二度目の交渉
皇都にある高級料理店。そこにカムイたちは、ディーフリートに連れられてやって来ていた。奢りとなればカムイたちに断る理由はない。喜んで誘いに乗った。喜んでやってきたはずなのだが、豪華な料理を目の前にして、カムイは浮かない顔をしている。
「怪しい……」
「えっ、何かな? いや、違うよ。セレと隣に座っているのはたまたまで」
カムイの呟きに、ディーフリートは、あからさまに動揺して見せている。
「それを自分から口にする所が怪しい」
「…………」
ディーフリートの拙い演技で、誤魔化されるカムイではない。
「何を企んでいる? ディーがケチだとは言わないが、何の理由もなく、こんな所に連れてくるとは思えない」
「えっと……」
「頼み事があるなら先に言え。食べてから、それを理由にしてって……、お前ら、食べるなっ!」
「ん?」
顔をあげたルッツの口の中は、すでに料理で一杯になっていた。これはルッツだけではない。
「もう遅せえよ。カムイ、そういう事は早く言え」
「ん、んぐっ。そうそう」
口一杯に詰め込んでいた料理を飲み込んで、オットーもアルトの言葉に同意する。
「……全く」
「いやあ、食べたね。それ高いんだよね。僕だって、滅多に口に出来ない高級料理」
してやったりという顔で、ディーフリートはカムイに向って、更に恩を着せてくる。カムイの恐れていた展開だ。
「嵌めたな? 要求は何だ?」
「聞いてくれるかい?」
「話は聞く。受けるかどうかは内容を聞いてからだ」
まんまとディーフリートの策に嵌った。だからといって、完全に参ったをするつもりは、カムイにはない。
「ズルいな。もう皆食べたよ」
「ズルいのはそっち。簡単に約束出来るか。ディーが、こんな姑息な手を使うって事は、碌な話じゃない」
「何というか、頼みづらいことではあるね」
「さっさと言え」
「剣術競技会、もうすぐだね」
それでも遠回しに話を始めたディーフリート。だが、カムイには、これだけで何の話か分かった。
「まさか?」
「そのまさか。僕のチームに参加してもらえないかな?」
「断る」
ディーフリートの頼みに、間髪入れずに、カムイは拒否を告げる。
「……少しは考えて欲しいな」
「それは最初に会った時に断ったはずだ」
「でも、その時と今は状況が違うよね?」
「もっと悪いとも言える」
「ふうん。ヒルデガンドを怒らすのが嫌なんだ?」
「はあっ!?」
これがディーフリートの挑発だと分かっていても、カムイは動揺を隠せなかった。
「……なんて卑怯な。それに、どうにも答えられない事を分かっていて、聞いてるだろ?」
「まあね。それだけ困っているって事だよ。何とか考え直してもらえないかな?」
「無理」
「せめて、ルッツくんだけでも」
「んん?」
名指しされたルッツが驚いた様子で顔をあげた。口の中はさっきと同じ、食べ物で一杯だ。ディーフリートが求めているのはカムイで、そうであれば、結果は分かっている。交渉決裂前に食べるだけ食べようと手当たり次第に口に詰め込んでいたのだ。
「そう。ルッツくんほどの力があれば、一人入るだけで、結構戦えるからね」
「んっ、ん、んん?」
『えっ、そうかな?』と、ルッツは話しているつもり。顔に浮かんでいる笑みで、喜んでいるのは分かる。
「馬鹿、乗せられるな」
「んっ、……危ない」
ようやく口の中に余裕が出来たルッツだった。
「駄目か……」
「大体、ルッツが入ったって優勝なんて出来ない」
剣術対抗戦は団体戦で、且つ、星取り戦形式だ。ルッツ一人が勝っても、他が負ければ、優勝出来ない。
「優勝までは目指してない。まあ、カムイが手伝ってくれれば別だけどね」
「それは、”絶っ対っ”にない」
「……そこまで強調しなくても」
「優勝しなくて良いなら、別に補強する必要なくないか?」
「そんな事はない。三年生を馬鹿にしてはいけない。一年多く学んでいるだけで、力の差って出るものだよ?」
「まあ、この年齢だからな。一年の経験の差が大きいのは分かる」
「授業の内容も全然違うからね」
「あれ、そこまで?」
「三年になれば実戦形式が主体だからね。大会となれば、戦い慣れている方が、やっぱり強いよ」
中等部を卒業後は、そのまま騎士学校に進む者も多い。そうでなくても、領地に帰る者の中には、今の時代は滅多にある事ではないが、そのまま自領の軍を率いて実戦という可能性もある。
