06
王宮から監査が来るらしい。
そう聞かされたのは、監査が入る当日の早朝だった。
出勤直後、いつもより不自然な騒めきが落ち着かない。
何事かと戸惑っていると、ケイトがぱたぱたと歩み寄ってきて、耳打ちでその事実を教えてくれた。
「王宮から!?」
流石のアイリスも、思わず声が大きくなるほど驚いた。
あ、と自分の口を塞ぐも、周りも同様の噂話で持ち切りのため目立ってはいない。
「今日? 急に? なんで? それって第三区だけ?」
声を抑えながら、疑問を次々を口にするアイリスに、ケイトは小さく首を振って答えた。
「私もわかんないよ。今朝、急に通達があって、ばたばたしてんの。とりあえず、うちは今日ってだけで、他の所は後日かもしれないし……」
結局のところ、アイリスの疑問に明確な答えはなかった。
王都警備隊の管轄は王宮にある宰相庁だ。
全体で約三千人規模の大きな組織で、上層部は貴族だが、その数は全体の一パーセントにも満たない。
構成している巡回兵は平民がほとんどで、第八区まである各区の屯所は、数字が小さいほど王宮に近い。
本来、監査が入るのであれば、近場の第一区から始まるはずが、先に第三区から入ることは珍しい。
第三区は、王宮からほどよく離れた中枢区域にあたり、商業と居住が混在する地区だ。
今回の連続女性失踪事件が相次いでいる場所でもある。
それゆえの監査なのかもしれないが、平民であるアイリス達が王宮に勤める者と接する機会はほとんどない。
王宮に平民が勤めていないわけではない。
だが、監査ともなれば話は別だ。
おのずと立場は上になり、貴族であることは確実だろう。
貴族の身近な例がレグナードであるアイリス達にとって、貴族という存在は、悪い意味で緊張を伴うものだった。
「レグナード隊長、やけに張り切っててさ」
「え? なんで?」
「今回の事件について、自分はかなり貢献してるって思ってるみたい」
(邪魔している、の間違いじゃなくて?)
足を引っ張っている自覚がない上司というのは、本当に疲れる。
どうやら、その気持ちはケイトも同じらしい。
「解決の糸口すら見えてないのに、もう解決した気でいるの、逆に怖いんだけど」
ケイトが吐き捨てるように言えば、アイリスも肩を竦めながら賛同する。
「自分が疑われている自覚、ないのかな?」
実際、未だにレグナードの不審な行動は続いているし、誰もが疑わしい目を向けている。
当の本人だけがそれを理解していないあたり、今回の監査は――“そういうこと”なのかもしれない。
やがて巡回中を除いて、当番や待機組の整列が命じられる。
屯所の広間で班ごとに整列し、ざわめきが静まり返ったころ。
ばたばたとした複数の足音と共に、文官たちが列を成して入ってくる。
「全員、敬礼!」
副隊長の号令と共に、全員が揃って左掌を胸に当てた。
左右に広がった文官の中央に、一人分の空間が開く。
敬礼したままの空間に、静かな足音が歩み寄ってきた。
その人物に、周囲は息を飲む。
胸元には、宰相庁の紋章を象った記章が静かに光っている。
アイリスは――見えているはずなのに、何も見えていない。
ただ一人だけが、やけに鮮明だった。
「宰相第一補佐官、セドリック・モーガン様である」
隣に並ぶ文官が、セドリックの名前を告げた。
そこでようやく、現実が追いついた。
あの、セドリックが――くったくなく、朗らかに笑うあの人が。
この空間の中央にいる。
この場の空気を支配をしているのは、間違いなく彼――。
緊張が張り詰め、なだれ込んで来た文官達の頂点に立つセドリックは――確かに、一瞬だけアイリスを見た。
だが、それだけだった。
すぐに視線は外され、何事もなかったかのように周囲へと向けられる。
「なおれ」
敬礼を解かせるその一言は、いつもより硬い声色だった。
その視線の意味が、声色の意味が、容赦なく現実を突き付けてくる。
(……そっか)
文官が通達している言葉が、ただ耳を通り過ぎていく。
(……最初から、叶わなかったんだ)
それが、妙に腑に落ちた。
セドリックの存在に、釘付けになる。
厳かに告げられる情報は、理解しきれていない。
「――何かの間違いですっ!」
唐突に叫ばれたレグナードの声に、アイリスはようやく、はっと我に返った。
状況を理解するまで少しばかり時間を要したが、どうやら文官がレグナードを問い詰めたらしい。
それはやはり、周囲が疑ったように、レグナードが犯罪組織に関与している疑いに対する糾弾だった。
「では、身に覚えがない、と?」
「身に覚えもなにも、俺はやってない!」
淡々とした文官の糾弾に、レグナードは己の意見を曲げない。
他の文官達が次々に糾弾する文官に書類を提出し、言い逃れが出来ないほどの証拠を並べ立てられる。
それでもレグナードは己の罪を認めないどころか、窮地に立たされ暴言を吐く始末だ。
見かねた隊員の一人が挙手し、発言の許可を得たところでレグナードの悪行を話し始めた。
「我々は、レグナード隊長から指示を受け、巡回ルートの変更があったことをご報告いたします!」
「なっ! 貴様っ!」
それを皮切りに、隊員たちは口々にレグナードの素行についても追加する。
「巡回ルート変更において異議を申し立てた隊員に対し、酷い暴言を浴びせて閑職に追いやりました!」
「特定の隊員のみを優遇し、評価を意図的に操作していたことも報告いたします!」
