合同演習合宿その七 カムイの秘密
木々の間を縫うように、麓へと続く道を全速力で駆け抜ける。
道に敷かれている白い小石が、空に浮かぶ満月の明かりに照らされて、薄ぼんやりと光っているように見える。これにはかなり助かった。
一旦、道を大きく外れたカムイだったが、十分に時間を稼いだと判断したところで、元の道へと戻ることに決めた。
目印のない山の中を、方向感覚だけを頼りに駆け回り、ようやくこの白い道を見つけた時には、さすがに安堵したものだ。実際には安堵するにはまだまだ気が早いのだが。
時折、目にする争いの跡は、先行している他の生徒たちによるものに違いない。今のところ、人の死体は見ていない。
何とか全員が無事で逃げ延びていられれば良いが。ひたすらに前に進みながら、カムイは、こんなことを考えていた。
やがて見えてくる木々の切れ目。その先に、行きにも渡った深い谷にかかる橋が伸びている。
そここそがカムイが目指している場所だ。
両側の木々が途切れ、目の前に橋が迫る。いざ、その橋を渡ろうとしたところで……、橋が一気に燃え上がった。
「げっ!?」
慌てて急制動をかけて、何とか橋の手前で止まることが出来た。
「……さて、困ったな」
目の前の火の勢いは衰える気配がない。このままいけば、やがて橋は燃え落ちることになりそうだ。
「くっくっく、随分とゆっくりとした到着だね?」
橋の手前で考え込んでいるカムイに、背中から声が掛かった。振り向いて確認するまでもない。心当たりは一人しか居ない。
「……ああ、マリーさんか、これはマリーさんが?」
「さあ、どうだろうね?」
「別の生徒たちも来たはずだが?」
「お仲間は、もう行っちまったよ」
「そうか。それは良かったかな? さて、そうなると自分が何をしたか理解しているか?」
取り敢えず、他の生徒には何もしていないと分かった。後ろを振り向いたカムイは、マリーを真っ直ぐに見て問い掛けた。
「何のことだい?」
「まずは、この橋だな。橋が渡れなければ逃げることが出来ない」
「逃げられないなら戦えば良いじゃないか。戦えるんだろ?」
少なくともマリーは、カムイが何かから逃げていることは理解していた。
「もしかして、俺に戦わせたくて、こんな真似を?」
「さあね。でも、この状況じゃあ、お前も本気を出すしかないのは確かだね」
「……やっぱり、何をしたか分かってないんだな」
マリーの余裕ある態度でカムイは確信した。状況が分かっていれば、今の時点で、こんな態度で居られるはずがない。
「何がだい?」
「一つ一つ聞いて行こうか。魔物の子供をさらってきて宿営地に置いた。宿営地を魔物の大群に襲わせる為に。ただ不思議なのは何故、宿営地に居なかったのか? 二体じゃ足りないとでも思ったか?」
「答えられないね」
「なるほどね、やっぱり、そういうことか……。宿営地で魔物が見つかったのは偶然だったんだな。それとも、そっちのお仲間がミスしたか。もっと数を集めるつもりだったのに、先に見つかってしまった。まあ、それは良いや」
「…………」
マリーの顔から嘲るような笑みが消えた。カムイを追い込んだと思っていたのだが、カムイは焦るどころか、心底呆れたような顔をしてマリーを見ている。
その態度がマリーを不安にさせた。
「何でまだここに居る? 他の生徒が退去したのは知ってるよな?」
「……ああ、二回に分かれて麓に降りて行ったね」
「話は聞かなかったのか?」
「何が言いたい?」
「聞いてないんだ。お前、さらった魔物が何だと思ってるんだ?」
「……どういう意味だい?」
マリーの心の不安は更に膨らんでいく。カムイの問いは、自分の誤りを指摘している。問題はそれがどんな誤りかだ。
「お前が攫ったのか、攫わせたのか知らないが、あれ、ゴブリンの子供じゃないからな」
「……ゴブリンじゃなければ、何だと言うんだい?」
