01
水が咲く日――週の半ばにだけ開く、ささやかな楽しみの夜。
王都の外れにある小さな呑み屋は、今日も変わらず賑わっていた。
木のカウンターに灯るランプの光が、酒と人の熱でゆらゆらと揺れている。
アイリスは慣れた足取りで扉をくぐり、いつもの席へ向かう。
――隣の席が、空いているのを確認してから。
腰に巻いた外套を外し、カウンターに軽く肘をつく。
巡回の帰りだ。制服の上からでも分かる身体の線に、いくつかの視線が絡みつく。
初めて見る客が口笛を吹き、常連が「よせ」と小さく止める。
それも含めて、いつもの光景だった。
慣れている。
だから、気にも留めない。
しなやかに引き締まった腕。
剣を振ることでついた筋肉は、決して無骨ではなく、むしろ女らしい丸みを際立たせていた。
厚みのある胸元と、きつく絞られた腰。
そこから滑り落ちるように続く曲線は、立っているだけで目を引く。
日に焼けた健康的な肌に、柔らかな光沢。
ゆるく波打つ髪は、くすんだ金色で、灯りを受けて淡く揺れる。
そして――とろりとした垂れ目は「媚びているみたいだ」と、誰かが言ったことがある。
こげ茶の瞳は、どこか熱を帯びて見えるせいで、意図せずとも相手の理性を鈍らせる。
ぽってりとした唇がわずかに開くだけで、誘っているように見えると、何度言われたか分からない。
容姿が人より飛びぬけていいことも、それが異性に邪な感情を向けさせるものであることも、知っている。
初対面の男が、アイリスの腰に当たり前のように手を回してくることだってある。
軽い女だと扱われるのはもう慣れた。
(……否定は、しないけど)
自分はただ、そこにいるだけなのに。
内心で小さく毒づく。
――実際、軽い女である自覚はある。
それが一部の女性からは、酷く嫌悪されているのも知っている。
今更生き方を変えられない諦めを吐き出すように、小さく息を零して。
少しして、扉のベルが鳴った。
振り返るまでもなく、当然のようにその足音はアイリスの隣の席に歩み寄る。
「よっ」
「こんばんは、セドリック」
顔を向けると、彼はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。
他の男がセドリックを妬ましそうに見るのも日常茶飯事だ。
「今日は早いわね」
「上司が今日は出張だったからね」
「あら、サボり?」
「ちゃんと仕事してきてるって」
軽く肩をすくめて、低く落ちる声でくすくすと笑う仕草が、妙に自然で――少しだけ、気が抜ける。
紺色のタレ目が優しく細められた。
セドリックの下がりきった眉尻は、怒るという表情を忘れてしまったみたいで。
髪はクセっ毛のふんわりした赤。
少しだけあどけなさを残しているのに、これで二十八歳――アイリスより三つも年上なんて信じられない。
グラスを掲げると、彼も同じように応じた。
乾いた音が、小さく鳴る。
ここで顔を合わせるようになって、もう二年ほどになる。
セドリックは、水が咲く日しか顔を見せないこの店の常連だ。
けれど、互いのことは驚くほど知らない。
知っているのは、名前と年齢。
彼が文官であるらしいことと、時折こぼす「上司が優秀すぎて大変だ」という愚痴くらい。
それだけ。
(この距離が……ちょうどいい)
「この前、大通りの屋台で新しい串焼き出てたの、知ってる?」
「知ってる。あれ、並んでたやつだよね」
「そうそう。あれ、美味しかったよ」
「え、並ぶの嫌で諦めたんだけど……失敗したな」
「根性足りないね」
「そこまでして串焼きに情熱持てないよ」
そんな、どうでもいいやり取り。
裏通りの雑貨屋の猫が子どもを産んだとか。
新しくできた店がすぐ潰れたとか。
笑って、流して、また呑む。
ふと、アイリスは隣を盗み見た。
セドリックは、少し目を細めて笑っていた。
肩の力を抜いた、気安い笑み。
(……あ、この顔、好き)
最初に会った頃は、もう少し距離のある人だと思っていた。
整った言葉遣いに、隙のない所作。
どこか一線を引いているような雰囲気。
けれど今は違う。
軽口も叩くし、くだらない話にも付き合う。
時々、子どもみたいに笑うこともある。
そんな風に距離を縮めてくるくせに、決して踏み込ませてはくれない――いや、アイリスが踏み込もうとしていないだけかもしれない。
