須賀千莉①
何度見ても夜の学校は不気味だ。
僕と白瀬の通っている県立廻木高校の校舎の壁はいくつもひび割れが走り、
所々塗装が剥がれ落ちている。そのせいで一層、おどろおどろとした雰囲気を強固なものにしている。
時刻は夜九時。周囲には僕以外の人影はなく、白瀬も傍にいない。
白瀬は学校近くの公園にスクーターを停めにいく途中で、先に学校の敷地内に入って行ってしまった。
置いて行かれたことは別に気にしていないけど、走行中のスクーターから飛び降りるのだけは止めてほしい。その程度のことで怪我一つしないのは分かっていても心臓に悪い。
「さてと、僕も行くか」
今から向かう場所は廻木高校のグラウンド。そこが、僕たちがいつも日課を行っている場所だ。
僕はもう一度辺りを見回してから、錆びついた校門をよじ登る。手袋をしていても手が冷たい。今の僕の姿はいろいろな意味で人に見られたくなかった。
僕は校門から飛び降りると、準備運動の代わりに何度か屈伸運動をしてから歩き出した。
廻木高校は上空から見下ろせば、口の形をしているのがわかる。校門側に三年の教室、その反対側に一、二年の校舎があり、その端と端は渡り廊下で結ばれているために、そのような形に見える。
校門から見て、右の渡り廊下のすぐ隣にグラウンドがあるので、一分も歩かない内に目的の場所が見えてきた。
照明もなく月も出ていないのに、グラウンドは白い光で照らされている。蛍のように儚げで、淡い光。その光の中心に、白瀬がいた。
よく目を凝らして見れば、光を発しているのは無数の白い粒子だということがわかる。
白瀬の身体に纏わりついている粒子は、黒ずくめだった服装と艶やかな黒髪を白一色に染め上げている。暗闇の中で、白い光に包まれた白瀬の姿は鮮やかに映えていた。
白瀬はすでに準備万端のようだった。
「もう来ているみたい」
近づいてくる僕に気がついた白瀬は、すっと校舎の屋上を指さす。その指の示す先にはあいつ、僕たちが鬼と呼んでいる人外がいるのだろう。
僕はポケットから眼鏡を取り出してかける。すると、暗闇に紛れていた鬼の姿がくっきりと見えるようになる。
「屋上にいる鬼は一体だけか。でも、そのうちどこからともなく湧き出てくるんだろうな」
「いつものこと」
「まあね」
僕がため息を吐いた直後、鬼は屋上から勢いよく飛び降りた。爆発でもしたかのような大きな落下音がして、地面が微かに揺れた。
屋上から落下したというのに、鬼は僕たちの目の前に平然と立っている。大人の男とあまり変わらない身体は暗闇も深く、濃い黒色。顔のパーツは口以外に何一つない。鬼は、その口を三日月のように歪めて嗤っていた。
その凄惨な笑みを見て、前から疑問に思っていたことを口にする。
「あいつは何が楽しくて笑っているんだろう?」
「知らない。興味もない」
「まあ、あんな化け物が何を思っているか、なんて分かるわけないか。人と同じ感情があるのかどうかさえ分からないし」
「そんなことより、あいつが私たちの姿をどうやって正確に把握しているのか気になる。目も鼻も耳すらないのに」
僕もそのことについて気になっていた。だから、すでにいくつかの仮説は考えてある。
「鬼は振動か体温を感知できて、僕たちの足音か体温で位置を特定している、と僕は考えているんだけど、白瀬はどう思う?」
「その理屈だと少し納得がいかない」
「どこに?」
「なんとなく」
「なんとなくかよ」
僕たちが何の生産性もない話をしていると、唐突に鬼がうなり声を上げた。
黒板を爪で引っ掻いたときのような、ガラス同士をすり合わせたときのような不快な音に耐えきれず、僕はイヤホンを耳に嵌める。これさえつけていれば鬼の声だけを遮断できる。しかし、完全に遮断できるわけではなく、微かに鬼の声は聞こえる。
「いいなあ、それ。私もほしい」
「白瀬がこれつけても何の効果もないけど」
「知ってる」
鬼はまた唸り声を上げた。
口しかないために鬼の表情はわからない。でも、なんだか怒っているという雰囲気だけは伝わってきた。目の前にいるというのに、自分の存在を無視して会話をしている僕たちが気に入らなかったのかもしれない。
白瀬はコートのポケットから取り出した一枚の銀貨を軽く握る。手の平を開いたとき、銀貨は形を失って白い粒子となっていた。追加された粒子は重点的に右腕へと集まっていく。
「うるさい」
苛立たしげに呟いて、右腕を軽く振るう。
その動きに合わせて、白い粒子は白瀬の手のひらから鬼まで一直線に伸びる白銀の鎖に変化した。
鎖は白い粒子をまき散らして自由自在に動き回り、鬼の身体を縛り上げる。鬼はその拘束から抜け出そうと狂ったように暴れたけど、もがけばもがくほどに鎖がきつく絡みついていく。その姿は惨めで、滑稽だった。
