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魔王の器  作者: 月野文人
第三章 皇国動乱編
102/218

努力が実を結ぶ時

2/10 誤字修正しました。

 そして、同日二回目の出撃。

 王国軍は砦に攻め寄せる事なく、ヒルデガンドたち騎馬隊の出撃を容易にしている。変わらず、罠を仕掛けている事は明らかだ。

 しばらく、王国軍の前線を牽制して、全体の動きを探る。動きの波及を見て、どこに指揮官がいるのかを判断しているのだ。

 大軍であるからこそ、それが見えてしまう。ようやく、ヒルデガンドにも、少しそれが見えるようになってきた。


「少し動きました!」


「その通りです!」


 ヒルデガンドの声にテイロンが同意を示す。お墨付きは得た。いよいよ本気の攻撃に転じる事になる。


「では、行きます!」


「機動魔導部隊! 攻撃用意!」


 マティアスの号令で、機動魔導部隊の魔道士たちが一斉に詠唱を開始する。


「放てぇっ!」


 王国軍の前線に巨大な炎の塊が襲いかかった。そして着弾。多くの敵兵が爆風でなぎ倒されていく。そして大きく空いた陣形の穴。

 またすぐに陣形の乱れが整えられる事はなかった。


「放てぇっ!」


 そして、今度はマリーの号令が響き渡る。

 大きく穿たれた陣形の、その奥に魔法が放たれていった。思いもよらない魔法の二段攻撃に王国の兵たちが大きく動揺している。

 そして、更に巨大な炎が、更に陣の奥深く打ち込まれる。


「あたしはこれで打ち止め! 下がるよ!」


「マリーさん! ありがとう!」


「礼はいらない! ここは戦場だよ!」


 自身の最大魔法バーニングを二発放った所で、マリーは砦に戻って行った。


「届きましたか!?」


「残念ながら!」


「駄目ですか!?」


「殺すことは出来なかったようです! 出てきました!」


 前線の一カ所。三連発の魔法によって深く抉られたその奥から、王国騎士が前に出てきた。イーゴリたちだ。


「ふざけるな! 騎士の矜持があるなら、剣で来い!」


 一人の騎士が前に出るなり、大声で叫んでいる。


「あれが罠?」


「馬を止めずに! 止まっては魔法の的になります!」


「あっ、はい!」


 テイロンの忠告で、慌ててヒルデガンドは馬の足を元に戻す。当然、一つ所に留まる事は出来ない。出て来たイーゴリたちから、離れていく事になる。


「おい! 待てっ! 待たんかっ!」


 それを見て、王国騎士がまた叫び始めた。


「何をしたいのでしょう!?」


「さあ!?」


 未だにヒルデガンドは王国騎士の一人がイーゴリであると分かっていない。分かっても意図は掴めなかったであろう。


「待て! ヒルデガンド妃殿下! そちらに一対一の決闘を申し込む!」


 たまらずイーゴリが、ヒルデガンドに決闘を申し込んできた。これは随分と都合の良い話だ。


「お断りします!」


 何の躊躇いもなくヒルデガンドはそれを拒否する。


「何だと!? 臆したか!」


「罠に飛び込むつもりはありません!」


「罠ではない! 騎士として申し込んでいるのだ!」


「罠でない保証は!?」


「それは……」


 まさかこんな問いを投げられると思っていなかったイーゴリは、すぐに答えが思い浮かばずに、言葉に詰まってしまう。


「王国とは姑息な手を使うものです! そんな事をしないと戦争も出来ないのですか!?」


「王国を愚弄するな!」


「決闘を騙って、相手を嵌める者を愚弄して何が悪いのです!」


