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第1章 その4

 白波を切り裂いて船は紺碧の海を行く。吹き抜ける風の爽やかさとは裏腹にジュリアンは陰鬱になる一方だった。

 原因は知れている。幸先の良い一歩を進み、そろそろ声をかけていい段階になったかと思ったのに、アクアレイア人たちの態度にまったく変化がないからだ。いや、それどころか以前にも増してピリピリとしたオーラを放たれている気がする。とりあえず一つ、海賊に連れ去られた被害者の奪還という問題には片が付いたはずなのに。


(なんでだろう? ブルーノさんもレイモンドさんもどんどん話しかけにくい雰囲気になっているような……)


 船縁に佇む二人を帆柱の陰からこそこそと覗く。いつ見ても彼らはむっつり黙り込んでおり、剣士が場所を変えるとただちに槍兵がそれに追従するという繰り返しが続いていた。

 喧嘩でもしたのだろうか。だとしたら早く仲直りしてほしい。このままでは謝礼金の額を決められないまま父のもとに帰りついてしまう。

 マーチャント商会の丸形帆船がパトリア海に出て二週間、いくつかの寄港地を経て一行はカーリス共和都市圏内に入っていた。北を向けば陸の起伏が青い影となって映り、馴染みの景色に気が逸る。


(ああ、僕は受けた恩を返したいだけなのに)


 そもそもカーリス人がアクアレイア人にそんな願いを抱くこと自体間違っているのだろうか。そのうえ自分は敵対都市の人間というだけでなく憎い仇敵の息子なのだし。


(最悪オリヤンに銀行証書を渡しておいて、二人のために使ってほしいと頼むしかないか……)


 ふうと重い息をつく。背後から浮かれた声をかけられたのはそのときだった。


「どうしたんです、お坊ちゃん? 思い詰めた顔しちゃってえ! もう少しで待ちに待ったカーリスですよお?」

「…………」


 またお前かとは口に出さずに目を逸らす。信用は地に失墜しているというのにパーキンは懲りもせず手を揉みながら近づいてきた。

 毎日毎日ご苦労なことだ。同乗するほかの商人らにも同じく媚びへつらっているのだから、永遠にそちらにかかりきりでいればいいのに。


「まーだアクアレイア人たちをお気にかけてらっしゃるんです? 謝礼なんかいらねえっつってんですから、放っておいてもバチは当たらないと思いますがねえ」

「こういうことは求められたからするというものじゃないだろう。僕は二人に自分のできる最大限の返礼をしたいんだ」

「ヒュウ! 見上げた心がけですね! あの小汚ねぇ人形遣いの親子にも気前良く大金をくれてやってましたし、こりゃボクも期待せずにいられませんや! へっへ、ローガンの旦那によろしく言ってくださいよ? 借金帳消し! 商売道具は持ち主に返却ってね!」


 馴れ馴れしく肩を抱かれ、ジュリアンは金細工師の手をつねった。「痛ッ!」と情けない声をあげ、パーキンは涙目で飛びすさる。


「な、何をなさるんですジュリアン様!」

「お前が厚かましいことを言うからだよ! こっちは迷惑料を取りたいくらいなのに、よく自分も何か報いてもらえると思えるな?」

「えっ!? ええっ!? だ、だってボクがあいつらに坊ちゃんを助けてくれって頼んだんですよ? 救出に失敗してたらボクだって無事じゃあ済まなかったんですし、見返りがあったって」

「事の発端はお前が僕を騙してラザラスの船に乗せたことだろう!? 感謝する理由なんて一つもない! もちろん謝礼を出すつもりもだ!」


 ぴしゃりとはねつけ、ジュリアンはそっぽを向いた。なんだってこんな男を信用してしまったのだろう。馬鹿な己に溜め息が出る。


「ま、待ってください! 考え直してくれませんか!? ボクは、ボクはアレを返してもらえなかったら人生設計のすべてが狂って……ッ!」

「鬱陶しいからくっつくな! さっさと僕から離れろ!」

「お願いですってジュリアン様ァ!」


 振りほどいても振りほどいてもパーキンは腕や肩にすがってくる。あんまり騒がしくするとブルーノたちの怒りを買いそうで怖いのだが、自分本位なクズの頭にはそんな考えは露ほども浮かばないようだ。