「お願い」
「あいよ」
白瀬が創り出した白い刀を受け取ると、僕は地面を蹴った。
狙いは首、というか喉。
遮断しているとはいえ、これ以上あの耳障りな声を聞いていたくない。
走ってきた勢いを殺すことなく右足裏で受け止めて、刀を横に薙いだ。鬼の頭が首から斬り離されて、場に静寂が訪れる。
白瀬が鎖を分解すると、白い粒子が吸い込まれるように白瀬の元に戻っていく。
鎖の拘束から解かれた鬼の身体が前のめりに倒れた。巻き込まれないよう右に避けたとき、足に何かが当たった。ポケットに入れといた懐中電灯で足元を照らしてみると、嗤ったままの鬼の頭が転がっている。
「うわぁ」
思わず間の抜けた声を上げてしまった。あまりにも不気味だったので、つい僕の視界に入らないところまで蹴り飛ばしてしまう。頭を蹴った感触は妙に柔らかくて気持ち悪かった。首を斬るときも豆腐に包丁を入れているような感触である。
人と似た姿をしている鬼の命を奪うことにはすでに慣れたけど、この感触だけはどうしても慣れない。それにこんなあっさりとした手ごたえでは、鬼を殺しているという自覚が湧いてこなくて物足りなく感じる。
「須賀、後ろ」
僕は首だけ動かし後ろを見る。鬼は僕の頭上に両腕を振り下ろそうとしていた。それでも僕は慌てて回避しようとはせずに、鬼の両腕を斬り落とした。そして、安全に胴体を両断する。
白瀬が非難するような口調で言う。
「気を抜かないで。死にたいなら、それでいいけど」
「死にたいわけあるかよ」
「なら、集中して」
僕は肩をすくめる。
「分かったよ」
別に気を抜いていたわけではない。仮にも化け物と殺し合いをしている状況で、気を抜けるわけがない。
ただ、気を張る必要もなかった。
普通の武器は鬼には効かないけど、白瀬の生み出す武器は鬼に抜群に有効だ。鬼の身体をバターのように斬ることができる。
さらに眼鏡をかければ夜目が効くようになり、俊敏な鬼の動きも追うことができるようになる。
僕は強くない。刀の扱いが長けているわけでも剣術を習ったことがあるわけでもなく、身体能力が特に優れているわけでもない。剣術は素人よりほんの少しましというほどの腕だし、身体能力なんかは男子高校生の平均と比べて、やや低いか高いかぐらいの部類に入る。
しかし、そんな僕でも特殊な装備のおかげで鬼の相手は簡単であった。
僕は辺りを見回す。
いつのまにか僕と白瀬を囲うように、鬼たちがわらわらと集まっていた。何度も見たことがある鬼の行動パターン。本当に観察しがいのない連中だと思う。
僕はため息をついて、刀を腰に構える。
「つまんないな」
目に見えるだけで十数体はいるだろう鬼たちに向けて、僕は吐き捨てるように言った。
二体の鬼が並走して僕に突撃を仕掛けてくる。僕は腰を落として、刀を構える。鬼たちが刀の間合いに一歩踏み込んだ瞬間に両足を斬り捨てた。
もちろん足を失ったぐらいで死ぬわけがないので、生け簀から取り出したばかりの魚のように、みっともなくじたばたしている鬼の背中に刀を突き刺しておく。数秒もしないうちに鬼は僕の視界から消えた。
自分たちの同類が一瞬で殺されたのを見て、鬼たちの間にわずかに動揺でも広がったのか、いくら待っていても攻めてこようとしない。
いつまでも待ち構えているのも面倒で、今度は僕から鬼の集団に突撃を仕掛ける。鬼たちの間を縫うように走り抜けながら、とりあえず視界に入った鬼に刀を振る。
体力があまりない僕はすぐに息が切れた。ちらりと後ろを向く。
腕。足。上半身。下半身。頭。僕が斬り落とした鬼たちの身体のパーツがいくつも地面に転がっていた。時間がたてば自然消滅するとはいえ、鳥肌が立つぐらい気持ち悪い光景だった。
「須賀。こっちも」
白瀬の声をしたほうに顔を向けると、僕から少し離れたところで白瀬が鬼五体を白銀の鎖で縛りあげていた。鬼一体を相手にしたときとは違いその拘束はかなり緩そうで、近づいて斬りつける時間はなさそうだった。
僕は前後に足を開き、肉団子みたいになっている鬼たち目掛けて勢いよく刀を投げつける。
刀は鬼たちを易々と貫き、地面に突き刺さった。
刀の回収に行く途中、僕は横目で白瀬の方を見る。
白瀬は白い髪を波打たせながら、鎖を分解して新しく構築した槍で鬼の胴体を両断しているところだった。わずかな間、白い刃の軌跡が虚空に残って、まばたきをしたときには消えてしまっていた。
自分に近づいてくる鬼は槍で突くか、斬る。距離が離れている鬼は鎖で拘束して僕に任せる。もしも鬼から反撃されたときは、白瀬の纏っている白い粒子が鎧となって身を守ってくれる。