「オーガ。あれはオーガの子供だ」
「何、だっ、て?」
マリーの顔が一瞬で青ざめる。オーガがどういう魔物か、マリーが知っている証拠だ。その表情を見てカムイは、マリーとは正反対に安堵の表情を浮かべている。説明の手間が省けて助かる。こんな思いからだ。
「お前の計画は大成功だぞ。何と言っても上位種のオーガの子供だ。たった二体でも、ゴブリンやハイゴブリンまで入れて、千体の魔物が集まった。当然、オーガ本人も居るからな」
「それで、慌てて逃げた……」
「半分がな。俺達は置いてきぼりだ。捨石ってやつ?」
「捨石?」
「千体の群れでも厄介なのに、オーガ相手で絶対勝てるとは言い切れないだろ? 半分を犠牲にして、残りの半分を逃がそうって作戦だ。実際、騎士団の半分は、恐らくは既に全滅だ」
「嘘だ!?」
ダン百人将たちが助かったとは、カムイは思っていない。動ける状態であれば逃げて来ているはずだ。そして、動けない者を生かしておく理由はゴブリンにはない。
「じゃあ、少し前に通ったはずの集団の中に騎士団は居たか? 何で、生徒だけで夜の山中を移動していると思ってるんだ?」
「…………」
カムイの説明を否定出来ずに黙り込むマリー。その様子を見たカムイの表情は、嘲りの感情を思いっきり表に出している。
「思ったんだけど、お前、かなり馬鹿だな」
「何だって!?」
「橋落とすなら、向こう側に居れば良いのに。俺を戦わせるのが目的だから、近くで見ようなんて考えたんだろうけどな。もう一度聞く。橋を落としてどうやって逃げるんだ? それとも戦うか? オーガ相手に」
「あたしを……、騙そうとしてるんだろ? オーガなんて居ないくせに」
「嘘か本当かは、もうすぐ分かるさ」
「どういう意味だい?」
「もうすぐ来るぞ。俺が必死に走ってたのは、そのオーガに追われてたせいだからな」
「なっ、何だって?!」
「俺の戦いなんて見てる暇があるなら、それこそ必死で戦うんだな。まあ、必死で戦っても結果は見えてるけど」
「くっ」
マリーの視線がカムイから逸れる。その視線の先にあるものを確認して、カムイの顔に笑みが浮かんだ。
「なるほど。一応、逃げる方法は確保していた訳だ。でも……」
カムイは懐から黒い短剣を取り出すと、マリーの視線の先にある地面に向かって放った。短刀が突き立った途端に、何もないはずの地面に眩い光が走る。
「なっ、何をした!?」
「お仲間を見捨てて逃げるのは感心しないな。その転移魔法陣、送れるのは、せいぜい一人だろ?」
転移魔法陣。マリーが用意していた切り札はこれだ。大した距離を移動できるわけではないが、橋の向こうくらいであれば、余裕で届く。
「……貴様っ!」
「さあ、見せてもらおうか? 皇国魔道士団長の娘の魔法の実力って奴を。あれを相手にな」
カムイが指差す先には、森の中から姿を現した赤黒い体の魔物が居た。これこそが、カムイを追ってきたオーガだ。
「グォオオオオオオオ!!」
視線の先に、カムイたちの姿を見つけたオーガが雄叫びをあげる。
「……オーガ」
「嘘じゃなかっただろ? ボケッとしてないで、さっさと指示出したらどうだ? お仲間も固まってるぞ」
突然のオーガの出現に、マリーの部下の生徒たちは完全に固まってしまっている。
「くっ、攻撃しろ! 手加減はなしだよ! 最大の魔法で、一気にやっつけるんだ!」
マリーの声で、何とか立ち直った生徒たちが次々と詠唱に入る。
「ああ、最悪な指示だな」
「何だって?」
「奴らの最大が、どんな魔法だか知らないけど、長ったらしい詠唱が終わるのを敵が待ってくれるはずないだろ?」
軽く体を沈めたかと思った瞬間、オーガが一足飛びに生徒たちの間に跳び込んでいった。長い腕を振り払い、生徒たちをなぎ倒していく。
数テークを吹き飛ばされて、地面に叩きつけられる生徒。オーガの指先の爪に切り裂かれて、首から血を噴きだしながら倒れる生徒。
