第3章 その8
――パーキン曰く、己は北パトリアでも名うての金細工職人で、古王国へは聖王の注文品を届けるために来たそうだ。だが移り気な聖王に「やはり頼んだものは要らぬ」と支払いを拒否され、挙句その品も帰途のカーリス共和都市で騙し取られたのだという。
「故郷へ帰ろうにも一文無しでしたし、ラザラスの言いなりになるしかなくて……。だけど信じてください! これが初犯で、心から悔いてるんですよお! 俺はッ、俺は……ッ!」
「わかったから、少し落ち着け」
濃い眉をこれでもかと寄せて号泣するパーキンにルディアはふうと嘆息した。ちゃんとした旅券と職人組合の発行する身分証明書も見せてもらったし、もう彼の証言を疑ってはいない。それに組織化の進んだ強盗ほど罪を被せる外部の人間を利用するものだ。現在の問題はこちらに何ができるかだった。
「その子供、あたしらで助けてやろうよ! ねえ父ちゃん!?」
「ああ、売り飛ばされるわけじゃねえっても見過ごしちゃおけねえ! それに俺は、ずっと奴らをぶっ飛ばしてやりたかったんだ!」
タイラー親子は興奮気味に席を立つ。オリヤンもひっきりなしに頷きながら「法的機関が当てにできない以上、我々がやるしかないな」と腕まくりした。
「そんであんたはどうすんだ? 俺はあんたの決めた通りに動くけどさ」
おっかなびっくり槍兵が尋ねてくる。全面的に皆が協力してくれるなら断る理由は一つもなかった。「慎重に策を練ろう」とルディアは指を組み直す。
「お、おおっ!? お力添えしていただけるので!?」
パーキンは狂喜して応接テーブルの対面に座すルディアの両手を握りしめた。
「本当にありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
「いや、そういうのいいからさっさと詳しい監禁場所を教えろよ」
金細工師の無作法さにどことなくムッとした様子でレイモンドが催促する。パーキンは輝く笑顔で「はい!」と応じ、カーリス人居留区の立地から説明を開始した。
「カーリス人は入江の東に三十軒近い宿や銀行を持ってます。ラザラスの城は船着場の正面にある第一商館で、こいつは裏通りにも面してる馬鹿でかい建物です。今朝まで子供はそこに閉じ込められてたんですけれど、商館っつうのはお堅い人たちも大勢やって来るところでしてね。キャンキャン騒がれても誰も気にしない隣の娼婦宿に移されたんですよ」
パーキンによればその娼婦宿は一階が酒場になっており、カーリス人と取引のある外国人も食べたり飲んだりしているらしい。三十人も客が入れば超満員の面積で、本業を営んでいる二階から四階も多めに見積もって各階六部屋程度だろうとのことだった。
「しょ、娼婦宿かあ……」
乗り込むのは難しそうだねとマヤが唸る。この場合、道徳的な意味ではなく悪目立ちを懸念してのことだろう。
「うーん。私もすぐに足がついてしまうね」
そう呟いたオリヤンもカーリス人居留区に忍び込むには顔が売れすぎていた。当然パーキンも連れていけない。金細工師が金を盗んで逃げたのはもうバレていてもおかしくないのだ。
「潜入できるとして私とレイモンド、タイラーの三人だな。土地勘があるのはタイラーだけか」
「お、俺だってカーリス人居留区に入ったことはないぜ?」
「街の地図を見てみるかい? 何かアイデアが浮かぶかもしれない」
オリヤンが広げてくれた地図に見入り、ルディアはしばし思案する。
リマニは歴史ある街だがこれまで何度も大きな戦禍に見舞われており、そのたび一から街を造り直してきたため、人口増加に伴って迷宮化するのが宿命の都市にしては珍しく整然とした街並みをしていた。表通りは綺麗に舗装されているし、馬車同士も余裕を持ってすれ違える。この点を上手く使えば逃げきることはできそうだった。
