新たなる争乱の始まり
東方伯家の継嗣であるサミュエル・イーゼンベルクの離反。この事実は、シュッツアルテン皇国に、半ば驚き、半ば当然の結果として受け止められた。
ルースア王国から東方伯家領の割譲を要求されている事実は、皇国がその対応を検討する前に、決定事項であるかの様に世間に広がり、東方伯の耳にまで入ってしまった。東方伯が怒り、離反を決断する可能性は、この時点で皇国も想定していたのだが、皇国にとって意外だったのは、離反したのが東方伯本人ではなく、跡継ぎであるサミュエルだった事だ。
東方伯が、皇国と共和国を両天秤にかけているのは分かる。だが、皇国が驚き、納得出来ないのは、わざわざ跡継ぎであるサミュエルを共和国側に置いた事。既に、共和国にはヒルデガンドが居る。皇国から見れば、それでもう、両天秤となっているようなものだ。
そこに更に、継嗣のサミュエルを、共和国に付かせるという行動は、東方伯が、自暴自棄になっている訳ではなく、共和国の勝利の可能性を高く見積もっての、冷静な判断からだと考えられてしまう。
これは、皇国の多くの者を不安にさせ、上層部の者たちを激怒させた。
皇国は、速やかに討伐軍二万を編成し、東方伯領北部へと派遣。それと共に、北方伯にも軍の派遣を依頼し、それに応えた北方伯領軍の一万を加えて、三万の軍勢で、サミュエルの支配地域に攻め込んだ。
だが、事態の早期決着と、東方伯への牽制を意図した討伐の動きは、皇国の思うような展開にはなっていない。北部東方伯領に入った途端に、奇襲してきた魔道士部隊によって。正しくは、その指揮官によって。
「どういう事か説明してもらいましょう?」
討伐軍の本営で、カルク宰相が、オスカーを問い詰めている。早期決着を目的としていながら、皇国騎士団が、一向に攻める気配を見せないのが、納得いかないのだ。
「説明してもらいたいのは、こちらの方です。王国と共和国の関係について、事実を確かめられたのですか?」
いきなり責める様な口調で、問い詰めてきたカルク宰相に、オスカーは不満気だ。
「関係など、何もありません」
「では、絶対に無いと言い切れる理由を聞かせてもらいたい」
「無いものは無いのです」
「それが疑わしいから、調査を依頼したのだ。まさか、調査もしていないのですか?」
オスカーが攻撃を控えているのには理由がある。その理由を説明し、それに対する調査を求めたのだが、カルク宰相からは、全く調査についての話が出ない。
「ノルトエンデの策略に決まっています」
「それはそうでしょう。自分が知りたいのは、その策略に王国が協力しているかどうかです」
「協力しているはずがない。東方伯領の割譲は、王国から申し入れてきたのですよ?」
「それこそが罠ではないかと、こちらは疑っているのです」
「それはあり得ません」
カルク宰相の返事は、又、根拠を示さないものだ。カルク宰相に、王国の罠である可能性を認めるつもりはない。それは、交渉に赴いた自分が、罠に嵌った事を意味するからだ。
「では、何故、カムイの臣下が、王国の戦いを支援する様な真似をしていたのですか?」
皇国と王国での戦いにおけるバンデルス元将軍の暗殺。その犯人であるイグナーツが、敵魔道士部隊の指揮官として現れた。これがオスカーに衝撃を与えた。イグナーツが、カムイの仲間だと、その時になって、初めて気が付いたのだ。
ただ、仕方のない面もある。オスカーがイグナーツを見たのは、カムイが皇国学院を去る時の一度だけ。しかも、オスカーは、離れた場所から、眺めていただけだ。逆にそれで、よく気付けたものだと、アルトは驚いているだろう。
王国の刺客が、部隊の指揮官として現れた。東方伯の離反を、裏で王国は支援していると思わせ、皇国の攻め気を奪うのが、アルトの策だったのだが、これは失敗に終わった。
ただ、皇国にとって残念な事に、バンデルス元将軍を殺した犯人が、カムイの仲間だと分かっても、王国の策謀をオスカーが疑ってしまった事。王国と共和国、そしてサミュエル、場合によっては、東方伯本人の共謀という可能性を考えてしまったのだ。
ある意味では正しいのだが、事態の早期収拾という点では問題だ。策謀を恐れたオスカーは、反乱勢力との戦いを躊躇してしまったのだ。