「騙ってなどいない!」


「ですから、その証拠は!?」


「我が騎士としての名誉に賭けて!」


「貴方は!?」


 ようやくヒルデガンドは相手の声に聞き覚えがある事に気が付いた。


「王国騎士イーゴリ・ミハイロフだ! 聞き覚えがあるだろう!」


「……ああ! 分かりました! 対抗戦の!」


「そうだ!」


「策を弄した上、カムイにコテンパンにやられて恥をかいた!」


 カムイと同じでヒルデガンドも挑発がうまい。天然を感じる所が少し違う所だ。


「……愚弄するな!」


「貴方の事など信用出来ません! 自身が対抗戦で何をしたか分かっていますか!?」


「それとこれとは別だ!」


「……では、前に出なさい! 矢の届く位置に来て、その上で同じ事を言いなさい!」


「…………」


「それが出来ないなら考える必要もありません!」


「分かった! 前に出る!」


「では、私たちは先に! 下がります!」


 王国の陣の前を右に左にと駆け回っていた騎馬隊が、ヒルデガンドの号令で、一斉に砦に向かって下がっていく。


「……見事です」


「私、何かしましたか!?」


「あれが挑発でなくて何なのです?」


「ああ、そういう事ですか」


「無意識に?」


「いえ、ちょっと真似てみました。ああいうやり取りは苦手なので、カムイなら何と言うかを考えながら話していました」


「道理で。人を怒らす事にかけても天才ですから」


「……そうなのですね」


「ご存じなかった?」


「私は怒る事はなかったので。その……、楽しかったです」


「……見事です」


「何が?」


「いえ、何でも」


 これから決闘に臨むとはとても思えない無邪気なヒルデガンドだった


 砦に近付いた場所に馬から降りたヒルデガンドたちは、イーゴリたちが歩いて来るのを待っていた。


「騎馬で来れば良いのに」


「意地ではないですか? こちらを恐れていないと見せつける為の」


「不要な意地です。時間の無駄、体力の無駄。無駄ばかりですね」


「まあ。それで本当に決闘を受けられるのですか?」


「決闘は受けます。でも、私が出る必要はありますか?」


「ありません!」


 ヒルデガンドの問いに勢いよく答えたのはランクだ。


「なるほど。そういう事ですか」


「借りは返しておかないと」


「あの王国騎士と何か因縁があるのですか?」


「テイロンは知らないですね。皇国学院にいた時に少し。そうは言っても、カムイがすっきりとさせて……、あっ」


 そして、その日がカムイとの間の壁をもう一度、作った日だ。一瞬で崩れる壁でもあり、実際に崩れたのだが。


「あの?」


「何でもありません。でも少し気分が悪くなりました」


「大丈夫ですか?」


「やはり、私が出ようかしら? そうすれば、すっきりするかもしれませんね」


「そっちの気分ですか」


「はい」


「しかし、大丈夫ですか? わざわざ張っていたという事は相手も自信があるのでは?」


「驕る訳ではありませんが、私達も努力を怠ったつもりはありません。その努力が正しかったのか、確かめるには良い機会です」


「そうですか」


「来ましたね」


 そこにようやくイーゴリたち王国騎士がやってきた。


「待たせたな」


「いえ、少しも」


「……早速始めたいのだが、そちらの準備は出来ているか?」


「ええ、問題ありません」


「では、勝負だ!」


 腰に吊るした剣を抜き放って、イーゴリは前に出る。そしてヒルデガンド側からは、当たり前のようにランクが出る。


