白瀬朱鷺③
「それじゃあ、今から小テスト始める」
三時限目の開始を告げるチャイムが鳴るなり、数学教師の竹中先生はそう宣言すると、きびきびとした動作で小テストの紙を教室の前列にいるクラスメイトたちに配っていく。
事前に小テストがあるということは前回の授業で伝えられていたので、クラスメイトたちの不満の声が竹中先生に浴びせられることはなかった。表に出さないだけで、内心では愚痴をこぼしているかもしれないけど。
僕の左斜め後ろの席にいる白瀬をちらりと見る。
やはり一番後ろの席に座っている白瀬にはプリントが配られていなかった。仕方のないこととはいえ、少しやるせない気持ちになる。
白瀬は立ち上がって教壇の上に置かれていた余りの小テストの紙をさっと手に取ると、自分の席に戻っていく。
僕以外の誰も、白瀬の挙動を気にしている人はいない。竹中先生は腕時計を、クラスメイトたちは小テストのプリントだけを見ていた。
この教室というかこの高校で、白瀬朱鷺の存在に気がつけるのは僕だけしかいない。
だから、白瀬が一番後ろの席に座っていると、さっきのように彼女の分のプリントは配られない。一番後ろの席でなくなくても彼女がプリントを取ってしまえば誰かの分が足りなくなる。それが一度や二度ならプリントを配ったもののミスで済むが、何十回もあれば誰だっておかしいと思う。彼女はそういう状況を生まないように、彼女はどの席に座っていようと余ったプリントをわざわざ取りに行くのだ。
白瀬朱鷺にどうして僕以外の誰も気づかないのだろう。
僕が初めてそう思ったのは二年に進級し、クラス替えで割り振られた教室で行われた自己紹介のときだった。
クラスメイトの誰もが同じような言葉を繰り返す自己紹介が三分の一ほど消化した辺りで、白瀬朱鷺の名前が呼ばれる順番になった。けど、担任は白瀬を飛ばして次の人の名前を呼んだ。
席は名簿順に並んでいるので、生徒を一人飛ばしたことに気づかないわけがない。それなのに担任の先生は疑問を抱くことなく淡々と生徒の名前を呼んでいく。クラスメイトたちも誰一人として白瀬の方に視線を向ける人はいなかった。
僕だけがこの教室で起こっている異常さに気づいているようだった。
先生に無視されたというのに、白瀬は小さくため息をついただけで、何も言わなかった。まるでこうなることが当たり前だと言うように。
そのときからだ。
僕は白瀬に強い関心を持つようになり、彼女の様子をしばらくうかがうことに決めたのは。
白瀬を観察を続けること一か月経った頃だった。
授業の休み時間の合間に白瀬は僕の席の前までやってくると、
「私のこと、見えてるの?」
そう、尋ねてきたので、
「もちろん」
と、僕は頷いた。そのとき白瀬が見せた戸惑った顔を忘れることはないだろう。
出会ってから一月が経ってようやく、僕たちは互いのことを正しく認識するようになった。
そんなことがあってから数日後、白瀬が鬼を殺していることを知った僕は、僕自身のために彼女の手伝いをするようになった。
僕以外の誰もが白瀬をいないものとして扱う異常な光景。
僕が白瀬に初めて会ったときから八か月が過ぎた今でも、僕の目の前に広がる光景は何一つ変わっていない。
「時間は十分間。じゃあ、始め」
竹中先生の合図で、ペンを走らす音が教室中から聞こえてきた。
僕はカンニングしていると思われないように、少しだけ首を動かしてまた白瀬の様子をうかがう。
誰にも見られることはないというのに、白瀬は真面目に小テストに取り組んでいる。
白瀬は存在感の欠落を自分の都合のいいように利用したことはほとんどない。学校側から不登校扱いとされていて、出ても出なくても出席扱いにされることはないのにちゃんと授業を受けているし、ばれないのにテストでカンニングしたこともない。
白瀬はとても強くまっすぐな人だと、僕は思う。彼女の生き方は捻くれものの僕の目にはとても眩しく映る。
「あと二分」
考え事をしていたせいで、残り時間はあと僅かになってしまった。テストの用紙は真っ白なままだ。
僕はざっと紙に目を通し、簡単にできそうな問題だけ手を付ける。小テストだし、このくらいでいいだろうと判断して、僕はペンを机に置いた。
「終わり。じゃあ、小テストを後ろの人から前の人に回していってくれ」
小テストが終わり、普段通りの退屈な授業が始まる。
真面目に先生の話を聞く気はなかったけど、とりあえず目立たないように僕はノートと教科書だけは適当なページを広げておいた。
それから僕は薄くまぶたを閉じて、また思考する。
白瀬朱鷺のこと。
鬼のこと。
妹のこと。
自分のこと。
考えなくてはいけないことは山のようにあった。