悪女が生まれた日
全員が部屋を離れた後も、クラウディア皇女はその場に残ったままだった。当然、テレーザも残っている。
珍しく何やら難しい顔で考え込んでいるクラウディア皇女を見て、テレーザの気持ちは落ち着かない。
それでも放っておくわけにもいかずに、少し勇気を出して声を掛けてみた。
「何を考えているのですか?」
「ん。カムイさんとディーフリートさんの話」
「えっと、たくさん話があって」
「最後のだよ」
「王国の件ですか? 驚きましたね、東方がそんな事になっているなんて」
「そうだね」
「でも、それの何を? あっ、もしかして、王国に行くって話ですか?」
「違うよ。あれはもう良いの。だって、そんな状態では、平和の懸け橋どころか、人質扱いされてしまうよ」
敗戦国の王妃になってしまうという可能性をテレーザに聞かされた以上、クラウディア皇女に王国に行くという選択肢は無くなっている。
「そうですね。では、何を?」
「姉上の継承争いはどうなるのかなと思って」
「それ所ではない事態になりかねないって言っていました。でも、仕方ないですね。皇国の事を考えれば、確かに内部で争っている場合じゃありません」
「そうだけど、一気に決まる可能性も言っていたね」
「そうですね」
「どうやったら、そうなるのかな?」
「……あの?」
「なんとかして、そう出来ないかな?」
「クラウディア様は、どうして急ぎたいのですか?」
「だって、継承争いが先延ばしになったら、私は姉上のお手伝いが出来なくなるもの」
「ああ、そういう事ですか」
クラウディア皇女もいつ結婚してもおかしくない年である。オスカーの所に嫁ぐ事が有力だが、そうなれば、クラウディア皇女はもう皇女ではなくなる。
城に居られなくなるのは、当然として、影響力だって一気に落ちてしまうだろう。
皇女と、将来は皇国騎士団長になるかもしれないとはいえ、今は一騎士であるオスカーの妻では、周りの扱いが全く違うものになるのは明らかだ。
大好きな姉の手伝いが出来なくなる。そうクラウディア皇女は自分自身で思い込んでいるが、実際は、姉を皇位につけたのは自分だと周りに認められたいという欲求からだ。
「父上が早く決めてくれればいいのに」
「でも、どちらを選ぶか分かりません」
「そうだね。姉上を選んでもらわないと意味ないよね。どうすれば父上は姉上を選んでくるかな?」
「それはやはり周りの支持を固めてではないですか?」
「もう、そんな事は知っているわ。誰の支持をどうやって固めるかを聞いているの」
「それは私に聞かれても……」
「南北両方伯ってカムイさんは言っていたね」
「本当に動かないのか、疑問に思っている感じでした」
「動かしちゃえば良いのかな?」
「……どうやって?」
「それは、頑張って説得するに決まっているよ。そうすればきっと分かってもらえると思うな」
「でも、カムイは慎重にって言っていました」
「そうだったね。そう言えばカムイさんの事は失敗したね」
「……すみません」
「良いよ、相手はカムイさんだもの、そう簡単にはいかないよね。でも、どうしようかな」
「あの、まだカムイに?」
「だって、やっぱりカムイさんだよ。姉上の力になれるのも、姉上の害になるのも」
「力はともかく、害っていうのは……」
テレーザはクラウディア皇女が、カムイを害と、はっきり言うのを初めて聞いた。いつもであれば、それに同調するテレーザなのだが、今日に限っては、自分の事を真摯に考えてくれたカムイの事を思い出して、それが出来ないでいる。
そして、そんなテレーザの感情を、クラウディア皇女もまた読み取ってしまうのだ。
「そうだ。いっその事、私が頑張ろうかな?」
「は、はい?」
「だって、オスカーさんのお父様は、何も力になってくれないみたいだし。だったら、私がオスカーさんと結婚する必要はなくない?」
「いや、それは、私には、なんとも」
「ないよ」
「でも、カムイは一辺境領主ですよ? クラウディア様とは釣りあいません」
「そうかな? カムイさんは元々、ホンフリート家の人間だし、今のお父様だって、お爺様の信頼厚かった皇国の直系貴族だよ」
ホンフリートは血筋だけを自慢にしていたような家であるのだからカムイの母方の血筋は悪くない。父方の血を知れば、クラウディア皇女は冗談でもこんな事を口にする事はしないであろうが。もっとも、これはクラウディア皇女に限った話ではない。
「ま、まあ。そう言われればそうですが。でも、ノルトエンデですよ? クラウディア様が住むような場所では」
「今はね」
「今は?」
「だって、カムイくんの力で姉上は皇位につくのに、そのまま辺境領っておかしいわ。功績に相応しい恩賞を与えてあげないと」
