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監視塔Ⅱ

 ナイナスは待った。待ち続けた。そしてその甲斐あって、プログレスバーはほぼ終わりを指している。さらに幸運なことに、監視塔に人はいない。あと少し、あとほんの少しでどうにかなる。

 今か今かとナイナスはそれを待ち望む。そして、その時が来た。

 ナイナスは即座にケースからそれらすべてを取り外し、装着し始める。一刻の猶予もない。

 そして、タイミング悪く、その時扉が開いた。どうやら次の交代要員が来たようだ。

 急いだ。ナイナスは何よりも急いだ。靴音一歩が進む頃にはマスクを付け終え、靴音がまた響く頃にはコンタクトレンズを入れ終えた。勝負は監視塔に入るまでの五十歩ほど。

 そして、ナイナスはその戦いに勝利した。ガッツポーズなどする暇もない。即座に地に降り立つ。

 もちろん、監視カメラにギリギリ映らないであろう死角を狙って降りた。

 すると、背後から声をかけられた。

「隊長! どうしてこちらに?」

 見れば、監視塔の上からである。ナイナスはしまったと思った。

 先ほどの警備兵を女性の顔で誤魔化せたのは、明らかに顔見知りではないからである。一方で仮に顔見知りだった場合、疑いを避けるのは至難の業だ。特に兵士の場合は。自分の命を預ける相手であり、その上上官であった場合には、お互いの信頼関係が絶対に必須である。何も戦場では前からだけ銃弾が撃たれるとは限らないのだから。

 それだけに、名前も、パーソナリティも知らずしてその人になりきるというのは、どだい無理な話だ。勘付かれるのは時間の問題だろう。しかし、やってのけるより他ない。

 ここで無理矢理逃げても、追われるのは必至。そして武器もないので殺す事もできない。肉弾戦を挑もうものなら、現役に勝ち目はないだろう。それならば、演じきるより他はない。まったく見も知らぬ隊長とやらを。

 今のナイナスは、茶色い髪を無造作にして、無精ひげを生やした四十手前の男の顔をしていた。ナイナスのトレードマークの眼鏡も外している。

 ナイナスはあえて声を作らないように注意しながら、後ろを振り向いた。

「おお! どうしたんだ?」

 はっと驚いたような声をあげる。ただし威厳を崩さないよう細心の注意を払ってだ。

 これには特に問題はなかったのだろう。そのまま、監視塔の男は言葉を続けた。

「どうしたも何も、ここの警備フロアの監視ですよ。ネズミが入り込んでますけど、このフロアはそうそう抜けられないでしょうからね」

 男は笑みを浮かべながら言った。

 それは事実だろう。監視塔付近と、ナイナスがいる位置とではかなりの高低差がある。入った瞬間、高所から銃撃されれば一溜まりもあるまい。その上、入り口はほぼ一箇所に限られている。そこに銃口を向けておけば、余程のことがない限り優位性は保証される。

 そして、ナイナスが上を見あげれば、そこには警備用と見られる機械制御のマシンガンが備え付けられていた。疲弊もせず、弾薬も豊富なマシンガン相手に、人間ではほぼ太刀打ちは出来ないだろう。

 もっとも、それはそのままナイナス自身にも置き換えられる話である。つまり、ここでしくじった途端、ナイナスは蜂の巣になる。つまりはそういうことだ。

 だが、今置かれている立場を考えれば、焦りは禁物である。焦りや動揺はそのまま、相手に不信感を与える結果となる。

 ナイナスは内心焦りつつ、平静を保った。

「まあ、そりゃそうだな。ここを抜けようったって、なかなか厳しいだろうさ」

「でもうかうかしてられないですよ。知ってるでしょ、ネズミが管理フロアにもう入り込んでるらしいですよ」

 そのネズミは自分だろうか。それともトーマスだろうか。どちらにせよ不味い状況に変わりはない。

「確かに。責任重大だな」

 ハハハ、とナイナスは笑って見せた。途端、監視塔の男の雲行きが怪しくなる。

 なんだ、笑い方に問題があったのか? ナイナスは、返答をすぐに返さない男の顔をまじまじと見て、その答えを探し出そうとした。

 そして、違うことに気付いた。男はナイナスを不審に思ったのではない、不安を抱いているのだ。

「責任、って言えば隊長、ご存じありませんか? 俺、今度父親になるんですよ」

 ナイナスは口ごもった。不安な気持ちがわかったからだ。と言っても、ナイナスはそれから十年以上経過している。そして何より、父親にはなれなかった。だから、冷静な返答はできなかった。

「そうか。それはよかったな」

「隊長もお子さん、いるって聞きました。どうだったんですか、その時」

 ナイナスは軽く振られた質問に即座に答えられなかった。一瞬の沈黙を経て、どうにか言葉を捻り出した。

「ああ、不安だったよ」

 一般論をここで語るのは逆効果だな、と言いながら思い、隊長の実体験とは違うのだろうが、自らの体験を語ろうかナイナスは考えていた。

 何よりも嘘が許されない。だが、誰かの真実であれば、それは嘘ではない。

 ここで一番重要なのは、不信感を覚えさせないことなのだ。覚悟を決め、ナイナスは自らの偽らざる心中を言うことにした。

「結婚はもうしたんだよな」

「そりゃあもちろん! でも作戦中で隊長は来れなかったですもんね、結婚式」

 それは好都合だ、と心中思いつつ、ナイナスはしょぼくれた顔を見せた。

「是非出たかったな。しかしまあ、俺の場合は、結婚式は挙げていない」

「そりゃまたどうして」

 完全に想定内の返答。普通ならば難なく答えられる返答。だが、ナイナスにとってそれは、心の薄氷に触れるような質問だった。酒でいくら押し流し、色々な物で上塗りしたとしても、未だに整理は付いていなかった。

