小旅行その三 休暇中も鍛錬は怠りません
空に浮かんでいた月が、その姿を消し、東の空がうっすらと白く輝き始めた。夜が明けるのは、もうすぐだ。
ヒルデガンドは、すでにベッドから起きだし、身支度を整え終わっている。朝の日課の鍛錬を行うためだ。
天賦の才、人はヒルデガンドの剣の腕を、こう評するが、才能だけで、常に同世代の頂点に君臨出来るはずがない。ヒルデガンドの実力は、弛まぬ努力の成果だ。
部屋を出て、階下に降りると、既に侍女のアンが、朝食の支度を始めていた。
「お早う」
「お早うございます。ヒルダお嬢様」
「いつもの通り、朝食は鍛錬の後で良いですよ」
普段であれば、朝食は、ヒルデガンドの鍛錬が終わる頃を見計らって、用意される。出来立てを提供しようとするアンの心遣いだ。
「これはカムイ殿の為に用意したものです」
「カムイ? もう起きているのですか?」
「起きているというか、なにやら鍛錬をしていますね」
「……どこで!?」
カムイが鍛錬をしているという話を聞いて、ヒルデガンドの目の色が変わる。いつも、いい加減に授業をこなしていて実力の測れないカムイ。そのカムイの力を見極める、絶好の機会だと思ったからだ。
「湖のほとりです」
「行ってきます!」
建物を飛び出して、一目散に湖に向おうとするヒルデガンド。それを制したのは、護衛の為に同行していたイーゼンベルク家の雇われ騎士の一人だった。
「どうかしましたか? 私は急いでいるのです」
「カムイ・クロイツ殿の所に向かうというのであれば、お止めになった方がよろしいかと」
「どうして?」
騎士は、ヒルデガンドの目的を察していた。それでいて、引き止める理由が、ヒルデガンドには分からない。
「行っても無駄です。近づけば、ヒルデガンド様がご覧になりたいものは、恐らく見られなくなります」
「どういう事ですか?」
「気配に敏感なようですね。我らが少し近づいただけで、動きを止めました」
「……そう」
カムイの実力を知る機会と喜んでいたヒルデガンドの気持ちが、一気に沈む。
「彼は何者ですか? 学生に気配を察知されるとは。自分の至らなさに少し落ち込んでおります」
「何をしていたか、全く分からなかったのですか?」
実力の一端は、知る事は出来た。少なくとも、カムイには、東方伯家の騎士の気配を感じる力はあるのだ。
「舞っておりました」
「舞?」
騎士の答えは、ヒルデガンドが思ってもみないものだった。
「そうとしか見えない動きです。始めは湖の上に浮かんでいるのかと思ったくらいです」
「それはどういう?」
「実際に見るのが一番なのですが」
「……分かりました。見る事が出来るかは分かりませんが、とにかく行ってみます」
「そうですか。お引止めして申し訳ございません」
「いえ、かまいません」
やがて見えてきた湖。朝日に照らされて、その表面はキラキラと輝いている。そんな湖の上に、カムイはいた。
岸から湖に伸びる船着き場。そこに並ぶ、ボートを繋いでいる杭の上にだ。
すでにカムイは動きを止めていた。ヒルデガンドの方を見て、それが誰かを確認すると、杭の上から船着き場に飛び移り、じっと立って、ヒルデガンドが近づくのを待っている。
何も見られなかった事を残念に思いながらも、ヒルデガンドはカムイに近づいて行った。
「お早うございます」
「お早う」
「早いですね。朝の鍛錬ですか?」
「はい。カムイこそ、随分と早いですね」
「たまたまです。寝床が変わったせいですかね」
カムイは、いつものように惚けている。これが分かるヒルデガンドは、少し落ち込んでしまった。
「……続けないのですか?」
「もう終わりました」
「見せてください。カムイが、どんな鍛錬をしているのか知りたいのです」
「大した事はしてないけど」
「見せてください」
真剣な目で、じっとカムイを見つめるヒルデガンド。やがて、軽く肩を竦めて、カムイはその視線を外した。