詠唱など唱えている余裕などない。
慌てて、オーガから逃げ出そうとして背中を向けた生徒たちにも、容赦なくオーガの長い手が振るわれていく。
「うわあああ!」
「ひっ、ああああ!」
「助けて、んぐっ!」
ほんのわずかな間に、立っている生徒は居なくなった。だが、それで終わらない。オーガは倒れて呻き声をあげている生徒たちの頭を、腹を、踏み潰し、一人一人にトドメを刺していく。やがて蹂躙を終えたオーガが、ゆっくりと、少し離れた場所にいるカムイとマリーに向き直った。
「ほら、お前の番だぞ」
横に立って、茫然とそれを見ていたマリーを、オーガの方に向けて押し出すカムイ。
「あっ、くっ」
カムイに押された勢いで、数歩前に出たマリーは、そのまま足をもつれさせて倒れてしまった。
「ほら、早く。詠唱始めないと、何もしないうちに死んでしまうぞ?」
そんなマリーに冷たく言い放つカムイ。
「あ、うあ」
「急げよ。呻いている時間なんて無いから」
「……た、助けて」
震える声で、カムイに助けを求めるマリー。
「はあ? お前、まだ何もしてないだろ? 少しは戦えよ」
カムイの態度は変わらない。敵に救いの手を差し伸べるほど、カムイはお人好しではない。
「無理だ。お願いだ、助けて、死にたくない」
「ん? それは命が助かれば良いのか?」
「ん、んん」
カムイの問い掛けに、マリーは全力で首を縦に振ることで答えた。
「そうか……。じゃあ、ちょっと聞いてみよう」
「き、聞く?」
「ちょっと話したいことがある!」
オーガに向かって話しかけるカムイ。それに応えたのか、オーガの赤い瞳が、ギロリとカムイに向けられた。
「お前、男だよな?」
「…………」
「奥さんは?」
「……死ん、だ」
「なっ!?」
たどたどしい言葉ではあるが、確かにオーガが話したのを聞いて、マリーが驚きの声をあげた。
「何、驚いてるんだ? 上位種になれば、言葉くらい理解していてもおかしくないだろ?」
「しかし……」
「今はオーガと話してるんだ。邪魔するな」
「あっ、ああ」
言葉を話せるだけの知性があると知ったことで、却ってマリーは、やや落ち着きを取り戻した。話し会いで解決できる。そう考えてカムイが話を始めたのだと思ったからだ。
「この女の命を助けるつもりはあるか?」
「…………」
「お前の子供は残念だった。でも殺すだけでは、何も戻ってこない。そう思わないか?」
「……何、……言いたい?」
「新しい子供を手にしてはどうだ?」
「子供……?」
「お前の子供を攫わせたのは、この女だ。だから、失った子供の責任は、この女にある」
「責任……、死」
復讐。これがオーガの目的だ。
「殺したらそれで終わりだろ? 子供の話だ。この女に、お前の子供を産ませれば良い。まだ子供だが、女であることに変わりない。産めないことはないと思うぞ」
「メスか……」
交渉は交渉でも、カムイの条件は、マリーを差し出すというものだ。
「なっ、何を言っているんだ! あたしが、オーガの子供なんて産めるはずないだろ!」
当然、マリーが受け入れるはずがない。
「試してみれば分かる。試して駄目なら、それはそれでかまわない。大人しく殺されろ」
「ほっ、本気で言ってるのか!?」
「本気に決まってるだろ? まさか、何も罰を受けずに済むとでも思ってたのか?」
「でも、子供を産むってのは……」
相手は魔物だ。それでどうやって、子供を産めるのか、マリーには分からない。
「知らないのか? 子供を産むには、男女がある行為をするんだが、その行為ってのは……」
「それくらい知ってる! オーガの子供をどうやって……、まさか!?」
悩む必要はない。子供を産むのに必要な行為は、人であろうと、魔物であろうと、獣であろうと同じだ。
「別にオーガ相手でも一緒だ。あのオーガと、そういう行為をするだけ。子供が出来るまで何度でもな。別に今じゃないぞ? 住処に連れて行ってもらってからの話だ、……と思う」
