第5話 創造装填
鬼の神楽面をつけた男は微笑み、ひなの両肩を優しく引っ張った。繊月ゼンの体がひなの手から滑り落ちる。体を地面に打ちつける鈍い音は、ココアのはいったマグカップを床に落とした時に似ている。
世界が不意に真っ暗になった。商店街も、ひなの命を狙っていたスーツの女も闇のなかに溶けてしまう。世界にいるのは三人だけだ。ひなと、真っ黒な男と、血溜まりに倒れてピクリとも動かない繊月ゼンだけ。
「手放して正解だよ、ひなちゃん」男がささやく。「あれは君の人生において、いちばん要らないものだ」
「どういう、こと……?」
「うん? 言葉通りの意味だけど」
ひなの戸惑いの視線に男が小首をかしげ、あぁと得心がいったような声をあげる。
「俺がなんなのか。目の前のこれはなんなのか。君はどうなってしまうのか。そういうことが知りたいんだね? いいよ、もちろん教えてあげる。俺はナル。こいつは俺が呪ったから死にかけてる。そしてこれが一番肝心なことだけど、ひなちゃんはなにも心配しなくていい。今この時だけじゃないよ。これからずっとだ」
男は一度口を閉じ、ひなをじっと見つめた。なにかの真実を探すように。
「誰ももう、君のことを機械人形だからという理由で遠ざけたりしない」
ひなは小さく息をのんだ。「……そ、れは」
それは、武器が創れなくても価値を認めてもらえるということだ。機械人形なのに戦うなんて、と馬鹿にされないことだ。繊月ゼンと恋人じゃなくなったとしても、あたしはあたしのまま生きていけるということだ。
それは。
「怖かったね、ひなちゃん。なにもかもが君に理不尽だった。そうだろう? でも、もう大丈夫だよ」
それは、でも。
「ここがすべての分岐点だ。こいつを殺せば成立する。俺はそのために来たんだ」
でも、
「さぁ、ひなちゃん、」
「……ま、って」
ひなは男の腕にすがる。彼の指先は繊月ゼンの胸元にぴたりと狙いを定めている。そのことが恐ろしくて、ひなは必死で男の腕をひっぱった。
「だ、駄目。やめて。殺さないで……!」
男は不思議そうな顔をした。
「どうしてだい?」
「どうして? そんなの……だって、おかしいでしょ……! 殺して解決するなんて、意味わかんないし……っ」
「あ。本当にできるかどうか心配してくれてる? それなら大丈夫さ。この呪いは科学的だ。まずは過去データを書き換えて、」
「っ、そういうことじゃなくて、」
「じゃあ、君が死ぬのかい」
男の声が一気に冷えた。鬼を模した神楽面越しの瞳はエラーを告げるみたいに赤々と輝いている。
「そういう世界だよ、ここは。瑞希たちは君を殺そうとするだろう。仮に上手く逃げられたとしても、人間たちは君を出来損ないとして扱い続けるだろう。それだけじゃない。機械人形でさえ君を遠ざけるだろうね。だって君はちっとも機械人形らしくないんだから。それでいいの? ひなちゃんは、ずっとひとりで生きていける?」
ひなは呆然と男を見上げた。一秒経つごとに胸が苦しくなる。電気回路のなかで膨れ上がるのは定義しきれないほどの感情だ。だって、あぁ、なんてことを聞くんだろう。それでいいのか、なんて。
そんなの、
「っ、そんなの、いいわけないでしょ……!?」
男が驚いたように口をつぐむ。ささいな仕草にさえも腹が立って、ひなは声をうわずらせた。
「出来損ないって馬鹿にされる!? 機械人形から嫌われる!? 偉そうに言わなくても知ってるわよ! あんたの言うことなんて全部経験済みなんだから! それが嫌じゃないかって!? 嫌に決まってるわよ! 怖いわよ! でも、……でもねえっ……! それでもあたしは、諦めたくないの……!」