「じゃあ、少しだけ。本当に大した事ないですけどね」
「かまいません。お願いします」
又、軽く肩を竦めると、カムイは無造作に、元居た杭に跳び移った。そこからいきなり、大きく前に踏み込んで、剣を上段から振り下ろす。
「はっ!?」
湖に落ちるかと思われたカムイだったが、別の杭に、踏み込んだ足をしっかりと乗せ、そのまま、その足に綺麗に重心を移していく。そして、又、次の杭へ踏み込む。
高さの違う杭の上を移動しながらも、全くバランスを崩すことなく、動き続けるカムイ。
その動きが徐々に早く、より滑らかになっていく。
騎士が言った舞の意味が、ヒルデガンドにも分かった。不安定なはずの杭の上で、全くそれを感じさせずに、次々と剣を振るカムイ。
振るわれる剣、銀色の髪、そして飛び散る汗が、朝日を浴びて、輝いている。ただ空を切り裂く風の音だけが響く静寂の世界。
ヒルデガンドは、その世界に深く沈み込んでいった。
◇◇◇
どれくらい時間が経ったのだろうか、カムイがぴたりと動きを止めて、ヒルデガンドの方を振り返った。
「あっ……」
ふいに夢の世界から引き戻された様に感じて、小さな声をあげたヒルデガンド。そのヒルデガンドを更に驚かせたのは、背中から聞こえてきた声だった。
「それじゃあ、早起きした意味ねえだろ?」
いつの間にかアルトが、ヒルデガンドの後ろに立っていた。
「どうしてもって言うから」
「全く。お前、最近ガード緩過ぎだぞ?」
「気を付ける」
「……貴方もだったのですね?」
「はっ?」
不意にヒルデガンドに意味不明な事を言われて、アルトは戸惑っている。
「実力を隠しているのは、カムイだけだと思っていましたけど、アルトくんもなのですね?」
「俺は自分で言う通り、剣も魔法も苦手だけど?」
「そんな人に簡単に背後を取られる程、私は未熟なつもりはありません」
アルトが声を発するまで、ヒルデガンドは気配に全く気付いていなかった。完全に背中を取られた形だ。
「それはカムイの剣に魅入られてたからじゃねえかな?」
「魅入られて?」
「気を付けた方が良いな。カムイのあれは、人を魅了する魔性の舞だ」
「魔性って」
「見続けていると、カムイに心を奪われて、取り返せなくなるぜ」
「…………」
心を奪われたかは別にして、ヒルデガンドは、まんまとアルトに話を逸らされている。
「おい、でたらめ言うなよ」
「どうだかな。案外、本当かもよ。ほら、ルッツたちも来た。さっさと、そこ空けろよ」
「ああ。分かった」
アルトの言う通り、ルッツが現れた、ディーフリートも一緒だ。
「ヒルデガンドさん、早いな」
現れたルッツは、ヒルデガンドがこの場に居る事に、軽く驚いている。
「カムイの方が、もっと早かったですよ」
「カムイはいつもそうだから。ヒルデガンドさんも毎朝、鍛錬を?」
「ええ、日課にしています」
「さすがだな。じゃあ、俺も始めますか。えっと……、げっ!?」
カムイが指差す先を見て、ルッツが苦い顔をしている。杭の上での鍛錬は、いつもやっている事だが、目の前のそれは、いつもとは随分と勝手が違う。不揃いな高さ、あまりに不規則な間隔。普段とは段違いの難しさだ。
「何だよ、げっ、て? いつもと同じじゃあ、退屈だろ? それに、これ位の方が集中出来て良い」
「お前と一緒にするなよ……。まあ、上を目指すには良いか。でもな、下、湖だし」
足を踏み外せば、当然湖に落ちる事になる。
「その分、怪我はしないだろ?」
「前向きな意見ありがとう。さて、じゃあやるか」
文句を言いながらも、軽く杭に飛び移るルッツ。軽く気合を入れると、一歩足を踏み出した。ぶんという、剣が風切る音が聞こえる。
そのまま。また一歩。
何だかんだ言いながらも、ルッツの足運びも見事なものだ。躊躇う様子もなく、次々と剣を振っていく。
「凄いな……」
そのルッツの様子を見て、ディーフリートが感嘆の声をあげている。だが、ヒルデガンドは……。
