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 ディスファレト王国は動き出した。独裁を脱し、民主化への道を大きく歩み出した。その大海原には困難が待ち受けるだろう。だが、それはこれまでの閉塞しきった状況よりも、未だ希望はある。

 そして、男はそれに与していながら、まったく違うことを考えていた。

 すでに、『ダモクレス』の管理フロアからは人が絶え始めていた。軍も、王も欺き切り、最大の失脚劇という表舞台は終わったからだ。セイムスへの侵攻の危機も去った。

 だが、ナイナスにとって、それらは些末極まりないものだった。彼にとっての目的、それは元より、一つだった。

 ゆっくりと歩む。『ダモクレス』管理フロア最深部の地図と、相手の居場所は元より頭に入っている。途中、ロッカーから、愛用の銃を取り出す。シグ・ザウエルP226。特に表情を交えず、ゆっくり歩く。

 誰も警備などいない。警備など、最初からいない。すべては、その約束だった。

 二度ナイナスはミーヤを奪われた。二度もだ。十一年経とうが、他に希望を抱こうが、それはぽっかりと開いた、ナイナスの大きな穴だった。到底埋めようもない、大きな穴だった。

 ゆっくりと歩む。最深部は特に何かがあるわけでもない。先端なのだからそれほど広いわけでもない。数部屋あるだけだ。

 そして、その一番奥に、ナイナスが待ち望んだ男がいる。

 ナイナスはその扉を開けた。ゆっくりと。

 そしてそのまま、拳銃を突きつけた。

「待ちくたびれたぞ、ナイナス・オーク」

 男は、十一年前とさほど変わらない。茶色い髪を半分けで撫で付け、青い眼はぎらりと凄みをもって猛禽のような光を放っている。あのときよりもさらに、深く、昏く。

 変わっているのは、顎ひげと口ひげを綺麗に整えているくらいだろう。あのときは髭はなかった。

 そして、かつてと同じように紅茶を楽しみつつ、椅子に腰掛け新聞を読んでいた。

 ただし、彼も懐に飲んでいた銃をゆっくりと取り出し、ナイナスに突きつけた。

「ただ死ぬ、というのも趣がない。抵抗くらい、させて貰っても構わんだろう」

 ナイナスは、正面からその男、ハーバートを睨み付けた。憎しみで心がちぎれそうになりながら。

「ナイナス、君は私と会うのは、あれ以来というわけではないはずだ。チュニス、サラエボ、香港、デュッセルドルフ。他にも沢山回った。そのどこにも、お前はいた」

 ナイナスは殊更に強く拳銃を握り締めた。

「何故私を殺さなかった? お前には殺す権利も、殺す技術もあったはずだ。何故だ?」

「黙れ!」

 ハーバートは薄く笑った。

「その引き金を引けば私は黙る。そうだろう? この作戦は、お前なくして成り立ちはしない作戦だった。王は、手駒がお前を追いかけ続ける限り、それ以上の兵は出せない。何しろ、手勢を増やせば増やすだけ、手駒自身が真実に迫ってしまう危険度が増すからな。そして、軍はお前という手駒があれば、やはり手を出さない。お前に引け目があるからだ。

 だが、この作戦ははたして茶番ではなかった。お前の正体を知っているのは、せいぜいがオニキスと私くらいのものだ。他の誰も、お前の正体など知らない。だから、もし見つかればお前は死ぬ可能性も大いにあった。それをやり抜いたんだ。大したもんだ。胆力も、実力もある。報酬に私の命をくれてやる程度、安い買い物だよ」

 ナイナスは答えなかった。

「だが、だからこそ謎だ。お前は何故、そこまでお膳立てをしなければ、私を殺す踏ん切りが付かなかったんだ? 何故だ?」

 薄く笑いを浮かべるハーバートと違い、ナイナスは何一つ笑いはしない。一点にハーバートを見つめ、シグ・ザウエルP226を突きつけ続けている。

「まあいい。私にはその答えがわからなかったが、答えたくないのならば、問題はない。ためらうな、殺せ」

 そこで、ようやくナイナスはまともに口を聞いた。

「俺はお前を憎み続けてきた。お前は俺からミーヤを奪い、そして目の前でミーヤを殺した。お前を恨まなければ、俺はどうにかなっちまいそうだった。

 だが、同時に疑問だった。何故お前はミーヤを奪った? そして、あの最期の時、ミーヤは何を俺に語ろうとした? 俺にはそれがわからなかった。何年経っても、わからなかった」

