カムイの憂鬱
「お二人は何をしたいのですか?」
そう問いかけるカムイの目は真剣そのもの。忠誠を返してもらうという言葉が本気であることを示している。
まさか、ここまでの話になると思っていなかったソフィーリア皇女もクラウディア皇女も、衝撃で口を開けない。
「……ちょっと、言い方がキツすぎましたか?」
「え、ええ。かなりね」
「でも本気ですよ。まあ、いきなり答えをと言うのは、あんまりですね。とりあえず、さっきの話の続きから始めましょうか?」
「そうしてもらえると助かるわ。やっぱり、不満があったのね」
「不満とは違います。やり方については全く文句はありません」
「そうなの?」
「ええ。勝手にすればって感じですけどね」
「ちょっと?」
放り出すようなカムイの言い方に焦るソフィーリア皇女だが、それを気にする事なく、カムイは話を進める。冷静な振りをして話しているが、内心ではかなり苛ついている証だ。
「まず、ソフィーリア様にお聞きします」
「な、何かしら?」
「皇帝陛下が皇太子位をお決めになるのは、いつ頃だと思ってますか?」
「それは……。ごめんなさい、分かってないわ」
「それは俺もです。でも、直ぐではない事は確かです。と言うか直ぐでは困ります」
「どういう事かしら?」
「確かに今はソフィーリア様はやや優勢に事を進めています。ですが、ソフィーリア様は、テーレイズ皇子殿下にはない大きな問題を抱えています」
「私が? それは何かしら?」
ソフィーリア皇女はこの答えも持っていない。それに対して、カムイがどう感じているかも分かっていないようだ。
「女性である事。皇国の歴史の中で女帝が起った事はありません。ソフィーリア様が皇太子位に就くには、この問題を解決しなければなりません」
「そうね」
「さて、どういう形になるのでしょう? ソフィーリア様がそのまま皇帝になるのか、夫であるディーが皇帝になるのか、それは無いにしても実務はディーが取り仕切る事になるのか?」
「それは分からないわ」
「それがはっきりしないと皇太子位は難しいのではないでしょうか? いえ、どういう形になるにしろ、臣下として確かめて置かなければいけない事があります」
「それは何?」
「ディーの人柄、能力、そういった事の見極めです。ディーがソフィーリア様をないがしろにして、実権を奪うような人間であれば、皇太子位の座は、テーレイズ皇子のものとなるでしょう」
ディーフリートの専横は、西方伯家の専横とみなされる。さすがにそれを周りが許すはずがない。今は関与しようとしない南北伯家も動き出すはずだ。当然、テーレイズ皇子支持で。
「でも、ディーフリートの事は、貴方が一番評価しているのではなくて?」
「俺がどう思っているかは関係ありません。ソフィーリア様を支持しようとしている者が、そうでなくても直接的に仕えることになる者達がどう思うかです。勿論、俺はディーはちゃんと周りに認められると思っています。でも、それには時間が必要です」
「そういう事ね」
「はい。この事に気が付いているのであれば、皇帝陛下が今直ぐに皇太子位の決定を求められた場合、それはテーレイズ皇子になるでしょう」
「だから、直ぐでは困ると」
「はい。ソフィーリア様が皇太子位に就くには時間が必要です。継承争いは後数年、ヘタすれば想像以上に長く続く事になります。そうなるとさっきの策は全く意味をなさない」
「えっ、どうして?」
ソフィーリア皇女の問いを無視して、カムイの視線はクラウディア皇女に向いた。
「クラウディア皇女殿下、同じ事を相手がしないと思いますか? こちらが出した条件より、良い条件を相手に出されたら?」
「あっ」
「こちらは又、相手より良い条件を出さざるを得ない。それの繰り返しです。貴族は、こっちに付いたり、あっちに付いたり、右往左往を繰り返すでしょう。そして、いずれは」
「いずれは?」
「出された条件が信用ならないものになるはずです。相手だって馬鹿じゃありません。出された条件が本当に守られるものかの判断くらいは出来ますよ。そこまでくれば、条件で貴族を釣ることは出来なくなります」
「じゃあ、私がやろうとしている事は意味がないの?」
「いえ、意味はあります。時間稼ぎという意味と、貴族間の信用を失くすという意味が」
「時間稼ぎはわかるけど、信用を失くすって?」