「そんな……、嫌だ! そんなの無理だ!」
「お前の都合なんて知らない。俺が聞いているのはオーガにだ。どうだ?」
「子供……。産めるか?」
「ゴブリンって人族との間でも子供出来るよな?」
ゴブリンの繁殖力は高い。その理由のひとつが交配に種族を問わないことだ。人族の女性が、ゴブリンに攫われて、子供を産ませられるという、人族から見れば悲惨な出来事は珍しい事ではない。
「出来る」
「じゃあ、上位種であるオーガも可能性はあるんじゃないか? 駄目だったら、それこそゴブリンに渡せ。ゴブリンたちも、かなり被害を受けたからな。その詫び代わりに」
「その女……、死ぬ」
「元々殺すつもりだっただろ?」
「……そうだった」
カムイとオーガの間で、着々と話が進んでいく。それでは、困るのはマリーだ。
「嫌だぁっ! 止めてくれっ! 助けてくれっ!」
「お前の意見は聞いてない」
「頼むっ! 何でもする! それこそ、私の体が欲しいなら、好きにしてくれ! だから……」
「体なんていらない。俺、そういう趣味ないし」
これ以上ない程の、マリーの懇願も、あっさりとカムイは拒否する。
「……お願いします。それだけは、それだけは!」
「うるさい! とにかくお前は、もうオーガのものだ」
「鬼っ!」
「鬼はオーガだな……、あまり面白くないか。とにかく子供の件は、これで決着ということで」
「ああ、終わり。お前、俺のもの」
マリーに視線を移して、オーガが、その恐ろしげな顔を更に歪めている。恐らく笑っているのであろうが、とてもそうは見えない。
「あぁああああああああ!」
恐怖に耐え切れなくなったのか、狂ったような叫び声をあげると、マリーはそのまま糸が切れたように倒れ伏した。
それを見たカムイは、一度大きく深呼吸をしてオーガに向かい合う。深呼吸をしても、その表情からは緊張の色は少しも消えていない。
「さて、子供の件は決着。その上で決闘を申し込む」
「ん?」
「この女には、まだ使い道がある。体は要らないけど、やらせたいことがあるんだ。ということで、この女を賭けて決闘しないか?」
「……お前、勝てない」
「そうなんだよな。とても勝てる気がしない。でも、まあ、やれるだけやってみたい。受けてもらえるか?」
「決闘、だな」
「そうだ、決闘だ」
「決闘、逃げない。それ、オーガ」
「強き者の掟」
「なんと? お前、何故、それ、知ってる?」
カムイの言葉に、オーガが驚きを表している。カムイが口にしたのは、オーガ族共通の理念のようなもの。魔物もオーガほどの上位種になると、こういうものを持っているのだ。
「知り合いに聞いた。ということで、受けてもらえるな?」
「……いいだろ」
倒れているマリーから離れて、向かい合う二人。カムイは既に背負っていた剣を抜いている。その上で、更にどこからか、もう一本の剣を抜くカムイ。
二本の剣がカムイの両手に握られた。
白銀に輝く剣と黒く鈍い光を放つ剣。対照的な二本の剣を手に持って、構えを取る。
「……お前」
「持ってる物は全て使わないと勝てる可能性ないからな」
「その剣、普通、違う」
「分かるか? でも、まだ使いこなせていないんだ。まだまだ修行が足りない」
「面白い」
「……行くぞ!」
軽く地面を踏み込んで、一足飛びにオーガの懐めがけて飛び込むカムイ。そのカムイに向かって、オーガの両腕が振るわれる。
剣を、その両腕に合せるように振るったカムイであったが、交差すると思った瞬間に、オーガの腕の軌道が大きく変わる。
「ちっ!」
地面を思いっきり蹴り上げて、無理やりに体を上に跳ね上げる。オーガの左腕によって、カムイの足が空中で払われた。横転して地面に落ちるカムイ。空中で何とかバランスを整え、足から落ちると、すかさず後方に跳び退った。
その目の前を、またオーガの腕が通り過ぎていく。