息ができないほどの電流がはしって、どこにあるかも分からない心が鋭く痛む。ひなは男にすがるようにしてうなだれた。
「……諦めたくないのよ。あたしの力で誰かに認めてもらうことを、諦めたくない。だって、諦めて、誰かに任せてしまったら、あたしがほんとうに出来損ないだってことを、自分で認めることになるじゃん……」
「…………」
「なのに、あたし……さっき一度だけ諦めそうになってた……あたしなんかいらないって、思って……くそっ、悔しい……だから、あんたみたいなのに付けこまれるのよ……」
止まらない涙が鬱陶しい。ひなは乱暴に目をこすろうとしたが、その前に手首をつかまれた。
男の――ナルの声がぽつりと降ってくる。
「ひなちゃんは悪くないよ」
慰めというには寂しすぎ、嘘と片付けるには優しすぎだ。
ひなは思わず笑った。自分で聞いてもそれと分かるくらい、ずいぶんと嫌味っぽい笑い方だった。
「なによ、それ。励ましのつもり?」
「そうだよ」
「つけこんできた張本人のくせに」
「でも、泣いてる君をほうっておけない」
「あいつと同じことを言うのね」
「……誰のことだい」
「繊月ゼン」
ひなは目を伏せた。「付き合いたての頃に言われたの」また痛みがはしった。けれどさっきのとはぜんぜん違う。染みるような寂しさと、春先の朝日のような温もりがある。「実技の授業で先生にボロクソに言われて……うっかりキッチンで悔し泣きしちゃったときに」
一度きりのことだった。当然だ。自分が出来損ないであることなんて、ひな自身がよく知っている。そうでないことを証明するのに必要なのは、泣き寝入りではなくて、平気なふりだ。だからひなは絶対に泣かないと決めていた。ただ、あの日は駄目だったのだ。あの日だけが駄目だった。
連日の自主練で溜まった寝不足、散々な評価、帰り道に土砂降りに見舞われたこと……最低なことがいくつもあった。なのに繊月ゼンはキッチンの隅に隠れたひなを見つけてくれた。抱きしめて、放っておけないと言ってくれて、あとは何も言わずにそばにいてくれた。雨の音が遠ざかるまで、ずっと。
「……ひなちゃんは、あいつのことが今でも好きなのかい?」
ひなは鼻をすすって顔をあげた。ナルをまっすぐに見る。
「好きよ」
好きに決まってる。別れた今でさえ。結局あたしは、一生かけてもアイツのことを忘れられないだろう。硝子の心にはしった電流は、そういう痛みだから。
神楽面の奥で、ナルの瞳がかすかに揺れた気がした。短い沈黙。けれど結局彼は何も言わず、ひなから手を離して、息をつく。
「君はどうやっても、繊月ゼンを犠牲にしたくないんだね」
「そうよ。当たり前でしょ」
「いいのかい。今を逃せば……君はこれからずっと、機械人形として評価され続けるよ。悔しい思いをたくさんする」
「それがなに? あのね。あんたは知らないでしょうけど、あたしは、」
不意にナルがひなを抱き寄せた。頭のうえから、彼の困ったような笑い声が降ってくる。
「知ってるよ。君の諦めの悪さは」
頬に触れた体温には馴染みがある。ひながそのことにかすかな違和感をいだいたときだった。
低く物寂しい獣の鳴き声が響く。五十二ヘルツ。深海を泳ぐ孤独な鯨の鳴き声。悪戯の見つかった子供のように、ナルが身を離した。
「残念。見つかっちゃったね」
「見つかる? なにに?」
「世界に」
「はぁ?」
「ほら、映画とかでよくあるだろ? 呪いを中途半端に止めれば、呪った本人に返ってくるってやつ」
「……待って。それって、ゼンの代わりにあんたが死ぬってこと?」
それってちょっと……ううん、かなり最悪じゃない?
