7.祐希の孤独と暗い朝
黒く、何もない空に、鉄骨が、宙に浮いていた。
祐希は夢の中で、それを見ていた。
静止した空間。時が凍ったような空気。にもかかわらず、耳元には絶えず微細なノイズのような音が響いている。耳鳴りではない。これは、崩れる音だ。建物の内部で、亀裂が走る音。コンクリートがきしむ、前兆の音。
立っているのは、マンションの裏手。十数階建ての古びた集合住宅。その一角の壁面に、まるで巨大な爪で抉られたような裂け目があった。鉄筋が、断面をむき出しにして、空中に浮いている。数秒前までは、ここに何かあった。そう思わせる、鮮烈な“欠落感”。
目の前で、壁の一部が剥がれ落ちる。スローモーションのような重力で、巨大なコンクリの塊が地上へと吸い込まれていく。
――人が、いる。
落下の直前、祐希は階下にひとりの少女が立ち尽くしているのを見た。買い物袋を手に、真上を見上げるその顔には、時間の流れが追いついていないような、あまりにも静かな絶望が浮かんでいた。
そして、崩壊が始まった。
音のない爆発。無音の衝撃波。部屋の一角が、縦に裂けるように崩れていく。人の悲鳴も、割れるガラスの音も、何もかもが“音にならない”。
ただ、祐希はその場にいて、見ていた。心臓が凍りつくような現実の、ひと欠けらも逃さず。
断片的な風景が交錯する。
手から滑り落ちるスマホ。崩れゆく外階段。誰かの血の跡。積み上がる非常階段に引っかかったランドセル――
目の前に、崩れた壁が迫る。今にもこちらへ倒れ込んでくる。祐希の身体は微動だにせず、声も出なかった。ただ、確かに思った。
これは夢だ。
でも、これは現実だ。
次の瞬間、景色が暗転する。
* * *
「――っ!」
浅い呼吸とともに目が覚めた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、部屋の空気は寝起き特有の重たさを孕んでいる。
胸が苦しい。喉が乾いている。額にはじっとりと汗。夢を見ていたことを、身体が真っ先に訴えていた。
「……まただ」
呟きながら、身体を起こす。ベッドの隣にあるゲーミングデスクのモニターには、昨夜落ちる前まで開いていた掲示板のログが映っていた。何を読んでいたかも忘れた。今はそれどころじゃない。
夢の記憶が、あまりにも鮮明だった。
マンション。鉄骨。崩落。人が死ぬ。
無音の惨劇。
呼吸を整えながら、祐希は布団を蹴飛ばすようにして立ち上がる。視界が揺れて、足がふらつく。それでも、テレビのリモコンを探して、ベッドの隙間から引っ張り出す。
パチン。
液晶が点き、朝の情報番組が流れ始める。天気予報、交通情報、街頭インタビュー……事故のニュースは、まだどこにもない。
よかった。
まだ、起きてない。
安堵の息が漏れた瞬間――画面に、見覚えのある光景が映った。
「……え?」
夢の中で見た、あのマンションだった。
テレビ画面には、近隣の商店街で開催中の仮設屋台の様子が映っていた。テロップには「今朝7時からスタートの催し」という文字。その背後に、グレーのマンションが一瞬だけ映り込んだ。街路樹の位置、電柱の傾き、そして――その屋台の配置。夢で見たものと、寸分違わなかった。
血の気が引いた。
脳が一気に冷えていく。
あれは、ただの夢じゃない。
現実になる。
予知夢。今まで同じようなことがあった。だが、今回のは比較にならない。今までは曖昧なイメージだけだったのに、今回は……匂いも、空気の温度さえも感じていた。
思い出すだけで、胃がきしむ。身体が震える。だが、それよりも強く、祐希を突き動かしたのは焦りだった。
「たくさんの人が死ぬかもしれない……」
ぼそりと呟いた声は、自分の耳にも頼りなく響いた。
部屋には誰もいない。母はもう出かけたか、あるいは昨夜のまま彼氏の家だろう。
助けを呼ぼうにも、名前も場所もわからない。ニュースにもなっていない。けれど、確かに、あのマンションはもうすぐ崩れる。
何もできない。ただ、見ているしかない――
その未来が、地獄よりも怖かった。
テレビから流れる軽快な音楽が、嘘のように空虚に響いていた。
祐希は両腕で自分を抱くようにして、ベッドの端に座り込んだ。誰かに言うべきか? でも、誰に? 信じてもらえるのか? どのくらい時間が残されている?
何もわからない。
でも――何もしなければ、あの少女は死ぬ。
朝の光が、壁に長く影を落としていた。
部屋の中は静かすぎて、秒針の音がやけに大きく聞こえた。
祐希は、はじめて本気で、この力が怖いと思った。