「自分はヒルデガンド妃殿下に決闘を申し込んだのが?」


「私が受けるとは言っておりません」


「卑怯な」


「ランクに勝ったなら受けても良いです」


「それでも卑怯に違いない」


「では、貴方との前に、誰でも結構です。誰か出してください。それで条件は同じになります」


「たいした自信だな」


「そちらこそ。ランクに勝つことを当然と考えています。勝負というものはやってみないと分からないものですよ」


「彼とは一度やった事がある」


「だから?」


「……良いだろう。無駄な時間だが体を温めるには丁度良い」


「これだけ歩いてまだ温まらないのですか? 随分と冷えた体ですね」


「言葉のあやだ!」


 体はともかく、頭の方はかなり熱くなっているイーゴリだった。


「……見事です」


「何が?」


 ヒルデガンドの無意識の挑発にまんまと乗ったイーゴリではあったが、さすがに、そのままで決闘に向かう程、愚かでは無かった。

 剣を下にだらりと降ろして、大きく呼吸を繰り返している。それで気持ちが落ち着いたのか、剣を構えた。


「待たせた事を詫びる礼儀もないのだな?」


 そのイーゴリにランクが挑発の言葉を投げる。


「その分、長く生きられるのだ。感謝してもらいたいくらいだ」


 ランクの挑発にイーゴリも又、挑発で返した。


「なるほど。では感謝しろ」


「何故、自分が?」


「おや、自分で自分を長生きさせようとしたのではないのか?」


「……そちらは口ばかり達者だな」


「いや、俺は口下手なほうだ。能弁に思えるのなら、気分が高揚しているのだろうな。お前を倒す喜びで」


「……では、すぐに落ち込ませてやる」


 中段に構えていた剣は、イーゴリは上段に持っていた。そこから更に天を突き刺すように剣を伸ばす。


「キイェエエエエ!」


 甲高い雄叫びとともに、全力で駆け出すイーゴリ。間合いに入った瞬間に、上段から鋭い打ち込みがランクに向かって振るわれた。それを体を躱す事で避けたランクであったが、その避けた場所に一瞬で引き戻された剣が落ちる。

 更に、また更に振るわれるイーゴリの剣。ランクの方は防戦一方。致命傷は避けているが、鎧をかする金属音が絶え間なく響いている。

 最後に大きく振られた剣を、後ろに跳ぶ事で避けたランク。そこで一旦、イーゴリのほうも間合いを取った。


「よく避けたと言いたい所だが、これまでだ。次は外さない」


「お前……、これまで何をしてきたのだ?」


 自信満々にそう言い放つイーゴリに不思議そうにランクが問いかける。


「何を?」


「カムイに負けてから、これまで何をしてきたのかと聞いている」


「……ひたすら自分を磨いてきた」


「磨いてきた?」


「あの屈辱は忘れていない。失われた名誉を取り戻す為に、剣を磨き、戦術を学び。元の千人将を超えて、将軍となり、いつか戦場であの男を倒そうと血のにじむような努力をしてきた」


「なるほどな。だからか」


「諦めろ。お前は自分には遠く及ばない。自分は、それだけの事をしてきたのだ」


「馬鹿が! 思い上がりも程ほどにしろ!」


 自信満々に言い放ったイーゴリにランクの怒鳴り声が落ちる。


「何だと!?」


「将軍だと!? それが何だ!? 戦術!? そんなもの糞くらえだ!」


「ふざけた事を言うな!」


「ふざけているのはお前だ! そんな中途半端な事でカムイに追いつけると思っているのか!? 剣も戦術も、地位もだと!? そんな多くのものを求めていてはカムイの背中さえ見る事は出来ない!」


