8.祐希の投稿とわずかな祈り
指が、うまく動かない。
朝だというのに部屋は暗く、空気はぬるく淀んでいた。数時間前に見た夢の光景が、何度もまぶたの裏で再生される。崩れ落ちる建物。潰される車。裂けたコンクリートの隙間から覗く、ぐしゃりと折れ曲がった腕。断末魔の悲鳴。
「っ……うそ……じゃない……」
祐希は自分に言い聞かせるように、震える声で呟いた。手のひらはじっとりと汗ばんでいた。パソコンのモニターに映るログイン画面を睨むように見つめ、ようやくパスワードを打ち込む。何度かタイプミスをして、指を叩くようにして再入力。ようやく仮想の世界が開いた。
視界の端で、時計の針が朝八時を指していた。現実の世界は、もう始まってしまっている。
(早く……早く、伝えないと)
座り慣れたゲーミングチェアの上でも、祐希の体は落ち着かなかった。ふくらはぎがピクピクと痙攣し、呼吸が浅く速い。震える指でSNSの投稿欄を開く。脳裏に夢の光景が蘇るたびに、背筋がぞくりと冷える。まるで、それが“未来”として確定してしまった映像であるかのように。
(たまたまの夢じゃない。あれは“起こる”。絶対に)
言葉がまとまらなかった。書いては消し、消しては打ち直す。何を書けば伝わる? どう言えば、本気にしてもらえる? タイムリミットは刻一刻と近づいているのに、焦りだけが指先を絡めとる。
最後は、諦めるように祈るように、Enterキーを押した。
『今日、マンションの一部が崩れて、大勢が死ぬ。
私にはそれが“見えた”。
今朝の夢。でも普通の夢じゃない。
これは本当に起こる。信じてほしい。
どうか、助けて。』
投稿を送信した瞬間、祐希は椅子の背もたれに倒れ込んだ。心臓が速すぎるリズムで打っている。胸の奥で何かが張り裂けそうだった。
(お願い……誰か、気づいて)
更新ボタンを連打する。
リロードされた画面に、新着の反応が並びはじめた。
《創作乙》《あーはいはいまた構ってちゃんね》《通報しました》《釣りか?》
冷や水をぶっかけられたような、いや、心臓を直に掴まれたような衝撃だった。
何度も画面をスクロールする。真剣な声は、ひとつもない。ただ、冷笑と嘲笑と無関心ばかり。
「ふざけないで……っ……!」
声が裏返った。頭の奥がぎゅっと締めつけられる。誰も、誰ひとりとして耳を傾けてくれない。
呼吸が止まりそうだった。
祐希は立ち上がり、足元によろけながらスマホを手に取った。震える手で“母親”の番号を押す。発信音が一度鳴って、すぐに応答があった。
「なに?」
機嫌の悪い声。背景に、テレビの音。男のくぐもった笑い声。
「お願い、聞いて……マンションが……今日、壊れるの……あたし、それを夢で……!」
「ああもう、未来を夢で見たって? ほんと病院行ったら?」
「ちがうの! ほんとに、今朝見たばっかりで、今までの夢とも違くて!」
「今までのだって、偶然でしょ? ホームから人が落ちる夢? 車が突っ込む夢? あんなのニュース見てたら誰でも想像できるわ」
「じゃあ……じゃあ、何もかも偶然だって言うの……? 今回も……!」
「ていうかさ、あんた学校行ってないで一日中ネットやってんでしょ? 頭おかしくなってんのよ。こっちはね、もう疲れてんの。てか、彼の前でやめてくんない? 恥ずかしいんだけど」
通話がブツッと切れた。
血の気が、さっと引いていく。
祐希はその場に崩れ落ち、片膝を抱えてスマホを見つめた。目の奥が熱い。でも涙は出ない。泣くことすら、自分には許されていない気がした。
(警察……)
最後の望みにすがるように、110に発信する。数コールの後、男の声が応答した。
「はい、警察です」
「あの……今日、マンションの……あの、爆発とかじゃなくて……崩れるんです……大きな事故が起きるって……夢で、今朝、見て……」
「……お名前と年齢をお願いします」
「有栖祐希……十四歳……」
「有栖さんですね。あの、夢で見たというのは?」
「……はい……前にも何度か夢で見たことが本当になって……」
「申し訳ないですが、明確な根拠がないと警備対応は難しいです」
「でも! 人が……死ぬかもしれないんです……!」
「うーん、まずは保護者の方と相談していただいて——」
「無理です……あの人、信じてくれないんです……っ……!」
声が詰まり、喉の奥で嗚咽がせきあがる。
「すみません。有栖さん、こういった内容は専門機関の相談窓口に……」
通話を切った。
スマホを握る手に力が入らなかった。もう、だれも信じてくれない。伝えようとしても、届かない。どこまでいっても、壁。厚くて高くて、どう足掻いてもよじ登れない。
(誰か……誰かひとりでも、信じてくれたら……)
時間だけが、刻々と過ぎていく。
祐希はSNSに投稿を繰り返していた。夢の内容を何度も書き直し、構成を変え、言葉を選び、少しでも本気にしてもらえるように工夫を重ねた。
マンションの外観に似た建物を検索し、崩壊した位置を思い出しながら可能性の高い場所を特定した。衛生マップで確認し、管理会社のホームページを見つけ、電話番号にかける。
でも、通じない。土曜日の午前中。事務所は留守番電話だった。
(どうして……こんなに……こんなに急いでるのに……)
背後のカーテンから、昼の日差しが滲みはじめている。部屋の空気は熱を帯び、ディスプレイの明かりだけが祐希の顔を照らしていた。
SNSの通知欄は依然として動いていた。コメント欄には、新着の反応が流れ続ける。
《まだやってんの?》《うぜーんだよ詐欺師》《マジで病院行け》《通報した》
(どうして……なんで、誰も……)
祐希は通知をスクロールし続けていた。その時、ふと、DM欄の未読バッジが視界の端をよぎった。
——あれ?
通知に気づかなかった。
ずっと、自分の投稿へのコメントばかり見ていたから。
祐希はおそるおそる、DM一覧を開いた。
その最下段、rage_iceというユーザー名があった。
『おまえ、未来が見えてるのか?』
その短い問いが、胸に突き刺さるように響いた。
嘲笑でもなく、否定でもない。
まっすぐな——問いかけだった。
(……気づかなかった……こんな、大事なことに……)
胸が、ぎゅっと締めつけられる。けれどその痛みは、少しだけ違っていた。孤独に飲まれて沈みかけていた心が、水面にわずかに浮かび上がるような——そんな微かな浮力。
祐希は、かすれた声で呟いた。
「……あたし、ほんとに……見えたんだよ……あれが、未来だったら……誰かが、死ぬんだよ……」
キーボードに指をかける。
『……はい。見えてます。
今朝、初めて……人がたくさん死ぬ夢を見ました。
どうしていいかわかんなくて、でも止めたいんです。
信じてくれますか?』
指が震える。けれど、その震えの奥に、ようやくひとつの灯りが灯っていた。
返事はまだ来ない。それでも祐希は、モニターの前に座り続けていた。
心の奥に、わずかな祈りと共に。