ルッツの足さばきも素晴らしいが、カムイのそれを見た後では、どこか物足りなさを感じていた。あの心を深く引き込まれるような感覚が、ルッツのそれには無い。
「ふう」
やがてルッツは動きを止めて、杭から飛び降りた。
「早くないか?」
「いつもの倍は疲れる」
「それは、いつものに慣れきってる証拠だな。戻ってからもやり方考えないと。さて、次はセレネだな」
「私もやるの!?」
ルッツでさえ、難しいと評価した杭。それを自分がやる事になるとは、セレネは思っていなかった。
「当然だろ。やっと少し形になってきたんだ、ここでサボってどうする?」
「絶対無理。湖に落ちるのが目に見えてるわ」
「そうかも」
「ほらぁ!」
「剣、持たない方が良いかもな。拾うのが面倒そうだ」
「やらないって選択肢はないのね?」
「当然」
「はあ……」
「私もやってみようかしら?」
ここで口を挟んできたのは、ヒルデガンドだった。カムイがやっている鍛錬を、自分もやって見たくなったのだ。
「ヒルダは止めておいた方が良いな」
だが、それはそのカムイ本人によって止められた。
「どうして? それは、うまく出来ないかもしれないけど」
「剣の型が違う。ヒルダの剣は、俺達とは違って、一撃一撃を型どおりにしっかり振り切る感じだ。へたな鍛錬すると、それを崩してしまう」
「そう……」
カムイの言っている事は、間違っていない。ヒルデガンドの剣の究極は、一撃必殺。不安定な杭の上で、舞うように振る剣ではない。
「普段の鍛錬をした方が良いと俺は思う」
「分かりました。カムイは、もうやらないのですか?」
「朝の分は、もう終わり」
「じゃあ、見てもらって良いかしら?」
「俺が?」
「いつも他の生徒に教えているじゃないですか。今日くらいは私の面倒も見てください」
「大した助言出来ないと思うけどな?」
「それでもかまいません。じゃあ、あちらの広い方でやりましょう」
乗り気でない様子のカムイを、無理やり引っ張って、この場から離れていくヒルデガンド。カムイと一緒でありさえすれば、別にどんな鍛錬でも良いのだ。
「いやあ、女だねえ」
「そうだね。なんだか、いじらしくなってきたな」
今のヒルデガンドは、ディーフリートにも、ただの恋する女子にしか見えない。
「ちょっと危険だな。カムイの口調も、ちょっと馴れ合ってきた。たまに敬語を忘れてる」
「……そう言えばそうだね」
「近づけ過ぎず、遠ざけ過ぎず。これは思ったよりも難題かもしれねえな」
「何だか、どっちでも良くなってきた」
ヒルデガンドの為には、何が正しいのか。ディーフリートには、良く分からなくなっている。
「それはディーフリートさんには、もっと大切な目的があるからな」
「……それを今言う?」
「なかなか近づけないねえ」
「アルトくんは結構、意地悪だね。少しはこっちも手伝ってくれないかな?」
「じゃあ、ちょっと助言を。いつでも湖に飛び込める準備をしておいた方が良いな」
「えっ?」
「セレネは絶対、湖に落ちるから」
「……そうなんだ」
アルトの助言に従って、いそいそと上衣を脱ぎ始めるディーフリートだった。
◇◇◇
両手で持った剣を正眼に構えて、深い踏み込みと共に、縦に振り下ろす。後ろ脚を引き寄せて、また構えを取る。力強い踏み込みから、振られた剣が空を切り裂く。
皇国で最も普及しているシュッツアルテン流剣術の基本型だ。その名が示す通り、シュッツアルテン皇国の始祖である初代皇帝を開祖とする剣術流派で、ただただ剣の速さと力強さを追及し、一振りで相手を倒す、一撃必殺をモットーとしている。
実際には、そういう訳にも行かず、防備の形もいくつも生まれているのだが、基本は、あくまでも先手必殺。
この型を極める事こそが、その奥義となっている。基本の鍛錬は、実に単純。ただひたすらこうした素振りを繰り返すだけ。それをヒルデガンドは弛まず毎日毎日続けてきた。
