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白瀬朱鷺①

 初めて見た妹の墓は薄く砂ぼこりを被っていた。

 くすんだ銀色の筒には花が供えてある。その花は長い間放置されていたらしく、どんな種類なのか分からないほどに枯れていた。

 妹の墓は隣町の小さな丘の上の、隠れ家のようにひっそりとした墓地にある。

周りに生えた松や杉が太陽の光を遮るように枝を伸ばしていて、まだ夕方なのに墓地は薄暗い。

 昨日か一昨日にでも雨が降ったのか、地面が少しぬかるんでいる。妹の墓の前まで歩いてくる間に泥まみれになった明るい色のスニーカーを見て、吐いてくる靴を間違えたことを少し後悔した。

 墓参りに来ている人は僕一人だけ。

 墓地には長い年月のうちに風化して、丸みを帯びたいくつもの墓石が疲れ果てたように立ち並んでいる。二年前に作られた妹の墓だけが場違いなほどに真新しい。

 この墓地には寂しさが雪のように降り積もっていた。

 僕、須賀千莉(すがせんり)は妹の墓の前に腰を下ろした。

 墓の周りは思っていたよりも雑草が生い茂っていない。人を待たせているので、草むしりの手間が省けたのは都合がよかった。

 肩にかけていた茶色い鞄からタオルを取り出して、墓石を拭く。大理石の床を拭いているような滑らかで、ひんやりとした冷たい感触に指先が震える。でも、そのぐらいのことで手を止めようとは思わない。

 一通り拭き終えた後、再び鞄の中をごそごそと探り、安物のライターと線香の箱を取り出す。束のまま線香に火を点けて、香炉の中に置いた。

 僕は手を合わせることも目をつぶることもせずに、線香の煙がふらふらと揺らめきながら空に昇っていく様子をぼんやりと眺める。線香にどんな花の香料が混ぜられていたのか、懐かしくて柔らかな甘い匂いが辺りに漂っていた。


「用は済んだ?」

 

 突然澄んだ鈴の音のような声が後ろから聞こえたので振り返ってみると、白瀬朱鷺(しらせとき)だった。

 暗闇に溶け込もうとしているかのように、白瀬は首に黒いマフラーを巻き、黒く分厚い手袋をつけ、黒い厚底のブーツを履き、紺のダッフルコートのフードで顔を覆っている。

 Yシャツと紺色のカーディガンの上にダウンコートを羽織って、灰色のチノパンを履いている僕の服装が薄着に思えるほど、白瀬の防寒対策は万全だった。


「一応ね」

 

 白瀬からの問いに、僕は手をさすりながら答えた。

 一つ山を越えただけなのに、僕の暮らしているところとは比べ物にならないほどにこの町の空気は澄んでいて、吸うと肺が痛いくらいに冷たくなった。もう冬はすぐそこまで迫っていた。


「待った?」

「それなりに」

 

 嘘でも待っていない、と答えないところが白瀬らしい。


「悪い。もう少しだけ待っていて」

 

 そう言って片付けを始めようと伸ばした僕の手を、白瀬がそっと掴んだ。


「線香」

「え?」

「私も線香あげていい?」

「いいけど」

「けど?」

「いや、何でもない」

 

 どうして僕の妹に線香をあげてくれるのか、白瀬に訊くことができなかった。訊いてはいけないような気がした。

 僕はただ微笑んで、線香の束とライターを差し出す。白瀬は何故かライターを受け取らず、線香の束の中から一本だけを抜き取ると、僕のとなりで膝を丸めた。

 白瀬は火の点いていない線香を筒の脇に置く。僕とは違い、ちゃんと手も合わせてくれた。

 隣にいるというのに、フードとうつむいて垂れ下がった前髪に隠されて、白瀬の表情は読めない。

 僕の妹とは一切関係がなかったはずなのに、白瀬は妹の墓の前で手を合わせてくれている。今まで一度だって妹の墓参りをしなかった僕がそんなことを思うのは間違っているかもしれないけど、家族以外に妹のことを弔ってくれる人がいるのは嬉しかった。


「火は点けなくていいの?」

 

 しばらくして立ちあがった白瀬に、僕は尋ねた。

 白瀬は首をゆっくりと横に振る。


「私はいい。これ以上燃やしたら、さすがに煙たい」

「やっぱり多かったかな」

「当たり前。一度に一束使うなんて信じられないし、もったいない。そんなに一気に使わないで、次に来たときのために残しておけばいいのに」

「次なんてない」

 

