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魔王の器  作者: 月野文人
第一章 皇国学院編
38/218

小旅行その七 届かぬ剣、届かぬ想い

 東の空が白み始めた。もう間もなく夜が明ける。

 軽く体を動かして体を温めた後、ヒルデガンドは気持ちを高めているのか、目を瞑ったまま、じっと動かずに、日が昇るのを待っている。

 一方のカムイは、ゆっくりと体を伸ばして、準備を整えていた。


 約束の時間まで、あとわずかだ。


「さすがのカムイも、普段とは違うようだね」


 少し離れた場所で、二人の様子を見ていたディーフリートが、隣のルッツに話し掛けた。


「どうかな? あれはヒルデガンドさんへの礼儀だと思うな」


「そうなのかい?」


「常在戦場。敵はこちらの体が温まるまで待ってくれない」


 常に戦場に居る心積もりであれ。カムイたちの師匠の言いつけだ。


「そこまで?」


「俺達が生き延びる為さ」


「……そう」


 生き延びる為とルッツは言うが、それに常に備えなければならない事態が、どういうものか、ディーフリートには理解出来ない。


「日の出だ」


 太陽がその姿を見せた。いよいよ開始の時だ。

 向かい合う二人。ヒルデガンドは中段の構え、カムイは剣を下に降ろしたままだ。


「あれは?」


「元々、カムイはああいう構え。別にヒルデガンドさんを舐めてるわけじゃない」


「そう」


 何の前触れもなく、いきなりヒルデガンドが動いた。一気にカムイとの間合いを詰めて、剣を振り下ろす。それを横に躱したカムイに向かって、斜めに剣を振り上げる。それもカムイは後ろに下がる事で避けた。

 大きく足を踏み出して、空いた間合いを詰めて、またヒルデガンドが剣を振るう。回り込むようにそれを避けたカムイ。そのまま、ヒルデガンドは前のめりに倒れて行った。


「今のは?」


「回り込んだ瞬間に、剣の柄でヒルデガンドさんの背中を軽く打った。それに押されて、前に倒れたって感じかな? 自分の勢いもあったからな」


「そう。見えたんだ?」


「それは何度もカムイとはやってるから」


「…………」


 ディーフリートには最後の動きが見えていなかった。少なくとも、ルッツが自分より強いのは確かだと分かった。

 立ち上がったヒルデガンドが、又、カムイに切りかかっていく。剣と剣がぶつかり合う甲高い音が響いた瞬間に、ヒルデガンドの両腕が剣を持ったまま、跳ね上げられた。がら空きになった胴に、カムイの剣が打たれる。

 刃を潰しているとはいえ、鉄の剣。その衝撃は相当のものだったのだろう。耐え切れずにヒルデガンドは膝をついて、苦しそうに咳き込んでいる。


「……そんな!?」


 学院最強であるヒルデガンドが、全く歯が立たない。ヒルデガンドの話を聞いていても、まさかここまでとはディーフリートは思っていなかった。


「ヒルデガンドさんは、やっぱ強いな」


 だが、ルッツは、やられっぱなしのヒルデガンドの方に感心していた。


「どこが? 全然カムイに通用していないじゃないか?」


「今の一撃、カムイは避けられなかったからな」


「避けたよね?」


「剣を使うのは、カムイにとって最終手段。カムイの強さは、足運びと見切りにある。だから剣の構えなんて取らないんだ。いくら初見とは言え、いきなりカムイに剣を使わせるんだからな。最強の称号は伊達じゃない」