 ハーバートは、ナイナスの目をじっと見た。

「つくづく、真面目な男だ。普通に考えれば、想像も付きそうなものだ。だが、あくまでもお前は本人の口から聞きだそうと言うんだな。なるほど、それは答える義務がある。

 クロヌス王は、知っての通り暴虐の限りを尽くしていた。私利のためにフォエーナを売り払い、女をはべらし、贅の限りを尽くした。そして、何より私が許せなかったのは、ディスファレト教の教義の改ざんだ。愛の定義の意図的な改ざん。それはフォエーナを人体実験する意図があったからだが、実はもう一つ、意図的に改ざんしていた。

 それは、一族の長に対し、子はその妻を捧げるというものだ」

「なっ……」

 唖然とした。と同時に、何をハーバートが言わんとしたかがわかった。

「ミーヤを奪ったのは私ではない。王だ。王が、自らの側室としてミーヤを欲しがっただけの話だ」

「詭弁だ! そんなのは詭弁だ!」

 ナイナスは動揺した。まさか、そんなことがあっていい筈がない。

「教義を改ざんしたことに憤り、新派を起こすほどに、私はディスファレト教を愛している。元の教義にそんなくだらない教義はなかったし、私は嘘を言っていない」

「何故それを俺に!」

「言ってどうにかなるのか? いいや、ならなかった。私は貴様に義理などないが、王がそんな浅ましい真似をすることが許せなかった。だから、そんな教義を盾にミーヤを貪ろうとする王に対し、真の教義を叩き付けてやろうと考えた。その結果が、エカテリオ派の発足となった。私はかつての教典にそんな事実がないことを必死に調べた。あらゆる文献をあたり、虱潰しに探した。そして、その結果、愛の定義に対する違いを王族同士の会議で証明した。そうすれば、ミーヤを王の好きにはさせずに済むからな。

 だが、王は事実を突きつけられ、立腹した。そして、私を王族から追放し、お前たちに抹殺指令を命じた」

「そんな……」

 ナイナスはさらに動揺した。

「だが、お前はミーヤを抱いただろう!」

 ハーバートは、首を振った。

「誓って言おう。私は王にミーヤを渡さなかった。そして、私もミーヤを抱くことはなかった。あの女はいい女だった。だが、夜伽のまずさは最悪だった。夜が来るたび涙を流すとは、どういう了見だと思う? ええ? 生娘を抱くよりも、余程私にとってそれは罪悪感を抱かせるものだった。聖人君子を気取るつもりはない。だが、私は抱かせなかったし、抱かなかった。それだけだ」

「戯れ言を!」

 ハーバートは、やや怒りを見せた。

「ああ、その通りだ! 私は甘かった!

 南トレファナ湖の作戦は、私にとって誤算ばかりだった。私の作戦はこうだった。傭兵を雇ってホテルに立て籠もり、その上で私はミーヤを置いて去り、お前にミーヤを返してやる予定だった。

 だが、信頼できると私が踏んでいたヘリの乗務員は、王の息がかかった男だった。奴は王から金を貰い、私を機銃で殺すつもりだったのだ。だが、途中他の信頼できる仲間が止め、狙いが外れた。

 その雇われた男はその場で殺し、私たちは城へと向かった。コーデリアを王の手の元に置いておけなかった。

 だが、王はすでに手を打っていた。コーデリアに、フォエーナの葉を煎じて飲ませていたのだ。まだ二歳の子供にだ!

 私はそのままコーデリアを含め、フォエーナの犠牲になった人々の救済と、王の悪行を白日の下に晒すため、闇に潜った」

「そんな話を信じられるか!」

 ナイナスは銃を震わせた。

「ああ、私もそう思う。だからせめてもの償いだ、好きにしろ、ナイナス。貴様にはすまないと思っている」

「ふざけるなァ!」

 ナイナスは銃を突きつけ直した。

 だが、そのナイナスの背後から、いつの間にか銃を突きつける者がいた。

「その手を退けなさい、ナイナス」

 濃厚な怒気を感じる。振り返れば、それは十一歳の少女。ナイナスが長年見続けてきた少女。

「コーデリア……!」

 ハーバートが真顔になり叫んだ。

「コーデリア、貴様、誰に銃を向けているのかわかっているのか?」

「わかっています。ナイナス、貴方がどれだけ辛い思いをしてきたか、私はハーバートから聞いています。ですが、それは私にはほとんど関わりがありません」

 ナイナスは愕然とした。関わりがない、だと? 理解ができなかった。

「どういう、ことだ?」

「私は、生まれこそお前の子供かもしれません。そしてその後すぐにフォエーナを飲まされ、人間らしい感情を失ったと聞いています。ですが、それが何だと言うんです? ナイナス、貴方は私に何かしてくれましたか? 私にはそんな記憶はありません。一切、ありません。

