表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
102/344

第1章 その1



 誰かが背中を床にぶつける激しい物音が聞こえてきたのは昼食を終えたすぐ後だった。


「死にたくなければ私の側をうろうろするな!」


 間を置かず響いた声にレイモンドは慌てて食堂を飛び出す。応接間を兼ねた吹き抜けのホールでは今にも剣を抜きそうなルディアに睨まれ、尻餅をついたジュリアン・ショックリーが縮み上がっていた。


「あ、あの、僕」

「目障りだと言っているのがわからないのか? さっさと消えろ! 私が我慢できなくなる前に!」


 不愉快を隠しもせずに王女が怒鳴る。腰が抜けて動けない少年に舌打ちし、彼女は鞘ごとレイピアを投げつけた。


「!」


 止める間も、なだめる間もなくルディアは階段を上っていく。追いかけるか少し迷ってレイモンドはその場に留まった。昨夜手を振り払われたことを思い出したのだ。

 隣にいても何もできない。それに彼女も、一人でなければ泣けないだろう。


「おお、怖い怖い。ジュリアン様、大丈夫でしたか?」


 と、調度品の陰に隠れていたパーキンが出てきてジュリアンを助け起こす。いけしゃあしゃあと「お坊ちゃんに万一のことがあってはいけませんからね。お屋敷に帰るその日まで、誠心誠意この私めがお守りいたしますよ!」などとのたまう金細工師にレイモンドは冷ややかな視線を向けた。


「あんな荒んだ人間には近づかないのが一番です。せっかくラザラスの手からお救いしたんですから、我々はなるべく安全に過ごしましょうね!」


(ったく、誰のせいで姫様があんなに荒れてると思ってんだ?)


 パーキンを見ていると自分の心まで波立ってくる。金細工師も、ジュリアンも、しばらくはオリヤン邸で保護することに決まったのに。

 事件の夜が明けた翌朝、目を覚ましたルディアが告げたのは「私とあの子供が顔を合わさずに済むようにしてくれ」のひと言だった。衝動的に振り上げたレイピアの剣先を逸らしたとき、彼女は既に悟っていたのだろう。ローガンの息子を傷つければオリヤンに甚大な不利益をもたらしてしまうと。


(大口の取引先だっつーんだもんなあ。オリヤンさんには北パトリアまで面倒見てもらうわけだし、手出しなんかしようがねーよ)


 はあ、と重い息をつく。オリヤンにシメられてぼこぼこになったパーキンの顔面を見ても心はちっとも晴れなかった。

 何しろ船が出る日までジュリアンたちと一つ屋根の下で過ごさねばならないのだ。しかもお人好しなオリヤンは少年をカーリス共和都市に送り届けるとも言っている。


(いや、わかるけどな。リマニにいるのは基本ラザラス一派だから、人道的にこの屋敷から追い出しにくいっつーのはさ)


 親元まで無事に帰そうと思えば同じ船に乗せてやるのが一番良い。商売人としてのオリヤンの立場はレイモンドにも理解できた。どっちの味方をするんだなんて困らせる気も毛頭ない。だがしかし、感情の折り合いがつけられるかというとそれはまた別問題だった。


「あのクソもみあげ、我先にブルーノの剣が届かないところに逃げといてよく言うぜ」

「ほんとだよ、条件次第じゃラザラスの手先のままでいたくせにねえ」


 不信感たっぷりのひそひそ話がすぐ後ろでかわされる。振り向けばタイラー親子がレイモンド以上に冷めた眼差しでパーキンを見つめていた。

 北パトリアの金細工師はローガンに多額の借金をしているらしい。その負債を帳消しにしてもらうべく豪商の愛息を奪い返したかったそうだ。「ラザラスがあんなにケチじゃなきゃあんたらを騙すような真似しなくて済んだし、元はと言えばローガンが融資するふりをして俺の大事な商売道具を取り上げやがったのが悪いんだ」──というのがパーキンの主張だった。人に金を借りるときはそういうゴタゴタを見越して借りるべきだと思うが。

 とにかくパーキンがろくな人間でないことは確かである。敵味方をころころ変えて平気な顔でいるのだから。つい損得勘定してしまい、どう立ち回ろうか気にしてばかりのレイモンドさえ引くレベルだ。そんな手合いが身近にいれば空気が悪くなって当然だった。


「なあ、あいつブルーノに謝ったのか?」

「んなわけないでしょ。いつも落ち着いてるブルーノさんがあんな風に叫ぶの見たことある? あたしにはパーキンが頭下げたとは思えないね」

「それもそうか。せっかくカーリスの悪人どもにひと泡吹かせてやったぜって思ったのになあ」


 気の毒そうに親方が呟く。ルディアが親の仇の子を助けたことはもう二人も知るところだった。彼らにもオリヤンにも詳細は伝えていないが。

 アクアレイアの終焉にローガンが関わったのは事実なので「仇」と説明したまでだ。イーグレットが本当は誰の剣に倒されたかは伏せたまま。


「…………」


 レイモンドはそっとホールの中央へ歩み出た。「ジュリアン様はボクの希望、ボクの未来の象徴です!」などと媚びを売る金細工師も、それに辟易する少年も、どちらも無視して転がったレイピアを拾い上げる。