「勤務中でありながら持ち場を離れ、私的な理由で巡回を放棄していたこともあります!」
「女性隊員に対する不適切な接触も確認されています!」
「拒否した者に対し、評価を下げるといった発言もありました!」
おおよそ本筋とは関係のない、レグナードへの私怨が――ここにきて爆発した。
あまりの多さに、レグナードは、言葉にならない怒りを表情に浮かべ、歯ぎしりをする。
「隊長は、我々の功績を横取りし、失敗はすべて部下に押し付けていました!」
「気に入らない者は理由もなく配置換えです!」
「まともに職務を果たしていたとは思えません!」
まだまだ止まらない暴露に、レグナードは血管が切れそうなほど怒り心頭で。
「ふざけるな! 全部でっち上げだ!」
鼻息荒く全否定するレグナードに、最早同情の余地はない。
次に発言したのは、隣に立っていたケイトだった。
「レグナード隊長は、特定の女性に対し性的接触を試みようとし! 休みなく働かせた上で、彼女を洗脳状態に陥れようと画策しておりました!」
「け、ケイト……」
ケイトは、迷いなく言い切った。
けれど、ここで――セドリックの前で、とは思っておらず、アイリスはひどく焦る。
しかしケイトはそれを自分への気遣いと受け取り、「大丈夫」とアイリスに言ったところで、レグナードは、ケイトではなくアイリスを睨みつけた。
「それはっ! その女が! 色んな男と、体の関係を結んでいるからだっ!」
「――っ!」
「だったら俺でもいいだろうが! 俺は悪くない! 悪いのはその下半身がだらしないクソ女だ!」
唐突な暴露に、アイリスの顔が一気に蒼白になる。
アイリスが“そう”であることは、半ば公然の秘密だった。
理解しきれなくても、そういうものだという認識が周囲の中にはあった。
アイリスが、それを職場関係に持ち込まなかったからこそ、見逃されていた部分である。
それなのに、追い詰められたレグナードは堂々とアイリスの私生活を晒した。
それが免罪符になるはずもないのに、レグナードはなりふり構わずアイリスを罵倒し続ける。
何も言わないアイリスの代わりに、受けて立ったのはケイトだ。
怒号が響きあう中で、顔面蒼白になったアイリスが恐る恐るセドリックを見ると。
まっすぐな視線がアイリスを捉えていた。
心臓が大きく跳ね上がり、次の瞬間、無表情のまま、あっさりと視線を外される。
絶望が、遅れて押し寄せた。
(知られた……知られてしまった……)
他の誰でもない、セドリックにだけは知られたくなかったのに。
ケイトもレグナードも、個人の名前を出していない。
けれど、態度が、視線が、周囲の空気がアイリスを指している。
糾弾と怒号が飛び交い「静粛に」と文官達が叫んだところで、現場の声は抑え込めない。
混沌とした空気を一掃したのは、たった一言――。
「ディラン・レグナード」
と、名を呼ぶ声。
その場が一気に静まり返る。
決して重厚な圧ではない――けれど、有無を言わせぬ強さが声色に乗り、誰もがそれを理解する。
支配者とは、そういうものだと頭ではなく、心が理解する。
絶対的権威ではない。
しかし、ここでの支配者は間違いなく声の主――セドリックだ。
レグナードが怒気を含みながらも口を噤む。
今口を開くべきではない、と、貴族の血が言っている。
セドリックの推し量る眼差しを受け、居心地悪そうにするレグナードに対し、静かに言葉が続いた。
「自分の身の潔白を証明したいなら、同行願おう」
そう言ってセドリックが軽く片手を上げると、彼の後ろに控えていた王宮近衛兵達がレグナードを囲う。
王都警備隊とは違う、正真正銘のエリートであり貴族の集団だ。
レグナードは憎々しい表情を浮かべながらも、ここで抵抗するのは得策ではないと理解し、渋々といった様子で囲われたままこの場を後にする。
それを横目で確認したセドリックは、先ほどまで騒ぎ立てていた隊員たちをゆっくりと見渡し、静かに口を開いた。
「本件に関し、現場の声が十分に汲み上げられていなかったことについては、遺憾に思う」
いつもの砕けた言葉ではない、役人としての言葉遣いに、アイリスはどきりとする。
「上層へ意見が届かない状況は看過できない。ついては、改善策を講じる。本件については、ひとまずこの場での追及は控えてほしい」
――その後、行われたのは個別の聞き取り調査だ。
隊員が順番に個室へ呼ばれ、文官数名によって聞き取りが行われる。
上司が事件に関与していたとなれば、当然、下の者も疑われるのは仕方ない。
主に問われたのは、普段のレグナードの態度や行動についてだ。
関与を疑われたのは、贔屓にされていたごく一部に限られる。
聞き取りの場にセドリックの姿はなかった。
あの場を収めるためだけに、現れたのだろう。
貴族としての、役人としての“圧”の使い方を、よく理解している。
セドリックが、そういう役割の人間なのだと――嫌でも理解させられる。
それから数日が経った今も、まだ事件の全容解明までは至っていないが、少しずつ明らかになってきている事がある。
相変わらず詳細は現場に降りてこないが、とうとうレグナードが関与を認めたことが囁かれ始めたけれど。
水の咲く日になっても、セドリックが呑み屋に現れることはなく。
アイリスはただ、消化しきれない心の痛みを抱えたまま、何度も一人の夜を過ごしていた。