 私の記憶にある貴方は、ハーバートを付け狙い、いつ殺すかもわからない殺気を絶えず放ち続けていました。

 そんな貴方に対して、何故私は貴方が私の実の父だからというだけで貴方を愛せると考えられるのですか? 私はハーバートから沢山のものを頂きました。食糧を頂き、優しさを頂き、生きる術を頂きました。決して生活は楽ではありませんでした。飲まず食わずの思いもしました。銃火の中にさらされるような目にも遭いました。ですが、どんな時でも、ハーバートは私を守ってくれました。自分が飢えても私に食物を分けてくれました。凍えそうな時は、身を挺して私を暖めてくれました。人間味の薄い仏頂面のままではありましたが。

 ですから、私はハーバートに恩を返したいと思ったのです。

 それをのこのこ今更出てきて、横から現れて私の恩人に銃を突きつけ、父親面ですか?

 ふざけないでください、ナイナス。ハーバートは我が父です! わかったのなら、その銃を下ろしなさい!」

 そう言いながら、慣れない銃なのだろう、コーデリアの手は小動物のように震えている。

 ナイナスは、余りのことに打ちのめされたような感覚を覚えた。

 たとえ、何があっても自分の娘は娘だと思っていた。何一つ変わりはしないと思っていた。だが、それは違った。自分の足で立ち、自分の頭で考え、恩に報いたいと考え、父親に敵愾心を燃やす、そんな少女へとコーデリアは成長していた。立派な倫理観を持った少女へと成長していた。

「確かにそうだな。十一年間、お前とまともに会える機会はなかった。いや、お前の言う通り、俺は物陰からハーバートとお前を狙い続けていた。会おうと思えば、会えた。でも、俺はそれをしなかった。罵られ、臆病者、責任を放棄したと言われて仕方ない。

 正直な本心を言おう。俺は、ハーバートを殺せば、お前を取り戻せると思っていた。過去の辛いことは全部なかったことになって、お前と一から親子として歩んでいける、そう思っていた。だから、ハーバートに向けて銃を構えていた。

 でも、思いとどまった。勝手な意見だし、ハーバートが一切俺に言い訳一つしなかったのとは正反対だ。俺は、お前に母親であるミーヤの面影を感じ、そしてハーバートがお前をきちんと育ててくれているのが判って、躊躇した。

 それを、何度も、何度も繰り返した。俺は愚かな父親だった……。お前に会うことが、過去が目の前に戻ってくるのが怖くて、いつもいつも先送りにした。ハーバートがお前に手出しをしたら、ハーバートがお前に危害を加えたら、ハーバートの考えが変わったら殺そうと、そう誓い続けた。

 だが、だが……。それでも俺は、お前を愛しているんだ。お前を何よりも大事に考えているんだ。いつ、どんな時でもお前のことを考えていたんだ。それは、嘘ではない……」

 ナイナスは、情けない涙を流していた。実に、実にみっともない、どうしようもない泣き顔だった。

「……それを、私にどう感じ取れと言うんです! ただでさえ愛を感じられぬ私が、貴方のその口だけの愛を、どう感じ取ればいいんですか!

 ……今回の作戦は、私が無理を言って組み立てた作戦でした。誰一人傷付けず、あなたを囮に、軍の追っ手を足止めする、たったそれだけのつもりだった。でも、それは過程なんです。私にとって一番やりたかった事、それは、私が要求したものそのものでした」