こういった事を考えての授業は、やはり質が違ってくる。だが、それもカムイに言わせると。
「それは実力が接近していればだろ? 実戦形式といっても、所詮は、形式にすぎない」
「そう言えるカムイが異常なんだよ」
「そうかな? まあ、それは良いか。それで優勝が目的じゃなければ何?」
「剣術対抗戦は予選と本戦に分かれている。予選はグループに分かれての総当り。その中で上位二チームが本戦に進む事になる」
「……組み分け次第か。それって抽選?」
「そうなっているけど、予選でヒルデガンドやオスカーのチームと同じグループになる事はない。そう組み合わせるはずだ」
抽選と言いながら、ディーフリートは、ヒルデガンドとオスカーとは別になると断言する。これが意味する所は、明らかだ。
「インチキだ」
「まあ、そうだけど、学院も気を使わないとね」
いつもであれば嫌な顔をするディーフリートも、今回に限っては、その事を喜んでいた。それだけ必死なのだ。
「つまり予選を突破したいと?」
「それも一番でね。そうなれば、別グループの一番になるであろうヒルデガンドやオスカーのチームとは初戦で当たらない」
「えっと、それを勝つと?」
「上位四位に入れる。まあ、それが最低限の目標だね。後は組み合わせで、オスカーのチームと当たれば決勝にいける可能性も出てくる」
「……ディーは、オスカーさんに勝てるのか?」
質問の形をとっているが、カムイは、オスカーの方がずっと強いと考えている。
「間違いなく負けるね。競技会で攻撃魔法は使えないから」
「それで勝てる可能性があるのか? ルッツが勝ち、後は?」
「セレに勝ってもらう。後一人だ」
「そういう事か。セレとは、すでに話はついていた訳だな」
「まあね。お願いしたら引き受けてくれた」
「それはそうだろ。しかし、セレがね。勝てるかな?」
セレネの実力がどれくらいのレベルにあるかは、カムイも、はっきりと掴めていない。一緒に鍛えてはいても、カムイたちには遠く及ばないのだ。
「無理かな?」
「正直いってオスカーさんの取り巻きの実力を知らない、だから、比べようがない」
「興味ないんだ?」
「ヒルダよりは弱いだろ?」
カムイが興味を引くレベルは、ヒルデガンドかオスカーくらいだ。
「基準がそこか。学年どころか学院で一番が最低ラインって事だね?」
「そんな事はない」
今更、惚けても、ディーフリートはカムイの実力を知っている。全く意味のない反応なのだが、これはもう癖のようなものだ。
「羨ましいね。こっちは、とにかく決勝に行ける事になれば大成功」
「もう一人が勝てればな。でも、なんでそこまで上位に拘る?」
「前に言った通り、実家での発言力が高まる。これも前とは状況が違う。かなり必要な事だよ」
「ソフィーリア皇女殿下との事か?」
一番の状況の変化となると、これくらいしか、カムイには思いつかない。
「そう。僕は実家の傀儡にはなりたくないからね」
「それは俺も困る」
「だよね?」
「ん? ……セレネさん?」
つい口走ってしまった言葉。それに、すかさず同調するディーフリートに、カムイは疑問を覚えた。ソフィーリア皇女を支援する事を、ディーフリートに話した覚えはカムイにない。
「ご、ごめんなさい。つい」
「ついじゃない! この口軽女! ソフィーリア様の事は、今は秘密だって分かっているだろ!? それを枕話で話すとは!」
「枕話な訳ないでしょ!」
「あっ、そう。惜しい。勢いで認めれば良かったのに」
どんな時でも、相手を嵌める事を忘れないカムイだった。
「ほんと、油断出来ないわ」
「まあ、それは又、別の機会に」
「その機会もないから」
「俺は諦めないから!」
「……もう良いから話を進めて」
「ノリ悪いな。好きな男が出来ると女って変わるのな」
「先に進めろ!」
「はい……。えっと、ああ、実家ね。実家に自分の力を見せたいと。見せてどうなる? 西方伯が喜ぶだけじゃないのか?」
「簡単に言う通りにはならないと思わせるだけで良い。ここで従属貴族たちの影響力が効いてくる」
「……従属貴族って力があるのか?」
この話は、カムイにとって意外だった。方伯家と従属貴族の関係について、カムイはあまり詳しくない。どうせ上位貴族に右へならえだと思って、軽視していたのだ。