「いや、でも」


 その最強の称号は、カムイには全く通用していない。


「凄いな。まだやるんだ」


 ヒルデガンドが、又、立ち上がった。大きく息を吐き、気合を入れ直しているのが見える。

 そして又、ゆっくりと剣を中段に構える。


「…………」


 ディーフリートだけでなく、ルッツまで息を詰めて、その様子を見守っていた。ヒルデガンドから漂う気配が、これまでと違う、何かを感じさせているのだ。

 ゆっくりと動き出したようなヒルデガンドの体が、途中から一気に加速した。それに合わせるようにカムイの体も。

 一瞬の交差の後、ヒルデガンドの体が真後ろに吹き飛んだ。

 まるで人形のように無防備な状態で、地面に叩きつけられて転がるヒルデガンド。そのヒルデガンドに、慌てた様子でカムイが駆け寄っていった。


「……凄げぇ。凄げぇな、ヒルデガンドさん!」


 ルッツが歓声を上げている。


「ちょっと、何が?」


「最後の剣。全然見えなかった」


「ルッツくんも?」


「なるほどね。確かに強いや。これは俺も遊んでいる場合じゃないな」


 ディーフリートが居る事を忘れたかのように、ルッツが独り言を呟いている。

 そのルッツの顔に、ゆっくりと笑みが広がっていくのを、ディーフリートは見た。いつもの無邪気な笑みではなく、凶暴さを感じさせる、凄味のある笑みが。


「…………」


 ディーフリートの知らない、ルッツの姿がそこにあった。



「やり過ぎたっ! 先にヒルダを連れて部屋に戻る!」


 ぐったりとしたヒルデガンドを抱えたカムイが叫んでいる。


「あ、ああ! そうだね! 手当が必要なら、うちの使用人に!」


「分かった!」


 ヒルデガンドを抱えたまま、別荘に走っていくカムイ。その時にはもう、ルッツは離れた場所で剣を振っていた。普段感じさせない殺気を、全身に漲らせて。


◇◇◇


 額にあたる冷たい感触で目を覚ました。正面に見えるのは、今日の朝見たのと同じ別荘の天井。


「気が付いた?」


 掛けられた声に視線を向けると、気まずそうな顔をしたカムイの顔が見えた。


「あっ……」


「ごめん。やり過ぎた」


 気絶する前の事を思い出してみる。まったく自分の剣は通用しなかった。振る剣は全て躱され、弾かれ、振られる剣は、それがどこから来たものかも分からないまま、この身で受けた。

 小手先の技は通用しないと思い、全てを一撃に込めて、向かっていったが、その剣でさえカムイには通用しなかった。最後の記憶は、胸に受けた衝撃、その一撃で意識を失っていた。