「仮に、以前は協力関係にあったとしても、今はそうではありません。王国の握る手は、我が国に伸ばされているのです」
カルク宰相は、オスカーの疑いを荒唐無稽のものだとして、直ぐに戦いを始める事を要求している。王国が直接的に関与していないのは事実で、カルク宰相の考えは正しいのだが、それを証明する労力を惜しむ所に、愚かさがある。
「もし、これが王国の罠であれば、我軍は、共和国と王国の二つを同時に相手にする事になる。しかも、敵地でだ」
オスカーが恐れているのは、これだ。サミュエルが篭もる東方伯領北部の、更に北には共和国が、東には、前回の戦いで奪われた王国の新領地がある。これで、東方伯本人も絡んでいれば、三方から袋叩きに合う可能性があるのだ。
「先程から、それは無いと言っています。逆に、ノルトエンデが、反乱に絡んでいると明らかに出来れば、王国と共同で、ノルトエンデに当たる事が出来ます。その為にも、早く戦いを始め、ノルトエンデの兵士を捕まえて素性を明らかにさせるべきです」
カルク宰相は、これを絶好の機会と捉えている。ヒルデガンドを奪った共和国が、ここで又、東方伯領を、自国に取り込もうとしていると王国が知れば、今度こそ、共和国を滅ぼすのに協力してくれると考えているからだ。
「ですから、根拠を示してもらいたい。自分は、それを先程から言っている」
「王国が、共和国に協力する理由がありません」
「協力する理由ならある。我が国を侵略する為だ。共和国の弱点は、その数にある。共和国は、その人材の数の少なさのせいで、領土を広げる事が出来ない。だから、王国にとって、共和国は脅威ではない。これは、カルク宰相が聞いてきた事ではないですか?」
「それは……」
カルク宰相は、オスカーの事を甘く見過ぎだ。オスカーが、ただ剣に優れるだけの人物であれば、ヒルデガンドやディーフリートと並び称されるはずがない。たかが学生の評価とはいえ、それほど甘いものではない。
「王国にとっての最高の形は、我が国と共和国が相争い、お互いに疲弊する事だ。だが、そうならなくても、我が国さえ疲弊してしまえば、王国は、我が国の領土を併合し、圧倒的な国力を持つ事が出来る。こういう事なのではないですか?」
「仮にそうだとしても、我が国がノルトエンデと協調する事は出来ん」
ここで、話に割って入ってきたのは、前北方伯、ハンス政務顧問だ。政務顧問が何故、戦場にとなるのだが、今回は、北方伯領軍が参戦するとあって、前北方伯の立場で来ていた。当然、口実に過ぎず、出しゃばってきただけだ。
「それも理由を聞かせてもらえないのですか?」
ケイネルが居なくなってから、老害たちの相手は、オスカーが一人で担ってきた。近衛騎士団という立場なので、軍事に関する議案に限定されるが、それでも、結構なストレスになっている。
「理由なら幾つもある。ノルトエンデには、我が国を離反した者たちが大勢居る。それを許すわけにはいかない」
離反せざるを得ない状況に追い込んだのは、皇国である事を忘れている。覚えていても、皇国の体面を重んじるハンス政務顧問だ。言う事は同じだ。
「それに、ノルトエンデの講和条件は、国名を変えるというもの。そんな屈辱的な条件を、受け入れる訳にはいかない」
これも皇国の体面を重視しての事だ。ただ、確かにこれは、魔族と皇国との関係を理解しない限り、滅茶苦茶な要求ではある。そして、ハンス政務顧問には、理解するつもりは、これっぽっちもない。
「ノルトエンデと友好関係は築けない。そうである以上は、戦うしかないのではないか?」
「それによって、我軍が大きな損傷を被り、王国と戦う力を失うとしてもですか? それともハンス政務顧問は、我が国と王国との友好が永遠に続くとでも考えておられるのか?」
王国との友好関係など続くはずがない。攻め込む隙を見せれば、いつでも再侵攻をしてくるはずだ。オスカーは、これが分かっていて、ハンス政務顧問に聞いている。
「王国との戦いは、堂々と雌雄を決するものになるであろう。それで負けても、悔いは残らない。それに比べれば、ノルトエンデの者共は、つまらない小細工ばかりで、マトモに戦おうとしない。そんな卑怯者と結んでも、すぐに裏切られるだけだ」
「ハンス政務顧問には悔いが残らなくても、皇国が滅びれば、多くの人たちが悲しみ、苦しみます。それについては、何も感じないのですか?」