 白瀬に言う必要なんてないのに、僕の意思に反して口は言葉を紡いでいく。


「もうここには来ないよ。来る理由がない。だから一度にあんな大量の線香を燃やしたんだ。今までの分とこれからの分のつもりで」

 

 本来なら、僕は一度だって妹の墓参りをするつもりはなかった。でも、どうしても妹の墓を見て確かめないといけなかった。

確かめたら確かめたで、ますます頭の中が混乱しただけだったけど。

 結局、僕は妹のためなどではなく、いつも通り自分のために今日この場所へやってきたのだ。


「どうしてもう来ないの?」

「別に理由なんてないよ」


 嘘だ。理由ならある。


「……そう。でも、理由なんてなくても家族には何度だって墓参りに来てほしいって、私だけじゃなくてここにいる人たちだって、そう思っているはず」

「……そうかもね」


 と、僕は曖昧な答えを返した。

 白瀬はここにいる人たちと言った。でも、僕の目には白瀬以外の人は映っていない。

 それは白瀬の頭がおかしいのではない。その逆で、見えていない僕のほうが稀なのだ。

 十年前のある日から亡くなったはずの人、一般的には幽霊と呼ばれている存在を見ることができる人が現れ始めた。その人たちは急速に数を増やし、今では見えない方がおかしいとされている。

 だから、幽霊がいることも幽霊が見える人がいることも科学的な解明は未だにされていないのに、人々の中ではその事実は最早常識になっていた。

 当たり前に幽霊が見えるようになって社会は少しだけ変わった。

 裁判では幽霊の証言が認められ、霊に関する問題を取り扱う民間会社がコンビニのように街に激増したり、宗教が急速に波及したり、その後のことを考えて殺人を犯す者が減った。あとはまあ、政府のほうでオカルト対策にあたる組織ができたりもした。

 でも、それだけだ。

 オカルトの世界が現実になり、人が元々持っていた価値観が大きく覆されたというのに、たったそれだけしか社会は変わらなかった。

 人は慣れる生き物だ。そうでないと今日まで人は生きてはこれなかっただろう。それでも、僕は皆のようにとある当たり前の事実を何も考えることなく当たり前として受け入れたくなかった。

 考えることをやめない。

 それが僕を僕として支えてくれている唯一の信条だから。

 まあでも、今は僕の信条なんてどうでもいいことだった。


「これで僕の用は終わったし、後は」

「待って」


 鞄を肩にかけ直して、妹の墓に背を向けようとしたときだった。白瀬は制止の声と共に、また僕の手を掴んだ。


「今度はどうした?」

「まだ用が残ってる」

「誰の?」

「須賀の」

 

 白瀬の言っていることが理解できなかった。ここで、やり残したことなんてないはずだ。


「なあ、白瀬。まだ残っていることってなんだ?」

「家族なんだから別れの挨拶ぐらいしないと、だめ」

 

 静かだけど、強い意思の込められた声。僕は、他人の事情に興味を示すことのない白瀬がそんな声を出したことに少し驚いた。

 白瀬の言っていることは常識的に考えれば正しいけど、僕は別れの言葉を口にしたくはなかった。妹に別れを告げる必要がないと分かっているから。


「どうしてもしないと、だめ?」

「だめ」

「だけどさ、墓に家族がいるわけでもないんだから別によくない?」

「だめ」

「あの」

「だめ」

「……」

「だめ」

 

 ついには僕に口を開くことすら許してくれなかった。それほど長い付き合いではなく、彼女の性格のすべてを把握できているわけではないけど、こうなったらもう、僕が折れるしかないということは分かる。


「……分かったよ」

 

 僕は渋々といった感じで妹の墓に身体を向き直すと、小さく手を振りながら、さようなら、と別れの言葉をつぶやいた。


「これでいい?」

「うん。これでいい。まったく心こもってなかったけど、それについては私も人のこと言えないし」

「確かに」

 

 僕は白瀬が自分の性格を客観視できていることを意外に思いつつ、今度こそ踵を返す。白瀬も僕の後に続いた。

 お互いに沈黙したまま、僕たちは苔生した石畳の上を歩いていく。

なんとなく沈黙が気まずい。僕が勝手にそう思っているだけで、水瀬の方は特に気にしている様子ではなかった。お互い口数が多い方ではないから、この距離感が普通なのだろう。