「……よし、それでは各々役割を決めよう」
薄暗くなってきた一階広間の片隅にルディアの声が静かに響く。作戦会議が終わる頃には太陽も一日の責務を果たし、世界を真っ赤に染めながら西の海に沈みかけていた。
******
いくつものランプの灯りに照らされた酒場は雑多な喧騒に満ちている。席は埋まり、帰ろうとした酔客も派手な衣装の女の誘いで店の奥へと消えていく。空いた席にはまた別の誰かが座り、安酒を頼む声が響いた。
階段の位置は最初に確認した。壁の補修をするとかで四階が使用禁止であることも、長居の割に酔っていないごろつき連中がいることも。
ルディアはじりじり焼け焦げそうな心をなだめて機を待った。当たり前だがどこを向いてもカーリス人だらけである。財産が許す限りのコットンを詰めた彼らの衣装を見ていると冗談でなく眩暈がした。
アクアレイアの命運が決まった日、天帝からの通告を持って現れたローガンの傲岸不遜な高笑いが甦る。王国を徹底的に潰すためにカーリスがジーアンと手を組んだのはあのときにわかっていた。仮にヘウンバオスが王家を見逃したとしてもカーリス人はそれを許さないだろう、と。そして奴らは実際に、軍を率いてコリフォ島を襲ったのだ。
恨みをローガン個人に留めることはできなかった。ジーアンと接触したのがラザラスでも話はさして変わらなかったに違いないのだ。昔からカーリス人にとって外部の敵は内部の敵以上に目障りな存在なのだから。
(復讐がしたいのか)
軽い水割りを煽りながら自問する。
最初にタイラーから海賊の話を聞いたとき、襲撃されれば正当防衛になると思った。空の鞘しか持っていないくせに刺し違えても戦うつもりになっていたのだ。入っているのがブルーノの身体でなかったら自分から人さらいを探しに出向いたかもしれない。
カーリス人が試合に登録していると聞いたときも、こんな大会なら死亡事故が起きたっておかしくないと考えた。受付に失格の例を尋ねたら「骨折以上の大怪我を負わせることだ」と言われて抑えたが。
王族として、いかなるときも激情に蓋をする訓練をされてきた。今も必死に堪えている。ともすればたやすく暴走を始めそうな殺意を。
(馬鹿者め。今の私の名前はなんだ? 言ってみろ)
これ以上ブルーノの手を汚すつもりかと奥歯を噛む。腰には新しいレイピアを差していたが、衝動だけで切りつけるなと何度も自分に言い聞かせねばならなかった。
ふと目を上げればサイクロプス用の付け髭で変装したタイラーが映る。その隣には前髪を下ろして別人状態のレイモンドも。ルディアはというと舞台の幕をターバンに、英雄人形に被せていたかつらを付け毛にテーブルで肘をついていた。
(『ウーティス』か)
誰でもない。そう名乗ることで危地を脱した古代の知恵者。マヤたちに騎士物語の一幕を教えたのは、巨人退治の見世物を続けられるのが苦痛だったせいかもしれない。
誰でもない。「ルディア」でもない。王国の名は消え去って、偽の王女ですらなくなった。それはほかならぬ己のことに思えたから。
(早くマルゴーに身体を返しに行かなくてはな)
残った酒を一気に飲み干し、手酌で新たに注ぎ足す。だがこれ以上酔う気はなかった。夜はもうとっぷり更けて、テーブルに突っ伏した者や追加の注文をやめる者も目立ち始めている。
待機中のマヤ、オリヤン、パーキンには零時にひと撞きされる鐘が合図だと告げてあった。その音は今まさに、聖堂の鐘楼から夜の街に厳かに響き渡っている。
「……おい、今なんて言った?」
酒杯を激しく卓に叩きつけ、ルディアは取り決めていた芝居を始めた。