「実はね。皇帝陛下が四方伯を始めとする有力貴族を無視出来ないように、方伯だって有力な従属貴族は無視出来ない。従属貴族だって、自家の利益になるから従っているだけで、忠誠心はカムイが思っているより高くない。もっと言えば、従属貴族を脱して、独立したがっている貴族家だって居るね」
「そういう家を味方につけるわけか?」
「そう。従属貴族にとっても良い話だよ。離反した訳じゃない。僕が西方伯家の者である事は変わらないからね。それでいて、皇家への忠誠という建前も出来る。堂々と自家の利益を主張出来るわけだ」
「それを許すのか? 従属貴族に利を与えるって事だろ?」
欲深い貴族の代弁者になる者を、カムイは支援するつもりはない。たとえ、それがディーフリートであってもだ。
「実家の西方伯家が望む利に比べれば小さいものさ」
「それは、そうか。もしかして従属貴族の取り合いってあるのか? 皇国と王国が辺境領を取り合っているみたいに」
「それほど多くはない。方伯家の支配地域は直接接している所は少ないからね」
「でも無い訳じゃないと」
ディーフリートの説明に、途端にカムイの顔に笑みが漏れた。それも不敵な笑みだ。
「ちょっと変な事を企まないでくれるかな? 従属貴族を使って、争いの種を作ったら、大変な事になるよ?」
「勢力均衡が崩れると、方伯同士の争いは、激しさを増すだろうからな。勝った者は皇国に対抗出来る力を持つかもしれない」
「まずい事教えたかな?」
「そんな事する訳ないだろ? 混沌とし過ぎて、制御が効かなくなる。皇国が三分とかだからな」
「そうなれば、辺境領は一斉に独立に動き出すよね?」
これ位はディーフリートにだって読める。そうでなくて、カムイがディーフリートを認めるはずもない。
「さあ?」
「……本当に失敗した」
「だからやらないって。そもそも出来ない。それをするには、どこかの方伯家に付かなければいけないからな。そうなると……」
「だから、具体的に考えないでくれるかな?」
「……分かった」
「話を戻すよ。ルッツの事、認めてくれないかな?」
「お願い!」
ディーフリートの言葉に続いて、セレネがテーブルに頭をつけて、お願いしてきた。それを見るカムイの視線は、呆れているような、困っているような、何とも複雑な色を見せている。
「ここでセレが頭を下げるか。はあ、嫌だ嫌だ。恋する乙女は必死だな」
「良いじゃない。たまには頼み事聞いてよ」
「……今は約束出来ない」
これは条件付きの了承。何だかんだでカムイはセレネに甘い。
「じゃあ、いつ?」
「ヒルダに話を通して、了承してくれたら」
「それ無理よね? 了承してくれる訳ないじゃない」
「それでも話さなければならない。俺はルッツを他の人に渡す事はないと言った。それに背く訳だからな」
一度口にした約束を覆す事は、カムイにとってやってはならない事の一つだ。
「少なくとも前向きには考えてくれる訳だね?」
「まあ」
「分かった。それで頼むよ」
条件付きながら、カムイが了承した。これ以上の交渉は、その了承も失う事になると判断して、ディーフリートは、納得の言葉を口にした。
「飯食っても?」
「もちろん」
「ヒルダに駄目って言われたら貸さないぞ」
「良いから。今更引っ込められないよ」
「よし。じゃあ、……ない?」
目の前に並んでいた、沢山の料理の皿は、どれも、すっかり綺麗になっていた。
「食わないからだろ?」
「そうそう。冷めちまうと美味しくねえからな」
「だよね」
その皿を空にした張本人である、ルッツ、アルト、オットーの三人に、全く悪びれた様子はない。
「俺の……、俺の、ご飯が……」
ガックリと項垂れるカムイ。それを哀れに思ったディーフリートが、口を開いた。
「……おかわりいる?」
「「「「いるっ!!」」」」
◇◇◇
この部屋に来るのは、カムイにとって二度目だ。
今回も足が重い。前回とは足を重くする理由は違うのだが。それでも憂鬱な事に変わりはない。部屋の前で、一度、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた所で、カムイは扉を叩いた。
「あっ、はい! ちょっと待って下さい!」
これも前回とは違う。部屋の中の者は、突然の来客に少し戸惑っている様子だ。部屋の扉を空けて、顔を出したのは、カムイが名前を知らない生徒。
「あっ! えっ?」
相手の方は、カムイの事を知っているようで、顔を見るなり驚いている。
「ヒルデガンド様はいらっしゃいますか?」