 これほどの力の差を見せ付けられたのはいつ以来だろう。思い返してみても、記憶にない。

 目の前にいるこの男は、これまで出会った事がない強者だ。それが嬉しくもあり、悔しくもある。


「私は全然駄目ですね?」


「そんな事はない。最後の一振りは凄まじかった。おかげで反応が遅れた」


「でも、躱されました」


「前髪持ってかれたぞ」


 そう言いながら、カムイは、自分の前髪を、手でばさばさと振り払っている。


「髪の毛だけじゃあ」


「刃落ちした鍛錬用の剣だ。それに、そこで終わったのは、教わったばかりで、まだ体に染みこんでいないからだと思う。自分の物にすれば、そんな簡単には、避けられない」


「そう。少しは本気になってもらえたかしら?」


「まあな、そのせいで……。痛い所ないか? まともに入ったからな」


「……大丈夫」


「傷はないみたいだ。骨にも異常はない。打った所が心配だけど、多分、大丈夫だと思う」


「もしかして治癒魔法を?」


「ああ、一応」


「そうですか。……傷?」


 そこでヒルデガンドは、自分が打たれたのは胸だという事に気が付いた。

 慌てて、手を胸に当ててみる。下衣はつけているが、その上に着ていたはずの鎧は脱がされていた。ヒルデガンドの顔が朱に染まった。


「俺じゃない! 脱がせたのはセレだから。傷の確認もセレにやってもらった」


「そ、そうですか」


「気絶している女の子の裸を見るなんて趣味は俺にはないからな」


「でも、お風呂は覗こうとしてました」


「まだ、それを言うか?」


「ふふ、ずっと言い続けます。他の人たちは?」


「朝食中、もう出立の準備に入っている頃かな?」


「私も……」


 起き上がろうとしたヒルデガンドの方を、そっとカムイは押し留めた。


「平気。セレがヒルダの分も準備しているから。ぎりぎりまで休んでろよ」


「皆に迷惑を掛けてしまいました」


「ヒルダじゃなくて、俺のせい。気にする必要はない」


「優しいですね?」


「女性には優しくしろって言われている」


「それは誰にでもなのですね?」


 カムイの答えは、ヒルデガンドを落胆させるものだ。


「だから女性限定」


「それは誰にでもっていう事です」


「そうか?」


「そうです」


「……水替えてこようか?」


 ヒルデガンドから、わずかに発せられる怒気。気まずいものを感じたカムイは、話を逸らした。


「水?」


「冷たいほうが気持ちが良いだろ?」


「あっ、タオル?」


 目覚めたときの冷たい感触は、水に濡らしたタオルの感触だったのだと、ヒルデガンドは気が付いた。


「そう。替えてくる」


 そう言って、立ち上がろうとするカムイ。その腕をとっさにヒルデガンドは掴んだ。


「ん?」


「大丈夫ですから、もう少し側にいて下さい」


「……分かった」


「我儘言って、ごめんなさい」


「だから謝らなくて良いって。悪いのは俺なんだから」


「そうですね。悪いのはカムイです」


「いきなり?」


「責任を取ってもらおうかしら?」


「さすがに、それは大げさだろ?」


「女の子を傷つけたのですよ? 責任を取ってもらって、カムイのお嫁さんにしてもらおうかしら?」


「…………」


 目を見開いて、ヒルデガンドを見つめているカムイ。


「じょ、冗談です」


 カムイが、ここまでの反応を示すとは思っておらず、ヒルデガンドの方が焦ってしまった。


「分かってる」


「…………」


「…………」


 何となく気まずい雰囲気が、二人の間に流れる。


「ち、ちょっと暑いですね?」


「あっ、そうだな。窓開けようか、風が入って気持ち良いかも」


「そうですね」


 カムイが窓を開けると、言った通り、気持ち良い風が部屋に入ってきた。


「おお、気持ち良い。今日も良い天気だ」


 銀髪を風になびかせて、嬉しそうにカムイは外を眺めている。ベッドの上から、その横顔を見つめるヒルデガンドの胸が小さく鳴った。


「……貴方が好きです」


 抑えきれない、その思いを小さな声で呟いてみる。


 その声に気が付かずに、外を眺めたままのカムイ。


「私は貴方が好きです」


 もう一度、今度は少し大きな声で。


「……ん? 今、何か言った?」


 振り返ったカムイが、不思議そうな顔でヒルデガンドをじっと見つめている。


「何も……」


 その視線に耐えられず、ヒルデガンドは、それ以上、何も言えなくなってしまった。


 ――届かぬ言葉、届かぬ想い。届いてはいけない想い。


◇◇◇


 帰りの馬車も同じメンバー、同じ席であったが、ヒルデガンドの馬車は行きほどの盛り上がりを見せてはいない。口にしてはいけない言葉を口にしてしまった後悔と羞恥。気まずい雰囲気がなんとなく漂っている。