 ナイナスは困惑した。そんな話は聞いていない。何一つ聞いていない。コーデリア自身が考えた作戦の真意を、ナイナスは知らない。

 そして、ナイナスはその疑問をそのまま口にした。

「その要求っていうのは一体……」

「ナイナス、あなたに愛とは何かを教えて貰うことです。これを見てください」

 そう言うと、コーデリアは懐から汚い、古びたハンカチを取り出した。

 それを見てナイナスは息を呑んだ。

「それは……ミーヤのハンカチじゃないか……」

 目の前で助けることの出来なかった、ミーヤが遺したハンカチ。それは元々、ナイナスがミーヤに渡したものだった。

「そうです。あなたが救えなかった、私の母、ミーヤの形見です。母は、私にこれだけを残しました。ハーバートは私に様々な物を与えてくれました。

 ですが、あなたはどうですか。あなたにとって、愛とは何ですか」

 ナイナスは絶句した。愛を要求したテロリストの真意、それは言葉通りの意味、娘から問いかけそのものであった。

 ナイナスは計画を知っていた。だが、それはフォエーナによってA10神経群の動きを封じられ、感情を失った人々の、クロヌス王への問いかけだと思っていた。

 が、それには真意があったのだ。

 そして、ナイナスはそれに対する言葉を、持ち得なかった。何故なら、ナイナスもすでにそれを失いかけていたからだ。

 ナイナスは、懐から古びた手紙を取り出した。宛名はナイナスになっている。

「すまないな。俺にはわからない」

 ナイナスの言葉に、今度はコーデリアが絶句する番だった。

「はっきり言おう。お前とこうして話をするのは、今日がはじめてだ。お前が産まれてから、ただの一度も面と向かって話せたことはない。だから、お前に何かを託せたり、何かを伝えたりは出来ていない」

 そして、ゆっくりとナイナスは手紙を取り出し、読み始めた。

「ナイナス。わたしはあなたをにくんでいます。あなたは父も、母もわたしにくれません。ハーバートはわたしに、父と呼ばせてくれません。父も母もいないわたしには、いき方がわかりません。おしえてください」

 一同は無言だった。

 ナイナスは続ける。

「俺はお前に、こんなことを書かせてしまった自分を恥じた。当時ようやく文字が書けるようになっただろうお前に、真っ先に憎まれてしまうような自分を。

 俺にとってハーバートは憎い。だが、同時にあの男が、自分を父親だと呼ばせないというのもわかった。あいつなりの矜恃だろう。

 今さっき奴から聞いた内容から類推すれば、ミーヤを救えなかったことを悔い、そして、抱いていないことの証明をしたかったんだろう、と俺は思う。当時はわからなかったがな」

 ハーバートは無反応だった。

「コーデリア、俺にとって愛というのは、見返りを求めず、与えることだ。だから俺は、月一回、お前に手紙を出していた」

 コーデリアは目を見開き、それに返答した。

「そんなものは、一度も受け取っていない……」

「そうか。だが確かに、俺は毎月一度は出していた。返答はこの一通のみ。それ以降は一切来ていなかったが、きっと俺の声は届いていると信じていた」

 コーデリアは何かを言いたそうに口を開いたが、すぐに言葉が出て来ない。ナイナスは続けた。

「正直言えば、返らない手紙を書き続けることは、辛かった。でも、唯一お前に与えられるものだと信じて、欠かさず俺は手紙を書いた。毎月。声が伝わっているのか知りたくて、直接顔を見に行ったこともある。ハーバートの顔を見る度、俺は腸が煮えくりかえった。でも、それでも奴を許せたのは、ハーバートがお前に優しく接していたのも大きいが、何よりもコーデリア、お前がハーバートに優しく接していたからだ。

 俺とミーヤの共通の願いは、人に優しくできる子供だった。自分に優しくしてくれなくてもいい。他人に優しく生きていける子供として生きてくれていることが、俺には何より嬉しかった。だから引き金を引けなかった。

 もしかしたら、どんな形ででも、俺の気持ちは伝わっているのかもしれない。馬鹿にされるような、そんなちっぽけな希望だったが、唯一といっても良いような望みが叶えられていた。本当は、そこで俺は救われた気分になったんだ。

 しかし、どうしても直接会って話がしたかった。だから俺は、この世で一番憎い相手からの頼みを受けたんだ。お前と直接会い、お前がどう育ち、どう生き、どう答えを見つけたかを知りたかった。それがわかれば、俺は他に何もいらなかった」

 それをハーバートが返答した。

「コーデリア。彼を擁護するわけではないが、彼は間違いなくお前を愛している。この男はな、お前を救うというこの依頼を恋人を奪い、恋人を殺した私から出したというにも関わらず、文句一つ言わずに受けたのだ。声を聞くだけで、考えるだけで殺意が沸き立つような私相手でも、お前を救えるのならというただ一心で引き受けたのだ。確証も、相手への信頼もない。それでもお前だけのために受けた。