「恩賞ですか」
「カムイさんは辺境領主たちの信頼が厚いから、東方の辺境領を全て任せてしまうなんてどうかな?」
「はあ」
「ああ、それおかしいよね。東方伯の先に、また一つにまとまった東方領がある事になるね。そうなると東方伯って何だろうね?」
笑みを浮かべて、これを言うクラウディア皇女は、愛らしい仮面を完全に外してしまっている。テレーザが自分の思うように反応しない事に苛立っているのだ。
「……それは」
「嫌だ、例えばだよ。別にヒルデガンドの実家への嫌がらせとかじゃないから」
そう口に出せば、逆に、それが嫌がらせである事はテレーザでなくても汲み取れるだろう。
「それでも辺境に変わりはありません」
「ふうん。テレーザはカムイさんが私と一緒になるのが嫌なのね」
「えっ? 違います。私はクラウディア様が心配で反対しているのです」
「そう。そうだよね。テレーザはいつも私の事を一番に考えてくれるものね?」
「はい。私はクラウディア様の為だけを思っています」
結局、これをテレーザに言わせたいのだ。他の人間へ気持ちを向ける事など許さない。クラウディア皇女のそんな独占欲がテレーザを縛り付ける。
「ありがとう。私も頼りにしているのはテレーザだけだよ」
「任せてください」
「じゃあ、一緒に頑張ろうね。次は失敗しないでね」
「えっ?」
「さてと、私も疲れちゃったな。そろそろ寝ようか?」
「あっ、はい。あっ、でも」
「どうしたの?」
「ちょっと、履きなれない靴で足が痛くて。休んでから部屋に戻りますからクラウディア様はお先にどうぞ」
「えっ、大丈夫?」
「大丈夫です。脱いでしばらく経てばすぐに治ります」
「そう。じゃあ、私は行くね」
「はい」
部屋を出て行くクラウディア皇女。それを見送るテレーザの顔は真っ青だ。
さりげなく、クラウディア皇女が口にした言葉。その意味を思うと体の震えが止まらない。
「つ、次って言った。次は失敗しないでって」
それが意味する所は考えるまでもない。また、カムイとは別の人間を誘惑しろという事だ。
「だ、誰だろ? 次って誰だ」
クラウディア皇女が口にした言葉を頭に浮かべていく。具体的な名が出たのは二人だ。
南北両方伯しかいない。
「……い、嫌だ」
クラウディア皇女が考えている相手が、南北方伯自身だとすれば、二人とも、もうテレーザの倍以上の年齢になる。そんな男に身を任せる事など想像も出来ない。しかも、どんな容姿かもテレーザには分かっていない。
「カ、カムイにお願いしよう。ま、まだ、カムイなら、我慢できる」
それを拒否するという考えはテレーザにはない。テレーザが思い悩んでいるのは、初めての相手が、そんな相手になってしまうという事だ。
ふらふらと立ち上がって、カムイの部屋に向おうとしたテレーザだったが、部屋を出る所で、それは許されないと気付いた。
カムイが拒否するとかそういう事ではない。クラウディア皇女が、カムイと結婚すると言った言葉を最後まで覆さなかった事に気が付いたのだ。
クラウディア皇女は、考えを改めた時は、それをはっきりと口にする。王国へ嫁ぐ事を否定したように。
それをしない場合は、気持ちの中にまだその考えが残っているという事を、テレーザは長い付き合いの中で理解していた。
クラウディア皇女の意に反する事は決して出来ない。そう思い込んでいる事が、テレーザを縛る鎖だ。
どうにもならない状況であったが、今日に限ってテレーザは諦めようとしなかった。
意思のない人形のわずかばかりの抵抗。その抵抗の元となるのは、カムイとの会話だけだった。
「ああ、そうか。一つだけあった」
カムイに言われた言葉の中にあった名前。クラウディア皇女も、捉え方によっては、許したと言える、たった一人の相手の下にテレーザは向った。
◇◇◇
目的の部屋に辿り着いたテレーザは、覚悟を決めて扉を叩いた。
「はい」
すぐに部屋の中から男の声が聞こえる。まだ起きていたようだ。開けられた扉のすきまから顔を出したのはオスカーだった。
「テレーザ殿? どうした?」
「オスカー様、こんな夜分に申し訳ありません。ご迷惑だと思いますが、少しだけ私の為にお時間を頂戴できませんか?」
「あ、ああ」
普段とは異なるテレーザの言葉遣いに戸惑いながらも、オスカーは扉を開けて中に招き入れた。さりげなく、テーブルを通り過ぎて、ベッドに腰掛けるテレーザ。
さすがにオスカーは、隣に座る事なく、椅子を持ちだしてきてテレーザの前に置いて、腰掛けた。
「それで、何かあったのか?」
「あの……」
「何かソフィーリア皇女殿下に問題が? いや、クラウディア皇女殿下かな?」
「いえ、私は申し上げました。私の為にお時間を下さいと」
