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この店は閉――営業してます!:約3500文字 :コメディー

作者: 雉白書屋

 とある小さなレストラン。もうすぐ昼だというのに店内は薄暗く、客席はもちろん、奥の厨房に至るまで水を打ったように静まり返っている。二階にある住居で店主はようやく目を覚ました。

 布団の中で身じろぎし、重たい体を引きずるようにのそのそと上半身を起こす。

 枕元の時計に目をやると、一瞬だけ目を見開き、「あっ」と短く声を漏らした。だが次の瞬間にはまぶたを閉じ、喉の奥から長く深いため息を吐き出した。


 ――そうだ。もう、いいんだった……。


 もう朝早くから仕込みをする必要はない。新メニューを考えることも、スープの火加減に神経を尖らせることもない。彼は昨日、この店の看板を下ろしたのだった。

 長年、妻と二人で営んできた店だ。狭くても派手ではなくても、二人で築いた大切な居場所だった。しかし、妻が病を患い、先月静かに息を引き取った。それからしばらくは常連客たちの励ましに背中を押されるようにして、なんとか店を続けていたが、込み上げる虚しさは、とても誤魔化しきれるものではなかった。ふと横を見てしまう。だがそこに、妻はもういない。その事実がじわじわと手の力を奪っていった。

 だから、ついに幕を下ろす決断をした。

 閉店の日――昨日は常連たちが次々と訪れ、惜別の言葉とともに花束が山のように積まれた。どこか祭りの夜のようで、客たちの笑顔が淡く輝き、思い出話が温かく、光の粒子となって胸に沁み込んでくるようだった。

 もう悔いはない。いい幕引きだった。きっと妻も、笑顔で「よく頑張ったね」と言ってくれるだろう。

 店主はゆっくりと頷き、布団の上で胡坐をかき、妻と過ごした年月をしみじみと思い返すのだった。

 ――が、そのときだった。


「――うしております!」


 窓の向こうから妙に張りのある声が響いてきた。距離はそれほど遠くない。どうやら店の前で、誰かが声を張り上げているらしい。

 店主は眉をひそめ、ゆっくり立ち上がると、窓へ近づき、そっと引き戸を開けた。


「営業しております!」


 ――へっ……?


「この店は、営業しております! もうすぐ開けますので、ぜひお越しくださーい!」


「は……? は?」


 視線を下へ落とすと、オレンジ色のパーカーを着た見知らぬ男が白いプラカードを高々と掲げ、通行人に向かって大声で呼びかけていた。道行く人々は怪訝そうに、あるいは半笑いで通り過ぎていく。中には足を止める者もいた。