「花嫁になるべき人が、いなくなってしまったからだ。事故に巻き込まれてね」

 苦しい言い訳。他人の人生を、あり得るように語れば良かったのに、何故真実味を必要以上に増すために自らの真実を語ることを選択してしまったのか。ナイナスは悔いた。が、もう既に嘘を混ぜたところで何も変わらなかった。

「それは……お気の毒です」

 実際のナイナスは、事故とも言えないような出来事でミーヤを二度失った。一度目はハーバートの手により、そして二度目も、ハーバートの手によって。父親になる心構えも、喜びも与えられず、むしろナイナスは自分の子供がミーヤに宿っていることを知ったときは、その事実を呪った。

 血は繋がっている。だが、赤の他人、その上一番の仇ともいえる人間の手によって、愛した人と自らの子供を育てられる。

 屈辱以外の何物でもなかった。

 愛情など、欠片も感じなかった。ハーバートと一緒に殺してやること。それをナイナスは何度も考えた。せめてもの罪滅ぼし。自分から起こった過ちのけじめとして。

「でも、子供は生きていてね。だが、親戚に引き取られたんだ」

 自分で語っておきながら、吐き気がする。親戚などではない。一番憎むべき仇敵。今すぐにでも殺すことを望む相手。

 そして、今ナイナスがここにいるほぼ唯一の理由。

「そうですか……。お会いになったことは、あるんですか?」

 これもきっとこの男にとっては、何でもない質問なのだろう。それは判っている。しかし、それはナイナスの心中を掻き毟る質問でもあった。

「ある。何度も。育ての親と一緒にいるところを」

 ナイナスはどす黒い気持ちで言葉を吐いていた。嘘偽りない言葉だからこそ、ナイナスにとって一番苦しい言葉になるのだ。

「どこに、おられるんですか、お子さんは」

 既に、ナイナスは演技することなど出来なかった。ただ、苦しかった。賢く振る舞うことなど出来なかった。だからこそ、真実をそのまま答えてしまっていた。

「チュニス、サラエボ、香港、デュッセルドルフ。転々としていてね。その都度会いに行った。顔がどうしても見たくて」

 実際には、ナイナスはハーバートの顔を見に行っていた。ナイナスは拳銃を握り締め、何度も何度も、殺すつもりでハーバートを追い回していた。だが、それをナイナスは何度も思いとどまっていた。それは、コーデリアがいつもハーバートの側に寄り添っていたからだ。

 コーデリアは、目元や口元が年を経るにつれだんだんとミーヤに似てきていた。自分から生じた災禍などではない。それは、ミーヤが遺した、唯一の生きた証なのだ。

 ナイナスは、一つだけ自分に誓いながら、この奇妙な親子を追い回していた。たった一つだけ、この奇妙な親子がナイナスの決めたルールを破った場合は、ハーバートを殺してやろうと。楽にしてやろうと。

 だが、今もハーバートは生きている。何度となくナイナスが追い続けても、ハーバートはコーデリアと共に生きている。

「大変、ですね……」

 男は隊長、というよりナイナスの境遇を聞き、顔を青ざめさせ、言葉を失った。あまりにも、過酷だったからだ。だが、ナイナスは何も彼を萎縮させるために言葉を紡いだわけではない。

「いいや、大変なものか。いいか、君は永遠にその子の父親だ。どんな事があっても、どれだけ辛い目に君があっても、その事実は変わりはしないんだ。

 その子は自分で歩むこともできない。自らの身を守る術も知らない。だから君は、その子が大きくなり、自らの足で立って歩けるまで、傍らで支え続けなければならない。何もかも、自分の全てを磨り減らしてでも、分け与えなければならない。そして、それを返して貰おうとは、思ってはいけない。

 何故なら、その子は何も持たずに生まれてきたんだ。少しずつ、少しずつ周りから何かを受け取って、自分の物にしていくんだ。そして、その子に最初に物を与えるのは、君の仕事なんだ。怯えることも、怖がることもない。責任を感じることもない。その子が君や、君の奥さんから色々な物を受け取り、そして次の世代にそれをまた分け与える。そうやって人間は生きてきた。君がかつて受け取ってきた物を、ただ分け与えるだけだ。そのサイクルを、陳腐な言葉で愛と呼ぶんだ。

 愛を、その子に与えてやれば、それだけでいいんだ。難しいことなんか一つもない」

 これは、ナイナスの偽らざる本音である。自らの子供に愛を与えられなかった、恋人、妻に愛を与えられなかったナイナスの、懺悔にも似た言葉である。

「隊長……。すいません、色々と聞いちまって……。俺、色々小難しく考えてましたけど、もっと気楽にやればいいってわかりました。父ちゃんや母ちゃんにされたように、優しくしてやればいいんだ、ってわかりました。そう、難しくなんかないんですよね」

 ナイナスにとって、それはとても難しかった。出来なかったのだ。

 だが、ナイナスは答えた。

「ああ。頑張れ」

 そして、笑みを浮かべた。男も笑みを浮かべ返した。

「じゃ、俺行くわ」

「はい、お気を付けて」

 そのまま、ゆっくりナイナスは次のフロアへの扉へと赴く。心中は、これまでになく動揺しきっていた。演技など、もう出来るものではなかった。

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