「貴族同士は最初は今の繋がりで、まとまって右へ左に動くでしょう。でも、条件のやりとりの中で、裏切りのような行為が必ず出てきます。自分だけが良い思いをしようという貴族がね」
「はあ」
カムイの説明へのクラウディア皇女の反応は鈍い。言っている事は分かっても、それが何に繋がるのかクラウディア皇女には分かっていない。
「方伯家以外の中小貴族はバラバラになりますね。そうなると継承争いでの影響力も必然的に低下する事になる」
「カムイの思う壺ね」
カムイの考えを先に理解したのは、やはりソフィーリア皇女だ。
「ええ、そういう事です。でも、これは皇族であるお二人にとっても良い事です」
「私達も?」
「はい。ここで又、クラウディア皇女殿下にお聞きします」
「何?」
「クラウディア皇女殿下は何のために学院に来たのですか?」
「それは……」
「俺は本来皇族が持つべき力を貴族から取り戻す為だと思っていました。違いますか?」
「あっ、そう」
「でも、今、クラウディア皇女殿下がやられている事は、ある貴族が持っている権力を別の貴族に移すだけのものです。そう思いませんか?」
「そうだね……」
「初めの志と違います。クラウディア皇女殿下は今、向かう方向を見失っています。もう一度、自分が何をしたいのかを考えて下さい」
「分かった……」
先ほどまでの少し浮かれていたクラウディア皇女の気持ちは、カムイのおかげですっかり冷めてしまった。冷めた所か、また自分がカムイに遠く及ばないと思い知らされて、落ち込んでしまっている。
「そして、それはソフィーリア様も同じ。今のソフィーリア様からは、皇位に就いて、何がしたいのかが全く見えません。そんな人を俺達に担げと?」
「……ごめんなさい」
「俺達は皇国の変革を求めています。ソフィーリア様には、その意思がないのですか? もし、そうであれば、俺は……」
貴方の為であれば、私は何でもする。皇国を変えてみせる――。
ヒルデガンドの叫びがカムイの頭の中に蘇る。あれだけの想いを向けてくれた人に背を向けて、自分は一体何をしようとしているのか。
カムイが怒りを向けているのは、二人にではなく、自分自身に対してだった。
「そんな事はないわ。カムイとの約束を忘れたわけではないのよ」
「そうであれば良いのですが」
「大丈夫よ」
「分かりました。今回は、その言葉を信じる事にします」
「そう」
「それで当面の動きなのですが」
「ええ」
「クラウディア皇女殿下。貴族の件は先ほど、ご説明した通りです。そのまま続けて下さい。出来れば、こちらからは条件については曖昧にして、相手から言わせるように進めたほうが時間は稼げると思います」
「えっと?」
「相手からの条件を考えるという名目で、交渉を引き伸ばすのです。他者と天秤に掛けているように思わせれば一番ですね。でも、それもあまりやり過ぎると逆効果になりますので、気を付けて下さい」
「う、うん」
「問題は……、彼は信用出来るのですか?」
実際に動くのはクラウディア皇女ではなく、自信満々に話をしていた男子生徒だ。とてもカムイが信用出来るような相手ではない。
「うん。色々と助言をしてくれるし、実際に行動もしてくれるわ」
「そうではなくて、貴族の利益の代弁者になるような事はないかという意味です」
「……どうかな?」
「もし、その可能性があるのであれば、お付き合いは程々にしてください」
「でも……」
クラウディア皇女にとっては、先ほどの男子生徒は、自分の謀臣のような存在だ。クラウディア皇女にとっては貴重な存在なのだ。
そして何より、姉であるソフィーリア皇女に憧れているクラウディア皇女は、ソフィーリア皇女にとってのカムイのような存在が自分にも出来た事が嬉しかった。
カムイの言葉は簡単に頷ける事ではない。
「まあ、何事かある時は、ソフィーリア様のご指示を受けるようにして頂ければ、それで良いです」
「……分かった」
「それ以外は、あまり大きな動きはされないように。先程言った通り、継承争いは長引かせなければいけません。こちらが動けば相手も動く。あまりに争いが活発になれば、皇帝陛下も周りから早々に決断を迫られる事になりかねません」
「そうね。でも、何もしないというのは」
「大きな動きは俺がします。それの支援をお願いします」
「それは何?」
「個人的には、あまりやりたくないのですけど」
「……何かしら?」