中等部最強の名は伊達ではない。振り下ろされる剣の速さは、素人では、その軌跡を追う事も出来ないであろう。
ある程度、前に進んだ所で、振り返り、また同じように剣を振りながら戻ってくる。
カムイの前まで、戻ってきた所で、ヒルデガンドは構えを解いた。
「どうでしたか?」
「凄かったです」
「……そう言って、誤魔化そうとしているでしょ?」
「俺は、ヒルデガンドさんの流派を詳しく知りません。余計な助言は、形を崩す恐れがあります」
「でも……」
「護衛の騎士の人たちに教わった方が良いのではないですか?」
「彼等は教えてくれません」
「えっ? そうなのですか?」
東方伯家の騎士ともなれば、皇国騎士団の騎士にも劣らない実力があるはず。カムイは、ヒルデガンドの剣の師も、付いて来ているのだと思っていた。
「小さい頃は、熱心に教えてもらったのですけど、大きくなってからは相手をしてくれません」
「何故ですか?」
「お父様のせいです。女だてらに剣を極めてどうすると。私の将来は騎士ではなく……。つまり、そういう事です」
騎士ではなく皇妃。この言葉を、カムイの前で、ヒルデガンドは口には出来なかった。
「そうですか」
「ですから、極端に言えば、崩れてもかまわないのです。いつかは捨てなければならない剣ですから」
「勿体ない。でも、そういう事であれば、少しだけ気が付いた事を」
「はい」
「剣を振るのを急ぎ過ぎです」
「急ぎ過ぎですか?」
「はい。今のでは中段に構えている意味がありません。始めから上段に剣を持っていった方が良いですね」
「えっと、それは?」
カムイの今の説明では、ヒルデガンドは、何を気を付ければ良いのか、さっぱり分からない。
「最初に中段に構える意味を考えた事がありますか?」
「あまり。そういう型だとしか考えていませんでした」
「シュッツアルテン流の特徴は剣速にあります。ただ剣を振るだけであれば、上段から振れば、余計な動きが省かれます」
「はい」
「それをあえて中段に構えるには、意味があるはずです」
「防御ですね」
「それも一つですが、先手必殺がモットーであるシュッツアルテン流の本質からは外れています。本来の目的は、剣速を高め、切る力を増す事だと、俺は思います」
「でも、余計な動きだと」
「一連の動きの全てを速さだと思っているからです。剣速というのは、振り始めから振り切るまでです」
流派を知らないどころではない。ヒルデガンドよりも、遥かに深くカムイはシュッツアルテン流について理解をしている様子だ。
「……ごめんなさい。理解出来ていないわ」
「では、実際にやってみましょうか? 剣を持たずに構えだけしてください」
「はい」
手だけで、剣を握るような形にして、構えをとるヒルデガンド。そのヒルデガンドの真後ろに、密着するようにカムイは立った。
「ちょっと窮屈ですけど、ゆっくりと振って見てください」
すぐ耳元で聞こえるカムイの声にヒルデガンドは自分の顔が赤くなるのを感じた。だが、今は鍛錬の最中。余計な事を考えている場合ではないと、気持ちを入れ直し、言われた通りに、ゆっくりと剣を振る形を取る。
足を踏み込んで、上にあげた腕を振り下そうとした所で、両手を掴まれる感覚。それも一瞬の事、引っ張られるような感覚が解かれた途端に、腕が勢い良く前に振り下ろされた。
「えっ?」
「何となく分かりましたか?」
「今のは?」
「腕を降ろす瞬間に、ちょっと手を掴みました」
「はい。それは分かります。でも、その後が」
「自然に腕が前に出ましたよね? 前に振ろうと意識しなくても」
「はい」
「今の感覚ですね。足を踏み込んで前に重心を移せば、振り上げた腕は自然と前に振り下ろされます。ヒルダは、それを待たずに、腕の力だけで前に振ろうとしてました。それでは、振り上げた勢いは全く死んでしまいます」
「一拍置くような感覚ですか?」
