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04

俄かに、不穏な噂が広がり始めていた。


連続女性失踪事件は解決の糸口すら掴めず、やがて国家規模の事件として扱われ始める。

上層部が動いていることは分かっているが、末端で働くアイリスたちに詳細が降りてくることはない。

ただ理由と目的だけを告げられ、それを忠実にこなすだけだ。


レグナードに至っては、この事件の忙しさもあり、以前ほどアイリスに構う暇がなくなっている。


かといって、まったく接触してこないわけでもない。


何かと言い訳を並べて仕事を放棄し、アイリスを自分のものにしようと画策している。


ついに同僚の一人が、はっきりと苦言を呈したことがある。

こんな大事件の最中に、そういう行動は控えてほしい、と。


だが、レグナードから返ってきたのは信じがたい言葉だった。


「どうせ、たかが家出だろう。大げさにしすぎなんだよ」


王都を守る者としてあり得ない発言に、さすがにその場の誰もがレグナードを非難した。

レグナードも流石にまずいと思ったのか、適当に誤魔化し、最後には怒鳴り散らして逃げるようにその場を去った。


こんな状況でも謝罪の言葉一つないなど、終わっている。


非常識を重ねるレグナードの態度により、これまでアイリスを敬遠していた同僚たちが声をかけてくれるようになったのは、皮肉にも怪我の功名だった。


そんな中で、ふと誰かが気づいた。


レグナードが指示する巡回ルートに、不自然な変更があった。


日によって、意図的に空白地帯が生まれるようなルートが組まれている。


巧妙に。

絶妙に。


毎日ではない。

だが、その空白地帯で失踪事件が重なっていることに気づき、ざわめきが広がっていく。


「嘘でしょ……?」

「でも、こんな……」

「レグナード隊長がここに来たのって、確か上からのゴリ押しだったよな……?」

「上って……まさか」


あまりにも露骨であるがゆえに、疑いが疑いを呼ぶ。


仮に訴えたとしても、相手は隊長だ。

証拠もなく疑いを口にすれば、処罰されるのはこちらだ。

束になったとしても、三区の隊員だけでは心もとない。

何より、目に見えた証拠がない。


怪しいと思えばいくらでも挙げられるのに、決定打に欠ける。


不安と疑問を抱えたまま、アイリスだけにさらなる不幸が重なっていく。



 ◇◆◇



「――アイリス?」


バディを組んだ同僚との巡回中、ふと声を掛けられて振り返る。

その先にいたのは、この世で一番会いたくない存在だった。


姿を見た瞬間――息の仕方を、忘れた。


吸っているのか、吐いているのかも分からない。

喉が、ひどく狭い。


周囲のざわめきが、遠のいていく。

代わりに、耳の奥で警鐘が鳴り響く。


――遅れて、恐怖が追いついた。


足が、動かない。

逃げなければならないと分かっているのに、

一歩も踏み出せない。


指先から、じわじわと力が抜けていく。

冷たいものが、背中を這い上がっていく。


――嫌だ。


そう思ったはずなのに、声にならない。


手首が、痛んだ気がした。

掴まれてもいないのに。

押さえつけられてもいないのに。


視界の端が、暗く滲む。


「……久しぶりだな」


その声で、すべてが繋がった。


何事もなかったかのように、歩み寄ってくる。

その顔には、懐かしい親族に再会したような笑みが浮かんでいた。


「王都にいるとは聞いていたが、こんなところにいたのか」


反応しないアイリスに、同僚が「知り合い?」と尋ねる。

けれど、答えられない。


「アイリスの同僚さんかな? 初めまして、アイリスの従兄のフィンといいます」


正体を明かされると、同僚は納得し、世間話のような軽い雑談が始まる。


何も言えず立ち尽くすアイリスに、フィンは穏やかな笑みを浮かべたまま、耳元に口を寄せた。


「何も言わずに消えるなんて寂しかったよ」


温い息が、耳にかかる。

それだけで、全身が強張る。


「ずっと探してたんだよ。俺も王都に出てきたんだ――これからも仲良くしよう、な?」


ブツリ、とアイリスの思考が切れた。



 ◇◆◇



気付けば、屯所に戻っていた。


報告も、装備の返却も、すべて終わっている。


欠けているのは、その後の記憶だけだ。

行動の形跡だけが、はっきりと残っている。

誰もが異変に気づかないほど、自然に会話し、仕事もこなしていたらしい。


ただ、心だけが置き去りにされていた。


夜が更けた街を、一人、たどたどしい足取りで歩く。


気を張っていた時間が過ぎ、やがて精神的な負荷が、遅れて身体へとのしかかる。


誰かの温もりに縋りつきたい。


けれど今、自分の傍に誰もいない現実が、ひどく重かった。


ザリッ――と、砂利を踏む音。

その音すら気づけないほど、憔悴しきっていた。


「……アイリス?」


ふと、声がかけられた。


足を止め、恐る恐る顔を上げる。

ワイシャツにスラックスという、いつものラフな格好をしたセドリックが歩み寄ってくる。


「こんなところで会うの、珍しいな。今から呑みに行くのか?」


いつもの調子で、いつもの声色。


嬉しそうに笑いながら寄ってくるセドリックの姿に、冷え切っていた指先の感覚が、少しずつ戻ってくる。


(――なんで、こんなタイミングで)