本気で心配するひなを見て、ナルは何かを思いついたようだった。形のいい唇が意地悪そうな笑みを刻む。
「なら、ひなちゃんにも働いてもらおうかな。うん、それがいいね。このままあっさり諦めるのも癪だし。君ほどじゃないにせよ、俺も負けず嫌いだから」
「……えっと……つまり……?」
「俺が指を鳴らせば、世界は動き出す」ナルは言った。「繊月ゼンはちゃんと生きてるよ。でもね、いいかい。もとに戻った世界では呪いの欠片が残ってるはずだ。君がそれを退治するんだ」
できるかい、とは言われなかった。案外、言えなかったのかもしれない。神楽面で目元は隠れていたけれど、ナルの眼差しは真剣で、心配そうでもあったから。
ばか。なんでそんな顔するのよ。
「大丈夫に決まってるでしょ」ひなは思わずナルの手を取る。「今度こそ諦めないって決めたんだから」
ナルの口元がゆるんだ。そうだね、と頷く。名残惜しそうにひなの手を握り返し、そっと離す。
彼は右腕を空に掲げた。
「じゃあ始めよう」
ぱちりと指が鳴る。まるで世界に宣戦布告するみたいに。
*****
どしゃぶりの雨の音にまじって、鯨の低く暗い音が空気をびりびりと振動させている。
ひなが最初に知覚したのはそれだ。次が肌をじっとりと流れていく雨の感触。ぱちりと目を開けた。アスファルトは雨水でうっすらと覆われている。ひなはゼンの頭を抱えこむようにして、地面へ膝をついていた。けれど血はどこにも見当たらない。
目を閉じたゼンは苦しげに眉を寄せているが、どこにも怪我はなかった。
「ちょっと! 目が覚めたのなら、そいつを叩き起こしてくれる!?」
神経質の塊のような女の怒声がとんできて、ひなは顔を跳ね上げた。パンツスーツの女がひなたちをかばうように立っている。なにかから守るように掲げられた両手、その先で鮮やかな紫に輝く光の盾、そしてさらに向こう側に、いた。
鈍色の雨空を背景に、一頭の鯨が身をくねらせている。五階建てのビルを横倒しにしてもなお足りないくらい巨大だ。流線型の体はプログラムをシャットダウンしたときのような底知れない黒色で鈍く光っている。目は警告文を示すときと同じ、蛍光赤。
呪いの欠片。ひなが直感すると同時、黒鯨は耳が痛くなるほどの唸り声をあげる。光の壁が揺れた。音のせい、だけじゃない。降りしきる雨が礫のように壁に打ちつけている。
頬に乱れた髪を貼りつけたまま、女が苛々と右手を動かした。さっきの衝撃でひび割れた壁が紫の光を取り戻す。でもこれは。
「その場しのぎだよ、瑞希の壁は」
ひなの腕のなかから不機嫌そうな声が響いた。繊月ゼンだ。くだんの男は最悪な目覚めらしい。この顔は知ってる。ひなが夜中にうっかり蹴飛ばした時に見た顔だ。
それでもひながほっとすれば、繊月ゼンは眉間の皺を深くして、ひなの鼻先をつまんだ。
「ふみゅっ、」
「ねえ君」繊月ゼンがうなった。「なにがそんなに面白いのさ」
「べ、べつに」
「べつに? ひなのくせに生意気だな」
「ちょっと、なによそれ。それっていま関係な、むぐ」
人差し指でひなの唇をふさいで、繊月ゼンがぼそりと呟いた。
「逃げたほうがいいよ、ひなちゃん。これはたぶん無理だ」
ひなの前髪から雨滴がすべり落ちて、浮かない顔の繊月ゼンの頬を濡らす。ひなはそっと息を吐いた。唇に触れていた指先を右手でつかんで引きはがす。
「あたしは逃げないわ。そういうふうに決めたの」
短い沈黙、そののちにゼンが目をそらした。
「決めたって倒せないだろ。君が使えるのはただの初期刀だ。あの鯨に一太刀浴びせるのだって難しい」
「それがなに? やってみなきゃ分かんないでしょ」
