくれれば。こんな先のない主君のことなど。


「私は剣を抜かなかったんじゃない。剣を抜いてはならなかっただけだ」


 気づいたら口が勝手に喋り出していた。胸の底で荒れ狂っていた激しい嵐が理性の壁を打ち破り、震える喉を這い上がって。

 聞いてほしかったわけではない。慰めや励ましが欲しかったわけでも。

 ただもう耐えられなかったのだ。吐き出してしまわねば、内側から死に至りそうなだけだった。


「ジュリアンに手をかけなかったのも、ローガンと相討ちしようとしなかったのも、道徳心が殺意に打ち勝ったからではなく、私にそうする資格が──報復の資格なんてなかったからだ……」


 力ない声で懺悔する。胸の底に溜まった泥から一つずつ硬い言葉が拾われた。

 純粋に憎み、純粋に恨むことができたら、偶然手に入れた仇敵の息子という駒を最大限利用しようとしていただろう。それができなかったのは、己こそが唾棄されるべき殺人者に成り果てていたからにほかならなかった。

 ジュリアンは誤解していたが、自分はいい人でもなんでもない。

 パーキンの願いを叶えてやったのは、それが一番ローガンを困らせてやれると思ったからだ。憂さ晴らしの私刑を要求しなかったのも、オリヤンの商売に気を回したからではない。

 単に昔の自分とは、資格があった自分とは、すべてが違ってしまったというだけの話だった。


「仇討ちをしてもいいのは本当の娘だけだろう?」


 隣の男に問う声は、途切れ、掠れて儚く風に散っていく。レイモンドは眉をしかめて「本当の娘って……」と呟いた。


「カロに言われたこと気にしてんのか? だけどあんたは、ずっと王女として育てられてきたんじゃねーか」


 優しい否定に苦く笑う。


「私だってそれを根拠に自分こそアクアレイアの王女だと思ってきたさ」


 そう言ってから「でももう違う」と首を振った。


「あの人の決断を尊重するふりをしながら、私はカロの言ったように国のことしか頭になかったのかもしれない。あの人のためにやってきたことは、脳蟲の本能がさせたことだったのかもしれない」

「おい」


 話の飛躍をたしなめられる。だが自分でも止められなかった。自身に対する疑いは心に太い根を張っていた。

 たとえ万人が「あなたのほかにルディア姫はいない」と言ってくれても駄目なのだ。あの人がそう言ってくれなければ。

 それなのにあの人は死んでしまった。愚者の剣に心臓を貫かれ、永遠に世を去ってしまった。


「私は躊躇すべきだった。あの人に生きてほしい、逃げ延びてほしいと願って実行するべきだった。それだけが私たちの絆の証明だったのに、私は心も肉体も別物のくせに、──他人のくせに、厚かましくもあの人の命を終わらせたんだ!」


 ひと息に言いきって、ぜえぜえと肩を上下させる。涙は勝手に滲んできた。

 泣くなんて傲慢だとしか思えない。せめてそれが零れないように上を向く。ただでさえ信用ならなくなった自分にこれ以上失望しないように。

 苦しかった。生まれたことを呪わないではいられないほど。


「……自分から娘の資格を捨てたのだ。私はもはや何者でもない。『ルディア』でないならアクアレイアには帰れない──」


 一粒だけ、ぽろりと滴が地に跳ねた。唇を噛み、深く息をする。

 青い海の彼方を見据えた。遠い、遠い、その果てを。

 立ち止まることは許されない。まだやらなくてはならないことが残っている。まだ一つ。それまでは。



 ルディアの最後の呟きに、ああ、とレイモンドはひとりごちた。

 今わかった。やっと全部わかった。どうして自分がずっと彼女を気にかけていたか。

 王女が王女ではないと知ったとき、脳蟲とかいう人間ですらない生き物だと知ったとき、自分は彼女に期待したのだ。この人も、アクアレイア人の輪からはみ出した存在なのではないのかと。

 だけどルディアは筋金入りの王族で、国のためなら防衛隊を見捨てるとまで豪語するし、なんだとガッカリしたのである。そして自分は不機嫌になって、命までは懸けられないぞと予防線を張り直し、蛍を見ようと誘ったときの仲間意識を捨ててしまった。もう一度、彼女がちゃんと己を見てくれていたことに気づくまで。


(……それじゃ俺、こんな姫様が見たかったのか?)


 何者でもない、アクアレイアにも帰れないと、悲嘆というより決意のようにルディアは語った。あるいはどんなに願っても叶わない願いのように。


(俺は姫様が俺みたいに浮いてりゃいいって、ひとりぼっちだったらいいって思ってたのか?)