「まあ、そうですね。でも、それもあまり意識する必要はありません。敢えて意識するとすれば、振り上げた腕が後ろに引っ張られるような感覚、それが前に移るか移らないかの瞬間に、一気に振り下ろすって感じでしょうか?」
「……やってみます」
剣を取って、先程と同じように構えを取る。足を前に踏み出すと同時に剣を上段に振り上げる。踏み出した足が地を掴み、その足に重心を乗せていく。それと共に、引っ張られるように肘が下がり、それを追い越す形で、剣が目の前を通り過ぎた。
剣が風を切る音が、ほんのわずかに遅れて、耳に届いた気がした。
「…………」
「どうでした? 俺が見る限り、かなり早さは上がったみたいですけど」
「一瞬の間なのに、剣が加速していくように感じました」
「ああ、じゃあ良い感じですよ。凄いですね。一度で出来る様になるなんて」
「凄いのはカムイです。どうして、ちょっと見ただけで、こんな事が分かるのですか?」
「凄くはないです。幼年部の頃から、色々と研究はしてましたからね」
「研究ですか?」
「魔法を使えない自分が、どうやったら魔法を使える人と互角に戦えるか。魔法に頼れないなら、自分の体に、技に頼るしかないですよね? 魔法の効果を超える技を身につける事が、俺の当時の目標でしたから」
「カムイ、貴方という人は……」
才能に恵まれている、こう言われる事がヒルデガンドは嫌だった。才能に溺れる事無く、自分は懸命に努力を続けてきた。それが実を結んで、今の自分があるのだと、自負している。
だが、目の前の男は、魔法が使えないという絶望的な状況の中でも、決して諦めずに努力を続けていた。そして、それは、長く報われる事がなかったはずだ。だからこそ、カムイは幼年部を中退する羽目になったのだ。
果たして、この男の前で、自分は誰よりも努力を続けてきたと言えるだろうか、自分の努力が、カムイを超えているとは、とてもヒルデガンドには思えなかった。
「まあ、なかなか報われませんでしたけどね」
そう言って笑うカムイの顔が眩しい。どうやら自分は、すでに魔性の舞に囚われてしまったようだ。これで本当にカムイが自分より強いと分かったら、自分は。この気持ちを抑え切れるだろうか。
自分が追い求めてきた理想の男性。自分が決して勝てないと思える男でカムイがあったとしたら、東方伯家の者として、自分を縛っている鎖は、粉々に千切れてしまうのではないか。これを考えると、ヒルデガンドは、胸が苦しくなる。
それはカムイを、不幸にする事だと分かっているから。
「どうしました?」
「何でもありません」
「でも……、泣いてますよ」
ヒルデガンドの瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「泣いてません」
「でも、涙が」
「これは汗です」
「……そうですか」
「納得しないでください。これが汗の訳がないでしょう?」
「えっ、じゃあ、どうしろと?」
「後ろを向いてください」
「はあ」
言われた通りに後ろを向いたカムイの背中に、寄りかかるヒルデガンド。
「あの、何をしているのですか?」
「汗を拭いているのです」
「タオルを使った方が良くないですか?」
「少し黙っていてください」
「……はい」
すっかり昇った朝日が、二人を照らしている。気まずそうな様子で立ち尽くすカムイと、その背中に顔をうずめ、小さくすすり泣くヒルデガンド。
銀と金の対照的な二人の髪が、湖畔を流れる風に吹かれて揺れている。
何とも近付き難い雰囲気の二人なのだが、それに全く遠慮しない者が居た。
「私が大変な時に、何をイチャついているのよ?」
「あれ、セレ。どうした、その恰好?」
髪から水を滴り落として、立っているセレネ。顔をあげたヒルデガンドも、セレネの、その恰好に唖然としている。
「どうしたじゃないわよ? 聞こえてなかったの?」
「何か騒いでいるのは聞こえてた」