「次代の皇国の武という期待を膨らませるようにしたいと思います。辺境での争いは今もそれなりにあるはずです。その鎮圧に、俺を、いえ、クロイツ子爵家を派遣するように働きかけて下さい」
「武勲を挙げるのね」
「そう出来ればと思っています。それによって俺への期待が高まれば、必然的にソフィーリア様への期待が高まることになりますので」
「やってみるわ」
「それともう一つ。これは慎重に動いて下さい」
「何かしら?」
「ソフィーリア様に毒を盛った犯人探しです」
「えっ、でも」
「テーレイズ皇子は関与していません。それどころか、皇子殿下の支持者でもない可能性があります」
「そうなの?」
「俺はそう思っています。少し語弊がありますが、テーレイズ皇子を担ごうとしている派閥の誰かであれば、別にかまいません。でも、そうではなかった時は問題は複雑になります」
「私を邪魔に思っている者が他にいると言うの?」
「断言している訳ではありません。そうであると困るという事です。第三の動きがあると、思わぬ所で、足元をすくわれる事になりますから」
「そうね。でも、難しいわ。そういった事を調べられる人間に心当たりがないわ」
「いませんか……」
「お父様に相談してみようかしら?」
「…………」
「駄目なの?」
「皇帝陛下が直々にお調べになるのであれば構いません。他の者に任せた時を心配しています」
「どういう事?」
「皇帝陛下の身近にいる者が犯人であった場合、蜂の巣をつつく事になります」
「ちょっと? お父様が私を」
「そうではありません。皇帝陛下の知らない所で、何かを企んでいる者がいる可能性を言っているのです」
「……そう」
基本、全ての人を疑う事から始めるカムイの考えは、ソフィーリア皇女にはどこか受け入れられない所がある。それがソフィーリア皇女の性格の善良さを表しているのだが、それだけで政略に勝てるはずがない。
カムイのような存在が居てこそのソフィーリア皇女なのだ。
「やはり難しいですね。分かりました。今の件は忘れて下さい。忘れるというのは逆ですね。そういう者がいるかもしれないという事を忘れないだけにして下さい」
この件の扱いは難しい。相手を刺激しないように、ひっそりと、それでいて深く、探らなければならない。
出来る者がいないのであれば、何もしない方が良い。少なくとも殺す意思はないのだから。カムイはこう判断した。
「後は、早めにディーとの仲を深めて下さい」
「そんな事まで心配しなくても良いわよ」
「……意味が違います」
「あら、そう」
「これからはディーを中心に動くようにして下さい。ディーは、俺が言うのは失礼ですけど、優秀です。それに、そうする事で、ディーへの信頼がソフィーリア様の周りの人達に広がっていくでしょう」
「分かったわ。でも、ディーも貴族。それも西方伯家の人間よ。それは良いの?」
「ディーは良くも悪くも善良です。俺は、その善良さを信じています」
「そう。悪くもをあえて付ける所がカムイらしいわね」
「継承争いは、一種の謀略戦ですから。悪事に手を染める事を厭わない事が必要になります」
「それがディーには無いのね」
「今のディーには。先は分かりません」
「そう」
ソフィーリア皇女としては、その謀略を一手に引き受けるのが、カムイの役割だと思い込んでいた。そのカムイがいなくなる日が目の前に迫って、ソフィーリア皇女は不安を感じてしまう。
「今は、あまり心配する必要はありません。騎士団長が当面は、直接的な関与はしないと言うことは、相手方にもそういう動きがないという事です。これはソフィーリア様の方がご存知ですね?」
「ええ。大人たちはお父様の手前もあって、積極的な動きは控えているわ」
「そうなると、テーレイズ皇子殿下側の布陣ははっきりしています。筆頭であるヒルデガンド様もまた善良な方ですから、謀略には不向きです。そして、その周りの方々も」
「あら、そう」
そっけない返事がソフィーリア皇女の口からでる。
カムイの口からヒルデガンドの名が出ると、ソフィーリア皇女も少し平静ではいられなくなる。二人の関係は、クラウディア皇女から嫌というほど聞かされているのだ。
そんなソフィーリア皇女の態度を気にする事なく、カムイは話を続けた。
「あえて気をつけるとすれば、マリーさんですね」
「マリー? ああ、魔導士団長の娘ね」
「はい。マリーさんは少し曲者ですので警戒が必要です」
「そう……。じゃあ、気を付けておくわ」