「ふざけるな! お前に俺の努力を否定する資格などない!」


「それを今から見せてやる。地位などはもちろん、戦術も捨て、ただ一剣士として自分を磨くことだけに、全ての時間を費やしてきた俺の努力をな」


 こう言うとランクは、兜はおろか鎧さえ脱ぎ去ろうとしている。


「……何を?」


 何をしようとしているのか、分からずに茫然とそれをイーゴリは見詰めている。


「我が剣の真価は攻撃にある。俺は防御さえ捨て去って、それだけを磨いてきたのだ。カムイの背中を追うという事はそういう事だ」


 やがて、騎士服だけになったランクはイーゴリに向かって、堂々と言い放った。カムイの教えを忘れずに、一心に剣を磨いてきた自信が、ランクにこれを言わせているのだ。


「……それは」


 ランクの言葉こそ、イーゴリが極めようとしていた東方古剣術の神髄。防御を捨て去り、ただ敵を討つことだけに全てを賭ける。その神髄の一端をイーゴリは見る事になる。


「はあっ!」


 気合とともに、唸るような剛剣がイーゴリを襲う。剣を合せる事さえ、躊躇うその剣の威力にイーゴリはただ後ろに下がる事しか出来なかった。

 ランクの剣はただひたすらにその後を追っていく。息つく暇もなく、剣を振るい続けるランク。イーゴリはただただ後ろに下がるだけだ。

 それでもランクの剣は止まらない。それに焦れた時がイーゴリの最後だった。

 振り下ろされたランクの剣に、自ら剣を合わせたイーゴリだったが、全く押し止める事も出来ずに、そのまま体に叩きつけられた。

 衝撃にイーゴリの体が動きを止めた所で、ランクの剣が雨あられのように振り下ろされた。兜があろうと鎧があろうと関係ない。

 叩きつけられた剣に、兜が、鎧がその形を変えていく。やがて膝から崩れ落ちていくイーゴリ。


「ふん。この程度か。これではカムイとの差を測る事も出来ん」


「ランク! 下がれ! 敵襲だ!」


 そこにマティアスの声が響いた。王国軍の前線から、馬音を響かせて騎馬隊が向かってきていた。


「ちっ! 卑怯者はどこまで行っても卑怯者か!」


 その声に応えて、後ろに下がりながら、ランクが吐き捨てるように叫ぶ。


「馬に乗れ! 砦近くまで下がる! 魔道士団!」


 マティアスが魔道士団に攻撃を要請するが。


「間に合いません! とにかく、この場を離れて!」


 ヒルデガンドがそれを制した。

 襲ってきたのは騎馬隊だけではない。決闘の場にいた王国騎士たちも、剣を抜いて襲いかかってきた。敵うとは思っていないだろう。自分の命を捨てての時間稼ぎだ。


「馬に乗っている者だけでも下がれ! 一度、下がって支援を!」


 怒鳴りながらも、ヒルデガンドを襲おうとした王国騎士を切り捨てていくマティアス。


「ヒルデガンド妃殿下! まずは下がって!」


 テイロンも、ヒルデガンドに下がるように大声で叫ぶ。


「でも!?」


「良いから! 敵の狙いは貴女です!」


「……分かりました! 距離を取ります! 私の下へ集まって!」


 敵の目標が自分であるなら、ここは下がる事が全体の安全に繋がるとヒルデガンドは判断した。


「追わせるな! 防御戦を張れ!」


 周囲の者はヒルデガンドの考えなど関係なく、とにかくヒルデガンドを守る事を優先して行動している。


「矢だ! 来るぞ!」


 襲ってきたのは敵の矢ではない。砦から放たれた矢だ。ほとんど全てが頭の上を通り過ぎていくとはいえ、気分が良いものではない。


「容赦なさ過ぎだ! ミスされたらどうする!?」


「文句を言うな! タイミングとしては最高だ!」


 実際に、すぐ側まで迫っていた王国の騎馬隊は、矢に射られて、次々と馬から転げ落ちている。前の馬が倒れれば、後続もそれに巻き込まれてと、完全に騎馬隊を止める事に成功していた。