「どうすればいいんですか!? ボクはどうすれば坊ちゃんに感謝していただけますか!?」

「知らないよ! もうあっちへ行ってくれ! 貴重な時間をお前なんかにこれ以上費やしたくない!」

「そ、そんなあ! やだやだ、お礼を約束してくれるまで離しません!」

「あっ! この馬鹿!」


 揉み合っているうちに懐の銀行証書がぱさりと落ちる。すぐに気づいて手を伸ばしたが、先に拾い上げたのはパーキンのほうだった。


「んん? なんですこの証書? 金額の欄が空白になってますけど……。あっ、もしかしてジュリアン様、あの二人にこれを渡して書かせようとタイミングを窺ってたとかですか!?」


 道徳的な気遣いはできないくせに、こういう頭だけは回るらしい。あっさりと言い当てられてジュリアンは返答に詰まった。素直に頷けばおかしな事態になりそうな気がしたのだ。


「い、いやまあ、その通りだけど、声をかけるのは僕が自分で……」

「なーんだ、それならそうと早く仰ってくださいよお! ジュリアン様、側をうろうろするなって言われたもんだから近づくに近づけなかったんでしょ!? ふふ、ここはボクがひと肌脱ぎますから、お坊ちゃんは大船に乗ったつもりでお待ちください!」

「は!? い、いやパーキン! 余計なことは──っておい、戻れよ! 馬鹿! 戻れって!」


 話も聞かず、銀行証書を握りしめて金細工師は身を翻す。軽い足取りで甲板を跳ねていく彼をジュリアンには止めることができなかった。

 なんて説明する気だと不安でいっぱいになりながらパーキンとブルーノたちのやり取りを帆柱の陰からそっと見守る。

 予感に違わず雲行きは急速に怪しくなった。折り畳まれた証書を開いた剣士はさっそく眉間に濃いしわを刻んでいる。槍兵も垂れ目をすぼめ、パーキンを睨みつけた。鈍感に笑っているのは金細工師一人である。


(だ、駄目だ。あれは絶対に弁解しないと誤解を生むぞ)


 大焦りでジュリアンは駆け出した。結局一歩間に合わず、船上に轟く激昂の声に震える羽目になったけれど。



「こんな証書を私にどうしろというのだ!?」


 怒号と同時、金細工師が突き倒される。この頃不安定だっただけにルディアの怒りは凄まじく、荒くれ者には慣れているはずの水夫たちも度肝を抜かれた様子だった。

 だから関わるなと言ったのに、とレイモンドは胸中で舌打ちする。すっかり青ざめて尻餅をついたまま「ひーっ!」と後ずさりするパーキンを見下ろし、どうするべきか逡巡した。

