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白瀬朱鷺②


 走り出してすぐに、太陽が山と山の間に沈んでいくのが視界の隅に見えた。辺りが段々と暗くなっていく。

 白瀬の言う通りに長いトンネルをいくつか抜けると、田んぼと畑ばかりの眠ってしまいそうなほどに退屈な景色が延々と広がっている。山の中に入り、木々に挟まれた舗装されていない細い道を進んでいく。

 だいたい二十分くらい走ったころだ。


「とめて」

 

 と、白瀬は静かに言った。

 スクーターを止めたところは、曲りくねった峠。この峠が、僕に無理を言ってでも白瀬が来たかった場所。

 ざっと辺りを一瞥する。暗くてよく分からないけど、とくに変わったところではないと思う。


「ふう」

 

 スクーターから降りるなり、白瀬はさっさとヘルメットを脱いで、ほっと息をついた。息が詰まるから厚着をしたくない。そんなことを言うほどだから、ヘルメットをかぶっているのはさぞや不快だったことだろう。僕もそれについては同意する。今の季節が夏だったら、あんな暑苦しいもの絶対に被らない。


「須賀」

 

 白瀬からヘルメットを受け取り、自分のかぶっていたものと一緒に並べてハンドルにぶら下げていると、白瀬が僕の名前を呼んだ。


「二つあるから貸してあげる」

 

 白瀬から手渡されたのは懐中電灯だった。用意のいいことに、自分の分だけではなく僕の分も持ってきていたらしい。ありがたく受け取っておいた。


「僕は、ここで待っていたほうがいい?」

「別についてきていい」

 

 待っていても暇だ。白瀬がついてきていいと言うのだから、変に遠慮する必要もないだろう。


「じゃあ、そうする」

「私の後ろついてきて」

 

 白瀬は迷いのない足取りで崖の方へ向かっていく。僕はその後を追いかけた。二人で歩くときに白瀬が僕よりも前を歩いたのは、もしかしたらこれが初めてだったかもしれない。

 白瀬は崖の淵のガードレールに腰を下ろした。僕はそこに座らないで白瀬の横に立っていることにした。


「危ないよ」

 

 白瀬が枝のように細い足を、ぶらぶらと宙に放り出しているのを見て、僕はさりげなく注意する。


「大丈夫。落ちたら須賀が助けてくれるから」

「そのセリフ、まるで僕を信頼しているように聞こえるけど、実際はもし落ちたときの責任を僕に押し付けようとしているだけじゃない?」

「さあ、どうだろう?」

 

 と、はぐらかす白瀬。

 僕はそんなふざけた態度をとる白瀬の頬を軽くつねりたくなった。その衝動を抑えて、視線を前に向ける。

 目の前には、宝石箱のように輝く民家やビルの灯り。夜の道路を行き交う車たちが描く、鮮やかな色をした光のライン。もっと先には、なだらかな起伏をした山が見える。

 どこにでもあるような峠。

 どこにでもあるような景色。

 僕の目にはそのように見えているこの場所が、白瀬にとってはどう見えているのだろうか。


「どうしてこの場所に来たかったの?」

 

 まるで僕からそう訊かれることを分かっていたかのように、白瀬は少しも考えることなく答えた。


「ここは家族との思い出の場所だから」

 

 白瀬の声には、ぞっとするくらいの冷たさが含まれていた。

 とても家族との思い出なんていう暖かな言葉を口にするときの声音ではない。

 それが分かっていながら、僕は、そうなんだ、とテキトーな相槌を打った。例え友人であろうと恋人であろうと、他人の事情に踏み込むようなことを僕はしたくないし、することもできない。

 白瀬から逃げるようにして、僕は足元を覗き込んだ。

 落ちたら身を削り取られそうな急勾配の岩肌。さらにその奥は暗闇のせいで何も見えないのに、貪欲な獣が大きな口を開けて待ち構えているような錯覚に襲われる。気を抜いてしまったら、暗闇に呑み込まれてしまいそうだった。

 崖下を見つめていると、死を身近に感じた。ぴたりと寄り添われているのではないか、と思うぐらいに。こんな感覚を味わったのは、二度目だった。

 気分が悪くなった。吐き気がする。ひどく頭が痛い。鋭い針で頭蓋を貫かれているみたいだった。


 ―――忘れるなよ。


 頭の痛みがピークに達したとき、ノイズ混じりの声が頭の中で囁いた。

 この場には僕と白瀬の二人しかいない。だから、この声は幻聴だ。幻聴でしかありえないのに、どうしてだろうか。僕は昔、この声を聞いたことがある気がした。懐かしいとさえ思っている。


 ―――忘れるな。


 また声が囁く。

 一体何を忘れるなっていうんだ? 