 自問にぐっと拳を握る。

 涙なんて似合わないもの望んではいなかった。早く元気になってほしいと、また「ありがとう」と言ってほしかっただけだった。

 埠頭に強く風が吹きつける。ルディアの涙は散って乾いた。まるで最初から泣いてなどいなかったみたいに。


「……あんたさあ、カロに会ったらどうする気なんだ?」


 答えを承知で問いかける。久々に合った視線はすぐに海へと戻された。

 嘘や演技は見抜かれると悟ったらしい。彼女はもう下手な芝居で誤魔化そうとはしなかった。


「身体さえブルーノに返してくれるなら、あの男の好きにさせるよ」


 野蛮な方法で裁かれていいとルディアは言う。ロマに復讐を果たさせてやると。

 予想通りの返答だったが彼女の声で聞かされるのはつらかった。一度決めたことを覆す人ではないと知っているから。


「ブルーノたちとの合流が先になったとしても、私は王女の器には戻らない。レイモンド、そのときはお前が私の『本体』をカロに引き渡してくれないか? 復讐の相手が知らない間に炭になっていたのではあの男も怒りのやり場がないだろう」


 ルディアは淡々とそんな依頼までしてくる。「すんなり殺されてやるのかよ?」と声を荒らげれば「それが一番丸く収まるではないか」と彼女は笑ってさえみせた。

 苛立ちに似た感情がふつふつと湧いてくる。なんで勝手に決めるんだよとか、残された人間の気持ちも考えろとか、渦巻く思いはそのまま口をついて出た。


「ふざけてんじゃねーぞ、あんたを守るのが防衛隊の仕事だろ? どうなるかわかっててあいつに引き渡したりできねーよ!」

「部隊はとっくに解散した。これは個人的な頼み事だ」


 気持ちは固まっているらしい。ちょっとやそっとの説得ではルディアは聞き入れてくれそうになかった。


「俺は嫌だ」


 断固拒否しても「だったら別の者に頼もう」とかわされる。ここで頷かせるために、彼女の死に悲しみも責任も感じさせないために、冷たい態度で嫌われようとしていたくせに。


「……ッ」


 カロに会ったら、ブルーノに会ったら、どんな風に別れを告げられるか想像できて苦しくなる。きっと今みたいに落ち着き払って微笑んでいるに違いない。色々と世話になったな、ありがとうとか言って。


(冗談じゃねえ!)


 ルディアがいなくなるなんて考えただけでぞっとした。どうしても側を離れがたくてコリフォ島まで追いかけたのに、そんな結末受け入れられない。絶対に無理だ。


「あんたが死んだら俺も死んでやるからな……!」


 自分の言葉に自分で驚き瞠目した。無意識にルディアの手首を掴んでいた腕の存外な強さにも。


「……っ!?」

「ど、どうしたんだ? レイモンド?」


 あまりにも普段の自分と結びつかない台詞に彼女も目を点にする。

 だがすぐに、ああ、とすべて腑に落ちた。


「……本気だよ。それであんたが思いとどまってくれるなら、命なんざ惜しくない」


 いつも、いつも、心のどこかで待っていた。

 金だけは裏切らないと言いながら、金より愛せる、信じられる何かを。

 何かを、誰かを、──たった一人を、自分は長いこと待っていたのだ。


「レイモンド」


 困り顔でルディアが言う。「今の私にそこまで言ってくれてありがとう。だが決意を曲げるつもりはないよ」と。


「私はカロからあの人を永久に奪い去ってしまった。だからこれはどうしても必要なことなんだ」


 喜びをくれたのと同じ口で彼女は悲しい言葉を紡ぐ。誰が素直に頷くものかとレイモンドはルディアを睨んだ。


(俺がこの人を守らなきゃ……)


 トリナクリアに着いた日も同じことを考えた。ここには誰もいないのだから自分だけが頼りだぞと。今胸にある思いは、あの日とは比較にならない切実さで強く強く迫ってくる。


(ここにいるのがアルだったらとか余計なことはもう考えねー。この人は俺が止めなきゃ駄目だ)


 だってルディアを失いたくないのは自分なのだから。彼女の言葉を遠い日の思い出になどしたくないのは。


(俺、姫様が好きなんだ)


 わかってみればなんて単純なことだったのだろう。金よりも、命よりも大切にできるものを、自分はとっくに見つけていたのだ。

 波は高々と打ち寄せていた。幾千の飛沫が光を受けてきらきらと輝く様は、やはりいつか見た蛍の群れを彷彿とさせるのだった。


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