「初めから、負けるつもりで戦う馬鹿など居ない。王国とも、当然、勝つつもりで戦う」
「具体的にはどの様に?」
オスカーには、カルク宰相もハンス政務顧問も、魔族が、カムイが嫌いだから、共和国とは友好関係を築けないと言っている様にしか思えない。
「まずは、皇国の嘗ての力を取り戻すことだ。その為には、悪の元凶であるカムイと魔族を倒す事だ。それで、辺境領は治まる。更に、魔族を屈服させて、我が国の為に戦わせれば、王国にも勝てる」
確かに、共和国の力を皇国が吸収する事が出来たら、それは大きな力で、王国にも勝てるだろう。吸収出来るのであればの話だ。
「……つまり、ハンス政務官は、先々帝でも成し得なかった事を成すと言うのですか?」
「何?」
オスカーの問いに、ハンス政務官は軽く驚いている。オスカーが言ったような事を、全く考えていなかった証拠だ。
「先々帝は、魔王との戦いには勝ちましたが、魔族を従えたとは言えないと、自分は思います。それとも、自分が知らないだけで、魔族も皇国軍に居た時期があったのですか?」
「……ない」
ハンス政務官にも、オスカーの言いたいことが分かった。先々帝でも、出来なかった事を、どうして今出来るのかと、オスカーは聞いているのだ。北方伯の弱点を突いた、良い質問だ。
「先々帝に従わなかった魔族が、どうして、今、皇国に従うと思われるのですか?」
これは、クラウディアに対する侮辱とも受け取れる。だが、これを指摘する者は、この場には誰も居ない。カルク宰相も、ハンス政務顧問も、そして、ずっと黙って話を聞いているだけのベック軍事顧問も、先々帝の時代の重臣だ。クラウディアが先々帝に比ぶべくもない愚帝だと認めている。だからこそ、それを支える為に、引退の身から、復帰しているのだ。少なくとも、当人たちはそのつもりでいる。
「……そうだとしても、友好的な関係を築けない事に変わりはない。王国との決戦を前に、憂いを取り除いておくべきだな」
「ですから、それが簡単ではないと申し上げているのです」
共和国が関わると、二人の議論、オスカーとその他の議論は、いつも平行線のままだ。これでクラウディアが居れば、強引にどちらかに押し切られて、裁可を下してしまうのだが、戦場である、この場には居ない。いつまでも結論が出ないまま、議論を繰り返す事になる。
だが、オスカーもハンス政務顧問も、そしてカルク宰相も、議論を戦わせるだけで、肝心な事を考えていない。
王国が絡んでいない場合、何故、共和国はイグナーツを戦場に出してきたのかという事。その目的は、何にあるのかを、考えるべきだった。考えても、手遅れだっただろうが。
◇◇◇
北方伯領のほぼ東端。アーテンクロイツ共和国との国境となる山地に、多くの兵士の姿がある。北方伯領軍の軍勢だ。
東方伯家のサミュエル討伐に軍を向かわせている中、このような場所で何をしているかとなると、土木工事だ。北方伯、正しくは、前北方伯の命令で、アーテンクロイツ共和国への侵攻路を造ろうとしているのだ。
かなり以前から進められていた、この作業だが、共和国に到達するには、まだまだ、かなりの年月が掛かる。今は、まだ良いが、奥に進めば、かなりの頻度で魔獣が出没するようになる。それも、ノルトエンデ以外では、お目に掛かれないような強力な魔獣だ。魔獣との戦いに追われて、工事などしている余裕はなくなる。一般兵では、生きて戻れるかも怪しい所だ。
だが、今、工事を行なっている彼らにとって、より不幸な事に、そんな魔獣よりも、強い存在と戦うことになる。
「……今、何か見えなかったか?」
見張りに立っている兵士の一人が、隣の兵士に確認している。
「何がって、何だ?」
「黒い影が、先の方で動いたように見えた」
「何だって? つまり、魔獣が現れたって事か?」
「はっきりとは分からない。でも、警告した方が良くないか?」
「……じゃあ、部隊長に伝えてくる」
得体の知れない何かの影。こんな曖昧な情報でも、疎かにしない様に、見張りの兵士は教育されている。だが、未確認の情報で、全兵士に警告を発する度胸は、見張りの兵士にはなかった。部隊長に伝えて、判断を仰ぐことを選択したのだ。
これが誤り。だが、結果はそれほど変わらないだろう。