「はい。ちょっと待って下さい。ヒルデガンド様! カムイ・クロイツ殿がお見えです!」
「えっ!? カムイが? すぐに入ってもらって!」
カムイの待遇は前回に比べて、大幅に向上している。辺境領主の息子と、見くびった態度を見せる者は誰も居ない。部屋に入ったカムイは、丁重にヒルデガンドの前まで案内された。
「どうしたのですか? ここに来るなんて?」
「はい。ヒルデガンド様に少しお話があって参りました。お時間よろしいでしょうか?」
「カムイ?」
いつもと違う、初めて会った時の様な、カムイの態度に、ヒルデガンドの眉が顰められる。
「今は、公の立場ですので。この口調でやらせて下さい」
「公の立場? クロイツ子爵家のカムイという事で良いのですか?」
「はい。そうです」
「分かったわ。じゃあ、席に座って。話を聞くわ」
「はい」
ヒルデガンドに促されて、席に座ったカムイだったが、直ぐには口を開けなかった。これから話す事は、ヒルデガンドの反応を思うと、カムイとしても、相当に躊躇う内容だ。
「……話は?」
「あっ、そうですね? 黙っていても仕方がありませんね?」
「そうですね」
「実は、今日はヒルデガンド様に、お詫びを申し上げに来ました」
「お詫び? 私は謝罪を受けるような事をされた覚えはないですよ?」
「それはこれからです」
「……何かしら?」
カムイの来訪を喜んでいたヒルデガンドだったが、今はその表情は曇っている。カムイの態度から、あまり良い話ではないと察したのだ。
「私の臣下のルッツですが、次の剣術競技会で、ディーフリート殿のチームの一員として戦う事になりました」
「何ですって?」
カムイが思っていた通り、ヒルデガンドは話を聞いて、大いに動揺している。
「以前、ルッツは自分の臣下であるので、人に渡すなんて出来ないと言っておきながら、このような事態になった事をお詫び致します」
カムイは席を立って、ヒルデガンドに向かって、深く腰を折った。
「そんな……、どうしてそんな事になったの?」
「ディーフリート殿に頼まれました。どうしても、本戦に進まなければいけない事情があるとの事で」
「ディーフリートの立場であればそうでしょうけど、それは私達も同じですよ?」
「ヒルデガンド様のチームは、間違いなく本戦に進まれます。それどころか、優勝するでしょう」
「そのつもりでいます。でも……」
ヒルデガンドには、それなりに自信はある。それでも、カムイがディーフリートだけを助ける事には納得いかないのだ。
「じゃあ、カムイくんが、こちらのチームに入るのはどうかな?」
ここで横から、マティアスが条件を出してきた。
「あっ、それなら」
ヒルデガンドにとっては、申し分ない条件だが、カムイには、飲める条件ではない。
「申し訳ありませんが、それは出来ません。ディーフリート殿にも、それは断りました」
「でも、ルッツくんを貸す事には同意したのね?」
「申し訳ございません」
「じゃあ、この条件ではどうかな?」
又、マティアスが条件を出そうとしてくる。一つ断らせて引け目を感じさせ、次の少し軽い条件を呑ませようという常套手段だ。つまり、こちらの条件が、本命という事になる。
「……それは、どんな?」
マティアスの考えは、カムイにも分かっている。何を提示してくるのかと、警戒心が湧いている。
「カムイくんが剣術競技会までの間、私たちの指導をするっていうのはどうかな?」
「はあ? 冗談でしょ?」
この条件は、カムイの不意を突くものだった。思わず口調が、普段のそれに戻ってしまう。
「それは、良いですね。その条件であれば、ルッツくんの事は何も言いません」
「いやいや、それはないだろ?」
「あら? 公の立場ではないのですか?」
マティアスの条件は、ヒルデガンドにとっても好都合。一気に上機嫌に戻っている。
「……その条件は、あまり良いものとは思えません」
「そんな事はないですよ? これであれば、こちらが一方的に不利になるとは言えません」
「私の指導など役に立ちません」
「そのような言い訳が通用しない事は、分かっているくせに」
ヒルデガンドは、カムイの指導を受けて、一段、高みに登れたと思っている。実際にそうなのだ。
「……優勝出来ますよ? それは俺が保証します」
「学内の剣術競技会の優勝程度で満足する私だと思いますか?」
ヒルデガンドは、マティアスが出した条件が、かなり気に入っている。この条件を、カムイに受け入れさせる為に、一切引くつもりはない。