更に、後ろに大きく跳んだカムイだったが、オーガの動きはそれを上回る速さだった。左から大きく振られるオーガの足。
「ぐあっ!」
それを脇腹に受けて、カムイは真横に吹き飛んだ。態勢を整える間もなく地面に叩きつけられて、大きく転がるカムイ。
「あっ、つっ」
転がる勢いが、やや治まったところで立ち上がり、また剣を構える。
「ぐふっ」
それを見たオーガの顔が、にやりと歪んだ。
「……強いな。だからこそ、面白い!」
カムイの顔にも笑みが浮かぶ。強者との命のやりとり、心の中に湧き上がる高揚感が止まらない。
琥珀色の瞳が、その輝きを増した。
「お前……」
その瞳を見て、オーガの表情が笑みから驚きに変わった。
「もう一度だ!」
一足飛びでオーガとの距離を詰めるカムイ。オーガの両腕の間合いの外で足を付けると、地面を蹴った勢いで斜め前に跳ぶ、そこから更に反対へ。左右に体を振る様にして、間合いを徐々に詰めると、オーガの目線がずれた瞬間を見極めて、一気に懐に飛び込んだ。
そのまま、剣を下から上に切り上げる。
「むっ!」
軽く声をあげたオーガであったが、膝を伸ばすだけで後方に跳んで、それを避けた。
「逃がすか!」
それを追うように足を深く前に踏み込み、もう片方の剣を水平に振る。
切り裂いたような感覚がわずかに手に残ったが、オーガは全く意に介さない様子で、逆に自分から前に踏み込んできた。
もう片方の剣を今度は振り下ろす。だが、その前にオーガの拳がカムイの胸に打ち込まれた。
「ぐっ!」
その衝撃にカムイの動きが止まる。そこに頭上からオーガの踵が降ってきた。
頭から前に崩れ落ちるカムイ。気を失いそうになる衝撃を何とか堪えて、その勢いのまま、前転のような形でオーガの足元を転がった。
間合いからはずれたところで、片膝をついたままオーガに向き合うカムイ。頭を打たれた衝撃で、直ぐに立ち上がれないのだ。
「……死んだと思った」
オーガが直ぐに攻めて来ないのを見て、剣を杖のようにして、カムイは立ちあがった。
「しかし、かかと落としって……。さてはお前、ただのオーガじゃないだろ?」
オーガの動きは力任せのものではなく、あきらかに体術の動きだ。ただのオーガが、そんなものを学んでいるわけがない。
「お前こそ」
「俺?」
「お前、普通の人族、違う」
「…………」
まさかの指摘に、カムイは言葉を発することが出来なかった。
「それに、思い出した」
「……何を?」
「その剣、見たこと、ある」
「えっ、本当に?」
更にオーガはカムイを驚かせた。
「お前、何者?」
「俺は……」
オーガの問いに口ごもるカムイ。オーガの方は、そんなカムイを興味深そうに見つめている。
その二人の間に躍り出てきたものがいた。
一匹の黒猫だ。
「そこまでにしてもらいましょうか」
「アウル!」
「……おお!?」
アウルの名を聞いて、驚きで目を見開いているオーガ。
「全く、主は何を考えているのです?」
驚くオーガを放っておいて、アウルは呆れた口調でカムイに話しかけた。
「何をって……」
「今の主が、オーガに敵うはずがないでしょう? しかも相手はシュテンときてる」
「やはり!」
アウルが名を呼んだことで、オーガが納得の言葉を口にした。アウルが自分の知り合いだと、はっきり分かったのだ。
「シュテン、久しぶりですね。元気そうで何よりです」
「アウル様も」
「知り合い?」
挨拶を交わす二人。カムイがアウルに事情を尋ねる。
「ええ、以前、一緒に戦ったことがありました」
「そう。生き残りって訳か、道理で強いはずだ」
「さっきも言った通り、シュテンでなくても、今の主では名無しのオーガにも勝てません。全くどうしてこんな無茶を」
「色々と事情があって」
「まあ命があっただけ良かったです。ちょっと考えなくてはいきませんね。騎士団が居るからと同行を遠慮したのは間違いでした」