 ナイナスは今までに、コーデリア、お前の父であったことは一度もない。お腹にいる間に恋人と引き離され、自分が実の父親かどうかも、実際のところ自信はないはずだ。そして、お前と話したことも、交流をしたことも一度もない。この十年もの間、一度もだ。父親ですらない、会ったこともない、自分の子供かどうかすらわからない、そんなお前を助けられるのならばと、この男は命を投げ出せる男だ。そんな男が、お前を忘れると思うか? お前がもしそばにいて、愛さずにいたと思うのかコーデリア」

「ハーバート! 人生にもしなんてものはありません! 私たちの人生に取り返しなんかいつも付きません。その取り返しの付かない毎日を、十年以上送ってきたのに、もしで巻き返せるなんて思ってるの?」

 ハーバートは、首を振った。

「コーデリア、私は知っているぞ。この十年、お前が決して私だけを頼って生きてきたわけではないことを。私と対立したとき、お前は私がほんとうの父親ではないから優しくしてくれない、と叫んでいた。一度や二度ではない。私は、それを当然だと考えていた。お前は私と対立したときはナイナスをほんとうの父と考えていたのだ」

「違う!」

「違うものか。それに私はフェアではない。お前がナイナスに託してくれと言われた手紙は、実はここにある」

 ハーバートは傍らから、ブリーフケースを取り出し、その中を開いて見せた。きれいにビニール袋に包まれた、莫大な数の手紙がその中にはあった。

 それは、コーデリアからナイナス宛の、そして、ナイナスからコーデリア宛の手紙の数々だった。

 コーデリアは目を見開いた。

「そう、お前が毎年誕生日に、ほんとうの父親であるナイナスへ綴った手紙だ。お前は、いつも返事が来ないと嘆いていた。どこかに出かけるときには、返事が家にいない間に届いたら困る、とわめいた。その手紙を、私は出さなかった」

 コーデリアは怒りの表情を滲ませた。

「何故だ、何故出してくれなかったんですか!」

 ハーバートはやや遠い目をした。

「怖かったのだ、私は。歪極まりない関係であったし、手一つ触れずにいたが、私はミーヤを愛していた。そして、その子であるお前も同じように愛していた。

 だからこそ、憎む父に対し、過去の教典を突きつけるために私は莫大な量の調査を行った。正規の手段でミーヤを守るために。だが、それが徒となり、私は愛する人を失い、愛する子供も傷付けられてしまった。そして、私はフォエーナの効能によって、まともな感情を失っているコーデリアに、会った事すらないナイナスへの手紙を頼まれたのだ。

 つたない、覚えたての字で、その手紙には彼女が持ち得ない筈の愛情が滲み出ていた。

 私は怖かった。私はコーデリアにとって、仇なのだ。理屈がどうあれ、今コーデリアが言ったとおりの話だ、人生にもしなんてものはない。私はコーデリアの実の母親を不注意から殺害し、コーデリア自身を王の悪意から守れず、実の父親にすら会わせない最悪の仇だ。もし、真実に血の絆があるナイナスとコーデリアが交流を深めれば、私はコーデリアを失ってしまうかもしれない。私はそれが怖くて、手紙を出さなかった。だからコーデリア、ナイナスは返事を書いてくれなかったのではない、私が、すべて止めていたのだ」

 ナイナスは何も言えなかった。ハーバートもまた、この歪な関係に悩んでいたのがわかったからだ。糾弾する気にもならなかった。ただ一つ言えたこと、それは彼が本当にミーヤへ殺意など抱いていなかったということだけだった。

 その時だった。

「見つけたぜ……てめぇ……!」

 殺意が漲る怒声が響き渡った。

 赤坊主の男、エヴァルトであった。

「トーマス隊長はあんな甘ぇ話で納得したかもしれねぇ……。だが、俺は納得できねぇ! お前は俺の戦友を殺した、何人も、何人もだ。お前にその償いをさせてやる!」

 そう言って、エヴァルトはコーデリアに銃を突きつけた。

 ナイナスとハーバートがお互いに銃を突きつけあい、ナイナスにコーデリアが銃を突きつけ、そしてコーデリアにエヴァルトが銃を突きつける。歪な構図。もし誰かが引き金を引けば、その瞬間、ほぼすべての人間が血の海に沈むことになる。