それでもやはり心の奥底にしまい込んだ感情が、こうやって会う度に蓋を開く。
(……好きだなぁ)
胸の奥で、小さく呟く。
この時間が、一番好きだった。
理由は簡単だ。
彼が、自分をそういう目で見ないから。
初めて会った時、セドリックはこのカウンター席で、ひとり静かに酒を飲んでいた。
その日はやけに人肌恋しくて。
いつもなら守っている自分のルールを、少しくらい破ってもいいと思ってしまうほどには、気持ちが緩んでいた。
だから――なんとなく。
アイリスの方から、馴れ馴れしく声をかけた。
それとなく距離を詰めて、いつものように、遠回しに誘う。
けれど。
「食いたいの?」
差し出されたのは、彼が食べていた煮込み料理だった。
一瞬、意味が分からなかった。
誘いに気づいていないのか、それとも気づいた上で、そう返したのか。
あんな反応をされたのは、後にも先にもあれきりだ。
(あれは、思わず呆気にとられちゃったな)
思い出し笑いをして口元が緩む。
あの時、モノ欲しそうにしていた自覚はある。
けれど、まさか食べかけの料理を差し出されるとは思っていなくて。
セドリックに勧められるがまま、ご相伴に預かったのが二人の始まりだ。
幾度となく交わる視線は、他の誰かとは全然違う。
値踏みするような、欲を含んだものではない。
まるで最初から、そういう対象ではないかのように――当たり前に、対等に接してくる。
それがどれだけ心地いいことか、彼は知らないだろう。
(だから、好きになったんだけど……ね)
同時に、それが一番厄介でもある。
アイリスは、恋をしないように生きてきた。
幼い頃に両親を亡くし、親戚をたらい回しにされた日々。
その中で向けられた、濁った視線はまだ初潮も来ていない少女に、向けられていいようなものではなかった。
アイリスはただ、逃げるしかなかった。
自分の身は自分で守ると決め、剣を握り、力をつけて、生きてきた。
だから――誰かに寄りかかるような関係は、作らない。
一夜限り。
それ以上も、それ以下もない関係。
相手は選ぶ。
素性の知れた男だけ。
誰かを傷つける関係は避ける。
面倒は持ち込まない。
そして何より――自分を好きにならない男。
男に抱かれるのは嫌いじゃない。
自分自身を守り続けることに疲れて、時々解放しなければ気が触れてしまうのではないかと。
自分の脆さを知っているから、人肌に触れて確かめる。
ただの確認作業だ。
セドリックと出会ってからの二年の間にも、何度か他の男に抱かれている。
そういう時は決まって、相手にセドリックを重ねてしまって余計に自分で傷ついて。
ただ――この関係を壊す勇気が、アイリスにはない。
知られたくない。嫌われたくない。
臆病なアイリスの視線が、また隣へ向く。
「なに?」
「え?」
「さっきから、ちらちら見てる」
「見てない」
「見てたよ」
即答されて、言葉に詰まる。
くすっと笑う声が、すぐそばで落ちた。
「まあいいけど。見られて困る顔してないし」
「……はいはい、セドリックはかっこいいよ。見惚れちゃう」
「よし、もっと見るがいい」
「調子に乗んな」
「あれ? おっかしいな? そろそろ告白されてもいい頃なんだけど?」
さらりと言われて、余計に困る。
「……馬鹿じゃない」
「あ、ひでぇ」
軽口なのに、こんな不意打ちは卑怯だ。
不意に――ほんの一瞬だけ、セドリックの笑みが消えた。
「そういえば」
何事もなかったように、セドリックが口を開く。
「君のところ、新しい上司が来るんだろう?」
「……え?」
思わず、瞬きをする。
「王都警備隊。配置換えがあるって聞いたけど」
「なんで知ってるの?」
現場の人間より耳が早いことに驚く。
問い返すと、セドリックは軽く肩をすくめた。
「文官をしてると、そういう話は自然と耳に入るよ」
「ふーん? 機密情報とかじゃないの?」
「ただの人事異動が? ないない」
手をパタパタと横に振って、どこか誤魔化すような言い方。
けれど、追及するほどでもない。
「上司なんて、当たり外れあるしね」
「気にしないタイプ?」
「仕事がやりやすければ、それでいいかな」
グラスを傾ける。
セドリックは、少しだけ目を細めて笑った。
その笑みは、さっきまでと同じようでいて――どこかだけ、違って見えた。