 昨夜はこれで生身の人間を相手にしたのだ。父殺しの後でさえ剣を振るえる精神力が却って痛ましい。うずくまったまま動けなくても誰にも責められないだろうに。


「あの、すみません! どうかあの方に伝えていただけませんか? 今回の件、本当にありがとうございましたと」


 と、立ち去ろうとしたレイモンドの手をジュリアンの柔い指が引っ張った。振り返りながら無愛想に「なんで?」と尋ねる。


「本来なら僕が直接謝意を述べるべきなんですが、もう全然、これっぽっちも耳を貸してもらえそうもないので……」

「だからなんで礼なんか言おうとするんだよ。そんなもん聞かされたら余計に気分悪くなるじゃねーか」


 刺々しい口調を改める気にはなれなかった。ジュリアンはビクッと肩を跳ねさせる。表情から察するに、カーリス人を懲らしめるつもりが喜ばせた悔しさには思い至っていなかったようだ。


「こらこら、お前ね! 坊ちゃんになんてことを」


 調子良くパーキンが割り込んできたけれど、相手にしないで少年を見やる。レイモンドは視線を外さず低い声で彼に諭した。


「こっちは誰か知ってて助けたわけじゃねー。できればなかったことにしたいくらいなのに、あんま引っ掻き回さないでくれねーか? 俺だってこれで随分我慢して喋ってるんだぜ?」


 少し目を吊り上げただけでジュリアンはみるみる萎縮してしまう。父親よりはまともな神経の持ち主らしく感謝の気持ちは本物らしいが、それだけに迷惑このうえなかった。ローガンがアクアレイアに何をしたか、わかっているならルディアに近づかないでほしい。


「とにかく無事に帰りたきゃこっちの視界に入ってくんなよ。親方たちだってカーリス人には家族を酷い目に遭わされてんだ。その仕返しをお前にする気は今のとこねーけど、人間の心づもりなんてあっさり変わっちまうんだぜ?」


 わかったら行けと手で追い払う。しかしジュリアンはしつこかった。


「ですが皆さん、僕がカーリス人だと──ローガン・ショックリーの息子だと知った後も、父には内緒で葬ろうとは仰らなかったじゃないですか! なのにひと言もなく客室で安穏としているなんて、僕にはどうしてもできなかったんです……!」


 せめて謝礼を出させてほしいと床にひれ伏した少年を複雑な思いで眺める。レイモンドの手は無意識に、家を出るとき渡された首飾りの紐に伸びていた。

 目の前のカーリス人に悪意を向けきれないのは多分、心のどこかで「父親がクズでも子供には関係ない」と考えているせいだろう。血が罪をも遺伝させるとはレイモンドには思えなかった。それは感謝されるような話ではないが。


「んん、感心ですねえお坊ちゃん! 恩人に礼をということは、へっへっへ、ボクも何か所望できるということでしょうか?」

「パーキン! 大事な話をしているのに横入りするな!」

「つれないなあ、はっきり言ってボクがその気にならなけりゃジュリアン様はラザラスに囚われたままだったんですよ?」

「馬鹿を言え、お前のせいで誘拐される羽目になったんだろ!」


 しょうもない口論に嘆息し、無言のまま踵を返す。レイモンドが背を向けたことに気づいてジュリアンは「あの」と引き留めてきたけれど、これ以上話を続けるつもりはなかった。


「何もいらねーし、頼むから関わらないでくれ」


 うんざりしつつ吐き捨てる。本人は善意でやっているあたり手に負えない。もはやルディアの忍耐も綻びかけているというのに。


(気分転換に外でも出られりゃいいんだけど、ラザラスたちに顔見られてっしなあ)


 レイピアを手にホール脇の階段を上る。肩越しに振り返るとマヤが坊ちゃんに首を振っているのが見えた。どうやら少年はタイラー親子にも礼がしたいと申し出て断られた様子である。


(馬鹿じゃねーの。あの二人が『カーリス人』になびくわけねーじゃん)


 所属というのは存外強固な属性なのだ。その強さに慣れきった者ほど無頓着でいるけれど。


(どうしたら姫様、ちょっとは楽になるのかな)


 ここがアクアレイアなら、レーギア宮の彼女の部屋か防衛隊の誰かの家ならそこらの壁や調度品に当たり散らすこともできただろう。

 あるいはルディアの今の身体が他人のものでさえなかったら、自堕落に酒を呷るなりなんなりの現実逃避ができたはずだ。


(……アルとはしょっちゅう手合わせしたっけ。嫌なことがあった日は)


 根深く暗い話題ほど、お互い口にしなかった。愚痴の代わりに刃をぶつけて全部黙ったきりでいた。少しでも強くなりたくて、弱い心を鈍らせたくて。


(ああそうだ。ぶっ倒れるまで身体使えば悩みなんて忘れてぐっすり眠れるんだったな)


 コンコンと客室のドアをノックする。「なんだ」と不機嫌な低音が聞こえた。その声に嗚咽の混じった様子はない。


(一人きりでも泣けねーんだから、うちの強情なお姫様は)


 意志が強いのも考えものだと内心で眉をしかめる。できるだけいつも通りのヘラヘラ笑いを心がけ、レイモンドはルディアに呼びかけた。


「あのさ、暇ならちょっと付き合ってくれねーか?」


 たいした力になれないとわかっていながら結局側に戻ってしまう。

 どうしてルディアと離れられないのだろう?

 いつからこんなに離れがたくなったのだろう?

 俺はいつ、どこで、こんなに。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