「……思いません」
「では、この条件で」
「他の方はどうなのですか? 俺なんかの指導を受けるなんて嫌ではないですか?」
それでも抵抗を続ける所が、カムイらしいのだが、これについては、もう悪足掻きでしかない。
「往生際が悪いですよ? この場にいる者で、カムイの実力を、未だに見抜けない愚か者は居ません」
「そうですか……」
「決まりですね?」
「一つだけ、条件を出させて頂いてもよろしいですか?」
これはもう、剣の指導を引き受けるという前提での、条件提示だ。
「何ですか?」
「指導をするにしても場所を選ばせて下さい。学内では出来ません」
「もう、かなり知られていると思いますよ?」
カムイの剣の実力は、合同授業で衆人の目に晒されている。今更、隠そうとする理由が、ヒルデガンドには分からなかった。
「同学年ではです。剣術競技会となれば、三年生も、そして、それを指導する教師たちも、日々、練習を重ねるでしょう。そういった人達の目に映りたくありません」
「そんなに嫌なのですか?」
「はい。東方伯家であるヒルデガンド様のグループの人達に辺境領主の息子の俺が指導している所など見られたくありません。周囲にとっては実に興味深い光景かと思います」
力ある者を求める事は、ある程度力のある貴族家ならどこでもやっている事だ。一辺境領主では、上位貴族の勧誘の圧力を押しのけるのは大変だ。それを押し通しても、それによって上位貴族の機嫌を損ねれば、どこで不利益を被ることになるか分かったものではない。
クロイツ子爵家に限って言えば、現皇帝が健在であれば問題ないのだが、そうでない事をカムイは知っている。
「……それは分からなくないですね。学院内どころか、皇国内での噂になりますね」
カムイの説明を聞いて、ヒルデガンドも大体の事情を理解出来た。
「それはさすがに困ります」
「分かりました。練習の場所はこちらで用意します。人の目に付かない、それでいて思いっきり鍛錬出来る場所を見つけます」
「お願いします」
「では、これで交渉は終わりですね?」
「はい」
「じゃあ、公の立場も終わりですね?」
「ま、まあ」
ヒルデガンドの笑みは、普段あまり見ない無邪気な笑みに変わっている。カムイは、何度か目にした笑みだ。二人きりの時に、
「じゃあ、お話ししましょう?」
「ヒルデガンド様?」
「ヒルダ」
「……ヒルダ。そのお話ってのは?」
「別に何でも良いですよ? 世間話というものです」
「それをここで?」
「ええ。ここなら人の目につかないですよ」
「人の目ありますけど?」
「気にする必要はないですよ。身内ですから」
「それはそうですけど」
部屋には東方伯家の従属貴族の子弟が十人以上いる。そしてカムイにとって顔見知りといえる者は、マティアスくらいしかいない。気にするなと言われても、それは無理だ。
だが、ヒルデガンドは、そんなカムイに構わずに、話を進めてくる。
「あっ、じゃあ、まずはお茶を入れましょう」
「いや、それは迷惑だと思うけど」
「迷惑? そんな事はないですよ。私はそんな風には思いません」
「……えっと、それはつまり、ヒルダが入れると?」
「ええ。もちろん」
「……お茶を入れた事は?」
「もう、馬鹿にしないで。お茶の入れ方くらいは、ちゃんと教わっています」
「そうですか」
「じゃあ、ちょっと待っていて下さいね」
ヒルデガンドは立ち上がって、ウキウキとした様子で、部屋の中にある給湯室に向った。
その姿を、何とも言えない表情で、周りの者たちが見つめている。そしてヒルデガンドが見えなくなると、その視線はカムイに集まってきた。
「……マティアスさん」
周囲の視線以外にも、カムイには気になっている事がある。ヒルデガンドは教わったと言った。入れた事があるではないのだ。
「な、何かな?」
「どうして声が震えているのですか?」
「別に」
「マティアスさんは、ヒルダの入れたお茶を飲んだことはありますか?」
「い、一度だけ」
入れた事はあるようだ。だが……。
「どうして声が震えているのですか?」
「……すぐに分かるよ」
「やっぱり」
ヒルデガンドの料理に対する才能の無さは、逆に天才的な凄さを持っている事を、数分後にカムイは思い知ることになる。
「ヒルダ。どうやって入れたら、お茶は甘塩っぱくなるんだ?」
「……ごめんなさい」