 店主は一気に目が覚め、慌てて階段を駆け下りた。サンダルをつっかけて店の外へ飛び出し、男の背後から声をかける。


「ちょ、君、君」


「はい? ああ、店主さん! どーも!」


「いや、どーもじゃなくて、何やってんの」


「はい! たくさんお客さんに来てもらえるように、呼び込みしてるんですよ! みなさーん! こちらが店主さんです! もう間もなく開店でーす!」


「いや、ちょ、ちょ! しませんよ! あの、本当に君、何してるの? うちは昨日で閉店したんだよ」


「……ええ、もちろん知ってます」


 男は神妙な顔で、プラカードをそっと下げた。


「知ってるなら、なんで……」


「そんなの決まってるじゃないですか。大好きな店が閉店の危機なのに、黙って見てることなんてできませんよ!」


 男は大きく首を振り、満面の笑みを浮かべた。店主は思わず一歩後ずさったが、宥めるように両手を前に出した。


「いや、危機というか、もう閉店したんだってば」


「大丈夫です。僕に任せてください!」


「いや……」


「僕が力になりますから。お客さんをいっぱい集めるので、もう一回チャレンジしましょうよ!」


「ねえ……」


「さあさあ、みなさんどうぞ! お昼はこちらで!」


「君、昨日来てた?」


「え?」


「昨日が閉店だったんだけど、来てなかったよね……?」


「ええ、それが何か?」


 男はきょとんとした顔で首を傾げた。


「いや、常連さんはみんな来てくれてね。花束をくれたり、ねぎらいの言葉をかけてくれたりしたんだけど……。でも、君は……? そもそも、うちに来たことあった?」


「ありますよ! 前に一度来て、いい店だなあって思ったんです。ご夫婦で小さなレストランをやってるなんて素敵じゃないですか。それが閉店だなんて……」


「一度だけ……?」


「はい。それが何か問題でも? まさか、常連とそうじゃない人で差別するんですか?」


「いや、別にしないけど……。よく、その熱量を保てるなって思って」


「はい! ありがとうございます! ただいま、絶賛営業中でーす!」


「いや、いやいや、あのね、君。気持ちはありがたいんだけど、いや、うん、まあ、ありがとう。……でも、もういいんだ。実は妻に先立たれて――」


「大丈夫! すぐに盛り返せますよ! さあ、みなさん、先着十名様、無料ですよ!」


「いや、ちょ、ちょ! 何言ってんの!?」


「ああ、ははは。大丈夫ですよ。これはいわゆる“撒き餌”です。必要経費だと思ってください。まあ、任せて。僕、大学で経済学を学んでましてね。さあ、先着二十名様無料です! どれだけ注文しても、お代はいりませーん!」


「いやいや、経営が厳しいのにそんなことしたら駄目でしょ。いや、そもそも経営難でもないし。あのね、とにかく私は妻に先立たれて、もういろいろと疲れてしまったんだよ」


 店主は肩を落とし、胸の奥から長いため息を漏らした。男はそれを見て、うんうんと頷いた。


「わかります。わかりますよ。だから僕がこうして力になって、店を再建してみせますよ! さあ、営業中でーす!」


「いや、だからね……うわうわうわ、集まってきちゃったじゃないか! あの、みなさん! この店は閉店しております!」


「いいえ、この店は営業してます!」


「いや、閉店しております!」


「営業してます!」


「閉店しております!」


「営業してます!」


「この店は!」「この店は!」


「閉店しております!」「営業してます!」


「もう、なんなんだ君は! いい加減にしないか! 全然店に来たこともないくせに、嫌がらせか! 警察を呼ぶぞ!」


 店主は肩を震わせ、息を切らしながら怒鳴った。すると男は肩を落として視線を伏せた。そして、ぽつりと言った。 


「……本当に、いい店だと思ったんです。奥様の、あの素敵な笑顔と優しい接客。お客さんも、みんな自然と笑顔になっていて……いつか、いつか僕も、こんな店を作りたいなって。ここが、僕の夢になったんです」


「君……」


「僕の力で、素敵なお店を作りたい……。そのために、広告会社に就職しようと思ってて」


「……ん?」


「この店を再生させたって実績があれば、面接で有利になると思うんですよねえ」


「作るって、そういう意味で……?」


「だから、もう一度やり直しましょう!」


「いや、やらないよ」


「……この店は、営業してます!」


「だから、してないって! 閉店しております!」


「営業してます!」


「閉店しております!」


「あのー、この店って」


「営業してます!」「閉店しております!」


「ねえ、この店やってるのかな?」

「そうじゃない?」


「営業してます!」「閉店しております!」


「やってるみたいだな」

「昼はここにするか」


「営業してます!」「閉店しております!」


「ママー、あのお店がいい!」

「はいはーい」


「いや、なんで君のほうがちょっと優勢なんだよ」


「人は、自分が信じたい情報を信じるものですからね」


「うるさいな。とにかく、私が営業しないと言ってるんだから無駄だよ」


「でも……ほら、コーヒーのいい匂いがしませんか?」


「そんなの……本当だ」


 二人は店を振り返った。かすかだが確かに、店の奥からコーヒーの香りが漂ってきていた。ふいに店主の脳裏に、湯気の向こうで微笑む妻の姿が浮かんだ。


「奥さんがこう言ってるんじゃないんですか。『もう一度、やってみたら』って」


「……ああ、そうかもしれないな」


 目の奥がじんと熱を帯び、店主は思わず空を仰いだ。喉が震え、言葉にならない息がこぼれる。見上げた先には、雲一つない、そこまでも澄んだ青空が広がっていた。


「ふふ。じゃあ、前を向いて一緒に言いましょう。ね」


「ああ……!」


「みなさん、この店は――」


「えっ、煙が……」

「燃えてるぞ!」

「火事だ!」


 ざわめきが走り、視線が店へと集まる。二人が再び振り返ると、店の奥から黒い煙がじわじわと滲み出るように立ち昇っていた。


「あ、そういえば、なぜか鍵が開いてたな……。君、まさか勝手に中に入って、準備を……?」


「……ええ、まあ。ご存じなかったかもしれませんが、香りには高い集客効果があるんですよ。それで……そのー、警察には……」


「通報します!」「通報しません!」

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