兵士が見た影は、どんどん数を増していき、北方伯領軍に近づいてくる。そして、それは、遂に木々の中を抜けて、兵士たちの前に現れた。
「まっ……!」
最初にその影が何者かを視認した兵士は、最後まで言葉を発する事が出来なかった。振り払われた腕、その先にある鋭い爪で、喉を切り裂かれて、血を振りまきながら、倒れていった。
「まっ、魔族!? 魔族だぁあああっ!!」
森の中から、次々と現れる獣人たち。それを知った北方伯領軍の兵士は、たちまち大混乱に陥った。抗う余裕などない。多くの兵士が、逃げ出そうと背中を向けた。
だが、その正面にも、多くの影が現れる。回りこまれて、逃げ場を失った兵士たち。抗おうとする兵士は誰も居なかった。彼らは、道を作るために送り込まれた工兵だ。北方伯領軍の精鋭とは、ほど遠い彼らでは、無理もない。
そんな弱兵たちに対して、魔族、アーテンクロイツ共和国軍は厳しかった。逃げ道を塞いだ上で、兵士たちを次々と屠っていく。全ての兵士が、息絶えるのに、そう長い時間は掛からなかった。
「……終わったか?」
目の前に積み重なる兵士の遺体に一瞥をくれてから、カムイは、誰に聞くでもなく、問いを発した。
答えを返すものは居ない。だが、それに構わずに、カムイは話を続ける。
「これが、最後だ。人族への恨みは、これで消せ。消せなくても、個人の心の中に押し込んで、他人には見せるな」
今回の戦いに参加した魔族のほとんどは、人族に酷い扱いを受けていた者たちだ。非合法奴隷から開放されても、彼らの恨みは消えなかった。これは当然だろう。長い年月、酷い目に合わされてきたのだ。それを忘れろというのが無理だ。
だが、人族を敵視している者は、共和国の国民として受け入れる事は出来ない。融和は、人族側と魔族側、両方の歩み寄りが必要になるのだ。
「無理だと思う者は、前に出ろ。当面の生活には困らないものは用意する。だが、共和国内に住むことは許されない。種族融和が、アーテンクロイツ共和国の国是だ。それを守れない者に、国民の資格はない」
何人もの顔に思案の色が浮かぶ。人族を殺したからといって、恨みなど簡単に消える訳ではない。だが共和国を出れば、また同じ目に合う可能性が高い。魔族が安心して暮らせる場所は、共和国しかないのだ。
「……安心しろ。又、奴隷に落とされるような事態になれば、その時は、また救い出す。俺が出来なければ俺と同じ志を持つ者が。それで駄目であれば、その志を継ぐ者が助ける。何十年先であろうとも」
悩んでいる様子を見て、カムイはこれを告げた。積年の恨みを消せというのが、どれだけ無理を強いるものかカムイには分かっているつもりだ。
嫌なものは嫌と言える。これもまたアーテンクロイツ共和国の国是なのだ。
「……恨みを直ぐに消せるとは約束出来ません。ですが恨みによって、カムイ様の邪魔をするような真似は決して致しません」
一人の魔族が跪いて、こう告げてきた。恨みは消せない。だが、カムイの想いを裏切るような真似は出来ない。こう考えた結果の約束だ。
これをきっかけに、次々と他の者たちも跪いて、誓いの言葉を口にする。誰の思いも同じだ。個人の恨みよりも、カムイの想いを無にしたくない。
「ありがとう。では、国都に行って、マティアスを訪ねろ。住む場所などの手配を進めてくれる。部族の事を聞きたければ、ライアン師匠に」
全員が跪いたのを確認した所で、カムイは口を開いた。この瞬間から、彼らは、共和国の正式な国民となる。魔族が口にした約束だ。それが破られる事はない。
「私たちも共に戦います」
最初に跪いた魔族が、同行を願い出てきた。カムイがこれから、何処に向かうのかを、この場に居る者たちは知っている。
「今回は不要だ。北部制圧は、軍の、それも人族の軍だけで行う。共和国の為に、今度は人族が血を流す番だ」
「……分かりました」
人族が血を流す番と聞いて、魔族は了承を口にした。これも融和の為だと分かったからだ。
「カムイ。出立の準備が出来た」
魔族との話が一区切りついたのを見計らって、ルッツが声を掛けてきた。ルッツの言う通り、少し離れた場所では、北方伯領への侵攻軍が、隊列を整えて待っている。
「じゃあ、行くか。北部を奪い返しに」
アーテンクロイツ共和国軍による北部侵攻。この情報が、大陸を駆け巡った時、聞く者全てが、大いに動揺する事となった。