 機を窺うような時間はない。エヴァルトは興奮しきっている。

「ちょうど良いところにいるじゃねえか、ナイナス! てめぇも殺してやる!」

 エヴァルトは吠えた。

「奇遇だな、こんなところで会うとは思ってもみなかったぜ」

「言ってろ! あの世で後悔するんだな!」

 エヴァルトの血走った目に、ナイナスの挑発を受け入れるような余裕はない。口八丁で乗り切ってきたナイナスも、どうやら年貢の納め時のようだ。

 そして、エヴァルトがゆっくりと引き金を引く。誰の銃口もエヴァルトを向いてはいない。三人は、そのままの体勢だ。

 緊張が走る。

 そして、マズルフラッシュが輝いた。

 血溜りに倒れたのは、二人だった。それは、ハーバートと、エヴァルトだった。

「ハーバート、ハーバート!」

 コーデリアは彼に駆け寄った。一体何が起こったのか。それは非常に簡単だった。

 ナイナスは、向き返りエヴァルトに銃口を向けた。コーデリアは、そのままじっと立ちすくみ、うろたえるように何もできなかった。だが、それ以上にハーバートは急な動きを見せた。コーデリアを突き飛ばし、エヴァルトに銃を放ったのだ。

 だが、エヴァルトがコーデリアを狙った弾丸は、ハーバートを容赦なく撃ち抜いた。

 エヴァルトは即死、そしてハーバートも致命傷を負った。

「みっともないな……。格好良く、コーデリアを守るつもりだったというのに」

 肺を傷付けたのだろう、ハーバートは血の混じった咳をした。

「ナイナス、大事な話がある」

 ハーバートは、弱々しい声でナイナスに語りかけた。ナイナスもハーバートに駆け寄った。

「A10神経群ブロックを解除する薬の研究に成功した。そして、それはすでにコーデリアに投薬している。動物実験で結果は出ているが、臨床は彼女が初めてだ。ひどい男だろう、私は」

 ナイナスは、何も答えない。

「強い感情の揺さぶりがなければ、感情が元に戻るような変化はない。だから、彼女は投薬を受けてもほとんど変化はなかった。もし、彼女に変化があれば、タチアナという研究員と連絡を取って、不幸な目にあった人達を助けてやって欲しい」

「判った」

 ナイナスは強く肯いた。

「本当にお人好しだな、貴様は。コーデリア」

 そう言って、ハーバートはコーデリアを呼んだ。

「お前に選択させてやれず、すまんな。ナイナスはきっといい父親だ。私以上に。これからは、実の親子として生きていけ」

 コーデリアは首を振る。その顔に表情はない。

「私は……お前の父ではない。お前の仇だ。お前に苦しく、辛い思いばかりさせてきた。だから、実の親子として暮らすのが……もっとも自然だ。わかるだろう」

 だが、コーデリアは首を振る。

「私はでも、何も返せていません! あんなにいっぱい色々なものを貰ったのに! 恩を受けたのに返せていません!」

「聞き分けのない……子だ……」

 ハーバートは激しく咳き込む。もう時間がない。

「どうか、聞いてくれ、後生だ。愛とは、与えることだ。ナイナスの言っていた通りだ……。対価が欲しいから与えることではない。ただ、与えることだ。だから、お前は私に返すことなど……考えなくてよい」

 コーデリアは、ハーバートの手を取った。

「悪かったな、コーデリア」

 その手も、声も弱々しい。悪逆とし、王を向こうに今まで戦い抜いてきた男にはとても見えなかった。

 そして、コーデリアはその手をぎゅっと握り締めた。

「お父……さん……そんな……私は!」

 そして、コーデリアの目から大粒の涙がこぼれた。

「そうか……私を父と、呼んでくれるのか……。だが、最期はお前の……泣き顔とはな……」

 ハーバートは、薄く微笑んだ。

 そして、コーデリアは歪極まりない、笑顔なのかどうかわからない、曖昧な笑顔を浮かべた。必死に、涙を堪え、まったく使っていなかった表情筋を使い、全力で笑顔らしきものを形作った。

「今、お前から一番大事なものを、貰ったぞ、コーデリア。そうだ……お前はこれからは……その素敵な笑顔を見せて……生きていけ……ナイナスと、共に」

 そして、ハーバートは笑みを見せながら、ゆっくりと動かなくなった。

「お父さん! お父さん!」

 コーデリアの悲痛な叫びが、部屋中にこだました。

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