「まだだ! 来るぞ!」


 馬から落ちたからといって、全ての騎士が怪我を負った訳ではない。無事な王国騎士は、降り注ぐ矢に構わずに、向かってきていた。


「ヒルデガンド妃殿下がすぐ戻る! 耐えろ!」


 向ってくる王国騎士たちの数は決して少なくない。さすがに数人の犠牲は出るかと、ほとんどの者が覚悟を決めた時、それは起こった。

 突き進んでくる王国騎士たちの中に躍り込んだ一人の皇国騎士。

 その剣が、旋風のように振るわれて王国騎士たちを蹂躙していった。肘から先の腕が宙に舞う。吹き上がる血しぶきとともに兜が吹き飛ぶ。


「……ニコラスか」


 それが誰であるかマティアスは分かった。


「あの野郎……ようやく目覚めやがったか」


 続けてランクが、しみじみと呟いた。


「今なら、ニコラスの気持ちは分かる。あれを自分がやるのは辛い」


「あいつ気が弱いからな。うわ、また首が跳んだぞ」


 マテューがギルベルトがそれに続く。全員が学院時代からニコラスの努力を見てきた者たちだ。

 ひたすら剣を磨いてきたのはランクだけではない。ヒルデガンドに付き従ってきた多くの者がそうだ。

 その中でニコラスだけが、中々に実戦での戦果をあげる事が出来なかった。

 カムイにその才能を認められたニコラスは、その才能故の自身の強さを恐れてしまっていたのだ。それがここにきて、ようやく覚悟を決めた。追い込まれたおかげだろう。


「機動魔道部隊! ……放てぇっ!」


 ヒルデガンドの号令が周囲に響き渡る。

 馬を失った王国騎士が、ヒルデガンド率いる騎馬隊に敵う訳がない。わすかな抵抗を見せるだけで、また前線に引き下がって行った。


◇◇◇


「危なかったですね」


 砦に戻ったヒルデガンドの第一声に全員が頷いていた。


「申し訳ありません。敵に目を配るのを怠っておりました」


 テイロンがすかさず謝罪を口にする。


「それは私達もです。でも、珍しいですね」


「いや、ランク殿の剣に目を奪われておりました。見事な攻めだったのでつい」


「そうですね。ランク、見事でした」


 ランクに視線を向けて、ヒルデガンドはその健闘を称えた。


「いえ」


 それに照れた様子でランクが短く返事をする。


「そう言えば……ニコラス、貴方の活躍も素晴らしかったです。怪我はないですか?」


「は、はい! 怪我はないのですが……」


 ニコラスは敵の返り血で全身を真っ赤に染めていた。


「……早く洗い流してきなさい。そのままではね」


「はい。あっ、あの、ランクさん、ありがとうございました」


「ん? 俺は何かしたか?」


「ランクさんのおかげです。ランクさんの戦いを見て、自分たちがやってきた事に間違いはなかったと自信を持てました。私が敵に踏み込む勇気を持てたのは、そのおかげです」


「そうか……。それは俺も同じだ。強くなっている。そう実感出来た」


「そうですね。皆、強くなっています。それは自信を持っても良いですね?」


「はい。ですが、まだです。ここで立ち止まっていては」


「……そうですね」


 ニコラスの問いに、ヒルデガンドは戒めの言葉を返す。自分たちの目指す場所はまだ先。そして、その目標は、更に先に進もうとしているに違いないのだ。


「ヒルデガンド妃殿下……」


「えっ、あっ」


 突然、背後から掛けられた声に、驚いて振り返ったヒルデガンドの目に入ったのは、黒装束に身を固めて、小さくうずくまる間者の姿だった。

 すかさず、マティアスとランクが、ヒルデガンドを守る様に前に出る。


「何者だ」


 厳しい目つきを向けたままマティアスが素性を問い質す。


「伝令をお伝えします」

 