「何で放っておくのよ?」
「楽しそうだなとは思ってたぞ」
「楽しいわけないでしょ? 湖に落ちて大変だったんだからね」
大方の予想通り、セレネは湖に転落していた。
「やっぱり落ちたか。それで、どうしたんだ?」
「ディーが助けてくれた」
同じように全身ずぶ濡れのディーフリートを指差すセレネ。
「人の事を言えないだろ。そっちの方こそ、只のノロケじゃないか?」
「ノロケじゃないわよ」
「ノロケだろ? じゃあ、大事そうに上に羽織ってる、それなんだよ? それってディーの上着だよな」
「そ、それは」
カムイに言い当てられて、セレネは一気に狼狽えだした。これで、一気に形勢は、いつものようにカムイに傾く事になる。
「わざわざ濡れないように上着を脱いでから助けたのか。ディーも、なかなか用意周到だな。まあ、ずぶ濡れの上に羽織っても意味ないけどな」
「うるさいわね」
「それで、この先のシナリオは?」
「シナリオって何よ?」
「これで人気のない所で二人っきりだったら、冷えた体を、お互いの体温で温めあうなんてのも、あるかもしれないけど、ここじゃあな」
「……カムイ、貴方、馬鹿でしょ?」
頭の中で想像してしまったのか、セレネの顔は、これ以上ないほどに、真っ赤になっている。
「あっ、じゃあ、風呂用意してもらって、二人で入ったらどうだ? 体が冷えてるのは間違いないだろ? 二人でゆったりとお湯につかって、体も心も温まる」
「ば、馬鹿じゃない!」
「それ、良いかも」
ディーフリートの方は、照れる様子もなくカムイの話に乗ってきた。
「ディーも乗らないでください!」
「いや、冗談だからさ」
「冗談でもです!」
「おっ、何だか急接近な感じ」
二人の雰囲気をからかうカムイだが。
「貴方たち程じゃない」「君たちほどじゃあないね」
「どういう意味?」
「「……鈍感」」
それなりに、気が合う様になってきたセレネとディーフリートだった。
「それで、ヒルデガンドさんは、どこに行こうとしてんだ?」
戯言を言い合うカムイたちから離れようとしているヒルデガンドを、アルトが見咎めた。
「えっ? あっ、ちょっと鍛錬の続きを」
明らかに上ずった声で、ヒルデガンドがそれに答える。
「なるほど、鍛錬をしようとしたが、慣れない事で湖に落ちてしまうと」
「……そんな事ない、です」
見事にアルトに図星をさされて、ヒルデガンドは、真っ赤だ。
「そして、当然、それをカムイが助けるのを期待しているわけだ」
「もし落ちたら、きっと助けてくれますよね?」
「そして、二人ともずぶ濡れって事で。ちなみに風呂ってえのは、男女別なんだよな?」
「ええ、もちろんです。入り口は別々ですよ」
「……入り口?」
不意を突かれた感じのアルト。ヒルデガンドの意外性に、やられた感じだ。
「ああ、そういう事ね」
ディーフリートは、何にも感じない様子で、納得している。
「ディーフリートさん、どういう事ですか?」
セレネは全く事情が分かっていない。
「私的な別荘では良くある造りだ。家族しか利用しないのが、常だからね。浴室二つだと狭くなるから大きな浴場を一つだけって事」
「……つまり混浴?」
「同時に入れば、そうなるね」
苦笑いを浮かべながら、ディーフリートは、セレネの問いに答える。
「ヒルデガンドさん、目を覚まして! 駄目よ、カムイみたいな外道の前にそんな」
事情が分かったセレネの反応は、ヒルデガンドに向かった。ただ口から出た台詞は、カムイに向いているようなものだ。
「誰が外道だ!」
セレネの言葉に、カムイが反応を示す。
「いえ、でも」
それとは別にヒルデガンドも。
「でもじゃないから! 駄目、大変、これは呪いよ! いえ、さてはチャームの魔法ね! この外道、さっさと魅了を解きなさいよ!」
「だから、誰が外道だ!」
「「「「お前だ!!」」」」
「何で?」
自覚もないままに、ヒルデガンドを狂わすカムイ。これはもう罪だ。