「博打みたいな考えはやめてくれ。失敗したら君は死ぬんだぞ」
「じゃあ、あたしが死なない方法を教えてよ」ひなは視線を逸らさず言った。「あんたはもう気づいてるんでしょ、ゼン」
「……俺ならなんとかできる」
ひなは口を閉じた。ゼンはゆっくりと瞬きし、意を決したようにひなを見つめなおす。
「君が俺のための武器を創ってくれるのなら。できるかい?」
はじめてみるゼンの表情だった。真剣で、真面目だ。それだけなら何度か見たことがあったけれど、うすく青みがかった黒の目には拭いきれない影がある。なにか痛みをこらえてるような、なにかを怖がっているような、そんな色だ。
不思議だ。あたしたちはもう恋人ではなくて、赤の他人でしかなくて、こうやって話しているのだって偶然でしかない。なのに今が一番近いところにいる。
あたしはあんたの心の近くに、そしてたぶん、あんたもあたしの心の近くに。
「できるわ」
ひなはゼンの手を握りなおした。彼の瞳が揺れる。一瞬だ。
ゼンは身を起こし、ひなを抱き寄せた。口づけをする。やっぱりこれも一瞬で、彼はひなと額をあわせる。鼻先が触れ合う距離。夏のあの日、ファーストキスをしたときと同じ近さでひなを見つめて、ゼンはささやいた。
「俺の心を見て」
炭酸の泡のように、ぱちりと二人の間でなにかが弾けた。
目の前の世界が一変する。五十二ヘルツの低音が響き、ひなたちを取り囲むように無数の燐光が嵐のように吹き荒れている。白銀色のようにも見え、淡い金色のようにも見えるそれは、朝日が雪の欠片を染めたような複雑な色合いだ。燐光のひとつひとつは零と一の数字で、無限に連なり無秩序に吹き荒れる。
それは繊月ゼンの心だ。仮想空間にあってただひとつの現実。膨大な情報の集積で、機械言語では絶対に定義しきれないもの。あたしが形を与えるべきすべて。
ひなは意を決して燐光の嵐へ手を突っこんだ。途端にたくさんの情報が流れてくる。あるいは景色。あるいは音。十倍速の動画を何百本と同時に見せられているみたいだ。疲れ切っているのに頭が冴えて眠れないときの気分の悪さがある。それでもそのなかで指先を動かして、情報を編み、問いと答えをたてて存在を定義する。
それは何であるべきか――武器であるべきだ。
その武器は見せかけでよいか――いいえ、実用的であるべき。
その目的は、その形は、その大きさは……繰り返される問いと答えの嵐を進んで抜ける。アドレナリンで興奮した神経が燐光の形が変化したことを知覚する。金と銀の燐光はひなの手元に凝縮され、オーロラのように揺らめきながら光を散らしていた。それは可能性だ。ずっと掴みたかったもの。けれど掴めなかったもの。それでもいま、このとき、掴み取らなければならないもの。
あなたのために、創らなければならないもの。
揺らめく輝きに手をかざす。ひなは無我夢中で命じた。
『創造装填!』
新星の爆発のように力強く瞬き、燐光が一気に弾けた。
顕れたのは白銀の和弓だ。弓幹はほそく、けれどしなやかな弧を描く。限りなく細い弦は朝日を弾いて輝く雪花の色だ。やわらかな銀色は混じりけなく美しい。
鯨と雨を押し留めていた光の壁が崩壊した。恐ろしい咆哮とともに黒ぐろとした影が落ちる。ゼンはけれど落ち着いていた。弓をとり、ひなをかばうようにして立つ。
「うん、悪くないね」
そう言ったゼンの顔は見えなかったけれど、きっといつもの自信に満ちた笑みを浮かべていたに違いない。
ゼンが弦を引き絞る動作をすれば、燐光がこぼれて矢を形作る。その先端を鯨の眉間にぴたりと定めて彼は銀の矢を放った。




