プロローグ
風の冷たさに身をよじる。
つい一週間前まで喧しかった蝉の声はほとんど聞こえなくなり、刺すようだった日差しはずいぶんと和らいできている。
もう夏が終わる。
これから景色は活気あふれるような緑ではなく、どこか落ち着いているように見える紅や黄移り変わっていくのだろう。
でも、僕の身体を、僕の手のひらを染める色だけは変わることがない。
その色は、赤。
鮮やかでもあり、淀んでもいる赤。
人の血の色だ。
その色は二年前から今日までずっと僕を染め続けている。洗い落としては汚れ、洗い落としては汚れの毎日。初めは吐き気がこみ上げてきた錆びた鉄の匂いにも今では慣れてしまっていた。
僕は掴んでいた男の髪を放す。ころころと、地面を転がる血まみれの男の生首。気味が悪いので、僕はその生首を目の届かないところまで蹴り飛ばした。蹴ったときの妙に軟らかい感触に、僕は顔をしかめた。
所々で聞こえる銃声と怒号と悲鳴。辺りに散らばる死体の山。
耳を塞ぎたかった。
目を閉じたかった。
そんなことをしても無意味だって分かっているから、僕は汚し続けるしかなかった。自分の手を。
生まれ変わったら、僕は凡人になりたい。
人が羨むような才能も、望めばなんだって手に入る地位も、誰からも崇められる名誉もいらない。僕はただ、今の僕が手に入らないものである『自由』が欲しい。
そんなくだらない僕の話を、彼女は笑い飛ばすことなく静かに耳を傾けてくれた。それは二か月前の出来事なのに、遠い昔にあったことのように感じる。
地獄に最も近いような場所にいても、彼女の消え入りそうな笑みと彼女の鈴の音のような声を思い返すたびに、僕は自分が人間であると実感することができた。
どれだけこの場所を血で染め上げたら、もういない彼女に僕の手は届くのだろうか。
わからない。今は、まだ。
もう夏が終わる。
そして、僕も終わる。