 これほど空気の読めない馬鹿も珍しい。少し頭を働かせれば彼女がどうしてジュリアンを避けてきたのかわかるだろうに。


「わ、悪かった! 良かれと思って聞いたんだ! 金はほら、いくらあっても困るもんじゃねえだろ!?」

「もういい。貴様に良識を求めたこちらが間違っていた」

「うわわわわっ!」


 逃げるパーキンをルディアは容赦なく追いつめる。ブーツの底にみぞおちを踏みつけられまいと金細工師はひたすら後退した。


「うわっ、うわっ! ……ジュ、ジュリアン様! お助けください!」


 背中をぶつけた相手を見上げ、パーキンは哀願する。証書の持ち主は困惑を隠しきれずにぴくぴくと頬を引きつらせた。


「た、助けろってお前」


 少年の額からは既に血の気が引いている。数歩先の距離に立ったルディアをおそるおそる仰ぎつつジュリアンは「あの、これは」と言い訳を始めた。否、始めようとした。


「うぐっ!」


 止める間もなくルディアが子供の胸倉を掴む。まずいと足早に割り込もうとしたが一歩遅かった。小柄で痩せ型の令息はあっさりと船縁を越え、海の真上に突き出される。


「ヒッ……!」


 ジュリアンは浮いた足をばたつかせ、必死に船に戻ろうとした。しかしその爪先はただ宙を掻くのみである。


「お、おい」


 なだめようとして声をかけたがルディアの耳には届いていないらしかった。溺れ死にさせる気かと船上は騒然となる。


「わーっ! わーっ! 俺のせいじゃねえぞ!」

「どうした!? 何があったんだ!?」


 逃げたパーキンと入れ違いにオリヤンがすっ飛んできたものの、レイモンドと同じく固まって手が出ない。少しでも変な力が加われば子供は海に落ちそうだった。


「……っ」


 なんとも思っていなかった風が、波が、急に強まった気がする。ルディアは怖いほど無表情で、怯えるジュリアンにさっきと同じ問いをぶつけた。


「こんな証書で、お前から受け取った金で、私にどうしろというのだ?」


 返答なんてあるはずがない。ジュリアンはルディアの腕にしがみつくだけで精いっぱいなのだから。それでも彼女は激しい怒りを、押し隠してきた悲しみを、ぶつけることをやめなかった。


「金貨や銀貨で何が買える? 何を取り戻せるというのだ? 死んだ者は二度と帰ってこないのに、お前は一体いくら払えば私が満足すると思った……!?」


 荒ぶる声が問いかける。ルディアの瞳に暗い炎が燃えていた。敵だけでなく自分まで焼き尽くしそうに苛烈な炎が。


「この証書にローガンの命が欲しいと書いて渡せばお前は私に奴の首を持ってくるのか」


 遠目にもジュリアンが硬直するのがわかった。そんな要求をされるとは考えもしなかったのだろう。いたいけな少年はふるふると首を振る。

 蒼白な顔には「できない」と書いてあった。ルディアがその返事を聞くのは酷な気がした。

 だって彼女はできてしまった人間なのだ。彼女にとって父と恩人は同一人物だったけれど。


「…………」


 長い沈黙が訪れた。ジュリアンもルディアも、居合わせた誰も口をきくことができなかった。白い帆が風を受ける音と船が波を切る音だけが永遠のように続いている。

 だが地上の永遠は常に仮初(かりそめ)のものらしい。しばらくの後、ちらりと覗き見たルディアの横顔はさっき吐いた熱の半分も残してはいなかった。

 疲れたのか、考えたくなくなったのか、瞳を焦がす暗い炎は消えかけている。


(大丈夫……かな?)


 ルディアにはもうジュリアンをどうこうする気はなさそうだった。今ならば振り上げた拳を下ろしてくれるかもしれない。そう思い、レイモンドは王女のすぐ後ろに回ると肩越しに少年に手を伸ばした。


「──げほっ! げほっ!」


 特に抵抗されることもなく子供は無事に船に戻される。甲板には一瞬ほっとしたムードが流れた。


(ふう、やれやれ)


 このまま空気が落ち着いてくれれば良かったのだが、揉め事というのはそう上手く収まらないものらしい。礼を尽くすのを諦めきれない少年は身を起こすなりルディアを見上げ、弱まった火に余計な油を注ぎ込んだ。


「……あの、父様をというのは無理ですが、ほかにショックリー家にできそうなことでしたら……」


 彼女の瞳が一瞬で凶暴さを取り戻す。物わかりの悪すぎる坊ちゃんを睨み、「ショックリー家にできそうなこと?」とルディアは鼻で笑い飛ばした。


「お前は馬鹿か? ローガンの一存でどうにかできることなんてたかが知れている」

「そ、それでも仰ってみてください! 努力します!」

「努力できるなら努力してみてくれ。あの男の手を通じて天帝のものになったすべて、再びアクアレイア人のものになるのかどうか!」

「……!」


 大事なものは何も返ってきはしない、とルディアの暗い目が語る。二の句を継げず、ジュリアンは黙り込んだ。ようやく己の考えの浅さを自覚してくれたらしい。


「あ、あのー、お取り込み中すみません」


 と、そのとき、場違いを詫びる男の声が降ってきた。レイモンドたちが頭上を見やるとマストの見張り台に立っていた水夫が恐縮する。


「カーリスの街が見えてきたんですが……」


 ──最悪のタイミングでの入港だった。

 ルディアの憤怒はまだ少しも薄れていない。こんな状態で共和都市に入ればもっと深刻な暴走も考えられた。


(おいおい……、これ大丈夫か?)


 レイモンドはごくりと息を飲む。気がつけば周囲にはカーリスを目指す商船が増えていた。その中で乗員が静まり返っているのはレイモンドたちの船だけだった。

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