設定はこうだ。タイラーは詐欺師まがいの悪徳商人で、とある女にガラス玉のネックレスを宝石と偽って売りつけた。その成功談を肴に飲み交わしていたところ、ルディアは騙されたのが自分の妹だと気づく。そしてタイラーに金を返すか本物を持ってこいと迫るのだが、タイラーは騙された奴が悪いと一蹴、大喧嘩に発展するのである。
ルディアが剣を抜いたらタイラーは即刻逃げ出す。酒場の出口にはこちらが立ち塞ぐので彼は上階に隠れるしかない。憎き詐欺師を探し回るふりをすれば自然に娼婦宿に押し入れるというわけである。
拉致された子供が見つかるまで店主やほかの客を止めておくのはレイモンドの役目だった。「連れが迷惑をかけてすまない」と銀貨を握らせ、退路の確保に努めてもらう。事によっては隣の商館から援軍が駆けつけるかもしれないし、臨機応変に対応できるレイモンドに任せるのが最適だった。
「へっ嫌だね! なんで俺が金を返さなきゃならんのだ? 俺はただあの娘が綺麗な宝石を気に入ったと話すから、夢を壊しちゃいけねえと黙ってやってただけじゃねえか! いくら払うか決めたのはあっちなんだ! びた一文だって返しゃしねえぞ!」
さすが人形劇を生業としているだけあってタイラーの演技は様になっている。アンバーの役者ぶりには及ばないにせよ、期待したより遥かにいい。どうしたどうしたと穏やかでないテーブルに目をやり始めた酔いどれたちも不自然さは感じていない様子である。
「話のわからない男だな、今なら不問にしてやると言っているのだ! さあ、巻き上げた金を返せ! さっさとしろ!」
「わかってねえのはどっちだよ。本物の宝石を買うより安く済ませてやったんだぜ? なんて親切な男だと感謝してほしいくらいだね!」
「貴様、まだ言うか! ふん捕まえて裁判所に突き出してやる!」
「やってみろ、勝つのは俺だ! 契約書もろくに読めないあの女がどんな書類にサインしたか、とっくり教えてやろうじゃねえか!」
「お、おい、二人ともやめろよ。こんなところで熱くなるなって」
睨み合うルディアとタイラーの仲裁にレイモンドが立ち上がった。そんな彼を振り払い、丸椅子を蹴り飛ばし、「なら裁判官に委ねるまでもなくここで決着つけてやる!」とレイピアを振りかざす。怯んだ親方の進行方向に回り込み、肩口ギリギリに刃を振り下ろせばタイラーは後ろ跳びで身をかわした。そして反撃とばかりに酒や料理の乗ったテーブルをこちら側に押し倒してくる。
(よし!)
ワインボトルや皿の割れる派手な音は周囲の注意を上手く逸らした。逃げ場を求めて店の階段を駆け上がるタイラーを見送り、ルディアも「逃がすか!」と駆け出す。
「どこへ行った! 出てこい外道!」
ここまでは作戦通りだ。後はこれが酔っ払い同士の揉め事だと勘違いされているうちに例の子供を見つけねばならない。営利誘拐なら見張りをつけているだろうし、そう長く化かされていてはくれないだろう。
(急がなくては)
「なんだテメエ、勝手に上がってくるんじゃねえ!」
頭上で響いた荒々しい怒号にルディアは階段を上る足を速めた。タイラーは早くも四階に到達したらしい。「ヤバいのに追われてるんですって!」と危機を訴える彼の声が聞こえてくる。
「ほら、来ました! あいつです、あいつ!」
タイラーと一緒にいたのは腕っぷしの強そうな二人の若い男だった。抜き身の剣を構えたルディアを目の当たりにし、彼らは慌ててナイフを向ける相手を変える。
だがこちらのほうが一歩早い。ルディアは絶妙にタイラーを避け、船乗りと思しき大柄な男の腿を思い切り突き刺した。
「ギャアッ!」
「あ、兄貴ィ! うがっ」