 少し歩くと、開けた場所に出た。一応この墓地の駐車場らしい。僕たちは隅のほうに置いていたバイクに近づいていく。

 体の芯まで凍えるような冷たい風が吹いて、木の枝に辛うじてすがりついている枯れ葉が、かさかさとひどく乾いた音を立てた。ふと、となりを見ると、白瀬がマフラーに顔をうずめていた。


「それだけ着こんでいても、まだ寒いみたいだね」

 

 今日はまだ十一月の上旬。これから先は僕たちの住んでいる街も、今の寒さがかわいく思えるぐらいに冷え込んでいく。あれだけ色々と装備していているのにこの時期の寒さを耐えられないようでは、十二月、一月になったら白瀬が生きていられるのかどうか心配になってくる。


「冬は苦手」

「寒いから?」

「もちろんそれもあるし、なにより厚着しないといけないのが気に入らない」

「どうして?」

「厚着をしたときの、息が詰まるような感じが嫌いだから」

「わかるようでわからない感性を持ってるよね、白瀬は」

「悪い?」

「いいや。むしろいいと思うよ。僕は変わっている人が好きだから」

「須賀に好かれても嬉しくない」

「そうかい」

 

 軽口を言い合いながら、僕はスクーターのエンジンをかけた。低く唸るような振動音。タイヤの近くにあった砂利がいくつか弾かれる。

 騒がしいのは好きではない。できることなら、この寂れた場所のようにあらゆる喧噪から隔離された場所で小鳥のさえずりに耳を傾たり、燃えるような茜色の夕日や澄んだ夜空を眺めていたい。

 綺麗な音だけを聞いて綺麗なものだけを見て、一生を終える。それはとても素敵な人生だと僕は思う。

 でも、僕も水瀬も僕たち以外のどんな人たちも、醜いものや汚いものを見ないといけないときがくる。辛いことや苦しいことから、目を背けてはいけないときが必ずくる。今の僕のように。

 ああ、これ以上こんなことを考えるのは止めよう。

 僕は頭を横に振って、ずるずると沈み込んでいくような思考を払い落とした。僕には、ほかに考えなくてはいけないことがある。


「ほら」

 

 そう、声をかけてから軽く放り投げたヘルメットを、白瀬は抱くようにして受け取った。


「いきなり投げないで。危ない」

「加減はしたよ。声もかけたし」

「聞こえなかった」

「それは僕の責任ではないと思うけど」

「相手に聞こえない声で話す方が悪い」

「そんなの分かるかよ」

「ああ言えばこう言う」

「白瀬もたいして僕と変わらないだろ」

 

 まだ何か言いたそう白瀬を手で制して、顎でスクーターの後ろに座るように促す。少しの間が空いて僕の腰に回された腕には、この墓地に来るときよりもずっと強く力が込められていた。


「怒るなって」

 

 子供をなだめるような口調で声をかけると、後ろから頬を鋭くつまれた。


「痛い、痛い」

「子ども扱いしないで」

「……ごめんなさい」

 

 二度も同じことをされたくはなくて、素直に謝った。


「うん。許す」

 

 ほんの少し満足げな声が後ろから聞こえた。

 白瀬は何事にも淡白そうに見えて、今みたいにからかうと簡単に怒る。けど、根に持つことは絶対にないという、熱しやすくも冷めやすい金属みたいな性格をしている。僕はその性格を見抜いてしまっているので、懲りることなく白瀬を何度もからかっている。

 今まではしてこなかった僕への直接攻撃が行われるようになり、しかも最近それが増えてきたのはそのせいなのかもしれない。

 そうだとしたら、ただの自業自得だということになる。


「それでも止めないけど」

「何か言った?」

「いや、何でも。それで、白瀬が連れて行ってほしいところってどこ?」

 

 近くに行きたい場所があるから、仁見について行ってもいい?

 今日の放課後、一人で家族の墓参りに行くことを白瀬に伝えたとき、白瀬はそんなことを言ってきた。特についてきてほしくない理由が思いつかなかったので、僕は白瀬の頼みを断らなかった。


「私の話、覚えてたんだ」

「数時間ぐらいで忘れないよ。僕はそんなに信用ないのか」

「そうじゃない。ただ、忘れられていてもよかったことだから」

「まあ、ついでだから行っておこうよ。案内はしてくれるんだよね?」

「……うん」

 

 白瀬の気のない返事を受けて、僕は軽くハンドルを握った。


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