テーレイズ皇子の側にも人材が集まっている。当たり前の事だが、ソフィーリア皇女は、初めてそれを具体的に知った。これが又、更に不安を広げる事になる。
「そして一番の問題はテーレイズ皇子殿下ご本人だと思うのですけど。そちらの動きは?」
「全く見当もつかないわ」
「そうですか。では、そういう事を探り、対策を考える人材を探すことも当面の活動の一つですね」
「心当たりはいないの?」
「……いませんね。俺が知っている人間は、卒業すれば皇都を去る者ばかりです」
カムイから見て、条件に会う者は、辺境領の人間という事になってしまう。辺境領からきた生徒はほぼ全員が学院を卒業すれば自領に戻る。
「ねえ、アルトくんを残してもらえないかしら?」
「アルトですか?」
「彼なら、その辺はうまく出来ると思うの」
「聞いてみますが、まず無理ですね」
「どうして? アルトはカムイの臣下でしょ? 貴方の命令なら聞くはずよ」
「それは違います。俺たちの関係は主従ではありますけど、それが全てではありません。それに、それを許さない人がいますから」
「誰よ、それ?」
「俺達の師匠ですね。半人前の身で、修行を投げ出すことを師匠は許してはくれません」
「言い訳に聞こえるわ」
「事実です。先ほども言った通り、まだまだ長く続く争いです。ここで成長を止めては、先が苦しくなるだけだと俺は思います」
「……そう」
「もっと言えば、あまりにも俺ばかりが物事を進めているように思われると、それも問題です。身近な所から反発する者も出てくると思いますが?」
「そうね……」
さりげなく、カムイがクラウディア皇女の周りにいる者たちを指している事に気が付いて、ソフィーリア皇女は、それ以上、強く求める事が出来なくなった。
子爵家のその又、臣下のアルトが物事を仕切れば、反発が生まれる事は、確実だとソフィーリア皇女にも分かる。
「ディーにも聞いてみた方が良いと思います。ああ、その方が良いですね。将来の臣下の要となる人間を今から見つけておくことは良い事です」
「そうするわ」
何となく、突き放されたような気分になったソフィーリア皇女であるが、カムイの言っている事は間違いではない。カムイに武を任せるとすれば、文を担う者が別に必要になるのだ。
この時点でまだソフィーリア皇女の頭の中には、オスカーの名がない。名は知っている。だが、本来の武を任せるべきは、皇国騎士団長の息子であるオスカーであるという気持ちがなかった。
一方でカムイはそうなるべきだと考えている。考えた上でカムイの言葉はあるのだが、これをソフィーリア皇女は理解していなかった。
◇◇◇
ソフィーリア皇女たちとの話を終えて、カムイは部屋を出た。
ある程度、言いたい事は言ったつもりではあるが、カムイの心は晴れない。カムイ自身、どこかすれ違いを感じているのだ。そして、その思いは、そのまま自分の判断への不安になる。
今更引き返せない。それは分かっていても、簡単に割り切れるものではない。
浮かない表情で廊下を歩くカムイであったが、進む先に一人の男が立っているのを見て、その表情は驚愕に変わった。
「テーレイズ皇子殿下。ご無沙汰しております」
「あ、ああ。かっ、顔を、み、見る、のは、たっ、対抗、せっ、戦、以来、だな」
「ソフィーリア皇女殿下にお会いになりに?」
「まさか、いっ、今と、なっ、なって、は、会えん」
「では、この様な所で何をなされております?」
「お、お前、に、会いに、き、きた」
「私に?」
「き、来てる、と、きっ、聞いたっ、のでな」
「……どのようなご用件でしょうか?」
カムイの警戒心が一気に高まった。ソフィーリア皇女同様に、今のカムイはテーレイズ皇子に安易に会える立場ではない。
「お、俺に、つ、付かない、か?」
「それは出来ません」
「ヒッ、ヒルデガンドを、ゆ、譲る、ぞ」
「なっ?」
「ほう。おっ、思った、い、以上の、反応、だ」
「心が揺れた訳ではありません。ヒルデガンド様を取引の材料にしようとするテーレイズ皇子に驚いたのです」
「おっ、怒った、か?」
「当たり前です」
「だが、おっ、お前、には。いっ、一番、こ、効果が、あると、思うが?」
「……ヒルデガンド様は物ではありません。あの方の意思というものがあります」
「そ、の、意思を、そ、尊重、しよう、と、おっ、思った、のだ」