やや小柄な弟分もたちまち戦闘不能状態に陥る。階段を転がっていった男の後頭部が妙にぐっしょり濡れていたので「?」と前に目を戻せば、タイラーがしれっと酒瓶を小脇に挟み直すところだった。
「て、てめえら! 騙しやがったな! おい、皆出てきてくれ!」
負傷した足を抑えつつ見張りが大声で助けを呼ぶ。屋内の敵はせいぜい四、五人と見ていたのに、四階の空き部屋から飛び出してきたならず者どもは想定の倍近かった。
「な……っ!?」
「げえっ!? こ、これはちょっと多すぎじゃ……っ」
大きく開いた戦力差に一瞬たじろぐ。だが今更引き返すわけにいかない。
「下がってろ!」
タイラーを背後に庇うとルディアは飛びかかってきた最初の男にターバンを投げつけた。
「フガッ!」
ほどけた暗幕が敵の視界を奪う間に左手でレイピアの鞘を掴む。急所に一撃繰り出せば「ンゴオッ!」と悲鳴を上げたきり男はその場に動かなくなった。勢いだけで切り込んできた稚拙な動きの数人もたちまち痛打の餌食となる。
「おい、あいつの髪見ろよ!」
「アクアレイア人がなんでこんなところに!?」
「ひ、非人道的な攻撃をしやがって……!」
怒りをたぎらせた賊どもはルディアを袋叩きにしようとした。しかし通路の狭さが災いし、体格の良い彼らは肩をぶつけ合う。その隙を逃さずルディアは一人また一人と非人道的な攻撃とやらで床に沈めた。
「おぐぅ……ッ!」
「ギャーッ!」
「く、クソ! 下からも応援を呼べ!」
リーダーと思しき男が焦って命じる。怒鳴りつけられた部下は奥部屋の扉にへばりついたまま真鍮の呼び鈴を打ち鳴らした。そのけたたましい音は建物中にこだまする。
「挟み撃ちにすりゃこっちのもんよ!」
「覚悟しな!」
しまったとルディアは振り返った。この狭さで背後からも攻撃されたらひと溜まりもない。酒場のごろつきどもはレイモンドが抑えてくれているはずだが、もし二階、三階にもまだ仲間がいたとしたら――。
「どうした、ガキに何かあったか!?」
無情にも展開は危惧した通りになってしまう。なんだって子供一人にこんな大層な見張り軍団をつけるのだと舌打ちしたい気分だった。新手はたかが二人だが、背中を取られた時点で脅威である。壁を背にしてルディアは左右を一瞥した。とにかく多少の痛手は負ってもどちらかを捻じ伏せるしかない。
(どうする? 今来た二人、同時に倒せるか?)
もう一つ新たな足音が近づいてきたのはそのときだ。
「屈め!」
飛んできた何かにハッと気づいてルディアはタイラーの足を払う。突如投げ込まれたのは葡萄酒の空き瓶で、それは二本とも賊の頭に命中した。タイラーが武器として構えていたのとは別の瓶のようだ。この加勢にはごろつきどものほうに動揺が走る。
「だ、誰だ!?」
「うるせー! てめーらに名乗る名はねー!」
階段口から三本目の酒瓶を投げたのはレイモンドだった。槍兵は額に汗して「おい、急げ! 隣にラザラスを呼びにいった奴がいる!」とこちらを急かす。
どうやらもたついている間に騒ぎが大きくなりすぎたらしい。ただちに娼館を引き揚げなくてはならなかった。
槍兵のおかげで敵は四人に減っていた。一瞬の目配せの後、それぞれ自分の一番近くにいた敵に一斉に飛びかかる。一対一なら日中の棒術試合よりずっと楽だった。切り崩し、昏倒させた男を置いてルディアは奥部屋に駆け急いだ。
「鍵を渡せ! 死にたくなければ今すぐに!」
呼び鈴を握りしめたままオロオロしている見張りに命じる。不能にされたくなかったか、怯えきった青年はあっさり鍵を差し出した。ルディアが奥部屋を開けると同時、「はぐっ」と槍兵に意識を落とされた賊の情けない声が響く。
「んーっ! んーっ!」