自然とアイリスの顔がくしゃりと歪む。


それに気づかないまま、セドリックはさらに距離を詰める。

頭一つ分ほど背の低いアイリスを見下ろし、言葉を続けた。


「そういえば、前に言ってた串焼きなんだけど、この前ようやく食ったよ。あれ、うまいな。ちょっと並ぶ気持ちわかった気がするよ」


以前の会話の延長を、さも当然のように話すその言葉が、アイリスを日常へと引き戻していく。


(……ああ、だめだ。もう……無理だ……)


「店主が今度、新しい味を出すって張り切って……――アイリス?」


ふと、アイリスの様子がおかしいことに気が付いたセドリックが名前を呼んだ。


――その瞬間だった。


アイリスの体が、引き寄せられるようにセドリックへ寄る。

そのまま、額を彼の胸元へ押し付けた。

閉じた目は開かれることなく、小さく息を吐く。

そのわずかな動揺が、額越しに伝わってきた。


「……体調悪い?」


セドリックの優しい問いに答えることなく、アイリスの腕が、そっと彼の背へ回る。


アイリスが抱き締める。

けれど、セドリックの腕がそれに応えることはなかった。


「どした?」


ただ、頭の上から降り注ぐ優しい問いは静かに続く。


黙り込むアイリスに、セドリックは小さく息を吐く。

そして、ぽん、と頭を撫でた。


「体調悪いならそう言えよ。送っていくから」


セドリックの胸元で、アイリスが小さく頷く。

そこでようやく、止まっていた時間が動き出した。


――チッ


建物の影に潜んでいた何者かが、舌打ちを残してその場を去っていった。


ただ一人、セドリックだけが、その場所を見据え続けていた。

アイリスは、その視線に気づいていない。



 ◇◆◇



アイリスが他人を家に招くのは初めてだ。


おぼつかない足取りを、セドリックに支えられてようやく自宅にたどり着いた。

けれどアイリスの気持ちは浮上しないまま、ただセドリックの温もりに縋る。


アイリスにとって自宅はただ寝て起きるだけの部屋だ。


宿舎は何となく嫌で、自分で借りた一室。

自分だけのテリトリーとして選んだワンルームは、小さな集合住宅の中にある。


セドリックがアイリスをベッドに寝かせようとした、その瞬間だった。


アイリスの手が、セドリックの服を掴む。

力の入らないはずの指先が、やけに強く食い込んだ。


「……っおい!」


バランスを崩したセドリックの体が、わずかに傾く。


そのまま、引き寄せるように。


逃がさないとでも言うように。


どさりとアイリスの背中がベッドに沈んだ。


同時に被さってきたセドリックの重みに、視線を向ける。


アイリスの顔を挟むように両手をついたセドリックは、驚いた表情で見下ろしている。


ゆっくりとアイリスの両手がセドリックの首の後ろに回った。


モノ欲しそうにしている自覚はある。


こんな顔を、セドリックに見せるつもりなんて一生ないと思っていたのに。


ただ、今はセドリックが欲しい。


自分の欲を表情に乗せ、セドリックの頬をアイリスの細い指が撫でたところで。


その手がセドリックに握りしめられた。


それは――拒絶に近い形で。


「何やってんだ」


雰囲気を作っていたはずなのに。


あまりにも冷静なセドリックの一言に、アイリスはようやく現実の彼を見る。


握りしめられた手はゆっくりと戻され、セドリックはアイリスの上から体を退けて立ち上がる。

逃がさぬように上半身を起こし、離れようとするセドリックの服の裾をぎゅっと掴む。


「……セドリックが、いい」


弱々しくもはっきりとした意思表示に、セドリックは目を見開くもすぐに視線を逸らしてため息を吐きながら後頭部をかく。


「……今のは、聞かなかったことにする」


カッとアイリスの頬が赤く染まった。


アイリスがここまでして、断られたことなどない。


けれど、セドリックは明確にその誘いを“なし”にした。


屈辱と恥辱が入り混じり、直視できず、俯いてしまったアイリスの耳が熱を帯びていく。


ベッドに腰かけ、俯くアイリスの顔を覗き込むようにして、セドリックは静かにアイリスの前に跪いた。


「傍にいるよ」


自分の膝の上で握りしめていたアイリスの手が、セドリックの大きな手で包み込まれた。

ゆっくりと握りしめた指をほどき、手を繋ぐ形になり、恐る恐るアイリスが顔を上げる。


羞恥にまみれたアイリスの顔を、セドリックのいつもの穏やかな笑みが待っている。


「今日は、傍にいる」


確かめるように、安心させるように同じ言葉を繰り返したセドリックの言葉に、アイリスのいたたまれなさが解けていく。


「……そばに、いて……くれる、の?」


まるで迷子になった子供のようなアイリスに、セドリックは。


「うん。アイリスが、それを望むなら」


優しいセドリックの言葉が、静かに染み渡っていく。


「……なにも、しないのに?」

「ははっ、なんだそれ」


セドリックは、くしゃりと笑う。


「ここにいるだろ」


その言葉に――


「――っ」


アイリスの涙腺が決壊した。


パタパタと流れる涙が、頬を、握りしめた手を濡らしていく。


誰もが、アイリスの体を――心を求めるのに。


この人は、“アイリス”がここにいることを認めてくれた。


それだけでいいと、言ってくれた。


この人は、どれだけアイリスを救えば気が済むのか。


唐突に泣きだしたアイリスの様子に、セドリックは困ったように笑う。


「疲れてたんだな」


見当違いもいいところなのに。


握りしめた手を、ずっと離さないでいてくれた。

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