 カムイの方は、そんなヒルデガンドに構わずに、外を眺めたり、オットーに話しかけたりと、普段と変わらない様子を見せている。

 もっとも話し掛けられているオットーは、ヒルデガンドの様子に、何かを察したようで、うまく会話を続けられないようだ。

 結局、昼食の休憩を取った後は、会話らしい会話はなくなり、静かな時間が、ただ過ぎるだけとなってしまった。

 カムイも外の景色に飽きてしまったようで、途中からは、すっかり居眠りを決め込んでいる。

 そして少し違う意味で、馬車の中は気まずくなってしまう。

 カムイの頭が、いつの間にか、ヒルデガンドの膝の上に乗ってしまったからだ。行きと反対の光景が展開された馬車の中。

 一度、侍女のアンがカムイを起こそうとしたが、それはヒルデガンドに止められた。

 そうなるともう、従者たちは、ただそれを見ているしかない。とっとと起きろ、この餓鬼。そう頭の中で叫びながら。


 結局、カムイが目を覚ましたのは、皇都の城門をくぐる、少し手前だった。


「げっ!?」


 目を開けたカムイの第一声がそれ。


「嘘!?」


 その次の言葉がこれ。慌てて、体を起こしてた後は、ヒルデガンドに平謝りだ。


「本当にごめんなさい」


「平気です。行きは私が同じ事をしたのですから」


「でも、女性の足に頭を乗せるなんて」


「本当に気にしていませんから」


「いやっ、でも。ええっ?」


 これ程の、カムイの狼狽ぶりは、これまで一度も、ヒルデガンドは見た事がない。


「何を、そんなに驚いているのですか?」


「人前で居眠りなんて、いつ以来かと思って」


「……そうなのですか?」


「はい。それが何よりの驚きです。何だろ? 普段しない事をしたからですかね?」


「さあ。でも、そうかもしれませんね?」


 カムイの問いに、ヒルデガンドは適当に答えた。答えようにも、ヒルデガンドには、カムイがこれ程、驚いている理由が分かっていない。


「そうですよね。でも油断だ。こんな事ばれたら怒られるな」


「そんなに?」


「人前で気を許すなって、徹底的に仕込まれましたから」


「それは、お母様ですか?」


「いえ、師匠たちに。まだ修行が足りないって事ですかね?」


「さあ、もしかしたら私だからですかね?」


「…………」


「そんな顔しないでください。冗談ですよ」


 驚きに目を剥いているカムイに、静かにヒルデガンドは笑いかけた。


「ですよね。でも、まさか……」


 その後も、盛んに首を傾げ続けるカムイだったが、やがて、また、落ち着いて、外を眺めだした。その顔は真剣なものに変わっている。

 会話が一切ないままに、馬車は進み、やがて孤児院の目の前に着いた。

 何か考え事に耽っているのか、カムイはその事に気が付かない様子で、相変わらず、外を見ている。


「あの、着きましたよ」


「ん? ああ」


 ヒルデガンドに促されて、ようやくカムイは馬車を降りる支度を始めた。後ろに置いていた荷物を取って馬車を降りる。


「楽しかった。又、機会があれば」


「ええ、私も楽しかったです。又、機会があれば」


 さよならの挨拶を交わしたつもりであったが、カムイは一向に、その場から動こうとしない。

 じっとヒルデガンドを見つめたままだ。


「あの、少し早いですけど、お休みなさい」


「あっ、ああ」


 それでもまだ立ち去ろうとはしなかった。


「あのさ」


「何ですか?」


「聞こえなかった振りをしたままで、いようと思っていたのだけど」


 この言葉に、ヒルデガンドの胸が大きく高鳴る。届かなかったはずの言葉が届いていた、カムイの言っている事はそういう事なのだ。


「……はい」


「それはヒルダに凄く失礼なのかと思い直した。それなりに覚悟を決めて、言ってくれた言葉だと思うから」


「…………」


「でも、だからと言って、それに対する返事も出来ない。どちらの答えでも、ヒルダを傷つけてしまうと思うから」


「…………」


 これはヒルデガンドにも分かっている。たとえ想いを受け入れてもらっても、告白したヒルデガンドの方が、拒否しなければならない。

 やはり、告げてはいけない言葉だったのだ。


「つまり、俺はそれに対して何も出来ないのだけど……、一つだけ出来る事があるのかなと」


「それは何ですか?」


「決して忘れないから」


「……はい」


 たった、それだけの事であっても、カムイが考えに考えてくれた結論だとヒルデガンドには分かった。


「ヒルダが告げてくれた言葉を、ずっと胸に刻んでおく。もし、忘れて欲しくなったら、その時は言ってくれ。でも、それまでは決して忘れない」


「…………」


「それだけ。じゃあ、お休み」


「お休みなさい」


 馬車の前を離れていくカムイ。それを見送るヒルデガンドの気持ちは複雑だ。想いが遂げられたわけでも、はっきりと拒絶されたわけでもない。

 分かったことは、カムイがヒルデガンドの気持ちに向き合ってくれたという事。

 そして、自分は、ふられる事もなく失恋したのだという事。瞳からは、自然と涙がこぼれてきた。


◇◇◇


 孤児院を離れて、馬車は皇都の中を走っている。沈黙は変わらない。変わったのは、正面に座る従者たちの沈痛な面持ち。はっきりとカムイは言葉にしなかったが、ヒルデガンドがカムイに想いを告げたことは分かった。