見渡せば目的の人物は狭い部屋の汚れた寝台に寝転がされていた。目隠しに猿ぐつわ、腕は後ろ手に縛られて、身動きもできない状態である。可哀想に、こんな格好でほったらかしにされていたとは。まだ十一、二歳くらいではないか。
「助けに来たんだ、暴れるなよ。ちゃんと親元に帰してやるからな」
できるだけ安心させてやろうと囁くとルディアは少年を担ぎ上げた。「早く、早く!」と叫ぶレイモンドに引っ張られ、滑るように階段を下りていく。
三階、二階では男も女も困惑していた。裸のまま扉の陰から顔を出し、階段を覗いて目をぱちくりさせている。一階の酒場では槍兵が派手にやったのか、大勢の野次馬たちが集まっていた。
「うぉりゃーッ! どけどけーッ!」
槍の先で進行方向のカーリス人を追い払い、レイモンドは出口へと突き進む。ラザラスが来るまでに間に合ったかと思ったが、通りに出た途端ルディアたちは豪商率いる武装集団と鉢合わせた。戦争にでも行くのかと思うくらい大仰な甲冑騎士たちだ。それが二十人近くもいる。
「あいつらだ! ガキを取り返せ!」
身構える間もなく貴族然とした下まつげの男が叫んだ。小隊にワッとなだれかかられ、思わずぎゅっと瞼を閉じる。
くそ、万事休すか。もう少しだったのに。
「ハイヨーーーーッ!」
と、そのとき、深夜にあるまじき馭者の掛け声と馬車の騒音が近づいてきた。いつもぴたりと人形に息を合わせて語り部を務める少女が一同の迎えに現れたのは、これ以上ない最高のタイミングだった。
「どいたどいたーッ! どかなかったら暴れ馬に轢かれちまうよーッ!」
駆け込んでくる馬の勢いに仰け反った騎士たちが尻餅をつく。着込んだ鎧が重い者ほど起き上がるのはひと苦労のようだった。
レイモンドが店先の篝火を蹴り倒すとタイラーが火中に酒瓶を叩きつける。勢いづいた炎が壁となっているうちに全員馬車に乗り込んだ。
「さあ飛ばすよッ! しっかり掴まってなッ!」
夜でも迷いようのない単純なリマニの格子路を馬車は颯爽と突っきっていく。月明かりがオリヤン邸まで易々と導いてくれた。
マヤがあまりに張りきりすぎたため、車内の揺れは凄まじかった。走行中は舌を噛まないように誰も口をきけなかったほどだ。
落とし格子の両脇ではオリヤンとパーキンがルディアたちの凱旋を今か今かと待ちわびていた。決して短くはない距離を走りきってくれた一座の馬が庭に飛び込むや門は固く閉ざされる。
ここまで来ればひと安心だ。我々は安全地帯に戻ってきたのだ。
「はあ……っ、はあ……っ」
「つ、疲れたぁ……!」
車輪が止まり、鼓動もようやく落ち着いてくる。皆もうヘトヘトだ。
「お疲れ様! やったねえ!」
馭者台からマヤの弾んだ声がした。「追手はかかってなかったよ!」との言葉にほっと息をつく。
「マヤ……、水、水が欲しい…………」
「うわっ屍! じゃない、父ちゃん!」
安堵と疲労で脱力しきったタイラーは愛娘の肩を借り、喉の渇きを癒すべく庭の奥の井戸に向かった。幌の外ではパーキンとオリヤンの歓声が響いている。
久々に胸のすく思いだった。小さなことだが一つ武功を立てられたと。
少しだけなら自分を褒めていい気がした。少しだけなら――。
けれど。
「んんーっ、んんー!」
魔手から救った少年が唸っているのに気がついて、ルディアは「ああ、悪い」と身を起こす。時間がなくてそのまま連れてきてしまったが、拘束されたままでは彼も助かった気になれないだろう。暗闇の中、手探りで縄を切ってやり、目隠しと猿ぐつわも外してやる。
「あ、ありがとうございます! どこのどなたか存じませんが、本当に助かりました……!」
上流階級の子供らしい丁寧な礼を受け、ルディアは微笑を凍りつかせた。声に聞き覚えがあったのだ。どこかあまり愉快でない場で、確かに耳にした記憶がある。
(誰だ……?)