 現れた間者は下を向いたまま声を発した。


「……何だ?」


「王国軍の別働隊の所在が分かりました。王国最南部から、皇国への侵入を企てております」


「南部? 南方伯領か?」


「いえ、進路はその更に南。南部辺境領に向かうものと思われます」


「何と!? それは……」


 間者の報告に焦りの色を浮かべたのは、マティアスだけではない。ヒルデガンドや他の者たちもだ。南部辺境領で戦いが起る可能性など、全く頭の中にない事だった。


「困りましたね。南部辺境領は予想していませんでした」


「皇国騎士団の対応は?」


「それについては何も。まずはこの情報をヒルデガンド妃殿下にお伝えするようにと」


「……どういう事だ?」


 皇国騎士団よりヒルデガンドを優先するからには、何か理由があるはずだ。


「南部に移られてはという事かと推察いたします」


「それは命令か?」


「いえ」


「どういう事だ?」


「……私の役目は伝令のみです」


「ヒルデガンド様?」


 これ以上、間者に聞いても仕方がないと、マティアスはヒルデガンドに意見を求める。


「ここを離れる訳にはいきません。王国軍の主力を引きとめるのが私の役目です」


「アレクサンドル二世国王率いる本隊は、まもなくここを離れます。すでに前線は下がっているかと」


 ヒルデガンドの言葉を受けて、更に間者が驚くべき情報を提供してきた。


「何だと!? おい! トリスタン殿! 王国軍の様子は!?」


 間者の言葉を受けて、ランクは大声で砦の門の上にいるトリスタンを呼んだ。


「前線が引いている! これはどういう事だ!?」


 トリスタンの答えは、間者の情報を裏付けるものだった。


「降りてきてくれ! 皇国の間者が報告に来ている!」


「いつの間に!?」


「とにかく早く!」


「分かった!」


「少し待ってもらえますか? 他の方にも聞いてもらいたいのです」


 間者に対するには、丁寧な言葉でヒルデガンドは待つように告げる。


「はっ」


 慌てて降りてきたのだろう。大して待つまでもなく、トリスタンはその場に現れた。他の辺境領主も一緒だ。


「報告を続けてください」


「はっ。王国軍の主力は、この砦を突破する事を断念し、北部に向かうと思われます」


「何故、それが分かったのですか?」


「忍び込ませている間者からの情報です」


「……そう。そんな人が居たのですね。それが事実だとすると、ここを守る必要はなくなります」


「しかし、確かな情報なのですか?」


 マティアスの懸念も当然の事。引き下がった振りをして、油断させる策である可能性は充分にある。


「それは……。南部の情報をもう少し詳しく教えてもらえますか?」


「はっ。王国の南部侵攻軍を率いるのは、王国王太子ニコライ・シードルフ。総勢三万。南部辺境領主を取り込みながら、いずれ北上するつもりと思われます」


「それって……。北部の貴族軍は囮だった?」


「皇国の目を北に向けて、手薄になった南を突くつもりだったのではないかと」


「……主力軍が南ではなく、北に向かった理由はどうしてだと思いますか?」


「変わらず北に皇国の目を引き付ける為」


「でも南部侵攻軍の居場所は知れたわ。それでも北に向かせる必要があるのですか?」


「王国はこの情報が漏れたと気付いていません」


「そう……。これを知るものは?」


「皇国でも今、この場にいる方たちだけです」


「何故、真っ先にそれを私たちに伝えに来たのですか?」


「時間がありません。皇都の対応を待っていては、南部辺境領は完全に王国に押さえられる可能性があります。ここからであれば、位置的に近い」


「わずか五百です」


「ここと同じように南部辺境領主を纏められれば良いかと」


「南部にはセレネさんが居たわ。セレネさんでは駄目ですか?」


「……セレネ・エリクソン殿では南部辺境領主は纏められません。理由はこの場にいる辺境領主にご確認を」


「ヒルデガンド様。この間者は?」


 ここで、ようやくマティアスも、この間者がおかしい事に気が付いた。皇国の一間者がセレネの事を知るはずがない、知っていたとしても、この言葉が出てくるはずがない。


「トリスタン殿、ラウール殿?」


 マティアスの問いに答える事なく、ヒルデガンドは二人に視線を向けた。


「……セレネはディーフリート殿に近付き過ぎました。辺境領主としての動きを途中で止めてしまったのが大きい。セレネの行動は西方伯家の利を考えていると思う者も少なくありません」


 これでは確かに、セレネでは南部辺境領主は纏められない。


「そうですか。分かりました。南に向かいます。伝令、ご苦労でした。主によろしく伝えて下さい。それとも、これも策ですか?」


 マティアスに指摘されるまでもなく、ヒルデガンドにはこの間者の素性は分かっていた。


「策であったとしても、それは辺境領の為です」


「変わらないのですね? 今、どこにいるか。これを聞くのは無理ですか?」


「いえ」


「えっ?」


「我が主は、ノルトエンデに戻りました」


「「「なっ!?」」」


 さすがにこれを聞けば、他の者も間者を送ってきたのが、誰か分かる。誰の顔にも驚きの表情が浮かんでいた。


「これを預かっております」


 こう言って間者は一通の書状をヒルデガンドに差し出した。


「カムイから!?」


「いえ、ノルトエンデの代官であるオットー殿からです」


「オットーさんから? 中身は知っていますか?」


「読んで頂ければ分かりますが、一言で申し上げれば、辞表という物だそうです」


「そういう事ですか」


 カムイが戻ったからには、ノルトエンデに代官が居ても意味はない。わざわざ辞表を出してきたオットーの律義さが、ヒルデガンドは少しおかしかった。


「では、失礼します」


 そして瞬きをする間に、間者、ミトは、その場から消え去った。


「カムイの間者……、ですか?」


「一度会った事があります。途中で思い出しました」


「信用出来るのですか?」


「騙すつもりであれば彼女を寄越さないでしょう」


 面識がある上にミトは女性だ。女性の間者が戦場に現れては、顔を覚えていなくても疑念を抱く事になる。皇国の間者と本気で偽るつもりであれば、他の者を送ってくるのが普通だ。