 心の中で問いかけても答えは返ってこない。でも、訊かなくてもなんとなく分かっていた。忘れてはいけないことが何なのかを。


「忘れないよ」

 

 横にいる白瀬に聞こえないぐらいの小さな声でそう呟く。

 二年前に妹が殺されたこと。妹を殺した相手のこと。妹の死の責任が僕にあること。すべて忘れるはずがない。

 目を閉じれば、二年前の断片的な記憶が脳裏に浮かんでは消えていく。

 ふと気づいたとき、頭の痛みは嘘のようになくなっていた。

 頭痛から解放されて一息ついていると、いきなり懐中電灯の光が僕の顔に当てられた。手の平でその光を遮る。


「眩しい」

 

 抗議の声を上げると、僕の顔に向けられていた光が逸れる。


「何かあった?」

 

 器用なことに懐中電灯を指で、くるくると回しながら、白瀬が訊いてくる。


「どうしてそんなことを訊くんだ?」

「今の須賀、ひどい顔色をしているから」

「そんなことないよ。きっと懐中電灯の光を直接顔に当てたりするから、顔色が悪そうに見えただけだと思う」

「本当に?」

「本当に」

 

 白瀬は僕の言葉に納得していないみたいで、訝るような視線を送ってきているのが気配で分かった。僕はあえてその視線に気づいていないふりをして、強引に話題を変える。


「これで白瀬の用事は終わり?」

「一応」

「それなら早く帰ろうか。僕たちにはまだいつもの日課が残ってるわけだし」

「その日課だけど、今日ぐらい須賀は休んでいい。私一人でやるから」

 

 その言葉に込められた不器用な優しさに、あの正体不明な声を聞いてから凝り固まっていた心と身体がほぐされていくような気がした。


「もしかして心配してくれてる?」

「してない」

「……そっか」

「…………してるかもしれない」

 

 わざとらしく残念そうに呟くと、白瀬は消え入りそうな声で言い直した。


「最初からそう言ってくれればいいのに」

「それは無理」

「どうして?」

「聞かなくても分かっているくせに」

 

 僕はにやりと意地悪く笑う。白瀬と会話をしているうちに、僕はいつもの自分を取り戻していた。


「自分の素直な感情を表に出すのが恥ずかしいからだよね」

「そんなこと口に出さなくていい」

 

 懐中電灯で脇腹を突かれる。


「うっ」

 

 咄嗟に腹筋に力を込めて防御したので、あまりダメージはない。けど、痛がっているように見せないと追撃される恐れがあるので、僕は脇腹を手で押さえながら呻き声を出す。

 その体勢のまま白瀬の反応を待っていると、


「いつまでそうしている気?」

 

 と、冷ややかな声が投げかけられた。どうやら演技だと一目で見抜かれているらしい。鋭い人だ。


「悪かったよ」

 

 僕が手を合わせて頭を下げたとき、唐突に辺りが明るくなった。

 僕は顔を上げる。

 いつのまにか雲に隠れていた満月が姿を現していた。今まで見たことがないぐらい、大きくて丸い月で、手を伸ばせば掴めそうだった。

 白瀬はフードを脱いで、月を見上げた。

 月の光の下で、背中の半ばまで伸びた黒髪の艶やかさと頬の白さが冴え冴えと際立っている。まつ毛は長く濃い影を目元に作り、薄桃色の唇は濡れているように光っていた。

 普段からあまり気力を感じさせない、眠たそうに細められた目さえしていなかったら、白瀬の横を通り過ぎた人のほとんどが振り返ってしまいそうなほどに、端正な顔立ちだった。

 僕は息をのんだ。不覚にも月ではなく、白瀬の姿に見惚れてしまった。

 そんな自分が馬鹿らしいやら恥ずかしいやら情けないやらで、僕はこめかみを親指で強く押した。視界が一瞬涙でぼやけるぐらい痛かったけど、どうにか正気を取り戻すことはできた。


「白瀬」

「何?」

 

 白瀬は月から僕の方に視線を移した。


「心配してくれてありがとう」

 

 ジーンズについた砂を払い落としながら、何気なく礼を言った。こういう言葉を面と向かって言うのは恥ずかしい。


「でも、気持ちだけ受け取っておくよ。この後の日課に支障が出るようなことはないから大丈夫」

「呆けていて死んでも知らないから」

「死なないよ」

 

 まだ何の責任も果たしていないのに、死ぬわけにはいかない。


「そう。それなら」

 

 一端、唇を閉じた白瀬は薄い笑みを浮かべてから言葉を続ける。



「いつも通り二人で殺そう、あいつらを」



 白瀬の後ろにあった月は、もう見えなかった。


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