 目の前で、声を押し殺して、涙を流しているヒルデガンドの様子からも、それは明らかだった。


「あの」


 そんな馬車の中の沈黙をオットーが破った。


「僕が何か言っても、何が変わる訳ではないですけど、少し話を聞いて下さい」


 後ろに座るヒルデガンドの方を振り向く事なく、オットーは話を始めた。


「僕は、カムイと同じグループになってから、ずっと興味を持ってカムイを見てきました」


「…………」


「そして、僕なりにカムイの事をこう思っています。カムイは仲間にはとても優しい。でも、カムイが仲間と認める人は、極々限られた人ですね」


「…………」


 ヒルデガンドからは、何の応えもない。だがオットーには、ヒルデガンドがじっと耳を澄まして自分の話を聞いてくれている事が感じられた。


「カムイが仲間と認める人には条件があって、それ以外の人を仲間と認めません」


「……それは?」


「心に消えない傷を持つ人、虐げられた人。他にもありますけど、この二つは、絶対なのだと僕は思っています」


「…………」


 これはヒルデガンドには当てはまらないものだ。


「彼は、仲間とそれ以外を、もの凄く区別します。味方と敵という言い方もたまにしますけど、それは違うと僕は思っています。カムイが区別しているのは、関心のある人と関心のない人です。でも、実はそれにもあまり意味はありませんね」


「…………」


「あれ? 何を言っているか、分からなくなってしまいました。えっと、結局、何が言いたいのかと言うと、カムイの心の手前には高く厚い壁があって、その中には簡単には入れません。その中に入るには、小さな扉があって、そこを何度も叩いて、それでも何かのきっかけで、扉が開いた人だけが入れるのです」


「……何となく分かります」


「そうですか。良かった。続けますね。でも、さっきの話を聞いていて、僕は思いました。カムイは、自らその扉を開けたのではないでしょうか?」


「えっ?」


「カムイは、心の中にヒルデガンドさんの言葉を刻むと言いました。それはカムイが自ら、心の扉を開いて、ヒルデガンドさんを招いたのと同じだと、僕は思いました」


「そんな……」


「僕がカムイと知り合って、まだ二年も経っていません。でも、その二年の間で、カムイがそんな事をした人を見たのは初めてです」


「あの、オットーくんは何を?」


「僕は思います。ヒルデガンドさんは、カムイにとって、特別な人です」


「あっ……」


「これから先の人生で、二人の道が重なることはないかもしれません。でも、ヒルデガンドさんが言わない限り、カムイは忘れないと言いました。それでは駄目ですか? カムイは約束は必ず守ります。つまり、それはカムイにとって、ヒルデガンドさんは永遠に特別な人だという事です。僕が言いたい事は以上です」


「オットーくん……、ありがとう」


 ヒルデガンドの瞳からは又、涙が溢れ出した。もう泣き声を押し殺すことも出来ず、声を上げて泣いている。

 それが悲しみの涙なのか、嬉しさからくる涙なのか、ヒルデガンド自身にも分かっていなかった。

 ただ、伝えてはいけない想いを伝えた後悔は、綺麗に洗い流されたように感じている。


◇◇◇


「オットーくん、ありがとう。また学校で会いましょう」


 オットーの家に着いた時には、ヒルデガンドはもう泣き止んでいた。ほんの短い間であったが、それで十分だったようだ。オットーに別れの挨拶をするヒルデガンドは、どこか吹っ切れたような顔をしている。


「はい。今回は誘ってくれてありがとうございます。たとえ、おまけでも嬉しかったです」


 オットーが冗談めかして、言葉を返せるくらいに。


「いやだ。そんなおまけだ何て」


「おまけでも良いから、次も誘ってください」


「ええ、でも」


「次があるかどうかは、ヒルデガンドさん次第ですね。学院生活も、もう残り三分の一になります。残り少ない学院生活も楽しいものであって欲しいと僕は思いますよ」


 遠まわしに、カムイとの時間を大切にしろと、オットーが言っている事に気が付いて、ヒルデガンドは目を見張った。


「オットーくん、貴方って……」


「これでも僕は、カムイに少しは認められた身ですよ?」


「そうね。あのカムイが認めた人ですものね」


「はい。じゃあ、お休みなさい」


「お休みなさい」


 オットーの家を離れて、馬車は進む。ヒルデガンドの顔には笑顔が戻っていた。意外なオットーの話がそうさせているのだ。

 カムイも、カムイの周りにいる人物も実に興味深い者ばかり。その側に居れば、残りの学院生活も楽しいものになるだろう。そうヒルデガンドは改めて思った。


「カムイ・クロイツに、一切の手出しを禁じます。この先、何があろうともです」


「ヒルダお嬢様?」


「それが、例え、お父様の命であっても、私はそれを許しません。良いですね? 確かに告げましたよ」


「はい。承知致しました」

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