「確かに」


「情報は確かだと思います。でも南に向かわせる事は、どうだか分かりません」


「辺境領を守ってくれ。カムイの頼みでは?」


 ヒルデガンドの疑問の答えは、意外にもラウールから発せられた。


「ラウール殿? でも、どうしてカムイがそれをしないのですか?」


「カムイは魔王。それに従えば、魔族に従ったと思われる」


「……そうですね」


「それもあと少しだけど」


「……貴方は何を知っているのですか?」


 思わせぶりな言葉。だが、その意味をヒルデガンドは聞く事が出来なかった。


「今は教える気はありません。教えられるのは、南部辺境領で信頼できる者の名だけです」


「それは逆に信用ならない方ではありませんか?」


「じゃあ良いや。さて、こうなれば俺は引き揚げる。領地を取り戻さないといけないからな」


「あっ、あの」


 ヒルデガンドが引きとめるのも構わずに、ラウールはその場を去って行った。自領の兵を呼び集めている所を見ると、引き揚げるのが本気だと分かる。


「南部辺境領主の名は私がお教えします」


 焦るヒルデガンドにトリスタンが話しかけてきた。


「やはり貴方もなのですね?」


「東部辺境領主、特に私たちは、カムイに返しきれない恩を受けていますから」


「そうですか。ラウール殿が言いかけた話も知っているのですね?」


「ああ、ラウールは勿体付けましたけど、あの情報は周知の事です。多くの者が事実だと認識していないだけの事」


「……分かりません」


「教都で何が起こったかは?」


「えっ?」


「噂は噂ではなく事実です。東部辺境領は教都にも近い。真実を知る者が多く流れてきています。そして王国も。王国自身が調べなくても、新神教が血眼になって調べていたはずですから」


「……皇国だけが知らない」


「その様ですね。ヒルデガンド妃殿下が知らないくらいですから」


「そうですか」


「ヒルデガンド様、我等にはさっぱり話が読めません」


 分かっていないのはマティアスも同じ。皇都に居たヒルデガンドたちだけが分かっていない様子だ。マリーを除けば。


「カムイは魔王で勇者だって事さ」


「マリーさん!」


「まだ気が付いていないとは意外だったね」


「マリーさんは知っていたのですね?」


「もちろん。あっ、テーレイズ皇子もだからね」


「ええっ?」


「なるほど、この驚く顔を見たかったんだね。残念がるね。ヒルダの驚く顔を見られなくて」


「そういう問題ではありません!」


「カムイは神の御使いが正式に認めた勇者。さて、勇者に従う事で後ろ指を指される事はあるかね?」


 嫌々受け取った称号でも使えるものであれば使う。それがカムイの遣り方だ。


「……それでノルトエンデに戻った。魔王としてではなく」


「又、動き出すよ。今度はもっと本格的にかもしれない。ただ、どう動くかが相変わらず分からない。面倒な男だよ。本当に」


「動くとしても、まだ先の話でしょう」


 ここで又、トリスタンが口を挟む。


「おや、この男も面倒だ。信用ならないと言った方が良いかね?」


「何か情報を知っている訳ではありません。カムイが勇者だという噂が真実として広まるまでにはもう少し時間が掛かるでしょう。だから、南部をカムイはヒルデガンド妃殿下に頼んだ」


「まあ、理屈は合ってるね。さて、そうなると南部に向かうしかないね」


「それは決めています。でも、どうして?」


「少しでも恩を売っておかないと。カムイに恩を売れる機会なんて、滅多にないよ」


「それはそうですけど」


「よし、決まり。もっとも移動は王国軍が確実に引き揚げたのを確認してからだね」


「ここは?」


「皇国騎士団の後詰めを呼んどきな。それくらいしか使い道ないから」


「分かりました」


 ヒルデガンドの戦場は南部に移る事になる。これは皇国の為でもあり、カムイの為でもある。二つの目的が重なる事は、ヒルデガンドにとって有難い事だ。

 何の懸念もなくなるのだから。

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