「つまり、私事という事なのか?」
「はい。ご迷惑な事は承知しているのですが、この事はオスカー様でなければ解決できない問題なのです」
「そうか。そうであれば、仕方ない。自分で出来る事であれば、相談に乗ろう」
「ありがとうございます。オスカー様はやはりお優しいですね」
「いや、自分はそんな事は……」
テレーザの口からこんな台詞を聞いたのはオスカーは初めてだ。普段と違う様子に困惑している。そこにさらに、テレーザの驚くべき台詞が続く。
「私は、そんなオスカー様をお慕い申し上げております」
「はっ? 今、何と?」
「女性の口から何度も言わせないでください」
「い、いや、だが、ちょっと聞き間違えたような」
「では、もう一度だけですわよ」
「ああ、頼む」
「私は……、オスカー様をお慕いしております。もうずっと以前から」
少し伏し目がちに、恥らいながらもう一度、自分の想いを口にするテレーザ。言葉遣いは、カムイに言われた通りに演技して変えているのだが、恥らう様子は本物だ。
実際にテレーザはオスカーが好きなのだから。
「……テ、テレーザ殿?」
「軽蔑してください。女性の身でありながら、夜中に部屋を訪れ、こんな事を口走る愚かな女を」
「いや、驚いたのは確かだが、軽蔑とまでは」
「すぐにオスカー様は私を軽蔑なさいますわ」
「それは……」
「私が忍んできたのは、ただ想いを告げる為だけはございませんから」
「テレーザ殿、それはいかん。まだ正式な婚約も済ませていないとは言え、自分はクラウディア皇女殿下の伴侶となる身だ。夫として、妻の臣下に手を出すなど」
「やはり、お優しいですね。悪いのはオスカー様ではなく、こうして恥ずかしげもなく、誘っている私であると言うのに」
「いや、そういう事では」
「それでもあえてお願い申し上げます。私を抱いてくださいませ」
「だから、それは出来ない。私はクラウディア皇女殿下の」
「だからこそでございます。一生をオスカー様の隣で過ごしたいという私の想いがかなう事はございません。そうであれば、せめて一晩だけでもお情けを」
「しかし……」
「クラウディア様をお恨みしたくないのです。オスカー様と同じ位にクラウディア様は私にとって大切な方。その方を女のあさはかな嫉妬で恨むような事に、私はなりたくは、ないのです」
「テレーザ殿」
「オスカー様、お願いでございます。せめて、一夜限りのお情けを」
テレーザは立ち上がると、自らドレスを肩口から下に引き下ろした。豊満な胸の谷間が下着からこぼれている。意外にも女性らしい色気を見せつけるテレーザの下着姿に、オスカーの目が釘付けになる。
さらに、その下着さえ、はずそうとするテレーザ。
「いや、そ、それ以上は」
「オスカー様。これ以上、女性に恥をかかせないで下さい。こんな大胆な事をしていても、ほら、私の胸はこんなに高鳴っているのです」
慌てて、止めようとしたオスカーの手を取ると、テレーザは大胆にも自分の胸にそれをあてた。
「テ、テレーザ殿……」
「も、もう、言葉は……。お願いでございます。一夜限りの思い出を私に……。お願いでございます」
「テ、テレーザ殿。ひ、一夜限りだな」
「もちろんでございます。夜が明ければオスカー様は忘れてください。思い出は私の胸の中だけにしまっておきます」
「そ、そうか」
「オスカー様……」
そのままベッドに倒れ込んでいく二人。こうなれば、オスカーも自制は効かない。
テレーザの唇を奪い、その豊かな胸に手が伸びる。
「オ、オスカー様……。私は……、幸せで、ございます」
「テレーザ……」
夢中でテレーザの体をむさぼっていくオスカー。その頭を優しく両手で、包み込んでいるテレーザの顔には一筋の涙の痕が残っていた。
それが嬉し涙か、この先に訪れる苦痛を悲しむ涙なのかは、テレーザにも分かっていない。
◇◇◇
すっかりと夜も更けた時間。城内の廊下をテレーザは歩いていた。
(痛い。こういうものなのか。そんな良いものじゃないな。でも……、想い遂げれちゃったな)
先程までのオスカーとの情事を思い出すと、自然に顔が赤く染まってしまう。
(でも、そうか。ああすれば良いのか)
オスカーへの想いを遂げた事を改めて実感した後は、元のテレーザに戻ってしまう。
言葉遣いを改め、女性らしさ、妖艶さを自分なりに演出した。それが成功だった事は、オスカーと結ばれた事でも明らか。
自分も知らなかった意外な才能に、テレーザの胸が躍る。他人から見れば、軽蔑されるような才能であったとしても、何も持たないテレーザにとっては嬉しい事なのだ。
今日、この瞬間に、クラウディア皇女の為に、次々と男を色香で惑わしていく事になる最低の女が誕生した。