これを平気で口に出来るテーレイズ皇子はやはり只者ではない。カムイの中で、ある意味、テーレイズ皇子への評価が一段上がった。
「それはテーレイズ皇子殿下の勘違いです。そもそも、そんな事が許される訳がありません」
「でっ、出来る、がな。お、王妃、に、した、上で、離縁、すれば、良い。しっ、臣下に、こっ、降嫁、など、かっ、過去にも、ぜっ、前例、は、ある」
「そんな事をしては、ヒルデガンド様に傷がつきます」
「ふむ。では、ど、どうする、のが、良い?」
「……その言葉には乗せられません。テーレイズ皇子殿下は、私が寝返る前提で話を進めようとしています」
「きっ、気づかれた、か」
「わざわざ、お誘いの言葉を掛けて頂けたのは光栄ですが、私にはその気はありません」
「お、お前も、おっ、俺と、同じ、だぞ」
「どういう意味ですか?」
「いっ、妹、を、政争の、どっ、道具に、して、いる」
テーレイズ皇子のこの言葉はカムイの心に鋭く突き刺さった。
「……ソフィーリア皇女殿下の意思に従っているつもりです」
何とか動揺を隠して、言葉を続けたカムイだが、テーレイズ皇子の揺さぶりは止まない。
「そっ、そうか、な? ただ、周り、に、のっ、乗せられ、て、いるだけに、み、見える」
「それは……」
「あっ、あれに、せっ、政争の、才、は、ない。まっ、まして、その、下の、いっ、妹、など」
「テーレイズ皇子殿下はご自身がそれをお持ちと考えておられるのですか?」
「どっ、どうか、な?」
そう言いながら、さりげなくテーレイズ皇子は、カムイに向けていた視線を後ろに逸らした。
それに気が付いたカムイが後ろを振り返って見たものは。
廊下の影に慌てて隠れる人影だった。一瞬であったが、カムイにはそれが誰であるか分かった。
「……やられました。こっちが本命ですか」
策に嵌められたと分かって、かえって、カムイの表情は明るくなっている。
「ま、まあな」
「見事ですね。俺にとっての一番の弱点です」
影に隠れた人影はテレーザだ。これで、益々、テレーザはカムイへの不信感を強め、それはクラウディア皇女にも伝染するだろう。皇女派の中での亀裂が生まれる事になる。
「あっ、あまり、はっ、派手に、う、動け、ない、のでな。せっ、せめて、くっ、楔は、うっ、打たせて、もらった」
「今回はやられました。テーレイズ皇子殿下は謀略の才をお持ちだ」
「そっ、そうでも、ない。なっ、何か、ないか、と、散々に、かっ、考えた、けっ、結果、だ」
「それで思いついて、実行出来る事が才です。今後は気を付けないとですね」
「けっ、警戒、させた、だけ、しっ、失敗、か?」
「いえ、成功です。しかも、最高のタイミングだと思います。私は、もうすぐ皇都を去ります。接する機会がなくなれば、亀裂を埋める事は中々に難しいでしょう」
「そっ、そう、か。もう、さっ、去るのか。もっと、はっ、話したかった、な」
「そうですね」
「…………」
カムイの思いがけない答えに、テーレイズ皇子ははっとした顔をしている。
「これは本音です。私も、もっと話す機会があれば良かったと思っていました」
「いっ、今更、だな」
「はい。今更です。そろそろ、よろしいですか?」
「あっ、ああ」
「次にお会いできるのでは、二年ほど先でしょうか?」
「けっ、結婚、しっ、式には?」
「それはテーレイズ皇子殿下とヒルデガンド様の式の方を仰っていますか? それは無理です。そこまで私は図太くありません」
「そっ、そうか。ヒッ、ヒルデガンドは、よっ、呼びたいと、思って、いる、かもしれんぞ?」
「もう一度、本音を言わせていただいても?」
「うっ、うむ」
「勘弁して下さい。お二人のお幸せな姿を横で見ていろと? そんなに私は強くありません」
「だ、だが、いっ、一年は、さっ、先だぞ?」
「それが、例え、十年……。何でもありません」
「……そっ、そう、か」
そこまでの思いだったか、続く言葉がテーレイズ皇子の口から出ることはなかった。口にしてはいけない言葉と分かっている。
「それでは、テーレイズ皇子殿下。私はこれで失礼いたします」
テーレイズ皇子に別れを告げて、足早に廊下を歩くカムイ。心の中は羞恥で一杯だ。こともあろうに婚約者であるテーレイズ皇子に十年先でもヒルデガンドを忘れないと宣言しようとしたのだ。
本当にこのまま皇都を離れて良いのか。ヒルデガンドの事、ソフィーリア皇女の事を考えると、カムイの気持ちは沈んでしまう。