「同行する訳にはいかないだろ? どんな魔道士が居るか分からないんだから」
魔道士でなくても、喋る猫が居れば大騒ぎになる。ただ、カムイたちが警戒しているのは、アウルの持つ魔力を感じ取れる魔道士の存在だ。
「……そうなると結論は一つですね」
「あっ、何か、嫌な予感」
「私が側に居なくても良いくらいに、主が強くなれば良いだけです」
「……それ、これまでと何も変わらないな」
強くなる。これはカムイが、ずっと志していることだ。
「最近は少し鍛錬が疎かになっていました。学院生活を楽しむことも、主には大切と思って、大目に見ていましたが、考えを改めましょう」
「どういう風に?」
「鍛錬を削るのは一切なし。まず鍛錬ありきで、その上で他にやりたいことがあれば、ご自由に」
「寝る間を削れってことね。良いよ、それは分かった」
「おや、素直ですね?」
「だって今の戦い……、全然、刃が立たなかったからな」
シュテンとの戦いを思い出して、落ち込んだ様子を見せるカムイ。
「そんなこと、ない」
そんなカムイをシュテンが慰めてくるが、これはカムイには無意味だ。
「慰めは要らない。事実だ。あのまま続けていれば、間違いなく、俺は死んでいた。許されるなら、このまま山籠もりして鍛えて貰いたいくらいだ」
「おお!」
カムイの言葉に喜びを表すシュテン。カムイは全く歯が立たないと思っているが、シュテンの方はカムイとの戦いに、ある程度は満足していたようだ。この森にはシュテンに匹敵するような強い存在が居ないのだろう。
「でも、それは出来ない」
「何故? お前と、戦う。俺も、面白い」
「名前で呼んでも?」
「アウル様、お前、主と、呼んだ。その意味、分かる」
「ありがとう。シュテンは、今すぐどこかに移ったほうが良い」
「何故?」
「この山にシュテンがいることが知れた。皇国が、このまま放置しておくわけがない。必ず討伐軍が出るはずだ。今度は、きちんと数も揃えてな。いくらシュテンが強いと言っても、正規の軍隊が千も数を揃えてきたら厳しいだろ?」
「……うむ」
実際には真正面から戦わなければ、千程度では勝敗は微妙なところなのだが、カムイの言っている意味はシュテンにも分かる。千を退けても次は万が来るだけだ。
「だから身を隠すべきだ。どこか行く宛ては?」
「……ない」
「アウル、どこかないか?」
「ちょっと長旅になりますが、ノルトエンデに行くのが一番ですね」
「おお!」
ノルトエンデに反応を示すシュテン。
「遠すぎるだろ? シュテンじゃあ、目立ちすぎる」
「シュテンが、何故ここに居ると思うのです? 人目につかずに移動することくらいは簡単に出来ます」
「……もしかして繋がってるのか?」
「ええ、繋がっています」
「こんな皇都の近くに……。本気で戦えば勝てただろうに」
「侵略は、我等の望むものではありませんでしたから」
もしマリーが気が付いていたとしても、二人の会話の意味は分からないだろう。ノルトエンデの、その中でも、極一部の者にしか分からない会話だ。
「なるほど。とりあえずシュテンは大丈夫そうだと。決闘に負けた身で、図々しいけど、あの女……」
「いらない。俺、あれ、好み、違う」
「好み……。そうだよな、シュテンにも選ぶ権利はある」
マリーが聞いていれば、怒り狂うような会話だ。
「おお、俺、もっと、ふくよか、好み」
「じゃあ、貰っても良いか?」
「もちろん」
「あんな性悪女をどうするのですか?」
シュテンは納得したが、アウルには、カムイがマリーを求める理由が分からない。
「調べさせたいことがある。皇国魔道士団長の娘だからこそ、出来ることだ」
「主も好みではないのですね?」
「何、それ? 好みとか関係ない。あいつの素性が大切なだけだ」
「良いでしょう。しかし、言うことを聞くでしょうか? 命が助かったと思えば、手の平を返す、あれはそういう女ですよ」