ひと仕事終えて静まったばかりの心臓にざわりと嫌な感覚が走った。月光に照らし出された少年に目を凝らし、ルディアはあげかけた悲鳴を飲み込む。
「……ッ」
無意識に後ずさりした。なぜこいつが、なぜここにと疑問はぐるぐる脳裏を巡る。哀れな被害者を救うのだと思い込んでいた己の愚かさを悟るまで。
「このご恩は必ず返させていただきます! ラザラスに囚われたままでは父にとんでもない迷惑をかけるところでした。本当に僕としたことがこんなドジを踏むなんて……」
どうして考えつかなかったのだろう。カーリス人ならカーリス人を加害することもあるだろうと。まして彼らの対立は一族郎党を追放するほど峻烈なものだったのに。
「あ、あのー……?」
ルディアの右手が剣を掴んでいるのに気づき、子供はきょとんと首を傾げる。父親に――ローガン・ショックリーにそっくりな顔で。
鞘から刃が抜かれるときの、あの独特な音がして、レイモンドは降りかけた荷台の奥を振り返った。
レイピアの細い刀身がまばらに差し込む月光を反射させている。ゆらゆらと迷い蛍が尾を引いて舞うように。
だからそれが小柄な人影に振り下ろされるのを見ても、現実感や差し迫った危機感を覚えてはいなかった。また姫様と蛍狩りに行けたらな、と楽しい記憶に思い馳せさえしたほどで。
「ひっ……!」
響いたのは小さな悲鳴。削られた板の音。静寂を乱す獣じみた息遣いに瞠目し、レイモンドは弾かれたように取って返す。
「何してんだ!」
ルディアの剣を叩き落としながら怒鳴った。聞こえているのかいないのか、彼女は無言で助けた子供を見下ろしている。
「――」
顔を覗いてぞっとした。亡霊のごとき横顔に。見開かれたまま憎悪と憤怒で歪む瞳に。
見知らぬルディアがそこにいた。理性という名の分厚い仮面が今にも剥がれ落ちそうな彼女が。
「……笑えるだろう?」
一度もこちらに目をやらないで彼女が問う。
「少しでもあの人の無念を晴らしたかったのに、一番の敵に助力するなんて」
かじかんだ声はルディアのものとは思えなかった。意志の力が欠けている。いかなるときも前進し、先を見据えて戦ってきたあの強さが欠けている。それこそがルディアのルディアたる所以だったのに。
月が彼女の震える頬に冴え冴えと冷たい光を投げかけていた。
肩も、腕も、凍えたように打ち震え、浅すぎる呼吸は最後の忍耐も弱らせる。
「私はまた、愚かな間違いをしただけだった……!」
初めてルディアが泣くのを見た。堅牢な精神の要塞が見る影もなく崩れ去り、嗚咽と嘔吐に苦しむ様を。
「……っ、うぇ……っ」
「お、おい」
うずくまった彼女の背中に手をやるが触れていいのかわからない。今までの彼女ならどんな不調時も放っておけと突っぱねたのに、それさえなくて。
(一番の敵に助力? なんの話だ?)
レイモンドは子供のほうに目を向けた。ルディアと距離を取ろうとして尻餅のまま後退していた少年は視線が合うやビクリと肩を跳ねさせる。
「あっ……」
その顔を見てやっとすべて繋がった。ラザラスが誘拐したのはただの金持ちの息子ではなく、どんな形勢逆転も望める政敵の泣きどころだったのだと。
(こいつ確かイオナーヴァ島でローガンの連れてた……。俺たちわざわざ苦労して陛下の仇に力貸してたってことか?)
「…………」
呆然と立ち尽くす。悪い夢であってほしかった。せっかく少し元気になってきたところだったのに、こんなのあんまりではないか。
胃の中のものを全部吐き戻してもルディアはまだ起き上がれないようだった。レイモンドがかける言葉を見つける前に彼女は意識を手放した。