本人から聞いた話によると、白瀬は半年以上前からこうして鬼と殺し合いを繰り広げていたのだと言う。その長い戦闘経験によってなのか、白瀬の戦い方は合理的で無駄がない。洗練されているといってもいい。そんな白瀬の戦いに魅入っているうちに、僕の足は止まっていた。
最初は鬼との殺し合いも退屈ではなかった。しかし、最近では鬼と殺し合っている白瀬を間近で見ている方が退屈しない、と思うようになっていた。
できることならずっと白瀬の戦うところを眺めていたかったけど、そんな怠けた行動を許す白瀬ではなかった。
自分に近づいてきた鬼たちをほとんど斬り伏せた白瀬がふいに顔を上げる。
白瀬は視線を僕の手元から、地面に斜めに突き刺さっている刀、そしてまだ数体残っている鬼たちへと順に移すと、何かいいことを思いついたと言わんばかりに口元を綻ばせた。
嫌な予感がする。白瀬にとっていいことは、僕にとってもいいことであるわけではない。
白瀬は、槍を分解して再構築した数本の鎖を鬼たちの手足に巻きつけた。
「須賀。プレゼントフォーユー」
白瀬は僕に声をかけると、軽く腕を振るだけで鬼たちを放り投げた。あろうことか、僕に向かって。
「おいおいおい。それはやばいだろ」
案の定、僕の予感は当たった。思っていた通りではあったけど、予想外なことでもあった。
僕は叫びながら、急いで刀を回収しに行く。あまりにも慌てていたせいか、小石に躓きそうになった。
「ふう」
握った刀の柄の感触に安心して、吐息が漏れた。
放物線を描いて飛んでくる鬼たちは口を、ぽかんと大きく開けていた。いきなり宙に放り投げられて、呆気にとられているのかもしれない。
「一体、二体、三体」
悲鳴にも聞こえる声を上げて落下してくる鬼たちを少し憐れに思いつつ、着地地点を予測し躱しながら、地面に叩きつけられて起き上がる前に斬りつけていく。
白瀬から投げつけられた鬼たちをすべて片づけると、僕は額の汗をぬぐった。
危なかった。本当に危なかった。まさかここ最近で一番の命の危機を味方からもたらされるとは思いもしなかった。
「無事だった?」
いつのまにか近くに来ていた白瀬が、そんなことを軽い調子で訊いてきた。無事じゃない状況に僕を追いやったのは、白瀬だというのに。
「死ぬかと思ったよ。いきなりああいうことするのは止めてくれない? 白瀬から借りているこの刀がないと僕は鬼相手に何もできないんだから」
刀を白瀬に見せるように掲げて、僕は言った。
「声はかけた。もしかして聞こえなかった?」
「いや、聞こえたよ。聞こえたけど、声をかければいいってもんではないよね?」
「集中してって言ったのに須賀が暇そうにしていたから、つい」
「つい、じゃないだろ。暇そうにしていただけで、殺されかけてたまるか」
「あれは私なりの叱咤激励のつもり」
僕は肩を落とした。もう何を言っても無駄な気がした。
「ああ、さいですか。頼むから、もう二度としないでくれよ。生きた心地がしなかったんだから、さっきの」
「本当に?」
「え?」
白瀬が僕の目を覗き込むようにしてみてくる。いつも気怠そうに眼を細めているので分からなかったけど、間近で見る白瀬の瞳は水晶玉みたいに澄んでいた。
「本当に、そう思ってる?」
僕は一瞬言葉に詰まった。
「…………思ってるに決まってるだろ。何か言いたいことでもあるのか?」
「ううん。須賀がそう言うなら、今は何も言わないでおく」
含みのある言い方をする白瀬。
どう反応したらいいか分からず、僕は薄く笑った。困ったときはとりあえず笑みを浮かべてみるのが一番いい。
僕たちがこうやって話をしている間でも、白瀬はちゃんと周りに気を配っているけど、いつものように追加の鬼たちは現れない。
「なんか今日はあんまり鬼が出てこないな」
「ちょうどいいかもしれない」
「ちょうどいい?」
「今日はもう終わりってこと」
白瀬は右手を水平に伸ばし、指を鳴らした。
それを合図に、白瀬に纏わりついていた白い粒子が一つに集まっていく。僕が握っていた刀もなくなる。グラウンドを照らしていた淡く白い光がふっと消えたとき、二枚の銀貨だけが白瀬の手のひらの上にあった。
「もういいの?」
「今日は色々あって少し疲れたから、早く帰りたい」
確かに白瀬の声からは疲労の色が感じられる。僕も慣れないスクーターを長時間運転したせいか、正直体がだるい。だから、早く帰るという白瀬の提案に何の文句もなかった。
「そうだね。帰ろう」
背筋を思いっきり伸ばす。ぱきぱきと小気味いい骨の音がした。
僕が歩き出すと、白瀬もやはり僕の一歩後ろをついてきた。