「そこはちょっと人でなしの手を使う。普段なら絶対にやらないけど、あの女には、遠慮は要らなそうだ。それに大切な物を奪われた痛みを知るには丁度良いと思うしな」
「人でなしの手、人でなしには丁度良いですね」
ろくに知らないはずなのに、何故か、アウルはマリーに厳しい。
「さて、あの女が目を覚ます前にやることあるから、残念だけど、この辺でお開きにしようか?」
「そうですね。ではシュテン、またノルトエンデで会いましょう」
「おお!」
「じゃあ、シュテン。俺も又、会えるときを楽しみにしてるから」
「おお、……名前?」
「ああ、カムイと呼んでかまわない」
「おお、カムイ……、おお!?」
カムイの名を呼んだ途端に、シュテンの体が白く輝きだした。正視出来ないくらいに、まばゆい光がシュテンの全身を覆っていく。
「何だ?」
「ああ、そうなりましたか」
アウルには、この現象に心当たりがある。
「そうって、何?」
「光が治まれば分かります」
やがて、シュテンを覆っていた光が徐々にその輝きを失っていく。光がすっかりと治まった、その後には……、一人の偉丈夫が立っていた。
背丈はかなり縮んでしまったが、がっしりとした体躯は変わらない。赤みが強かった体色は、より黒味を増し、焦げ茶色のように変わり、パッと見、濃く日焼けした南方人のような色になっている。
だがそれよりも大きく変わったのは、顔の骨格。口の中の尖った牙と頭に生えた角に変わりはないが、突き出していた下あごは引っ込み、顔全体のラインは随分とスマートなものに変わった。太い眉、きりりとした目元、鼻筋が通ったその顔は、とてもそれがオーガのものとは思えない、少し厳ついが人族でも、見ようによっては男前と言えなくもない顔だ。
「これはどういうことだ?」
その口から出た言葉も、先程までとは違って、実に滑らかなものになっていた。
「どういうこと?」
「元々が、こうだったのですよ。元々と言っては語弊がありますね。魔物は、名を持つことで、その種を大きく超える変化を得ます。シュテンは以前にシュテンと言う名を持った時に、その変化を得ました」
「でも、さっきまでは」
「名付け親との繋がりが絶たれた。それにより、元の姿に戻ってしまっていたのです」
「それって……」
「あまり安易に名を与えたり、交換をしないように。今回は元々、名を持っていたので、何も起こりませんでしたが、名付けから行った場合は、魔力をごっそりと持って行かれてしまいます。我らが、敢えて本名を使わない理由は前に伝えましたよね?」
「……分かった」
「カムイ、いえ、カムイ様、貴方はやはり?」
自分の名付け親が誰かを当然、シュテンは知っている。絶たれた繋がりが、カムイと繋がった意味も。
「その話は長くなるから、領地に戻ったときに聞いてくれ。もうそろそろ本当に目を覚ましそうだ」
じっと倒れていたマリーが身じろぎを始めている。目覚めるのも、時間の問題だ。
「……分かりました。では、ノルトエンデでお待ちしています」
「ああ、又」
森の奥へと去っていくシュテン。その姿が見えなくなるまで、カムイはその背中を見送っていた。
名残惜しむという気持ちではない。ただ考えごとをしていて視線を固定しているだけだ。
「どうされました?」
それを感じ取って、アウルが問いかけてくる。
「……久しぶりに自分が何者かを思い知った感じだ」
「シュテン……、ではないですね」
「ああ。相手が誰ということじゃなくて、戦いに血が騒いでしまった」
「まだまだ修行が足りませんね。体ではなく、心の方が」
「そうだな」
自分の体の中を流れる血。それがもたらす本能的な戦いへの欲求が、カムイに、自分が背負う宿命を感じさせる。
だが、その宿命に流されるつもりはカムイにはない。自分が何者であるかは、自分が決める。そうカムイは心に誓っていた。




